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「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の作成とその歴史的背景について 6 |
本堂寿一170709 |
一付・豊臣秀吉朱印状の諸城破却令の実際? 目 次 はじめに (1)「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の概要 (2)48ヶ城注文の写本系列とその内容について (3)破城と不破城はどのように選定されたか (4)発掘調査からみた破却の状況 以上前頁まで (5)奥羽仕置における天正18年と同19年の城わりの実際について ■ 天正18年の戸沢領における城わり ■ 天正18年の改宗領と氏郷領の存置城館 ■ 撫切り令と城館守備 ■ 再び「南部内七郡」と和賀・稗貫郡について ■ 『済実録』に伝えられた天正18年の和賀・稗貫 ■ 天正19年の伊達領における奥羽再仕置と城わり おわりに ・「南部大勝大夫分国之内諸城破却共書上之事」の信憑性について ・「豊臣秀吉朱印状」の「家中之者共相抱諸城悉令破却」についての 歴史的評価について (5)奥羽仕置における天正18年と同19年の城わりの実際について ■ 天正18年の戸沢領における城わり これまでは天正18年7月27日付の「豊臣秀吉朱印状」の「家中之者共相抱諸城、悉令破却、則妻子三戸江引寄可召置事」について、城郭全てを破却し、三戸城に妻子を引き寄せて三戸一城のみとせよという一城制の施行として理解されることが一般的であり、筆者もその一人であった。しかし、破却については家中の「抱城」を目安としたものであり、番城といった守備の城郭まで全て破却し、三戸城一城のみ存置せよという厳命ではないという解釈も可能である。南部信直に対する以上の天正18年の朱印状については小田原に参陣して領地安堵された他大名にも同文の内容で発給されたものと考えられている。筆者の管見では南部信直と出羽仙北角館城の戸沢光盛に与えた同朱印状(天正18年7月28日「豊臣秀吉朱印状」『戸沢文書』)の二例を知るのみである。その戸沢氏に与えた朱印状の一城令と解されている部分を抽出すると分領城共悉令破却、居所可為一城候、別下々妻子其方居城へ可引寄置候とある。ここで南部氏の朱印状と最も大きく異なる点は、居所を一城にせよということが明記されていることである。この戸沢領については『新庄古老覚書』(復刻版・昭和47年・新城市教育委員会。大正7年常盤金太郎校訂)によると、天正18年8月、戸沢光盛の居城角館一城を残して山本郡・平鹿郡・仙北郡諸士の居城35城は破却し、また、天正19年卯正月に「出羽国仙北之内北浦郡四万四千三百五拾石」という目録別紙(「出羽国仙北之内北浦郡御検地目録」)の秀吉朱印の宛行状があるという。この北浦郡について戸沢氏の勢力圏を称した仙北3郡の内とされている(『角川地名辞典』)。またその範囲は現在の仙北郡の北東部にあたる(半田市太郎「北浦郡」『国史大辞典』4・吉川弘文舘・昭和58年)という。4万石以上となればその所領の実際はさらに広かったものと推定されている。その中の諸士の居城35城については山本郡が3ヶ所、平鹿郡が7ヶ所、仙北郡が23ヶ所で計33ヶ所と数は合わず、各郡に合致しないものもあり、問題なしではない。またこれらはどのように選定されたか不明である。戸沢領44,350石の35ヶ所とすれば1ヵ所あたり1,267石平均となる。また仙北郡(旧山本郡と仙北郡)には千畑村を中心とした本堂領(8,983石)と六郷町を中心とする六郷領(4,516石)が介在し、城舘跡の分布は盛衰を別とすれば仙北郡だけで130ほど確認されている(秋田県文化財保護協会『秋田県の中世城舘』1981)、その中の本堂領と六郷領を別にしても約100ヶ所存在し、さらに平鹿郡分を含めると35ヶ所の3倍以上には達するであろう。天正18年にそれら全てが機能していたとは考えがたいが、やはり35ヶ所以上の居住城舘は存在したと考えざるを得ない。したがって戸沢氏に与えた朱印状に「分領城共悉令破却、居所可為一城候」という厳命は認められても悉く破壊したとは認めがたい。前述のように「城」か「舘」とある程度吟味され、44,350石に相当する数として採用されたことが考えられよう。戸沢領の所領高の確定については以上の城わりと検地が了承されてのことと推察され、35ヶ所(城)の破却は秀吉の命令に沿う内容であったということである。 以上のように戸沢領北浦郡44,350石については「南部内七郡」とは面積において比すべきもないが、石高では南部領約10万石と見てもその約2分の1と肥沃である。その中心が角館ということであるが、戸沢領1城(角館)、南部領2城(三戸・福岡)とみて、豊臣政権の大名居城許可の実際は一城平均4万石程度に見込んでいたのではなかろうか。当然にそれ以下の独立領主についても居城を許したわけであるが、南部氏に対する朱印状に府城を三戸城とすることを認めながらも、領内を居城一城に限定することを付記しなかったことにその点が考えられる。すなわちこのことが翌年九戸城(福岡城)を修築して豊臣政権から預けられる形で2城となったことに結びっくであろう。 ■ 天正18年の改宗領と氏郷領の存置城館 伊達政宗に対しても天正18年末に御奉公無二存候故、拙者分領中、城々も如御諚、悉破却仕之事(『伊達家文書』「伊達政宗覚書書状」)と徹底した破却を命ぜられたと伝えている。しかし旧伊達領においてどの程度の破却が実行されたかは全く不明である。これについて小林清治氏によると、天正18年の仕置以後も松山城(遠藤高康)・利府城(留守政景)・沼辺城(茂庭良元)・四保城(柴田宗朝)・亘理城(自理定宗)・大森城(片倉景綱)・塩松城(白石宗実)・二本松城(伊達茂実)などの諸城が存続しており、また先の「城々も如御諚、悉破却仕之事」のことが事実とすれば、右諸城の土塁・堀などの施設を破却した上で、従来通りの「城」体制が続けられたと考えるべきかという(小林清治「仙台藩の成立と城・要害制」『日本城郭史研究叢書2』昭和57年)。そして以上の伊達領の城舘主たちはいずれも文禄・慶長以後も城持衆であり、彼らはその後の伊達領における地方地行制を規定づける先駆的存在であった。 蒲生氏郷について、『氏郷記』によると会津拝領は天正18年8月9日秀吉会津到着後の同17日とされ、猪苗代・白河・石川・岩瀬・安積・安達などを合わせて都合12郡42万石という。そして家臣諸士への知行割りが行なわれたとされ、その主な宛行の城々は蒲生一門を中心に白河・須賀川・阿子島・大槻・猪苗代・南山・伊南・塩川・津川といった地で、その後二本松と長沼が加わって11城が存置されたとされている(「氏郷記」『改定史籍収覧』第14冊別記類第百八十二・大正13年)。この場合は平均すれば一城あたり3、5万石程度である。このように会津領においては当初から氏郷の自分仕置によって以上の家臣城舘の存置を可能としたと考えられる。しかし実際は支配要地への家臣配置であり、石数で割り切って城舘を存置したということではない。 後述のように翌天正19年には蒲生領では14城が残され(最大三春城52,000石、最小が塩川城の6,000石)であった。一方、新伊達領でも岩出山城以下少なくとも14城は残されたという(小林清治前掲書)蒲生領では郡域を代表した旧城舘が多く含まれ、伊達領でもそうした旧城舘に門閥層が配置された。このように伊達領と蒲生領における天正18年と天正19年における城わりの違いは基本的に認めがたい。 ■ 撫切り令と城館守備 秀吉の有名な撫切りという指令が出されたのは、秀吉会津滞在中のことであった。それは秀吉が仕置に発向する浅野良吉(長政)Iに対して8月12日に指令した朱印状であり「城主にて候ハゝ其もの城へ追入、各相談、一人も不残置、なてきりに可申付候」(『岩手県史』第3巻)という専制者秀吉を如実に宣言した有名な一文である。しかし、木村吉清領におけるそれまがいの占領は葛西・大崎一揆を誘発させ、その結果木村氏を更迭せざるを得なかった。この点を重視すると見通しを無視した対応であった。しかし結果的にこの葛西・大崎一揆の鎮圧において秀吉の撫斬り令を政宗が負う形となり、政宗が秀吉の子飼いになったことは皮肉であった。吉清にせよ一城体制で広大な旧葛西・大崎領を統治できるとは考えておらず、後述のように数多くの旧城に守備兵を配置しての対応であった。北上川下流域の葛西・大崎一揆、そしてそれと連動して起こった北上盆地の胆沢柏山一揆、和賀・稗貫一揆もそうした手薄を衝いて守備兵を殺害し、一時なりとも一揆勢は旧諸城を奪還したのである。しかし、秀吉はそれについて計算済であったかも知れない。 以上のような北上川流域における天正18年一揆の主力は大崎・葛西・和賀・稗貫氏といずれも小田原への不参大名の家臣たちではあったが、その暴動範囲は木村吉清領から南部領の間、和賀・稗貫郡と大体一致していた。その木村吉清は旧葛西・大崎領13郡のほぼ全体を所領とし、自らは葛西氏の登米郡寺池城(登米城)を居城とし、子息清久については志田郡古河城を居城とさせた(『伊達治家記録』)。葛西・大崎の全領13郡の治安においては各所の城舘に守備兵を配属しなければならず、結果として数多くの城舘を存続させる形となった。それには北上平野では胆沢郡水沢城に松田太郎左衛門・江刺郡岩谷堂城に溝口外記(『南部根元記』)といったその家臣配置によって知ることができる。また『岩手県史』は、旧記をもとに東磐井郡の金沢朝日館・峠城・飯倉要害舘・清水出崎舘・中村平館・金森寺舘といった旧集落領主級城舘にまで吉清は家人を在番させたとしている。 ■ 再び「南部内七郡」と和賀・稗貫郡について 前述のように秀吉から撫斬りを命じられたのは浅野長吉(長政)であった。『岩手県史』によると長政の北上平野仕置における滞在は8月17日から約50日間という。しかし後述のように浅野勢の先発隊は7月下旬には到着しており、長政については8月も20日過ぎの可能性が高い。この経過は北上川流域における仕置軍の城わり、また秀吉朱印状の「南部内七郡」に和賀郡と稗貫郡が含まれていたかという点と深く関わる問題であり、そこでここでは再び「南部内七郡」について問うて見たい。 「南部内七郡」に北上川流域部のすべてが含まれていなかったことについては伊達政宗の動向からも解釈可能である。例えば、政宗が小田原から戻り、会津黒川から米沢に移ってまもない天正18年7月7日、三迫岩ヶ崎城富沢日向守直綱へ「和賀・稗貫・南部訖之御意に候」とし、それを「御内意」と伝えた(「伊達政宗書状」『大浪家文書』)。この政宗の密書から推察できることは、小田原において6月段階すでに奥羽仕置による所領分割が取り沙汰され、和賀郡・稗貫郡および南部(この場合は志和郡を指すであろう)については大名所領から除く公算であったということである。すなわちこの密書から政宗がその仕置きについて意見を聞くであろうという秀吉の言葉をまともに受けて気をよくしていた様子を知ることができる。 ところが、秀吉は7月17日に小田原を立って同26日に宇都宮に到着し、そこで政宗に対して長政と木村清久の仕置軍の同道を命じ、南部信直には「一 南部内七郡之事大膳大夫可任覚悟事」に始まる朱印状を与えたのであった。その後、政宗は和賀(信親)と稗貫(輝家)に対して「今度之御仕合。御覚悟之外(中略)。並天下之御事。無是非候。此上於我等全無疎意之間。猶亦浅弾方江も涯分可申計候。巨細両使江相含候」(天正18年8月3日「伊達政宗書状」『和賀稗貫両家記録坤』・『北上市史』第2巻から)と書き送っている。すなわち和賀・稗貫の進退については浅野弾正方と相談するように両使(白石宗実と屋代景頼という。『北上市史』)に詳しく話しておいたからというものである。このことは和賀・稗貫に対する采配は政宗の手から離れたことを示しており、富沢日向守に書き送ったような思惑は大きくはぐれたということである。 奥羽仕置によって滅亡寸前の和賀信親と稗貫輝家は藁にもすがる思いで政宗に対して懇意を示さねばならなかった(天正18年8月16日「和賀信親書状」同「稗貫輝家書状」『伊達家文書』)。しかし頼るべくは政宗だけでなかった。特にも和賀・稗貫側において仕置の采配は政宗でないことは8月3日の「伊達政宗書状」以前に知り得ていた。それは7月19日の浅野平右衛門次吉から和賀氏に対する書状(「浅野次吉書状」『和賀稗貫両家記録坤』)から伺い知ることができる。それには「然者稗貫殿江刺方被仰合候て。南部御働尤に存候。弾正も近日其地へ陣参被申候間。勝左と申合候て御身上之儀不可有疎意候」とある。すなわち浅野次吉は稗貫氏が江刺氏と相談して南部氏に仕官を働きかけることは尤もであり、弾正も近日中にそこに陣参するから、浅野勝左衛門と相談して身上を粗末にせず、身を立てる時であると諭したものである。さらにこの書状には稗貫氏と相談するにしても和賀殿の才覚次第であると追記されている。こうした浅野側からの書状は南部側との結びつきを前提に送ったものと判断される。したがって宇都宮での「南部内七郡」について「和賀」「稗貫」を含むもので無いことを南部側は承知していたというべきである。このように「浅野次吉書状」は和賀郡と稗貫郡について浅野勢が駐在して直接管理することを物語る史料として注目できる。浅野平右衛門次吉は浅野十人衆の一人であり(『北上市史』)、和賀氏と稗貫氏についてもその対応を心がけたことも明らかである。 『祐清私記』(南部叢書三)の天正18年7月27日の条に「一 天正十八年御壱領之内和賀・稗貫其外木村伊勢守領江刺伊沢」と記録されており、和賀・稗貫を「御壱領」、すなわち秀吉領と表現したものと考えられる。この日付は何を根拠としたか不明であるが、翌日の7月28に和賀郡の簡治部助が浅野六右衛門に対して和賀氏の先祖について口上しており(「簡治部助口上控」『簡文書』)、すでに浅野勢が和賀・稗貫に駐屯していたことは明らかである。前述のように長政の和賀・稗貫郡への到着は8月に入ってのことである(『伊達治家記録』では8月22日登米寺池に看陣という)が、『南部根元記』や『奥南旧指録』によると、長政は鳥谷ヶ崎に下着し、ところどころに代官・目代を差し置いたとある。具体的には水沢に松田太郎左衛門、江刺に溝口外記、鳥谷ヶ崎に浅野庄左衛門、その他、大光寺(大興寺)や寺林に目代を配置し、二子城に後藤半七を置いて郡邑の下知を司らしたとある。 奥羽仕置軍の別動隊であった浅野長政については検地を担当した人物として評価され、それがまた奥羽仕置の基本方針であり、和賀・稗貫においても検地が行われたとされている(渡辺信夫「天正18年の奥羽仕置令について」『東北大名の研究』戦国大名論集2・昭和59年)。しかし、検地とともに自ら駐留する郡域の旧城舘に代官・目代を配してその郡政にとりかかったという伝えは、長政が直接統治したということである。この点について『南部根元記』には「志和郡より北筋は南部領なれば代官差し置かず」とある。『南部根元記』作者は志和郡から以北を南部領、すなわち豊臣秀吉の朱印状の「南部内七郡」と解したものと思われる。しかしその志和郡についても南部領として明確に承認されていたかは前述のように不明である。このように「南部内七郡」とは範囲を確定しての表現であったとは認めがたい。もし志和郡であれ、南部領として従来から正式に承認されていたとすれば、不釆方城や高水寺城の存置について48ヶ城注文ほどに及び腰であったとは考えがたい。 ■ 『済実録』に伝えられた天正18年の和賀・稗貫 広島藩主歴代世紀である『済美録』(広島藩の修史事業による藩主歴代世紀)の太祖公済美録・初代長政)は、浅野勢が和賀郡と稗貫郡に現地入りした当時の実録を含む考証であり、和賀・稗貫郡の位置づけについては必見の記録である。それには木村伊勢守について、長政(「長長」とあり「長政」の誤り)と談合して大崎・葛西・和賀・稗貫に子城を13ヶ所構えたとある(また別伝記では木村は大崎・葛西・和賀・稗貫に一揆があることを察し、13ヶ所の子城を構えたという)。それぞれの名称は不明であるが、その1ヶ所は天正20年の48ヶ城注文で破却の対象とされた「鬼柳城」である。すなわち木村領は葛西領を越えて和賀領まで食い込み、その北端の守備として「鬼柳城」が選ばれたことになる。ここを木村家人の松田久左衛門が守り、浅野長政の家人友松左衛門・近藤甚八を目代と為したとある。このことは「鬼柳城」には木村勢と浅野勢が駐在したことになるが、木村方が軍事を、浅野方が支配方を担当したことになろうか。一方、48ヶ城注文の鳥谷ヶ崎城である「稗貫継城」には浅野勝左衛門・伴彦左衛門・福井勘大夫・鮫江権右衛門・後藤四郎左衛門・加藤源蔵・河原庄八・石田才蔵・内田半七郎・赤井朱谷・細弥市河・河崎太左衛門等二十人余りの浅野勢が守備にあたっており、ここには木村勢は加わっていない。その「川崎多左衛門覚書」によると、「日七月下旬八月へ入奥州会津迄上様御出馬。弾正様ハ白川ヨリ直に奥へ御入。被成大崎笠井御仕置被仰付。木村伊勢守殿に御渡し南部境内和賀ひゑの木迄被成御座。此両郡ハ木村伊勢守殿南部大膳殿と諍フ之郡に付御引付之子細罷也。云々」とある。この『済美録』(466巻)は寛政12年(1800)から調査収集が始められ、完成は明治という(『広島県史』近世資料編)ものであるが、以上の「川崎多左衛門覚書」は真蹟だとある。したがってこれを信じれば、和賀・稗貫までは木村伊勢守に渡されたとも解釈でき、一方、それは境界域であって信直と伊勢守(吉清)が争論する地であったと解釈できる。浅野軍の進駐は木村氏の入部以前であり、よって南部氏と木村氏の争論があったとすれば、木村氏が長政とともに下着後となろう。それは葛西・大崎一揆や和賀・稗貫一揆以前の天正18年9月前後となるが、秀吉の定めがあるまで長政預るとあり、争論の具体的内容は『済美録』に記されていない。 天正18年の和賀・稗貫一揆について南部側の記録『奥南旧指録』には「天正十八年十月二子の城代後藤半七を討取、同二十八日、十八ヶ崎の城代浅野庄左衛門を攻囲む」とある。ところが『済美録』に二子城も後藤半七なるものも記されていない。『奥羽永慶軍記』でも奥羽仕置の戦場としてやはり二子城を伝えており、一方、南部側の記録に「鬼柳城」は認められるが、以上の内容は伝えられていない。よって「川崎多左衛門覚書」において「鬼柳城」と「二子城」を混同したかとも思われるが、鬼柳から鳥谷ヶ崎まで行程五里(約20km)ともあり「鬼柳城」への定番は否定しきれない。それについて『済美録』には10月15日に葛西・大崎一揆が勃発し、同17日和賀郡一揆となり、鬼蜘城が攻められ、籠城した上方勢は6?70人ほどであったとある。また「浅野考譜」では稗貫城(鳥谷ヶ崎城)の守備は目代浅野勝左衛門ら20余輩いう。当初川崎多左衛門は鬼柳城に配属されており、その時の戦いでは三の丸・二の丸・本丸と攻め落とされ、友松左衛門・近藤甚八等は討死し、松田久左衛門と川崎多左衛門は上下14?5人となり、力戦したものの、久左衛門は水沢の兄太郎左衛門の下へ、多左衛門は主従3人で勝左衛門の鳥谷ヶ崎城に駆け寄ったとある。鳥谷ヶ崎城では本丸は勝左衛門、二の丸は伴彦左衛門ら11人が守り、18日から一揆勢の攻撃となり、本丸は塀と矢狭間が取り巻き、城は要害堅固であったとある。ところがその後の伝えは南部側の伝えに詳しく、多勢に無勢で籠城となり、信直は500余騎でもって勝左衛門等を救出したとされている。 以上のように『済美録』も南部側諸記録もこの年に和賀郡や稗貫郡での一揆発生を伝えたが、前記のように『済美録』はそれを予想して木村・浅野勢は13ヶ所の子城を構えたとも伝えた。そのうち和賀・稗貫分は何ヶ所であるか不明ではあるが、これについて『岩手県史』第3巻は鳥谷ヶ崎城・二子城以外に「寺林・十二丁目・江釣子・鬼柳・岩崎・新堀・大迫・安俵・立花の諸城にも諸士を配した」が事蹟は埋滅していると断じている。しかしこの見解は翌年の48ヶ城注文における和賀郡の破却分に「立花」を加えたに過ぎない。それでも『八戸家伝記』にも「時に長吉、代官目代ヲ所々に居エ置ク」とあり、『岩手県史』も和賀・稗貫は秀吉政権の直轄地であり、その駐在官として城代・目代が配置されたという見解に至ったのであろう。しかし『済美録』にも南部側記録には和賀・稗貫郡が秀吉の直轄地であったといった記述は存在せず、長政の代官目代が方々に置かれたことということにおいて一致している。こうした状況から考えれば、天正18年において和賀・稗貫郡には秀吉の城わりは適用されなかったということである。 鳥谷ヶ崎城に配置された浅野勝左衛門は前述のように和賀・稗貫一揆で信直に救出されたが、それまでは浅野勢に南部勢が加わるということは無かった。すなわち浅野勢が駐留し、その勢を目代としたほどに両郡は南部氏の関与する地ではなかった。一方、三戸城周辺にあって九戸政実の反乱が十分予測される情勢に至っていた。それにも関わらず信直には鳥谷ヶ崎城に援軍を送るという余裕もあったことになる。その戦いで和賀・稗貫勢が二子城を本拠にしたことは十分に考えられ、南部側の二子城に関する伝えも誤りとは考えがたい。この年は来春の再攻撃を期して信直は勝左衛門とともに三戸に帰陣となったわけである。この功績こそ和賀・稗貫郡が南部領となる要因ではなかったか。一方、政実は19年の正月の慶賀にも参上せず、『南部根元記』によると3月13日には九戸党が一斉に蜂起して、一戸城・伝法寺城・苫辺地城を襲撃したとある。これが九戸城での戦いの前哨戦であった。しかし、朱印状の下賜(7月27日)からそれまで7ヶ月以上の日数を経過しており、その間において鳥谷ヶ崎城への出陣を考えれば、信直は政実のみに翻弄されていたとは見なしがたい。その前後には自領での検地や三戸城下の整備にとりかかり、九戸党の蜂起をもって上方に援軍を求め、さらに前田利家に領知安堵を求めたとても不思議はない。 ■ 天正19年の伊達領における奥羽再仕置と城わり 伊達領において城わりの状況を伝えたのは前述の天正18年秋「伊達政宗覚書状」(『伊達家文書』)であるが、その実行は不明であり、その国替え等の問題からすれば、やはりその実施は葛西・大崎がその領地として認められた天正19年のことと考えられる。すなわち政宗は天正19年6月20日の朱印状をもって「葛西大崎悉平均に申付、立置候城々、伊達侍従申次第に城数余多無之様相究、普請申付、其外城々可令破却事」(『伊達治家記録』)と命ぜられたことが特筆される。このことは昨年の「悉破却仕之事」という厳命とは大きく異なり、葛西・大崎一揆の鎮定を兼ねて旧葛西・大崎領への転封とした政宗に対して城わり令を相当に緩和し、しかも政宗の意向を受け入れるというものであった。しかし、これに対して同年7月15日の浅野長吉書状(『伊達家文書』)は、政宗に対して「所々城々之儀ハ、何も御わらせ候て可然存候、つかい々に被立置候ハて不相叶、二三ヶ所も御人数被入置候て尤候、何も以相談、所を相定可申候」と、存置については二三ヶ所にして、それらについても自分と相談するようにと忠告している。こうしてみると、奥羽再仕置での城わりについては秀吉より長政が積極的であったかに見える。ところが、各文書に知ることのできる存置城舘は、仕置軍側による普請例だけでも、徳川家康による政宗居城の岩出山城、石田三成による気仙城・大原城、大谷吉継による江刺郡の岩谷堂城(江刺城)・胆沢郡の水沢城、上杉景勝による胆沢郡大林城と、当初から二三ヶ所を有に超えていた。そのはか家康は佐沼城や亘理城も普請した(『伊達治家記録』)と伝えられており、長政の政宗に対する忠告はほとんど意味を持たなかったことは明らかである。 伊達領となった気仙城・大原城を普請した石田三成の政宗に対する書状が当時の城わりの実態を尤も具体的に伝えた。それは「御内々候者無御隔心」と前置きし、「当地之儀者可令破却之旨、従中納言殿仕御理之旨、立木壁儀者払申候、於家之儀不損様可申付候、御手前御普請人遣於無之者、彼家之事こふち、何之地迄成共、為此方人数相届可進候、無御隔心可承候」(『伊達家文書』・天正19年9月22日「石田三成書状」)と申し送っている。文意は、「当地については原則どおり破却せよとの中納言(豊臣秀次)の指令であり、それをもって立木や壁はとり壊させました。家・矢倉については岩出沢(岩出山城)に移したいということは尤もなことであり、そこで家の解体については壊し損じないように命じました。もしそれに要する人足を出すことが無理であれば、こちらで解体し、何処なりとも運び届けましょう」と言った内容である。また、「気仙・大原両城守備の留守居は少ないので、五百・千にも満たないが自分の手勢を残留させ、政宗の派遣した物主衆に従うことを堅く命じた」といったことも付け加え、極めて親切である。まさに「伊達侍従申次第に」という秀吉の意向に沿った形ではあるが、この露骨な親切は、見方によっては政宗に対して恩を施して置こうとする仕置軍側一武将の意趣として理解できる。彼等の行動は、豊臣権力が城館を普請して政宗に預けるという任務を果たしただけではなく、政宗と付き合いをするその大きな布石として存置の普請にあたったのであった。 葛西・大崎領における破城や存置城館に対する普請の指令は、三迫に駐留した中納言秀次であったことは江刺城を普請した「大谷義継書状」(伊達家文書・天正19年9月22日)から明らかである。しかし、この秀次から伊達領に何ヶ城存置せよ、といった指令は認められず、秀次の立場も長政と同じく「つかいの被立置候ハて不相叶」と、最小限「二三ヶ所」に留めようとしたであろう。家臣知行地の持城として認めるといったことであれば城わりの意味を持たないからである。しかし、政宗にとってまず家臣たちへの所領分割が先であり、その上で存置する城館を確定しなければならなかった。それが現地を統治する側の現実であり、蒲生領・伊達領・南部領とて同じであったに違いない。豊臣政権が何ケ城と決めてそれに従うことができるならば別である。 南部領における城わり(破却)が天正18年に未着手であったとすれば政実らの反体制勢力の不穏さにあっただけでなく、味方の地方知行解体への反対といった抵抗も憂慮の一因であったろう。こうした状況にあって城わりについては、破去令の原則を通そうとする浅野長政と、新領統治の立場にあった蒲生氏郷を比べれば、信直は氏郷に親近感を持てたと思われる。長政は信直に対する所領が確定しながらも不来方を府城にして問題ある高水寺城はとりあえず遠慮すべきことを諭したのであった。一方、氏郷は会津・仙道の自領と同じく適地配置の家臣持城による要所守備を支持し、12ヶ城程度の存置の可能性を信直に助言した、そういった違いが考えられるからである。 おわりに ・ 「南部大勝大夫分国之内諸城破却共書上之事」の信憑性について 本論の結論として「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」として残存する文書は草案の写しと判断せざるを得ず、しかもそのとおりに城わりが行われたかは不明である。よって史料自体としての信憑性については過大視できないと言わざるを得ない。またその正文にしても、提出の目的は前年(天正19年)に氏郷から指示を受けての結果報告であり、実際には福岡城・三戸城以外に南部側が仮想した破却と存置の暫定リストであったということである。しかも伝えられた写しも複数系統となり、それらの中で最も流布した『聞老遣事』の列記タイプより『篤焉家訓』の箇条書タイプがより底本に近いと判断できた。ところが『篤焉家訓』にあっても不破12ヵ所は未確定であり、48ヶ所に対する書き順や所在地名の文字使用に統一性のない簡略な筆記であり、「唐之供」では不在中の人物も署名しているといった矛盾を含むものである。また原本が草案であったということについては「唐之供」と関わるさまざまな矛盾もさることながら、署判欄に明朝体の花押を後に書き入れたと判断せざるを得ない点も大きな理由である【 注 】。 これまで南部諸城破却書上については、その日付が天正20年6月11日と明記されていることから、その年代の希有の史料として高く評価されてきた。ところが前述のように、実際は全く忘れさられていたものが突如見出されたように江戸時代後半に至って各誌に取り上げられたものである。花押からしても当然に偽書として疑われて然るべき代物ではある。しかし本文で詳述したように、書上自体は後世に誰かが巧妙に作成したといった可能性は低く、またその必要性も認めがたいと判断できた。それにも関わらずなぜ長い間不出であったかということは、保管については当初からその程度のものだったということである。すなわち豊臣政権の指令に基づくといった大げさなものではなく、形式どおり蒲生氏の代官に提出した事後処理としての書上であり、しかもその草案であって廃棄されるべきものがたまたま残されていたということになろう。 36ヶ所という破却の実施については、それら全ての城館跡を個々に検証することは出来ないが、それについても額面どおり行われたとするに根拠不十分なことは本文で述べたとおりである。八戸城(根城)の場合は発掘結果から明らかにされた唯一の例であるが、この場合とて礎石建ての建物が出現するなど、屋敷構えとしての再普請であり、家中屋敷も継承されており、「廃城」と呼べるかという疑問もある。その他、遠野の横田城については当時の状況からして浅沼(阿曽沼)氏追放という恣意的面も否定しがたい。一方、仕置軍に対する抵抗勢力として一掃された和賀・稗貫郡の諸城舘や、九戸一揆ですでに壊滅した諸城舘も破却の対象とされており、全体的にみればやはり数合わせの恣意的な書上であったと言わざるを得ない。すなわち破城36ヶ所とは総じてそれぞれの地域で目立った城舘が選ばれたに過ぎないということである。また破却代官がどのように選定されたかも問題であるが、その方法については火を放っても破却であり、対応は様々であったろう。 前述のように48ヶ城注文の12ヵ所存置については、政治・軍事・交通などから、特に北上川平野部のそれについて吟味されたことは認められた。しかし破却を含めた諸条件を勘案すると12ヵ所の存置についても机上プランであった可能性は否定しえない。よって朝鮮出兵を目前とした信直にとっては天正18年以来の破却令に対する暫定的な処置であったに違いない。すなわち全領域の数多を「48」とし、その4分の1破城に対して3分の1)の「12」を不破とすることをあらかじめ決めての計画であった。その中で八戸城がなぜ破却の対象となったかという疑問とともに、存置についても鳥谷崎城以外の全てが絶対的必要性を有したとは認めがたい。第1に12ヵ所の存置に対して誰が認知するものであったかということである。それに要した書上という以上に、氏郷承知としての報告に過ぎなかったということである。不釆方の本城化については浅野長政を通じて可能とするという腹算用があったろうし、当面の課題としては鳥谷ヶ崎城の築城を可能とすることではなかったか。すなわちこの注文で注目すべきことは「南部七郡」の中に稗貫・和賀郡が加えられたのは天正19年も後半であり、信直はそれによって全体統治の見定めを可能としたことであり、『岩手県史』のとおり南部領における家老体制と代官制度の始まりとしてその意義があろう。 草案段階の48ヶ城注文と、提出されたであろう正文にどのような違いがあったかは不明である。正文とて鳥谷ヶ崎城の存置に重点が置かれ、不来方城はさりげなく、信直の意趣によって高水寺城が埒外とされたことは確かであろう。最も疑問に思う横田城や七戸城の破却を正文において取り下げていたとしても、代わりに12ヵ所とする上での破却対象を選択せざるを得なかったわけである。よって横田城や七戸城を破去としながらも信直が名護屋から帰国して全体的に見直し、盛岡城(不釆方城)・高水寺城を含めて、横田城、七戸城、厨川城などが取り立てられたのである。西国で得た知識も加わったであろう。すなわち12ヵ所の存置は信直の帰還後にまもなく大きく変化したわけであり、それまでに対象とした問題の城郭にどの程度の破壊を加えたかは疑問である。またその後の変更ゆえに48ヶ城注文の正文に対する控え(案文)があったとしても廃棄されてしかるべき性質のものであったに違いない。秀吉政権に提出を要した書上であったとすれば、存置の変更もままならないわけであり、しかもその重要文書が江戸時代後半まで関係者の誰の目にも入らなかったということは有り得ないことである。すなわち12ヵ所存置を正式に可能としようとすれば、何よりも秀吉政権から了承を必要とした筈である。「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」とはそうした性格の文書ではなかったということである。 ・ 「豊臣秀吉朱印状」の「家中之者共相抱諸城悉令破却」についての 歴史的評価について 次に、天正18年7月27日付けで与えられた「豊臣秀吉朱印状」の「家中之者共相抱諸城悉令破却、則妻子三戸江引寄可召置事」の評価については、家臣の「抱城」を悉く、すなわちすべてを破却せよと読めるとしても、「城郭」全てを破却せよという厳命でも、三戸城一城のみ存置せよという厳命ではなかったということが第一の留意点である。 これまで奥羽仕置で東北地方の分国に対する一城令とも見なされてきた秀吉の朱印状は同じ戸沢氏への朱印状に「分領城共悉令破却、居所可為一城候」の「一城」をもって概念化されてきた面が強い。それがまた秀吉による支配体制の原則であったように考えられ、多数存置されたことは結果的にそれが徹底できなかったとして理解されてきた。しかし厳密に言えば戸沢領とて一城は居所(府城)ということであり、街道などの守備に要した出城まで破壊せよといった厳命であったかは不明である。特にも伊達領・蒲生領・最上領などといった大名領に対して一城制が指令されたとは認めがたく、秀吉朱印状をもって一城令の始まりとする概念は問い直さねばならないのではないか。戸沢領を例とした推測ではあるが、秀吉政権において大名領の居城について4万石前後に一城程度は許容範囲と認めていたのではあるまいか。南部領においては三戸城以外に福岡城が普請されたことにもそれが考えられるからで奉る。すなわち各朱印状の「悉令破却」についてはその量・数を言葉どおりに限定したものではなく、撫切り令と同じく秀吉自身の洞喝であり、その威圧を示したと理解する。 秀吉から葛西・大崎領を拝領した木村吉清などは最も不安定な統治の始まりであった。彼はその虎の威を借りて墓穴を掘ったと言うべきであり、伊達政宗は結果的に秀吉の策略に載せられて撫切り令を代行した人物であった。すなわち秀吉(権力側)はその手を汚さなかったのである。秀吉は残党および民衆の抵抗はいかなるものか承知していたわけで、奥羽については「夷を以って夷を制する」の手段を持ち得たとも評価できよう。言うなれば結果として一度それに対する抵抗を噴出させ、徹底して殱滅するという二段構えの中に奥羽仕置はあった。 伊達領や南部領については城郭について「悉令破却」を命じ、木村吉清領については氏郷と政宗を後詰として位置づけたわけであるが、吉清にしてみれば要所々に兵を分駐させ、反乱防止に対応しなければならならず、諸城を「悉令破却」するといった状況になかった。このことは南部領を含めて秀吉側が十分承知だった筈である。浅野長政にしても鬼柳・二子・鳥谷崎に兵力を分駐させ、『岩手県史』が述べるようにその他の要所々の城舘に兵を駐在させたことは確かである。一方、戸沢領のように天正18年段階に命令に即して35ヶ城を破却し、対して南部領は不穏で全く実行できず、翌年九戸一揆が平定以後にようやく実施に至ったという極端な違いは何によるか。この点について宮古地方の中世史『古城物語』が述べたとおり、信直には七郡の諸城を破壊するなどという力は全く無かったという評価も誤りでないかもしれない。しかし、そのように割り切ってよいかも疑問である。すなわち「悉令破却」について南部信直勢がどれほどの厳命として受け止めていたかが問題である。 南部領においては九戸一党の本格的蜂起まで7ヶ月以上の時を経過していた。その間には城わりに対する自分仕置の許容という変化があり、不服従側に対して「破却」ということのパフォーマンスを示す八戸氏のような信直支持者も出現したのではないか。そうした過程を経て天正19年の奥羽再仕置があり、天正20年の48ヶ城注文があったと見るならば、奥羽再仕置こそ南部領に対する特筆すべき政治的介入であり、これが南部領の近世のはじまりといっても過言ではないであろう。すなわち「悉令破却」の現実性のなさが周知されるとともに、天正18年の破却令に対する一応の事後処理を必要としたであろう。このような経緯からすれば、天正18年の秀吉朱印状はこの地方における城わりの原点であったとしても、その「悉令破却」が年を越えて厳守され、「南部大膳大夫分国之内諾城破却書上」に至ったという理解は見直すべきだと考える。 |