海野梅岳

人物志 190901

 梅岳は通称操、もと高橋氏を称した。市右衛門邦好の長子として生れた。のちには画を以て業としたが、天保の支配帳には御先供とある。十三四年の頃のようである。
 はじめ勝川法眼藤原雅信に学び()、のち岸岱()の門に入った。梅岳が邦彦と云ったことから、豊彦を学んだとも云われるが()、梅岳の自記()には名邦彦、字梅岳、号梅雲、通称操とある。また字を士直とも云ったようである。雕岳・梅軒・梅翁・菱田とも号し、永寿堂・象形館・清香庵・画雲楼・梅山人・書画斎の室号があったが、多く梅岳と著している。
 梅岳の遺作を見るに、まゝ岸派のような、疎放なものもあるが、多く写実を旨としたようである。自ら「元明ノ古蹟ヲ模法シ、多ク沈石田・李迪・沈南蘋等ヲ慕ヒ(中略)今又圓山應挙ノ画風ヲ慕フ」と記してあるように、諸家のものを摸写した。狩野派・四条派のよい作品もある。應挙・景文などは、逼真の妙があるものがある。故山本縁氏の梅花双幅、久昌寺の猿廻しなどは尋常の作であるが、山本氏の傾城図大幅や、久昌寺の虎、そののこされた草稿()などに見ても陰影色彩は用意の見るべきものがある。また肖像肖像画をよくし、文久元年秋田に遊び、需めに応じて多くの傑作を遺した()。
 県社八幡宮に猛虎の横一間半許りの大額があったが、明治十七年の大火に焼失し()、鹿角大日堂にも虎の図が有名な月嶺の牛の図と並んで掲げられてあったが、大正の頃には己に何れに行ったがないよしである。 梅岳は書を好み、はじめ松本董斎に、のち巻菱湖に学んだ()。亀田鵬斎を模した屏風一双、福岡の某氏に蔵しているよしである。()楷行草いずれも能くせざるなかったが、細楷はことに秀麗であった。明治十年六月十五日五十六歳で歿した。法名清庵浄圓梅岳居士、墓は寺の下、久昌寺にある。
 次子の融は三岳と号し、中学校の教鞭をとった。梅岳は高嶋嘉右衛門と特別の関係があったゝめ同翁のもとに数年寄寓し、その間に神田の宮本三平に就て洋画を学んだ()。その頃描いた自画像はいま久昌寺にある。明治初期洋画の面影を見るべきものである。


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