毛馬内 けまない 

毛馬内氏一族

『寛政重修諸家譜』によれば、南部家二十三代安信の五男毛馬内靱負佐秀範を祖とする族臣毛馬内家がある。戦国末期に南部氏が出羽・秋田の安東氏と鹿角争奪の戦火を繰り広げた時、秀範は鹿角郡毛馬内城(秋田県鹿角市)に配備され、在名により氏とした。これを大永四年とする「南部史要」その他諸説あるが、一方「鹿角志」所載の大円寺縁起は「秀範天文五年に毛馬内に移る。年二十九歳」とある。毛馬内に点在する遺跡には武田氏で見える。なお、秀範の出自を『系胤譜考』『参考諸家系図』は政康の五男にて安信の弟に作る。これは近世南部家が中世以来の記録を継承していないことと大きく拘わるが、中興の祖とされる信直の出自について晴政との続柄が確定しないなど、疑問が多いことに起因する問題である。天正十三年死去説もある。嗣子権之佐政次は天正十九年に九戸陣、文禄元年肥前(佐賀県)名護屋陣に従軍、慶長十九年大坂冬の陣には騎将として出陣した。没年不明。その跡を嫡子権之佐政氏が相続、寛永十九年死去した。次いで嫡子靱負則氏が幼少で相続、寛永二十年久保田藩佐竹家と境界論争で緊張している秋田境警衛強化のため後方の太湯城に移された。明暦三年幕府の江戸證人番として江戸に勤番中死去、嗣子なく家禄二千石を収められ断絶した。江戸で死去し、品川の東海寺に葬られたが、江戸證人番とする説は検討を要するようである。嫡家断絶後は秀範の三男三右衛門直次の家を中心に繁栄した。
南部政康━安信┳晴政━晴継
       ┣石川高信━南部信直
       ┣南長義
       ┣石亀信房
       ┗毛馬内秀範┳政次┳政氏━則氏  断絶
             ┃  ┗女 鮫島定親妻┳毛馬内定照   
             ┃          ┃ 明治二年支配帳
             ┃          ┃   毛馬内定之丞家
             ┃          ┗毛馬内定賢
             ┃            明治二年支配帳 
             ┃              毛馬内善之助家
             ┗直次┳長次━定次 
                ┃         明治二年支配帳
                ┃           毛馬内九左衛門家
                ┣次自┳安次
                ┃  ┃      明治二年支配帳 
                ┃  ┃        毛馬内伊織家 
                ┃  ┗勝阜┳西海枝勝睦
                ┃     ┣長隆
                ┃     ┃   明治二年支配帳
                ┃     ┃     毛馬内名張家
                ┃     ┗寛次
                ┃         明治二年支配帳
                ┃           毛馬内九平治家
                ┗長囿━直道┳直祝
                      ┃   明治二年支配帳 
                      ┃     毛馬内左門家
                      ┗長照
                          明治二年支配帳
                            毛馬内 族家

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