「水彦」は「スイゲン」と読むのが適切と考える。揶揄的には、「海幸彦(海彦)」「山幸彦(山彦)」に準(なぞら)え、そんなものはないが、「水幸彦(水彦)」から「ミズヒコ」とも読める。また、「スイゲン」は「水源」でもあり、農村の「水騒動」に名を借りたようにも思えるが、こんな風に要らぬ穿鑿をするのも、江戸の人間は何を考えているのか、またその遊びの精神には何処にどんな仕掛けがあるのか、油断も隙もない人たちだからである。本稿の後半にある儀文・パロディの類をみれば、そのことは証明される。
勿論「水」は水戸、「彦」は彦根であり、「桜田門外の変」に関する資料である。 この「水彦騒動記」の前半は主に、達(お達し)、幕府への届書、目撃者からの又聞きなどである。後半は川柳、狂歌、風刺文、見立て、尽し、ちょぼくれ(江戸後期、遊芸人が小さな木魚をたたきながら、口早に世間の出来事などをおもしろおかしくうたった門付芸。上方の「ちょんがれ」からでた。浄瑠璃の地の文をチョボということに発する)、判じ物といった類の揶揄・戯文が集められ、「桜田門外の変」に関する政治・社会風刺のオンパレードである。
末尾に、万延元年これを求め、五月に写し取るとある。この年の三月三日(正確には安政七年三月三日、改元して万延となるのは三月十八日)に「桜田門外の変」は起きている。その直後から二、三カ月の間に、これだけの「騒動記」をまとめる江戸庶民(当然、武士階級の関与はあるにしても)のエネルギーには驚く。 この「水彦騒動記」は記録としての一貫性はなく、断片的な情報を書き留めたような感じである。
「桜田門外の変」の起因について、まずは概観しておこう。 ● 第十三代将軍家定の継嗣問題 ● 日米修好通商条約の無勅許締結 ● 安政の大獄
これらがが交錯して起こった事件である。 井伊直弼が大老に就任したのは、安政五年(一八五八)四月二十三日、それから安政七年三月三日(形式的には晦日)までのほぼ二年間である。この間に将軍家定の継嗣問題をめぐっては、紀州藩主・徳川慶福を推す井伊直弼を中心とした南紀派と前水戸藩主徳川斉昭の子・一橋慶喜を推す一橋派に別れて争った。一橋派のリーダーは勿論、斉昭である。直弼と斉昭は対外政策についても条約容認と攘夷の急先鋒という点で対立していたが、同年(安政五年)六月、継嗣を慶福とし、第十四代将軍は家茂(慶福)と決定した。
一方では、日米修好通商条約の問題があった。ハリスの要求を受け入れた井伊直弼は、天皇(孝明)の勅許を得ないまま条約を結ぶ。徳川斉昭、慶喜らは江戸城に駆けつけ激しく詰問したが、押し掛け登城を理由に、逆に処分を受け斉昭は永蟄居、慶喜は隠居・慎となった。
天皇は「条約調印は遺憾」とする勅書を幕府に出し、井伊直弼に対して強い不信感を抱く。と同時に天皇はこれと同じ勅書を水戸藩にも下していた(戌午の密勅)。これに対し、幕府は攘夷の本家本元である水戸藩が朝廷と組んで幕府に反逆する企みと見なし、この密勅を水戸藩から朝廷に返上させるよう朝廷に圧力をかけた。返上の勅命が下った水戸藩では、返上に反対する激派と返上すべきとする鎮派の間で激しい政争が起きるが鎮派の主張が通った。
その頃から、幕府の方策に抵抗する勢力への弾圧が始まった。安政の大獄である。その中で特に水戸藩に対する追求の手は厳しく、家老の安藤帯刀は切腹、有力な藩士二人が死罪になった。この大獄では橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎といった若くして有能な逸材も刑死している。
水戸藩の激派は脱藩して「天狗党」を組織したり、関鉄之介を中心とする浪士十七名と薩摩藩士・有村次左衛門を加えた十八名が「桜田門外の変」へと突き進んでいく。当初は井伊大老暗殺ばかりでなく、横浜の外国商館も焼き打ちにし、薩摩藩の同士三千名と呼応する大計画であった。
事件の概要については、野口武彦著『幕末バトルロワイヤル「井伊直弼の首」』(新潮新書)に従って追ってみる。「水彦騒動記」に一致する内容なのであえて全文を引用する。
(以下引用)
その十 桜田門外の変 その日は、朝から房の大きな牡丹雪が空を舞っていた。 安政七年(一八六〇)三月三日は、陽暦では、三月二十四日にあたる。晩春には珍しい大雪だった。江戸は一面の銀世界に変わり、午前九時ごろには積雪が二十センチぐらいに達していた。上巳(じょうし)の節句は大名の総登城日だ。大老井伊直弼の登城行列が外桜田の藩邸から出発する時刻には、いつもなら手に取るように見える外桜田門も、内濠の水面も、江戸城の樹木の梢も、卍巴(まんじどもえ)と降りしきる無数の雪片に視界を遮られていた。
彦根藩上屋敷の表門は、現在の国会前交差点に面していた。三。宅坂の途中に「井伊掃部頭邸跡」と記した簡単な標柱が建っているここからは今でも皇居内濠の湾曲に沿って、桜田門まで下ってゆく道路の全景が一望できる。直線距離でだいたい五百メートル。高麗(こうらい)門と渡櫓(わたりやぐら)門の白壁が遠目にも美しい。車と人の往来が絶えないこの都心のアングルが幕末史を流血で彩った「桜田門外の変」の現場になったのである。
大名の登城行列は禄高と家格で規模が定まっている。井伊家の供廻りは侍二十六人、他に足軽・小物などで総勢六十人余り。先供四人が先頭を守り、挟箱と槍に続いて直弼の駕籠が進んでゆく。駕籠脇は手錬(てだ)れの供目付・小姓ら八人が警護していた。「刻み足」といって、歩幅の小さい早足で歩くのが慣例である。行列が外神田に近い豊後杵築(ぶんごきづき)藩邸のまえに差し掛かったところで、突然あたりが騒然の巷と化した。
同藩三万二千石松平大隈守親良(ちかよし)の上屋敷があった場所は、今の警視庁である。桜田門の真ん前にあるので「桜田門」と俗称されるくらいだ。事件は同邸の門前、ほとんど咫尺(しせき)の間で発生したのである。ちょうどその瞬間、表通りに面した長屋の二階に居合わせていたのが、同藩で江戸留守居役を務める奥沢某という男だった。物音に驚いて障子を開けて窓の下を見下ろし、惨劇の一部始終を至近距離で目撃した。しばらくの間、方々で《語り部》扱いされたらしく、「直話」とされる話がいくつも写本で伝わっている。
外を見た時には、路上にあったのは駕籠だけだった。挟箱も槍も見えず、駕籠舁(か)きの姿もなかったので、この大名が誰なのか分からなかった。窓のすぐ下で駕籠脇の供侍と白鉢巻・襷(たすき)がけの男とが数人で激しく斬り結んでいる。他の場所からも刀がぶつかり合う音は響いてくるが、雪が煙って見えない。眼の前では敵味方が力を尽して刀の中ほどや鍔元で迫り合い、たちまち勝負が付いて四、五人が斬り倒された。
大兵の男一人と中背の男一人が猛然と駕籠に駆け寄り、引き戸越しに白刃を何回も駕籠に突き入れ、裃(かみしも)を着けた人物を中から引きずり出した。背中から二度、三度と畳み掛けるように斬り付ける。物を蹴るような音がしたと思ったら首が落ちた。大兵の男が梅干しのようになった首を刀に貫き、大音声で何か叫びたてている。「井伊掃部頭殿」と聞き取れた。それで初めて「さては井伊殿か」と驚愕したのだった。
もう一人の男が加わって三人で首を守り、日比谷の方向へ運んでいった。襲撃者の一団も同方面に立ち退く。供の面々は傷ついた身でこれを追って走る。駕籠脇では深手を負った若侍が刀を杖に起き上がり、「その首やっては」と歯噛みをして駆け出そうとしたがまた倒れ、直弼の胴体にすがって悲嘆するさまは見るに忍びなかった。
若侍は気力を振り絞って蟻が引くように遺骸をどうにか駕籠の中へ収め、駕籠を五、六間引きずって動かしたが、痛手で歩行できず、そのまま崩れ落ちて落命した様子。そこへやはり血に染まった家来二人が駆け付け、駕籠を舁き上げてよろめきながら井伊邸の表門へ運んでゆく。やっとその頃になって、色々な出立(いでた)ちで鉄砲・槍・棒などを持った五、六十人がどっと繰り出してきたが、すでに万事休していた。
襲われてから首を取られるまで、わずか三、四分の出来事だった。奥沢が目撃していたのは、水戸浪士による井伊大老暗殺という歴史的場面だったのである。
襲撃者は十八人、関鉄之介・斉藤監物・佐野竹之介ら水戸脱藩グループ十七人に薩摩藩の有村次左衛門が加わっていた。直弼の首を刀に貫いたのはこの有村である。桜田門外には大名登城の見物人のために掛け茶屋が出ている。浪士たちはこの日早朝からここに陣取り、井伊家の行列がやってくるのを待ち構えていた。一斑がまず駕籠訴(かごそ)を装って先頭に走り寄り、怪しんで咎める供侍の日下部三郎右衛門・沢村軍六にいきなり斬りかかった。同時に、誰かがズドンと一発駕籠に向けて短筒を放った。命中弾になった。驚いた足軽・小者・駕籠舁きが一斉に逃げ散った。槍は桜田門内に逃げ込み、挟箱は上杉家上屋敷(現法曹会館)の方へ逃げ去ったそうだ。武士も二十六人のうち八人が斬死したが、他の多くは手疵・薄手程度であった。駕籠脇の供侍は、抜き合わせようとしても雪合羽・柄袋に邪魔されて手間どっているうちに斬り倒された。
死骸に残された致命傷の痕がいずれも眉間・頭頂部・首筋に集中しているのが特徴だ。供目付の河西忠左衛門はすばやく身軽になり、二刀を揮って奮闘し、水戸浪士を何人か殺傷したが自分もついに斃された。小姓の小河原秀之丞は傷つきながらも主君の首級を取り戻そうと必死で追跡し、有村に躍りかかって後頭部にザックリ切り込んだ。「む?」と振り返った有村に片腕を切り落とされて昏倒。有村も新しい傷からの失血に耐えて歩き続けたが、辰の口(現パレスホテル付近)の遠藤但馬守邸前でついに力尽きて自決した。水を所望し、介錯してくれと懇願しても、みんな恐れをなして遠巻きにしているだけだ。
直弼の首は誰のものとも不明のまま同邸に預けられた。惨劇現場は、降り積もった雪が踏みにじられ、血みどろの泥濘に変じていた。あたりには双方の蓑笠・合羽・下駄の類がおびただしく散乱している。井伊邸から出てきた多人数がことごとく拾い集めて持ち去る。死骸は駕籠と釣台に載せて収容する。怪我人は背負われて運ばれてゆく。まだ息のある重傷者が恐ろしい唸り声を発している。まだ取り片付けをしている最中、雪の中を紀州徳川家の登城行列が近付いてきた。死骸がごろごろしているのだが、先頭が現場に差し掛かっても誰も制止しない。井伊家は傘で死骸と流血の跡を覆い、紀州家の供侍は笠で目隠しをし、視線をまっすぐ前方に据え、「何事も見ていない」という顔を繕って早足でその場を歩み抜けた。
その十一 あいまい解決
井伊直弼の首は飯櫃に入れて彦根藩邸に持ち帰られた。 外桜田から辰の口の遠藤但馬守邸まではざっと一・六キロの距離がある。直弼の首を掲げた有村次左衛門は、重い首を皮胴に入れ、多量に血を流しながら八代洲河岸(現日比谷通り)を和田倉濠まで歩いて来たのである。途中にいくつもの辻番所があったが、番人は有村の鬼気迫る形相に恐れをなして誰一人近付かない。とうとう遠藤邸前で力尽き、門番に首を大切に保管してくれと言い残して自害した。
とんでもない物を預けられた遠藤邸でも処置に困り、とりあえず新しい飯胴へ入れて置いたところ、彦根藩士が百人ばかり押しかけてきて引渡しを要求する。最初、遠藤家側は誰の首だか分からないから渡せないと突っぱねたが、井伊家が武力にも訴えかねない勢いだったので、やむなく証文を一札取って引き渡した。表向き、駕籠脇で即死した加田九郎太なる者の首級として扱ったのである。首は極秘裏に彦根藩邸に戻され、藩医の岡島玄達が首と胴とを縫い合わせた。
ところが何とその日のうちに、当の井伊掃部頭(いいかもんのかみ)から幕府宛にこんな負傷届が出ているのだから驚きである。それも「今朝登城掛け外桜田松平大隈守門前より上杉弾正大弼(だんじょうだいひつ)辻番までの間にて狼藉者鉄砲打ち掛け、凡そ二十人余り抜き連れ、駕籠を目掛け切り込み候につき、供方の者共防戦いたし、狼藉者一人打ち留め、その余手疵深手負わせ候につき、ことごとく逃げ去り申し候」という文面だ。事実とあんまり違うので呆れてしまう。
そればかりではない。直弼も現場で雄々しく奮戦したことになっている。「拙者儀、取り押さえ方など指揮致し候ところ、怪我致し候につき一先ず帰宅致し候。もっとも供方、即死、手負いの者別紙の通りに御座候。この段お届け申し候」というのである。必死で急場凌ぎの策を考えたのは江戸家老の岡本半介である。何としても主君は生きていることにしなければならない。
幕府には大法がある。大名が不慮の死を遂げた場合には「武道不覚悟」の故をもって、領地を没収し、家名を断絶するのが慣行である。事実、幕閣内部にもそういう強硬意見があった。しかし、それを実行したら大変な騒ぎになる。彦根藩内の忠義の士が城を枕に討死の覚悟で抵抗したらどうしよう。幕府の裁定は片手落ちであってはならないから、水戸家もお咎めなしでは済まされない。大老暗殺の張本人として斉昭を指名したら、水戸藩も巻き込んで収拾の付かない内乱状態が発生するだろう。
老中連は眼の前が暗くなった。みずから進んでそのリスクを取ろうとする者が誰一人いない。お家芸の《事なかれ主義》が頭をもたげた。直弼をしばらく「生かして」おき、何とか幕府の対面を取り繕うとしたのである。岡本半介の届け出も、月番老中内藤紀伊守との打合わせの上だった。幕府と井伊家とは懸命に口裏を合わせた。
天下の大老が首を取られたのだから、幕府にとってこんな大失態はなかった。だが、大老暗殺を「なかったこと」にしようとする《事実隠し》は、それに輪を掛けた醜態だった。前代未聞の《あいまい解決》が図られたのである。
翌三月四日、将軍の上使が藩邸に下向。もっともらしい顔で直弼の「病気」を見舞い、朝鮮人参を賜った。七日には若年寄酒井右京亮が上使として来邸し、氷砂糖・鮮魚を賜る。岡本半介に井伊家三十五万石は安泰と伝え、引き換えに彦根藩士の暴発に釘を刺した。報復行為を禁止したのである。
当然ながら、彦根の国元では騒動が起こっていた。主君の首を取られて憤怒しない武士はいない。激高した在国藩士が押っ取り刀で続々と江戸に下ってくるのを、岡本半介が懸命に鎮撫する。加害者側の水戸藩も報復は必至と見て緊迫感に包まれ、藩邸はもちろん藩境にまで人数を出して固める。あちこちに危険な空気が充満し、老中連はひたすら事を荒立てまいとガス抜きに大わらわだった。
まず三月三十日、井伊直弼の大老職を免じ、一ヶ月後の閏三月三十日、井伊家は「掃部頭、養生相叶わず」死去した旨を届け出て公式に発表する。ちなみにこの年三月十八日、安政七年(一八六〇)は万延と改元された。安政・万延の代わり目の約二ヶ月、日本の政府首脳は首のない男だったのである。
今や幕府が決然と難局を処断する気概を失っていることは、万人の目に明らかだった。最高権力者をむざむざとテロに斃されながら、老中は誰も責任を取ろうとしない。「病死」したのだから、「責任」が発生したらまずいのだ。井伊家でも重臣はただの一人も切腹しなかった。いきり立っていた藩士も井伊家存続のためにガマンしろと宥められ、水戸家に斬り込む武士は誰もいなかった。上から下まで虚偽で塗り固められたのであった。
それ以来、日本の政治の中枢部にはウソが居座ることになった。 水戸浪士狩りは猛烈をきわめた。暗殺者の一味はもとより、連累者・関係者を一網打尽にしようと凄まじい警察政治が敷かれた。暗殺のアの字も口にできなかった。言論統制がどんなに厳しかったかは、市井巷間のゴシップの宝庫『藤岡屋日記』ですら、三月三日の記事で桜田門外の変事にいっさい触れていない事実からも窺われる。 情報はアングラ化して、ひそかに筆写回覧された。現在『桜田実記』『桜田一条伝聞記』などと題して残っている写本にダブる記事が多いのは、同じ情報源から出た話を使い回しているからだろう。
民衆はうわべでピタリと口を閉ざしながら、陰では赤飯を炊きたいぐらい嬉しがっていた。ナイナイ尽しで「桜田騒動途方もない、そこでどうやらお首がない、首を取っても追手がない、お駕籠こわれて舁き手がない、お番所どこでも止めて手がない」とはしゃいでいた。歌舞伎の名場面のパロディで、「首は飛び桜田さわぐ血の中に何とて供はつれなかるらん、方々(かたがた)喜べ、交易おやめになったぞやい」。口コミで広まった落首・川柳・落とし咄・チョボクレ・の類の夥しさは驚くばかりだ。 世の政治家は、次の残酷なジョークを読んで、日本の民衆の怖ろしさを心に刻むべし。日ごろはお上にぺこぺこ頭を下げているが、失墜した権力者に対してはどんなに容赦なく本心をむき出しにするか。この笑いには一片の同情もない。「かもん様ご無事にお帰りと申す声を聞き、奥方様お迎えなされ、程なくお駕籠入り来たりしゆえ、お供方お戸を引き候ところ、奥方様仰せには、コリャ胴(どう)じゃ」 (引用おわり)
【読み下し文】 「文意」 (注釈)など
解読文 |