風説書三 「水彦騒動記』【読み下し文】 「文意」 (注釈)など
小川欣亨

 【読み下し文】 「文意」 (注釈)など
                 
              水戸殿家来
                  高橋多一郎
                  関鉄之助
                  吉成恒次郎
                  林忠左衛門
                  廣岡子之四郎
                  森五六郎
                  濱田平助
右の者共、水戸表出奔仕候に付き、他領へ罷り出で候はば、別而早々召し捕え候様致さるべく候事 

 右の者たちは水戸藩を脱藩したので、他の領地に現れたら直ぐに召し捕ること 

申 二月二十二日、対馬守殿(老中安藤信正)宅へ家来呼び出され、御書付けをもって、仰せ渡さる

 申の年(安政七年、万延への改元は三月十八日)の二月二十二日、対馬守殿(老中・安藤信正)の宅へ家来が呼び出され、書面をもって仰せ渡された 

此節、水戸領内長岡駅猶又多人数出張いたし居り、不穏趣相聞こえ、中納言殿(水戸斉昭)深く心配、厳重に手配致し候へども、万一御府内、他領までも罷り出で法外の所業致され候やも計り難く、右様の仕儀に至り候ハハ公辺御召し捕り引き渡し相成り候様致され度き旨、水戸より仰せ立て候間、万一他領へ罷り出で候ハハ、早々召し捕り候筈に候間、夫々手筈致し置き、右様の義至り候ハハ、早速人数差し出し召し捕え候様致さるべく候。尤も多人数にこれ無く一両人姿を変え、間道に忍び居り候て罷り出で候者これ有るべくも計り難く、左様の者ども見掛け次第召し捕り候積もり手配致し置き候様致さるべく候事

 このところ、水戸の長岡宿に、なおまた大人数が集まって、不穏な趣があると聞き、中納言殿は深く心配し、厳重に手配はしているが、万一、江戸や他の領内までも出かけていき、法外な振る舞いをするかもしれないので、もしそのような場合には役人で召し捕らえ引き渡すよう水戸より仰せ付かっている。万一、他領に現れたら早々に召し捕えるよう、それぞれ手筈を整えて置き、そのようなことに至ったならば、早速、人数を差し出し召し捕えること。もし、多人数ではなく、一人か二人で変装して脇道に隠れている者がいるかも知れず、そのような者も見かけ次第召し捕る手配をしておくこと 

                  松平肥後守
                  酒井左衛門尉
                  堀田備中守
                  土井大炊守
                  土井采女正
                  牧野備後守
                  久世大和守
                  戸田綏之助
右は水戸殿家来ども法外の所業に及び候節、人数繰り出し召し捕えお達しの分 

 右は水戸殿の出奔した家来たちが、法外な振る舞いを起こした場合に人を繰り出して召し捕えるようにとのお達しの分 

三月三日朝五ツ時桜田門外、井伊掃部頭登城先において狼藉に及び候者ども名前書き 

 三月三日の朝八時ごろ、桜田門外で井伊掃部頭が登城するところに狼藉を働いた者の名前書き

               水戸家来
                 ○黒澤忠三郎
                 △森五六郎
                 △杉山弥一郎
 ○印五人脇坂坂殿へ       △大関和七郎
  願書差し出す          森山繁之助
    (○印は四人である)    △佐野竹之助
                  蓮田市五郎
                  関鉄之助
                 ○斉藤監物
                 ○廣岡弥次郎
                  鯉渕要人
                  山口辰之助
 △印細川家へ六人欠け(駆け)   廣木松之助
  込み直ちにお預け        稲田市蔵
                  増子金八
                  海後崎之助
                   (嵯磯之介の表記もあり)
                 △高橋多一郎
                  森恒次郎
                 △林忠左衛門
                  濱田平助
  脇坂中務大輔殿宅にて死去   ○佐野竹之介
                薩州浪人
                  有村次左衛門

今朝登城掛け、外桜田松平大隅守前より上杉弾正大弼辻番所までの間にて、狼藉者鉄砲打ち掛け、およそ二十人余り抜き連れ、駕籠を見懸け切り込み候に付き、供方の者ども防戦致し、狼藉者一人打ち留め、其の余、手疵・深手等負わせ候に付き、追々逃げ去り申し、拙者儀取り押さえ方等指揮致し候処、怪我致し候に付き、一先ず帰宅致し候。尤も供方即死・手負いの者ども別紙の通り御座候。此の段御届け申し達し候

 今朝登城の途中、外桜田の松平大隈守邸前から上杉弾正大弼辻番所までの間で、狼藉者が鉄砲を撃ちかけ、およそ二十人余り連れ立って抜刀し、駕籠を見かけると斬り込んで来た。供の者たちは防戦し狼藉者一人を打ち留め、その他の者どもに手疵や深手を負わせたので、次々と逃げ去った。私は取り押さえ方を指揮していたところ怪我をしたので、一先ず帰宅した。なお、供の者ども即死・手負いの者の氏名は別紙の通りなので、此の段お届け申し上げる

  三月三日          井伊掃部頭
      覚
            深手   日下部三郎右衛門
            手負   片桐憧之助
            同    河西忠左衛門
            手疵   澤村軍六
            同    桜井猪三郎
            同    小河原秀之丞
            即死   柏原徳之丞
            同    加藤九郎吉
            同    永田太郎兵衛
            手負   草川鍬三郎
            同    松井貞之助
            同    萩原吉次郎
            同    越谷源四郎 
            手疵   元持甚之丞
            同    渡邊泰吉
            同    藤田忠蔵
            同    水谷求馬
            同    岩崎徳之進
               草履取
            落手   幸田太助
               陸尺
            落手     政右衛門
                   勝五郎
         〆二十一人
     右の通りに御座候
   三月三日  御勘定奉行へ

 この部分が、井伊家が幕府に提出した偽りの届けである。彦根藩家老・岡本半助、南町奉行・池田頼方、老中・内藤紀伊守信親らが相談して、首の無い掃部頭が、まだ生きていることにした

今朝、外桜田において水戸殿家来乱防(暴)に及び候に付き、水戸殿三屋敷怪しき躰の者出入り有無等あれど、組支配の者昼夜相廻り厳重に心得候様致さるべく候。尤も水戸街道へ多人数罷り出で候趣にこれ有るべく候間、もし出府致し候様に候はば、其の段月番老中宅へ申し越され、仕儀次第召し捕り候様致さるべく候事。
右の通り町奉行、お目付へ相達し候間、其の意を得て関東取締出役の者へ申し渡し、出府模様に候はば早々月番老中へ申し越し、仕儀次第召し捕るよう致さるべく候事

 今朝、外神田において水戸殿の家来が乱暴に及んだので、水戸殿の三つの屋敷に怪しい者の出入りが有るか無いか組支配の者は昼夜厳重に見張るようにすること。なお、水戸街道へ大勢の者が出ているようでもあり、もし、江戸に入るようであれば、そのことを月番の老中に伝え、事と次第によっては召し捕ること。このことを町奉行・目付に伝えたので、その意にそって関東取締出役の者へ申し渡し、江戸に入るようであれば、早々に月番老中に報告し、事によっては召し捕るようにすること

   申 三月三日
            丹波守殿御書渡
                 松平肥後守
                 久世大和守
                 土屋采女正
                 土井大炊守
                 牧野越中守
                 戸田綏之助
 今朝、掃部頭登城掛け、水戸殿家来乱防(暴)に及び候義もこれ有り候に付き、兼て相達し置き候捕え方の義、なお此の上厳重手配致し置き候様致さるべく候

 今朝、掃部頭が登城の折に、水戸殿の家来たちが乱暴に及んだので、かねて通知しておいた通り、捕え方のことなど、このうえ厳重に手配して置くこと 

    同日細川家の口上書
御国元二月十八日出立、一両人宛(ずつ)所々にて止宿。今朝同意者十七人愛岩(宕)山に寄り合い、桜田門外辻番所より松平大隅守様御門外にて御駕左右へ仕掛け申し候処、一旦は多人数立ち塞がり候に付き争論に及ぶも、御駕へ両所より四人ばかり駆け付け(越利当?)御引きだし御首討ち取り、声を揚げ銘々散々引き取り申し候。
右十七人の内、四人辰の口御屋敷様へ表御門より入り込み、案内を乞い候間、御取次ぎ立会い申し候処、水戸様御家来にて只今、井伊掃部頭様を討ち取り候に付き、此の段御役人方へ罷り出で御答え中に御座候処、いずれも不案内にて此の方様へ罷り出で、公儀御裁許相待つ覚悟に付き、それまでの処御養へ下され候様、委細の儀は御重役さまの内、お目に懸かりお話し申すべき旨申し聞かせ候間、小姓頭相合い表下の間にて右応対いたし御取次ぎより此の義応対直々応対、吉田平之助御役人方へご出、中沢八郎御使者として水戸殿へ罷り出で候事

 国元を二月十八日に出立し、一人か二人ずつ所々に泊まりながら、今般の襲撃に同意の者十七人は愛岩(宕)山に寄り集まり、桜田門外辻番所から松平大隈守様の御門にかけての場所で、駕籠の左右に攻撃を仕掛けたところ、一旦は多人数が立ち塞がり口論になったが、駕籠の左右から四人ほどが駆け寄り、(越利留?)引き出して、首を取り声を上げて銘々散々に討ち取った。その十七人の内四人は辰の口御屋敷様へ表門より入り込み、案内を願ったのでお取次ぎの者が立ち会って話したところ、水戸様の家来でただいま、井伊掃部頭様を討ち取ったので、この段御役人方のところへ届けたいのだが、不案内でよく分からない。ついては此方様に伺ってご公儀の裁定を待つ覚悟なので、それまでのところ面倒を見てくだされ。詳細については、御重役様にお話しするとの旨、申し聞かされたので
小姓頭に会わせ、表下の間で応対し、吉田平之助がお役人の所へ出向き、中澤八郎が使いとして水戸殿へ伺った 
                     
                 松平伯耆守
           三奉行   池田播磨守
                 山口丹波守
              立会
           大目付   久貝因幡守
           御目付   駒井山城守
             御勘定留役
                 高木源六郎
                 高田彦太郎
水戸殿家来狼藉一件吟味御用掛り仰せ付けらる

 水戸殿の家来たちの狼藉の一件についての取り調べ役を仰せ付けられた。 
   有村次左衛門辞世
     岩がねも砕けざらめや武士(もののふ)の
      国のためとて思い切る太刀 
     君がため身を尽くしてぞ丈夫の
      名ぞ明け登る時をこそ待て 
右髪の毛に包みこれあり
佐野竹之助着用白襦袢に認(したた)めこれあり
     敷島の錦の御旗持ちささげ
      誠忠皇御軍さきがけぞせん
     桜田の花と屍をさらすとも
      などかたゆまん日本魂 
                佐野藤原光明 
             
掃部頭殿騎馬徒士、先供和田
九郎吉の首級相携え、辰の口 松平修理太夫家来
小笠原左京太夫、遠藤但馬守   有村次左衛門
殿辻番所脇御堀にて右首級洗
い辻番所へ罷り越し切腹


 掃部頭殿の騎馬徒士で先供の和田九郎吉の首を携え、辰の口の小笠原左京太夫と遠藤但馬守殿所管の辻番所脇の堀で、その首を洗い辻番所へ持って来て切腹した。 
 有村次左衛門が携えている首は、実際には井伊掃門頭直弼の首である。遠藤但馬守邸から、井伊家にその首を戻すとき、掃部頭の首であることを秘し、表向き先供の和田九郎吉のものとしたのが、そのまま記録されたのであろう。なお、この和田九郎吉という名前は、冒頭に引用した野口武彦『直弼の首』では加田九郎太となっている。
 また、先に示した、掃部頭から幕府へ提出した偽りの届けの犠牲者の中に和田もしくは加田の名前はない。言論統制、情報操作の中で数多の口コミの写し取りには、このような曖昧さや齟齬は多い。 

              水戸殿家来
 掃部頭殿乗物突き通し、駕   佐野竹之助
籠脇士徒士等切り伏せ、有村   黒澤忠三郎
次左衛門同道、辰の口まで罷   蓮田市五郎
り越し往来において切腹     斎藤監物
 

 掃部頭殿の駕籠を突き通し、駕籠の周囲を警護している者を切り伏せ、有村次左衛門に同道し辰の口まで来て、往来で切腹。 

              同家来
                山口辰之助
 掃部頭殿駕脇士大勢切り伏   森五六郎
 せ、細川越中守へ訴え出る   杉山弥一郎
                鯉渕要人
                稲田市蔵
                関鉄之助
                海後崎之助

 掃部頭殿駕籠脇を固めている者を大勢切り伏せ、細川越中守邸へ訴え出る 

有村次左衛門以下性(姓)名書き、中務大輔殿へ自訴の者持参、存命の者は細川越中守家来へお預け仰せ付けらる

 有村次左衛門以下、姓名書きは中務大輔殿へ自訴した者が持参した。存命の者は細川越中守の家来にお預けとなった。 

三月三日朝五ツ時、井伊掃部頭殿登城先、外桜田松平大隅守殿屋敷前通りより上杉弾正大弼殿辻番所までの間にて、赤桐油(油桐の種から抽出した油を塗って作った防水着。それが赤色だった)を着し、綿頭巾様なるもの冠り先箱徒士の間、横に突っ切り候故、徒士の者差し押さえ、引き戻し申すべき旨、かれこれ互いに争論に及び候。折柄、忽ち赤桐油、頭巾脱ぎ捨て候へども、着込みの上に白三○黒羽二重を着し白布にて鉢巻用布にて十字に後取り、帯釼引き抜き、直ちに一、二人切り倒し候故、駕の者追々騒ぎ付け火花を散らし争戦に及び候へども刀量(重?)早技不○働故、士方以上の者一同に切り掛かり候へば、猶又側に蓑笠に姿を変じ候者、蓑笠脱ぎ捨て帯刀抜刀し大勢の中へ割って入りさんざんに切りまくり候。白桐油を着し無○の傘をさし足駄がけの者、駕脇人少ないのに付け込み、懐中に仕掛け置き鉄砲壱発撃ち掛けると相(合)図と相見え、松平大隅守殿長屋下弐の堀の下に佇み居り中間躰または通り懸け候者ども、およそ二十人ばかり桐油、蓑笠等脱ぎ捨て着込みに身を堅め候者掃部頭殿乗物に四方巻囲みやごへを掛け両手突きにつらぬき御首討ち落とし大音に勝時(鬨)あげちりぢりに引き取り候。尤も、駕脇の者共、主君の危急に一心に防身命を投げ打ち切り結び候へども狼藉者の猛勢に切りまくられ、素々何等無心不意を打たれ、殊には雨具を着し帯釼には柄袋を懸け急変の事故狼狽苦悩の躰にて、追々切り倒され、中には鞘の侭にて争戦に及び候者も暫時の烈戦、互いに数ヶ所手疵受けて、彦根方には即死四人、手負い拾五人、陸尺二人落手、其の余の者どもは散乱す。彼の狼藉者の方にては首級を皮袋様なるものへ入れ何方へか持ち行き、残る者ども凡そ弐十一、二人程にて、国賊掃部頭を天の代り誅罪致し申すと罵りながら桜田御門立ち入るべき様子相見え候得ども同所御門〆切りに相成り候故、引き戻し弾正大弼殿長屋下優に通行、其の内壱人弓手切り落とされ候者、右手に携え候太刀先へ白髪交じりの首つらぬき歓悦満面に顕れ、其の余の者ども馬乗り、袴、稽古着、高股立ちにて或るは試合具足等に身拵えし銘々○○○に相成り阿修羅これ有りて着れたる如く猛々として日比谷御門を通り抜け脇坂中務大輔殿、細川越中守殿へ都合九人自訴いたし、残る弐人は携え居り候御首、辰の口にて洗い遠藤但馬守殿辻番所へ差し置く。尤も其の節同時、林大学守屋敷へも一級投げ込み、猶二人打ち連れ辰の口へ引き戻し候処、数ヶ所の深手負いにて歩行成り兼ねる躰に相成り候内、互いに何か談合、忽ち一人切腹いたしといへども深手の上、数刻雪中に佇み、惣身冷寒手足働き得ず自(ら)とどめさし兼ね、連れ立ち来る男かいしゃく致し其の身も自害に及ぶ。然る処、此の者儀は同様深手負い等にて仕損じ苦痛の躰にて往来の者へ、武士は相見互い故、かいしゃく、漸々虫の声の如くにて頻りに頼む頼むと云うといえども、近辺人無く、一通り往来の者通り掛り見請け候へども、唯驚き恐れ逃げ去り者にて多し。折柄、立派なる士通り掛り、忽ち首を打ち落とし何方へか立ち去る。其の余一、二人即死等もこれあり候由は未だ聢(しか)と相分かり難く、其の外争戦中多人数抜き連れ候者ども常州表へ引き取り候儀にもこれ有るべく候由。(満川た?)掃部守殿方にては散々に切り倒され候上、主君致命剰(あまつさ)え首級紛失に気おち致し候や、跡押し駆け参り候者壱人もこれなく、一件鎮り候砌、大勢麻上下、足袋、はだし銘々槍刀押取り欠(駆)け出し来たる。場所検分の上夫々堅め其の怪ヶ敷こと大かたならず。登城の節召し連れられ候駕脇士か以上の内、帰宅の上切腹いたし候者多分これ有り。其の外争戦の節逃げ去り候者は夫々厳重に手当致し囲を補理(しつらえ)、右の内へ捕え置く由。最初桜田外にて白刃血戦中は稀なる大雪、烈風吹き廻し、纔(わず)か寸前弁え難き程の次第、いかなる天災かと思わるる。風の便に聞つるのみ
 
 三月三日の朝五ツ時(午前八時)に、井伊掃部頭直弼が登城の途中、外桜田の松平大隅守殿の屋敷前から上杉弾正大弼殿の辻番所までの間で、赤桐油(油桐の種から抽出した油を塗って作った防水着。それが赤かった)を着て木綿の頭巾のようなものを被り、行列の先箱を担いだ侍たちの横に突っ込んできた者たちがいたので、引き戻るよう言い争いになった。そうこうしているうちに赤桐油や頭巾を脱ぎ捨て着込み(きごみ=上着の下に腹巻や軽便な鎖帷子などを付けた防身具)の上に黒羽二重を着て、白い布で鉢巻をし、後の方で十字に結んだ者たちが刀を抜いて、直ちに一人、二人切り倒した。駕籠周りの者たちも騒ぎを聞きつけて、火花を散らす切り合いになったが、側に蓑笠を被って変装していた者たちが、笠を脱ぎ捨て刀を抜いて行列の中に割り入って散々に切りまくった。
(掃部頭方の)桐油を着て刀を持たぬ者を刺し、足駄を履いた者、駕籠脇の少人数に付け込んで刺した。懐中に仕掛け置いた鉄砲一発が合図とみえ、松平大隅守の堀端に佇んでいた中間の格好をした者や通りがけと見せかけた者たち二十人ばかりが、桐油、蓑笠等を脱ぎ捨て、着込みに身を固めて掃部頭殿の乗物を四方から取り囲んで、両手突きに貫いて首を討ち取った。そして大音《声》で勝時(勝鬨)を揚げ、ちりちりに引き取って行った。

 なお、駕籠脇の者たちは主君の危急に際して一心に防戦し、命を投げ打って斬り合ったが、狼藉者の猛勢に斬りまくられた。もともと何の用心もなく不意を突かれ、殊に雨具を着て刀には柄袋をかぶせていたので、急変の事態に狼狽し、苦悩しているうちに次々と斬られていった。中には鞘のままで戦った者もいたが、暫時の烈しい戦いで互いに手疵を数ヶ所受け、彦根方では死者四人、手負い十五人、その他の者たちは散乱した。

 狼藉者の方では首級を皮袋のようなものに入れ、何方へか持ち行き、残る者たちはおよそ二十一、二人ほどで、国賊掃部頭を天の代わりに誅罪したと罵りながら桜田門内に立ち入ろうとしたが、門は締め切りになっていたので、引き戻り弾正大弼殿長屋下を通って行った。その中の一人は弓手を切り落とされ、右手に持った太刀先に白髪交じりの首を貫き、歓びを満面に浮かべていた。その他の者たちは馬に乗り、袴、稽古着を着て高股立てで、ある者は試合具足などに身拵えし○○になり、阿修羅のように猛々しく日比谷御門を通り抜け脇坂中務大輔殿、細川越中守殿へ都合五人が自訴した。残る二人は携えている首を辰の口の堀で洗い、遠藤但馬守殿辻番所へ差し置いた。なおまた、その時同時に林大学守の屋敷内へも一級(首)投げ込み、二人うち連れて辰の口へ引き戻ったが、数ヶ所の深手を負っていて歩くことが困難になり互いに何か相談しているうちに、突然一人が切腹したが、深手のうえ数時間雪の中に立っていたので全身が冷えて手足が動かない。自分でとどめを刺すことができず、連れの男が介錯したが、その男も自害に及んだ。しかし、この男も同様に深手を負っているため失敗し、苦痛の中で往来の者たちに、武士は相見たがいゆえ介錯をと、ようやく虫の鳴くような声で頻りに頼む頼むと言うが近辺に人がいない。たまに通りがかりの者がいても、その姿を見てただ驚き恐れている。折柄、立派な武士が通りかかり首を打ち落として何処ともなく立ち去った。他に一人か二人即死した者もあり、まだ確かなことは分からない。その他戦いの中で、抜刀した者の多くは常州の方へ引き取ったということである。《満川た?=まったく、か?》掃部頭殿の方は散々に斬り倒されたうえ主君が落命し、剰え《あまつさえ》、首級紛失にいたっては、気落ちしたか、後から押しかけて来る者は一人もいなかった。事件が鎮まってから、大勢の者たちが麻上下、足袋、はだしで銘々槍や刀で押っ取り駆け出して現場を検分し固めているのは怪敷きことこのうえもない。登城のときに召し連れていた駕籠脇士かそれ以上の身分のもののうち、帰宅してから切腹したものがいるかもしれない。他に軍の際に逃げ去った者は厳重に処罰し、囲いを補理(しつらえ)し、その中に捕え置いているという。最初、桜田外で白刃を交えた時は大雪で烈風が吹き、わずか一寸先がはっきりとは見えないほどのしだいでいかなる天災かと思われる。以上、風の便りに聞いたことである。 

   きのうまで立派に咲きしたち花も
     はかなく散りし雪の桜田 
            たち花=井伊家の家門、彦根橘 
   時あらばいざものみせん山桜
     寝ばなっぱなの眠り覚まして
   もろともに哀と思い外桜みと(水戸)より
     外に切る人はなし
   アメリカをあまりかもん(掃部)ておく故に 
     ひなまつりより血祭りが出来
            ひなまつり=上巳の節句、三月三日、
            掃部頭が暗殺された日 
   雪月花の見立て
     当日雪が降り駕籠は浮き外桜田の花

   

掃部頭家来勝手より差し出す書付

 
掃部頭昨日登城の節、途中において狼藉者○処、右の者ども水戸殿ならびに薩州殿の家来の趣、相聞こえ申し候に付き、掃部頭にも手負い致す程の儀に付き昨今のお達しも御座候へども、何分家来中の者ども此の侭暫時も罷り有り難く候。捕え押しに相成り衆ども御渡しに相成り、家来の者ども子細柄相心得度き旨、一同懇願仕り候間、何卒御憐察成り下され願いの通り仰せ付けられ候様仕り度く、この段願い上げ奉り候。以上
           井伊掃部頭家来
                岡本半助
           同道   相馬隼人
即日持ち出し同夕、左の書付添え持ち帰り、宅へ岡本半助呼び出し

      覚
書面の趣、引き渡しあたく筋候事、宅へ掃部頭家老呼び渡すべき書面、此度掃部頭殿不慮の義これ有り候に付いては重臣始末にまでも心配致し候由相聞こえ候。尤もの筋には候得ども、万一動揺致し候様の義これ有り候ては以っての外の事に付き、諸事公辺御所置に任せ左様の義これ無き様致さるべく候。厚き思し召しもこれ有る旨の義に付き、末々に至るまで一同安心致し罷り在り候様家来呼び出し相達し候事

 掃部頭が昨日登城の折、途中で狼藉者に出会ったが、彼らは水戸殿ならびに薩摩の家来であると聞いた。掃部頭も手負いする程のことであったので昨今のお達しもあるだろうが、何分家来たちがこのままでいることは難しいので、取り押さえた者どもをお渡しになり、家来たちが詳しいことを知りたいと一同懇願している。何卒憐れみをもって願いの通り仰せ付けられるようこの段願い上げ奉る。以上
 即日持ち出し、同夕刻に左の書付を添え持ち帰り、宅へ岡本半助を呼び出す。
       覚
書面の趣のように引き渡すことはできない筋のこと。宅へ掃部頭家老を呼び書付を渡すこと。この度、掃部頭殿が不慮の事件に遭われたことについては重臣の処置を心配する向きもあるように聞く。尤もなことであるが、万一動揺するようなことがあってはもってのほかの事である。万事幕府の処置に任せ、そのようなことがない様にすべきである。後々のことは厚い思し召しもある旨に付き、一同安心するよう家来を呼び出し伝えること。

   

松平大隅守家来紀伊殿へ御届書左の通り


 唯今、大隅守門前において何者どもとも知れず抜身にて何方のお供にて候や、中に切り掛かり候様、怪我人余程これ有るべくや。窓下の風聞これ有り。股引着用の旅人躰の者倒れ相見え、怪我人等もその供方のうち連れ帰り候や、相見え申さず。追って書面にてお届け申し上げ候へども、この段取り敢えず申し上げ候。已上
               松平大隅守家来
  三月三日              奥津三右衛門

 松平大隅守家来 紀伊殿(月番老中 内藤紀伊守信親)へお届書きは左の通り
 ただいま、大隅守門前において、何者かは分からないが刀を抜いて何様かの行列の中に切り込み、怪我人が相当出たと窓の下のほうで噂をしている。股引を着けた旅人風の者が倒れているのが見える。怪我人などは供方の者が連れ帰ったのであろうか、何処にも見えない。追って書面でお届けするが、取りあえず申し上げます。以上
               松平大隅守家来
  三月三日              奥津三右衛 
 冒頭で引用した、野口武彦『直弼の首』では、この家来が奥沢某となっている。届けの内容も、こちらは簡潔であるが「追って書面で-------」となってところをみると、この後に何らかの文書が届け出されたのだろう。「桜田門外の変」については当時、厳しい言論統制がなされ、情報はアングラ化したと、『直弼の首』にある。様々な風聞や多くの書き写しの中で情報の相違や誤りが生じるのは当然のことであろう。 

   

上杉より御届けの内


今朝五ツ時頃、掃部頭殿御登城の様子に付き、辻番所番人ども見請け罷り在り候処、何者ども相知れず六、七人白刃抜き列び御行烈(列)の中へ切り候内人数立ちふさがり、様子は聢と(しかと)見留め申さず候内、黒羽織袴にて手疵など請け候者辻番所へ罷り越し候に付き様子承り候処、一言の答もなく直に抜身にて右場所駆け込み申し候。暫仕(時)の内六、七人抜身携え内一人馬乗り袴股立取り候者白刃に首をかつぎ日比谷御門の方へ罷り越し申し候。持場の外の義にて容易ならざる騒動に付き此段お届け申し上げ候。以上
  三月三日         上杉弾正大弼家来

   上杉よりお届けの内(の一通?)
 今朝五ツ時(午前八時)、掃部頭殿が登城の様子なので、辻番所の番人たちが見物していたところ、何者かは分からないが六、七人が白刃を抜きそろって行列の中へ切り込んだ。多人数が立ち塞がり様子ははっきりとは見えなかったが、黒羽織に袴を着け、手疵などを受けた者が辻番所へ来たので様子を伺ったところ、何の答もせず、直に抜身でその場所の中へ駆け込んで行った。しばらくするうちに、六、七人が抜身を携え、その中の一人は馬に乗り袴股立てをして白刃に首をかつぎ日比谷御門の方へ行った。持ち場の外のことだが、容易ならざる騒動なのでこの段お届け申し上げる。以上
  三月三日        上杉弾正大弼
                   家来 

三月三日、辰の口遠藤但馬守様脇、年頃三十歳位に相見え、頭上後へ長さ四寸程、深さ七分程切疵一ヶ所、頭に長さ四分程、深さ五分か、切疵一ヶ所、左の手首これ無く、白木綿たすきがけ、黒塗り鉄砲繋ぎ小手いたし巾着内に上書、安政七年三月朔日日記薩州有村次左衛門兼請と認め(したため)これ有る帳面一冊、鑓印ならびに手槍槍印は朱塗り箔にて○斯くの如き印両面にこれ付け有り。紙巻にて一分銀六つ、二分金一つ、二朱金八つ、一朱銀二つ、百文銭一枚取持、革具足胴黒塗り、何れも血付き鞘これ無き刀身長さ二尺六寸程、脇差九寸八分程、松平修理太夫家来脇田仁兵衛呼び出し相尋ね候処、有村次左衛門義去る二月二十六日他出致し罷り帰らず帳外の者の由お答え候趣

 三月三日、辰の口遠藤但馬守様脇に三十歳位にみえる男が頭の後に長さ四寸(十二センチ)、深さ七寸(二・一センチ)ほどの切り傷一ヶ所、頭に長さ四分(一・二センチ)深さ五分(一・五センチ)ほどか、切り傷一ヶ所、右の手首は無く、白木綿のたすきがけ、黒塗り鉄砲担ぎ小手をし、巾着の中に上書、安政七年三月朔日(一日)記す薩州有村次左衛門兼請と認(したため)てある帳面一冊、鑓印ならびに手槍槍印は朱塗り箔で○のような印が両面にあった。紙巻にして一分銀六つ、二分金一つ、二朱金八つ、一朱銀二つ、百文銭一枚所持しており、革具足胴黒塗り、いずれも血が付いて鞘のない刀身長さ二尺六寸ほど、脇差し九寸八分ほどのものを持っていた。松平修理太夫の家来脇田仁兵衛を呼び出して尋ねたところ、先月二十六日に外出して戻って来ないので帳外の者(浪人)になっているとの答であったようである。三月五日
   この部分は誰が誰に言ったものか不明。

               家来  有村雄助
右の者昨朝より門出今以って罷り帰り申さず。右の者昨日遠藤様御組合辻番所廻り場の内へ相果て居り申し候元家来有村次左衛門と申す者の兄に御座候間、早速手当たり申さず(申し)候。此の節柄に付き御届け申し上げ候。以上
           松本修理太夫内
  三月五日          西 筑右衛門

            家来  有村雄助
右の者は昨日の朝から外出して戻っていない。この者は昨日、遠藤様所管の辻番所内で自害し果てた元家来の有村次左衛門という者の兄である。早速(探索したが)手当たりがない。この節柄なのでお届け申し上げる。以上
           松本修理太夫
  三月五日          西 筑右衛門」

 ここから後は、ほとんどが「桜田門外の変」に関する戯文の類である。冒頭に引用した、野口武彦『直弼の首』には、落首、川柳、落とし咄、ちょぼくれ、などによる数多の社会・政治風刺が表現されたとある。ここに記されたものもそれらの一部であろう。

    近身耻怪異(おうみはじけい=近江八景)
 
    駕籠先之余頻之荒(かごさきの夜しきりのあらし)
           =唐崎の夜雨
  先支勇士勢 狼狽晩桐油
  又固糸柄袋 天感忠降雪
       目の前の敵に心を奪われて油断大敵右と左に  

 井伊家は近江の彦根にある。近江の琵琶湖の南西岸を中心に景観の勝れた地を近江八景という。その近江八景に準え近身耻怪異としたのであろう。井伊家の恥という意味を込めてこのような漢字六字を選んだ語呂合わせである。
 近江八景とは唐崎の夜雨、石山の秋月、粟津の晴嵐、
       瀬田の夕照、三井の晩鐘、堅田の落雁、
       比良の暮雪、矢橋の帰帆である。 
 先供の武士たちは着ていた防水着を脱ぐのに手間どり、また刀の柄袋も固く結んであったので狼狽した。天は忠義に味方し雪を降らせた  

    意趣山の敵の透(いしゅざんのてきのすき)
           =石山の秋月
  武名輝末代 江城桜門外
  取得首大敵 雪紛走何方
       去年よりの恨みは七重弥生(八重)月
         雪に咲きたる武士の花 
 
 
 武名は末代にまで輝く江戸城桜田門外の変、大敵のくびを取って、雪に紛れてはしる。  

    ○○の勢乱(○○のせいらん)
           =粟津の青嵐 
  見小敵故侮 大敵近乗輿
  失忽主君首 求代十軒店
        思いきやわずかの敵にかこまれて
          大老職の首のなきとは 

 小敵とみて侮るが大敵は駕籠の近くに、忽ちにして失う主君の首
-------------------------- 

    下手の関所(へたのせきしょ)
           =瀬田の夕照(せたのせきしょう)
  白雪覆東西 日比谷御門
  番士握陰嚢 更不見往来
        首切った人の通り懸りを○○
          知らぬ言い訳番頭切腹 

 白雪が東西を覆う日比谷御門、辻番所の番士は恐ろしくて陰嚢を握り一向に往来を見ない 

    見江の番所(みえのばんしょ)
           =三井の晩鐘
  番士張臂而 寒風○石垣
  箱番成新而 親父若弥久
        此の頃は鑓(やり)も数まし人をまし
          番をするかやふじの物入り

 番士は肘を張って寒風○石垣、箱番新しくなって親父若やぐ 

    加役の啼晩(かやくのなくばん)
           =堅田の落雁
  出火追々減 加役昼夜繁
  去北有穏世 驚踏黒犬尾
        火のもともしづけき雨の夜路
          廻るつらさを誰か知るべき

 出火は追々減って加役が昼夜増えた。北に穏やかな世があり黒犬の尾をふんで驚く? 

    隙の浮説(ひまのうきせつ)
           =比良の暮雪
  老容寄額皺 密語外桜田
  高語米相場 唯待名君書
        その時の真は誰も白雪の
          消ゆる後より積もる悪説

 老人が額に皺を寄せて外桜田の事で密談している。そんなことより米が高いぞ。ただ名君が出るのを待つばかり 

    山師の危難(やましのきなん)
           =矢橋の帰帆
  ○○北条栄 今華幼君代
  讒賢者高枕 思外桜田難
        天が下大老職を笠に着て
          下よりぬるく身のはかなさよ

 ----北条が栄え、今は幼君の代で華、賢者を誹り高枕、思ってもみなかった桜田の受難 

   

役ばらい


岩村とそっと表へ出○出たが、どうやらわるへ道心、細川行き過ぎてここには何も伊豆様と気強くなって北の番はホット溜息、突き棒、さすまた、とんだ時分にべら棒が揃いも揃いし臆病者、駆け出さんとする前をこの役払いが引っからめたうきゑら○と思へども、皆腰抜けの事なれば堀の内道へとひょろり、ひょろり、ひょろり
「略」
   春なれば外は桜田井伊兄が
      水戸もないほど散り失せにけり
   井伊事も油断したのがあやまりか
      後の始末は水戸もなかろう 
           (水戸もない=みっともない)
   雪の朝桜田外にかもん出て
      水戸の○さしにさされずすれ」
    水居府浪へ井伊と掃部が首きり 

    赤門は赤合羽には恐れけり
       首を取られて腹は立花」
           (立花=橘、井伊家の家紋)

  井伊人(いい人)と思いの外の掃部さん
     首を取られて後は胴なり(どうなる?)

  役人一首(百人一首)の内   赤染衛門 

  やつわらでねたましものと見込まれて
    かたむく運の月を見しかな」
  いいかも(井伊掃部)と
    雪の内にて首をしめ 
  何事もいい(井伊)か悪いか知らねども
    だまし討ちとはみと(水戸)ない武士 

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解読文


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