高橋 たかはし

高橋儀助家 200226

 明治元年の支配帳高橋儀助家がある。『参考諸家系図』によれば、高橋与四郎盛時を遠祖とし、その四代の孫高橋四郎左衛門盛方の二男高橋市右衛門盛吉を祖と伝えている。盛吉は享保七年に盛岡を出奔、のち本多伯耆守正珍(駿河田中城主・四万石)に召抱られ二十人扶持を禄した。のち宝暦五年金地院住持の推挙により恩赦を受け、江戸上屋敷に召出され、十人扶持を禄して奥使となった。同年留守居見習となり、参考諸家系図によれば二十人扶持に加増されたと見える。しかし、同五年と推定される支配帳には十人扶持とあり、その後の支配帳は何れも十人扶持とある。この間の事情は未詳である。明和五年盛岡で死去した。その跡を明和六年に牧田四郎右衛門盛治の三男平作(のち市右衛門)盛征が相続、天明五年死去した。その跡を市右衛門邦昌が相続して天保九年に死去。その跡を操(のち市右衛門)が相続した。先供となり、のち作事奉行を勤中の嘉永七年に、藩主利済が幕府の叱責を受けて江戸下屋敷に謹慎をした時、家老横沢兵庫等と共に隠居逼塞となった。明治二年死去。その跡を嘉永七年に嫡子操邦彦(のち孫次郎、市右衛門、海野邦彦)が相続、この時、父の罪により十人扶持の内三ヶ一取上、砂六分六厘七毛六人扶持(高三十六石六斗六升七合)となった。号を梅岳といい、画を以て業としたが、天保の支配帳には先供と見え、その後小納戸を勤めた。初め藩より勝川法眼雅信の画塾に入門を命ぜられたが、自記によれば、岸岱と豊彦に学び、「元明の古蹟を模倣し今また円山応挙の画風を慕う」たという。岸派のような疎放な作よりも、写実を旨とした遺作が多い。また書を好み、初め松本董斎に、のち巻菱湖に学んだ。細楷は秀麗であった。隠居の時期は未詳であるが、明治十年に死去した。文久元年には既に嫡子虎五郎善行(のち譲助、哲郎、儀助、海野善行)が相続。明治二年に隠居して同十二年に死去した。その跡を二弟孫次郎融が順相続。家督後間もなく海野に改姓、海野 融と称した。明治十一年の士族明細帳によれば、鵜飼村(岩手郡滝沢村)七十四番屋敷に住居と見える。三岳と号し、岩手洋画の先駆者であった。画家を志ながらも勉学に上京する資金はなく、盛岡に滞在していた高島嘉右衛門に父の縁故で訴え、伴われて神田錦町の宮本三平に入門、洋画を学ぶことができたという。明治十四年盛岡に帰り、のち岩手中学校(県立盛岡第一高校の前身)の教師となり、同時に洋画を志す後進の指導に当たった。明治四十四年死去した。その跡を忠次郎、精と相続、当主の幸子氏は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の久昌寺にある。



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