近世の高札について ─藩政における書替えや保守管理の事例を中心に─
(岩手の古文書第七号 1993年3月31日) 現 一関市博物館副館長 大島晃一 

はじめに
 近世の高札については、服藤弘司氏が 『幕府法と藩法─幕藩体制国家の法と権力?─」 において、その「意義」を中心に機能面などを解明されている。しかし、文書様式のひとつである高札の発給システムや伝達経路、また、他の文書と異なる、永続的掲示という独自の性格からくる書替えや保守管理の系統・手続きの実態がよくわからないので、本稿では、それらの藩政における事例を提供しようとするものである。
近世では制札の名はすたれ、高札とよばれていた」 とされ、近世の制札は高札と呼ばれるのが一般的となっている。盛岡藩の にある「一天下一統之御制禁、御沙汰にて書記候ヲ、高札と申候由、一其国々に寄、制度有之ヲ書記ヲ、制札と申候由」などと、出所によりあえて高札と制札との区別を明記している説や、服藤弘司氏が前掲書で紹介している内容により区別す説 もあるが、小見では、盛岡藩・八戸藩・仙台藩の史料には、出所や内容の別に関係なく制札と表記している方が一般的であり、高札という表記はごく希である。こうしたことを踏まえながらも、混乱を避けるために、本稿では高札という言葉に統一して稿を進めたことを、あらかじめお断りしておく。


一、一斉書替え

 (一)続き

 高札の更新がどのようになされたか、仙台藩の宝暦四年(一七五四)の例を、気仙郡『吉田大肝入文書』から再現してみる。
 藩政の最高責任者である奉行のひとり、大條監物が退役したので、奉行名高札の書替えの必要が生じた。
 まず、宝暦二年(一七五三)九月十九日付にて、奉行より民政財務を直接司る出入司へ書替えの指令が出された 。
     
[史料1]
 監物退役に付、御領内御制札当役之名前無之候に付、段々為相調懸替候様可仕哉之旨奉伺候処、無御異義被仰出候条、御分領中并江州・常州・総州御知行所共、御掛替之首尾可有之候、尤右書方之儀、御制札板御拵等之義取合吟味可被御申聞候、以上
 九月十九日
猶以、越河より相去迄之宿々、当時御書替相成候処、来月始頃迄にハ出来可申由候間、右書方ハ只今迄之通相調、右書方相仕廻候以後、御分領中御制札書方ぇ取付候様首尾可有之候、尤書調所ハ、来年御下向迄ハ楽屋に而為書調可然哉、此度ハ日数も相懸候義候間、取合吟味可御申聞候、以上

 奉行大條監物の退役にともない、新奉行の名前に書替えが必要なので、江州・常州・総州を含む全領の高札の書替えの善処方を命じるもので、書方や板など、また、書調の場所などについても関与し吟味するように命じている。
 この、奉行より出入司への指令に基づき、九月二十一日付で出入司小島典膳名にて現場役人たる代官への指示を以下のように下した。この際、本来であれば、出入司は地方行政の実務を総理する郡奉行に申達し、郡奉行から代官に下達されるのであるが、郡奉行が廻村中であったので、出入司より直接代官に文書が下されたものである。

[史料2]
 左之通御郡奉行ぇ申渡令首尾候条、其心得、越河より相去迄之宿々、此度御書替罷成候外、御分領中不残御制札有之所、員数并割損シ等無之、白削直御用立候分何程可有之との義、各方にて折入吟味、早速しらへ御郡奉行ぇ可申達候、延引にてハ指支候条、其心得可有之候、御郡司廻村に付如此候、以上
 九月廿一日                  典膳
  南五郎太夫殿
  目黒四郎兵衛殿
  武田権之丞殿
      同役衆中
 領内の全高札の員数と、割れなどなく白削り直しで済む分がどれ程有るか、よく吟味し早速調査し、郡奉行へ上申するようにということである。
追って九月二十四日には、作事方より郡奉行へ、新規用立てのための木材の山出しが寒気に入るので急がなければならない。上記員数等およそのところでよいから早急に報告するように要請があった。翌日、郡奉行仙石卯兵衛はその旨管下の各代官へ申達している。
 これらの申達を受けた代官は、本吉郡北方及び気仙郡の場合、九月二十八日付で代官武田権之丞名にて管下の本吉郡北方大肝人熊谷又左衛門と気仙郡大肝入村上与次右衛門に調査方を命じ、白削り直しで済む分と割損し分のそれぞれについて、高札の種別枚数の報告を命じた。
十月二日には、重ねて同様の督催 をしている。
 十月七日に至って、郡奉行より代官に、書出案文を添えて細目の調査命令が下った。
    
[史料3]
  指懸急御用
今度御分領中御制札御書替被成候に付、越河より相去迄此度御書替被成候外、不残宿々しらへ被御申聞候様、去月中我等共廻村中、出入司衆より被仰渡上候処、右調之書出之義、左之案文之通、村町書出ハ大肝入手前に留置、書移候て申出候様、首尾可有之候、尤左之ケ条之品々共に無延引可被御申聞候
  書出案文
 御分領中御制札御書替披成置候に付、員数等之義可申上候由披仰渡候に付、しらへ書上
  何郡何町
 一、御制札何枚
   内
  一何枚 何々之御制札しらけ直しにて御用立可申候分
  一何枚 何々之御制札如何様候てしらけ直し御用立申間敷分
  一何枚 何々之御札如何様に
   何村
 一品々右同断
   何浜
 一品々右同断
   一紙
 一何ケ所             
  此御礼何拾枚
   内
  一何拾枚 しらけ直しにて御用立可申と吟味仕候
  一何拾枚 削直にて御用立申間敷候と吟味仕候分
右之通相改書上仕候、村町書出ハ拙者方に留置如此申上候、以上
                          何郡大肝人
                              名元
 年号月日
   御代官宛書
右之通尚更吟味仕承届如此相達申候、以上
  月日                  御代官名元
一、監物殿御退役に付、当時之御奉行衆名前無之旨、不揃御書替罷成候義、相心得申候処、御代替以後に何か品有之、御書替被成候御制札も可有之候、右之分にハ当時之御名前可有之候、左様之所有之分ハ、何方之御礼之内、何々へ之御礼ハ誰殿に御名前有之候段、別て可被御申聞候、吟味相入候間如此候
一、先年御分領中御書替之節、宿々御札之内被揃直通て被相登事にも候哉、左候ハゝ何之御礼残置、右之外斗り被相登、右御礼書方出来被相渡候已後、為相登候様にも候哉、忠孝之御札等ハ御奉行衆名前無之宰に候間、右ハ御書替にハ不罷成訳とも候哉、此段も前例吟味可被御申聞候、其外之義共に、御心付之事も有之、可被御申聞候、先年御書替之節留令紛乱、会所にて前例相知不申候間如此候、一統へ相調候補御制札も浜方にハ可有之候、是等も吟味員数共に可被申聞候
右之通無延引可被申開候、尤右に申渡候ケ条書之義ハ否之義、各役所切左之御同役連名、壱通御調御吟味可被申聞候、以上
 十月七日                飯塚久左衛門
                     大 文左衛門
   武田権之丞殿
   目黒四郎兵衛殿
   南五郎太夫殿
       御同役衆中
 町方・村方・浜方ごとに、白削り直し分とそれでは済まない分、損傷の具合などを書出案文のとおりに、大肝人名で代官に提出し、代官はそれに奥書・署名を加え郡奉行へ提出するというものである。

 さらに、郡奉行は、これ以前に何か理由があって奉行名が既に書替えられているものの高札個別の種類・奉行名の報告、前例時の文書が郡方の会所に残っていなかったので、前例をよくよく吟味して気付いたことを報告すること、浜方には紙に書かれた制札もあるのでこれらの報告もすることを、前記書出とは別に、代官同役連名にて提出 するよう命じている。

 これらは、翌日付で早速代官より大肝入にさらに下達された。
 以上のように、仙台藩における高札に関する命令系統は、奉行→出入司→郡奉行→代官→大肝入→村肝入・町検断という通常の地方行政システムの中に位置付けられていることが確認される。なお、村肝入・町検断段階については、経費負担に関わって後述する。
 また、白削り直しで済む分と、文字がほとんど読めなくなったり、損傷がひどく板から新調しなければならないものとを区別して書替え業務を行っていることがわかる。書替え作業は藩庁で作事方によって進められ、作業場所は宝暦四年(一七五四)に藩主が下向するまでは城内の楽屋があてられた。結局、気仙郡の書替え・懸替えは宝暦四年書中に終了している。

(二)古札の回収および新札の交付
 後述の[史料4]により、回収古札は和紙・ござ・莚・縄で厳重に梱包して仙台に運搬し、新札は検断と組頭一人が仙台に赴き交付を受けている。高札そのものの扱いに対する丁重さが再確認される。

(三)村方・町方の経費負担
胆沢郡金ヶ崎町・相去町の検断連名にて、上伊沢の大肝入松元七右衛門に以下の願書が提出された。大肝入は奥書の上、代官に上申した。

[史料4]
     金ヶ崎町
一莚拾三枚 此代三百九十文
一ごさ九枚 此代弐百七十文
一大小縄百五十尋 此代五十文

一白石大方紙四拾六枚 此代九十弐文
 〆八百弐文
  右ハ右御制札包拵方入料
一代八百拾六文 右ハ御制札為相登申候上下はたこ代并昼食・わらんぢ代
一金六切代三百弐拾文 新御制札受取ニ検断・名代并組頭壱人為相登申候分、日数十日道中はたこ代、仙台入料方入方
三口合金六切代壱貫九百三拾八文

   相去町分
一代六百八拾文 右ハ莚・ごさ・白石大方紙・なわ共ニ相調、古御制札拵方入料
一代八百拾六文 右ハ御制札為相登申候上下はたこ代并昼食わらち代入料
一金六切代四百文 新御制札受取検断并組頭壱人為相登申候分、品々右同断
三口合金六切代壱貫八百九拾六文
右之通入料相懸り申候処前書申上候通、相去・金ヶ崎両所共ニ至而至而小町故、先年も御郡償ニ被成下候間、此度も右之通被成下度事存候、以上
   宝暦三年十二月                金ヶ崎検断
                            彦五郎
                          相去町検断
                            甚五郎
     松元七右衛門殿
右之通願申上候間、御郡中より取立相渡申、御下知被成下度存候、先年も相去町・金ヶ崎町入料ハ願申上、御郡償被成下候間、如此ニ申上候、以上
   宝暦四年正月                上伊沢大肝入
                           松元七右衛門
    今 七三郎様
 村方・町方の経費としては、仙台へ運ぶ古高札の梱包材料としての莚・ござ・和紙・縄代、上記上仙旅費・昼食代・草鞋代、新札受取上仙旅費・諸経費が計上されている。仙台から最も遠方の領内北辺地域で一町あたり六切(六分)と一貫八百文?二貫文ほどかかる計算である。金換算で七切強、すなわち一両二分強程か。

 次に、これらのいわば臨時経費をどの様に捻出するかであるが、上記史料でも、町検断は御郡償を願出ており、大肝入もそれを上申している。郡中の臨時税で賄おうというのである。気仙郡においては、宝暦六年(一七五六)八月に徴収方法が郡奉行の決済を得ている。関連文書によれば御郡償が確定しているが、理由は、一村・一町切の償では気仙・東山は小町場が多く過重負担になるというものである。もっとも、他郡においては対応はまちまちであり、志田・玉造・遠田・栗原・伊具・宇多・亘理・登米・佐沼・本吉南方・登米七ケ村は御郡償、一迫・二迫・三迫は古高札の上仙経費は町場償で新札受取上仙経費は御郡償てあった。上記以外の郡においては町場償であったようである。

ニ、通常の保守管理

(一)破・汚損の場合

 盛岡藩の【文化律】 では、「高札ぇ徒仕候者御仕置の事」として、

〔史料5〕
 一盛岡并在々ぇ懸被差置候高札打割、或ハ墨塗、惣て徒仕候者
宝暦六年正月廿九日例
一肝入ぇ私の意趣有之、某所御高札ぇ墨塗候者   打首
一高札ぇ徒致候を隠密仕置ニおゐてハ       肝入近追放、一村過料
  高札番人別段有之候ハゝ           所払
とあり、高札の破・汚損については厳重な罰則が規定・施行されていた。

 破損した場合の処置例をあげる。
 仙台藩気仙郡吉浜村の寛延三年(一七五〇)の例 。長年の雨風のためか墨が薄くなり文字の判読ができなくなっているのを、郡方役人の廻村で見つけた。代官は、入墨等で済む程度であれば前々よりの指示の通り代官方で繕うが、それでは済まない痛み方なので、仙台に引上げの上書替えを郡奉行に上申した。郡奉行はこれを受けて上仙・書替えを代官に申達し、代官は大肝入にその旨を下達した。
                      
 仙台藩気仙郡高田町の 宝暦二年(一七五二)の札屋焼失の例 。札屋普請入料の見積りと近村七か村からの人足徴発が郡方役人から郡奉行に上申された。近村からの人足徴発は、高田町が町内表口一軒残らず消失したため、人足徴発が当面の負担となること、しかし、場所柄盛岡領方面への脇往還にあたり、数日でも高札を掛けないでおくことへの配慮からであった。近村から借りた人足は次年以降、高田町から七か村へ返すというものである。郡奉行からはそのとおりに申達され、大肝入に下達された。
                    
 仙台藩気仙郡田母山町の 宝暦四年(一七五四)の例 。強風のためはずし、再び掛けようとしたころ、落として割ってしまったというもの。この場合、割ったということで、代官が実地検分をし関係者から事情聴取を行っている。この高札にはもともと割れ目があり、一斉書替えの候補にも上がっていたものなので、かすがいで止めて書替えまでそのまま掛けておくことを、代官は絵図面を添えて郡奉行に上申した。その際、破損したことへの厳重な「申含」をすることを付け加えている。この件は、郡奉行からさらに出入司に、破損に関する詮議はしないことを加えて上申された。処置は代官の上申のとおり申達され、大肝入に下達された。
                                      
 仙台藩磐井郡東山松川町の 寛政九年(一七九七)の例 。「忠孝」高札の一部分の「候」という一文字分が欠損したので、その部分に埋木をして文字を書き入れていたが、埋木が抜け落ち行方がわからなくなった。そこで、町検断二名の連名で大肝入に届け出、埋木がしてあった事情、抜け落ちた埋木を全力で探したが見つからなかったこと、札屋が小川べりにあり風当たりが強く、強風により埋木が小川に落ち流失したであろう欠損理由の推測が報告された。大肝入は町検断の届の写を添えて代官に上申し、代官は町検断と大肝入との二通の文書の写を添えて、実地検分の上、さらに上部の郡奉行に指示を仰いでいる。処置命令は逆の手順を踏んで下達され、前例に則り、新規に埋木を施し文字を書き入れるように申達された。
                              
 盛岡藩沢内通の安永六年(一七七七)の例 。沢内通太田の惣右衛門・平五郎、新町の三四郎・松兵衛、高橋仁左衛門の鍬頭弥兵衛、槻沢の長四郎の六名が、高札場の高札をはずし田に打ち込んで、散々に打ちこわした。六人は捕らえられ、盛岡に送られ寵舎となったが、その後のことはわからない。これは、前年来の、諸郷役減免、御用金撤回、代官所役人・村肝入の罷免を要求した一揆に関連して起こった例である。
                                
 盛岡藩野辺地通馬門高札場の文化二年(一八〇五)の例 。野辺地湾にのぞみ、津軽境の境目番所(御境番所などともいう)が置かれた馬門の高札場に、唐物抜荷高札が掛けられることになったが、高札場が狭いので、新規に柱二本を立て屋根も朽損しているので普請し直すというもの。この場合、唐物抜荷の直接担当と思われる目付から家老席へ上申があり、さらに、境奉行・代官からも上申があった。家老席で勘定所元締・勘定頭に吟味させて、その上で目付に上申の通りに許可が申達された。

 以上、盛岡藩にみられるように高札への「罪」は厳罰でのぞむというのが一般的法規上の対応と思われる。それを前提にして、仙台藩の場合の通常の破・汚損への役人の実務上の対応は


(イ)部分的文字消え程度は代官の責任において墨入れを行う。
(ロ)全面的な書替えや板を含めた新調を要する場合は、仙台へ引上げ、仙台常勤の郡奉行の管轄下で行う。
(ハ)焼失などにより数日間でも高札がない状況は容認されない。全町焼失などの場合でも町内復興に先がけて、他町よりの徴発人足により復旧がはかられている。
(ニ)自然劣化や天災以外の何らかの人的破・汚損の場合は、代官が実地検分の上事情聴取を行い、徹底的に原因を糾明して、民政財務の直接責任者である出入司まで郡奉行経由で上申される。
(ホ)上記いずれの場合でも、前述の管理系統に則った詳細な報告上申と処置申達が例外なくなされた。
 また、盛岡藩の高札場の普請し直しも、高札内容の直接責任部局から家老席に上申があり、さらにこれには、現地地方行政担当者の代官や藩境の境目番所がからみ境奉行の意見が加わり家老席に上げられている。家老席では、予算が伴うので勘定所元締・勘定頭に吟味させて許可を高札内容の直接責任部局に与えている。


(二) 日常の推持管理
 八戸藩領志和郡の高札場と高札の預り人を記した史料がある。残念ながら原本および出所と年代が不明である。


[史料6]
    御制札立場并ニ預り人
一御役所前 上平沢河原町
一上平沢村 艾田吉兵衛   預人 俵屋敷甚四郎
一稲藤村  清平長助    預人 本人
一上土舘村 鳥幅勘六    預人 荒屋敷勘右衛門
一山王海村 山王海善六   預人 本人
一砂子沢村 砂子沢藤内   預人 金之丞
一下土舘村 学屋金三郎   預人 金田長之丞
一北片寄村 中嶋与惣治   預人 荒屋敷太郎右衛門
一同片寄村 石倉四郎右衛門 預人 本人
一南片寄村 沢田甚三郎   預人 沢田左五右衛門
一糠塚村          預人 権現堂惣右衛門
 これでみると、高札は各高札場ごとに日常の管理責任者である預り人が決められており、それは掲示場所の名請人本人である場合も他所の住人である場合もあった。
 また、盛岡藩の石鳥谷町の商人三国屋の文書に高札の預り手形が二通ある。
     
[史料7]
    覚
一人売買之御制札     壱枚
  丈壱尺六寸五分、幅弐尺六寸
一馬市御制札       壱枚
  丈壱尺弐寸六分、幅弐尺五寸
一捨馬之御制札      壱枚
  丈壱尺弐寸五分、幅三尺壱寸五分
一きりしたん宗門之御制札 壱枚
  丈壱尺三寸五分、幅三尺七寸
一忠幸ニ不寄と申御制札  壱枚
  丈壱尺壱寸、幅三尺九寸
天保六年未十月
一弐割増御制札      壱杖
  丈壱尺壱寸弐分、幅四尺五寸
文化元年十二月
一弐割増御制札      壱枚
  丈壱尺四寸八分、幅四尺四寸五分
〆七枚
右之通慥ニ預り置申候、以上
 天保七年
   申九月        清兵衛
  検断
   善兵衛殿<
     
[史料8]
    覚
一忠孝之御制札      壱枚
  丈弐尺、幅七尺四寸五分
一毒薬にせ金銀      同枚
  丈壱尺九寸、幅六尺九寸五分
一御伝馬并駄賃人足御制札 壱枚
  丈壱尺九寸三分、幅七尺五分
〆三枚
右之通慥ニ預り置申候、以上
 天保七年
   申九月        弥平治
  検断
   善兵衛殿
 これらは下書であるが、三国屋清兵衛らが石鳥谷町検断善兵衛にあてた高札合計十枚の預り手形である。これらの文書は、武州の幕領に、 村役人が代官にあてた墨入れ後の高札受取書 があるので、これに類するものであろう。おそらく、町検断や村肝入等の町村役人は、代官に対して受取書を提出し管理責任を負ったのであろう。そしてさらに、町検断や村肝入は、前記[史料6]のように日常の管理者を設定して、上記[史料7・8]のような預り手形を書かせ、維持管理を行ったものであろう。
 

(三)嘱託札 そくたくさつ
                     
 高札の一種に 嘱託札というものがあるのは知られている 。罪人を捕らえるために賞金を懸けて訴人を促す懸賞札である。

は、元禄十五年(一七〇二)三月七日に盛岡城下札の辻高札場に掲示された。放火犯人の訴人を賞金二十両で促したもので、「爰ニ金小判附」とはここに小判二十両を実際に張り付けたのである。このときは、足軽一人が終日付いており、朝四つ時(十時頃)に掛け、夕七つ時(四時頃)にはずし、夜は検断が預かった。結局訴人が無かったので四月二十六日に撤去したという。

 
 以上、若干例を掲げたが、高札は慎重に補修をほどこされて維持され、その管理や書替えは、藩中央に連なる地方行政管理系続によって細心かつ厳重に行われていたことがわかる。

三、高 札 場

 (一)分布と掲示札
 盛岡藩と八戸藩の高札場と掲示札について、 分布図 と巻末に盛岡藩高札場一覧及び八戸藩高札場一覧を示す。

 盛岡藩については「御領分高札集」 を、八戸藩については 『附録伝記』 を図表化した。「御領分高札集」はその筆跡からして右筆藤根清右衛門 の手になるものといわれており、収録高札と藤根の生存期間を勘案して、元禄十五年(一七〇二)から正徳三年(一七一三)までの間の記録であろう。『附録伝記』 は文化七年(一八一〇)以前の成立といわれているが、後述のように、明和七年(一七七〇)四月の「徒党」の幕府高札が載っていないので、こと高札に関しては明和七年より前の情報であろう。史料の制約上、両藩同時期のものではないが、傾向の把握は可能と思われる。

 十八世紀初頭、盛岡藩には二〇八か所の高札揚が設置されていた。この時期掲示されていた高札は八種類で(内容は末尾に示す)、「忠孝」(天和二年五月日)二十七枚、「毒薬にせ薬」(天和二年五月日)二十七枚、「きりしたん」(天和二年五月日)一八八枚、「捨馬」(十二月日)一九一枚、「人身売買」(元禄十二年三月日)七十四枚、 「浦高札」 (寛文七年閏二月十八日)二十七枚、計五三四牧六種類の幕府高札と「駄賃」(元禄十六年六月日)七十四枚、「物留高札」 】(元禄十六年六月日)二十一枚の二種類計九十五枚の藩高札であった。合計で六二九枚の高札が全領二〇八か所の高札場に掲示されていた。掲示札は場所により異なり、最多の八枚は仙台領境の鬼柳(no.125)、七枚は田名部本町(no.17)・横浜(no.34)・野辺地本町(no.39)・橋場(no.105)・花巻一日市(no.118)・宮古(no.173)で、他領境の要地に集中している。六枚の場所は藩内の要地、地域の中心地である。

 なお、享和三年(一八〇三)十月の「安俵通土澤町御制札書上帳」によれば、土沢町(no.122)には計九枚の高札が掲示されていた。内訳は、「忠孝」「毒薬にせ薬」「きりしたん」「捨馬」「人身売買」・「徒党」(明和七年四月日 幕府高札)・「市札」(貞享元年八月日 藩高札)・「駄賃」(天明八年正月 藩高札)・「駄賃二割増」(天明八年正月 藩高札)の九枚である。前述の「御領分高札集」には「忠孝」「毒薬にせ薬」「きりしたん」「捨馬」「人身売買」「駄賃」の六枚が掲載されている。「御領分高札集」になかったものは「徒党」「市札」「駄賃二割増」の三枚である。「市札」は年代的に「御領分高札集」に収録されていてもよいが、なぜか全領内で収録対象外となっている。なお、「駄賃」は元禄十六年六月日付の藩高札の書直しである。十八世紀末には二あるいは三種類の高札が追加掲示されたことになる。

 八戸藩は寛文五年(一六六五)に盛岡藩から分藩した。十八世紀半ばには六十九か所の高札場が設置されており、九種類の高札が掲示されていた。「忠孝」「毒薬にせ薬」「きりしたん」「捨馬「人身売買」「浦高札」「駄賃」「駄賃二割増」「添馬」の各高札である。最多の場所は八戸町の七枚で、六枚が二十三か所、四枚が一か所、あとは二枚である。「徒党」高札がないのは、前述のように明和七年(一七七〇)以前の状況を示しているのだと思われる。

 各高札の掲示状況を上記盛岡藩の例で確認してみる。
 「忠孝」「毒薬にせ薬」の二枚の幕府高札は二〇八の高札場のうち二十七か所の領内要地、地方支配のためのいわば政治的要地に掲示された。これらの高札場には六?八枚の高札が集中している(五枚が二か所、四枚が一か所)ことからも地域的な位置づけがわかる。

 「人身売買」の幕府高札と「駄賃」の藩高札は同一の七十四か所の高札場に掲示された。「忠孝」「毒薬にせ薬」の掲示高札場の内の二十五か所(no.27泊、no.146沢内新町を除く)に四十九か所が加えられて計七十四か所に掲示された。加えられた四十九か所は領内主要街道筋の町場で宿駅機能を何らかの形で有していた地域であろう。特にも宮古街道・鹿角街道のほとんどの高札場に掲示されているのが注目される。人馬の往来、陸上交通量を示しており、領内経済の動脈筋に掲示された。

 「浦高札」の幕府高札は主要港湾二十二か所と北上川舟運の拠点五か所計二十七か所に掲示された。

 「物留高札」の藩高札は「御領分高札集」に明記されているとおり「大境」二十一か所に掲示された。「大境」というのは北から津軽・秋田・仙台各領との境のこと。八戸藩との境は含まない。これら「大境」の境目番所に限り掲示された。

 「きりしたん」「捨馬」の二枚の幕府高札はそれぞれ一八八・一九一か所と領内ほとんどの高札場に掲示されている。掲示されていないところをみると、盛岡新山(no.98)、鹿角の熊沢(no.76)、下北の正津川(no.9)・尻屋(no.22)・猿ケ森(no.24)、それと仙台領境の境目番所である。原則として、「大境」の境目番所にはこれら二札は掲示されない性格のものであるが、津軽・秋田境は、江戸前期に鉱山潜伏のきりしたん摘発例があるので、特に掲示されたものであろう。

 (ニ)高札場の造り・規模
 絵図類には、盛岡藩の場合、寛延四年(一七五一)成立の「増補行程記」に盛岡以南の奥州街道筋の高札場が描かれている。これらは、十八世紀半ばのもので藩政前期および後期の様子はわからないが、石垣組みで矢来をめぐらし、板葺屋根を掛けた荘重な感じを与える造りである。
 規模については盛岡城下札の辻高札場 に関して以下の記録がある。
      
 [史料9]
  
一、閏五月八日、新町御制札場所見分被仰付候処、新町並ニ横五間ニ可仕旨被仰出候得共、一方ハ肴町通り塞り、一方ハ紺屋町しきり柵有之、延候ニ成かね候之由申上候、只今造有来候構え、弐尺延候様ニ被仰付、大工奉行ぇ御目付申渡之

 正徳二年(一七一二)の記録で、新町とは後の呉服丁のこと。藩としては横五間に延ばしたかったが、片方は通りにぶつかり、片方は隣町との仕切柵があるので、希望どおり延ばしかね二尺ほど延ばすというものである。この記録では実際の境模はわからないが、藩が城下の高札場として体面を維持できると考えていた規模は窺える。

 寛保三年(一七四三)、仙台藩刈田郡滑津宿の高札場は、長さ三間、横七尺、高さ一丈一尺あったという 。
 以上のように、高札場自体は、いわゆる辺境藩においても、遅くとも十八世紀初頭(元禄末年頃)には、山間津々浦々くまなく全領内に設置が完了しており、少なくとも往還筋では、十八世紀半ばにはすでに石垣組み、矢来、板茸屋根の荘重な基本形ができあがっていたものと見られる。特に、設置の完了は藩領の掌握=藩制の確立のひとつの指標となりうることがらであろう。


おわりに
 高札の書替えや保守管理は、藩の地方行政機構が厳密に械能し細心の注意を払って行われた。その命令系統や、いわゆる辺境藩における高札場の設置や造り、成立時期等も窺えた。しかし、高札の発給から調製まで、調製の実際、交付から設置までの実作業段階の過程がよくわからなかった。今後の課題である。
 また、高札の特徴的形態である″駒形″も、中国古代に天子が諸侯を封ずる信印であった、上が尖り下が四角な玉(ぎよく)製の「圭(けい)」 が源流という 有力な説 があるが、 絵馬の形などとの関連 も含め補強して行きたい。
 いずれにせよ、高札や高札場についての史料が少なく、複数の藩にまたがる史料提示になり、考察が稀薄になってしまっている。地方史料を含め史料発掘が必要であり、今後新たな史料を蓄積した上での再検討が必要であろう。

 最後になるが、気仙郡『吉田大肝人文書』中の史料をご教示いただいた森ノブ氏、八戸藩領志和郡の高札場についてご指導をいただいた岩手県紫波町教育委員会小岩弘明氏、作図作表にご協力いただいた岩手県立博物館伊藤敦子氏・小田島美里氏に衷心より御礼申し上げる。

 盛岡藩高札場一覧











 八戸藩高札場一覧








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