日戸 ひのと |
日戸宇右衛門家 200630 |
明治元年支配帳に日戸宇右衛門家がある。『参考諸家系図』によれば日戸内膳直秀の次男正兵衛秀親を祖と伝える。秀親の続柄については異説があり、内膳秀武の三男で、その嗣直秀の三弟とする説もある。秀親は南部重直の代に召し出されて地方百五十石を知行、花輪通代官を務め、延宝八年に切添新田十三石余加増で高百六十三石余となった。『系胤譜考』によれば、秀親の跡を嫡子正兵衛説秀が相続、元禄八年死去した。一方、『参考諸家系図』は秀親の跡を勘十郎秀久、その跡を【一】の日戸五兵衛直秀の次男正兵衛秀親、その跡を嫡子正兵衛説秀が相続したと伝える。ただし『系胤譜考』が伝える初代秀親の事跡と、『参考諸家系図』が伝える三代秀親の事跡は同じであり、同一人物と理解される。この両書の混乱は別として、秀親の跡を継いだ正兵衛説秀の跡は黒沢伝兵衛定治の次男宇右衛門正元が末期養子となり相続。享保十年に現米七駄片馬十二人扶持を加増、百六十三石三十二駄片馬十二人扶持(高三百石)となり、者頭・用人と務めて宝暦三年に死去した。その子手伝治秀之(のち勘十郎・宇右衛門)は者頭を務め、明和元年死去した。当時の地方百六十三石は沼宮内通松内村(盛岡市)などに知行した。その跡は正元三男十内秀親(末期養子、寛政二年隠居、享和三年没)━宇右衛門秀職(文政元年隠居、健暗と号した、天保七年没)━脇之助秀親(のち勘十邸、同名日戸右衛門の弟、先手役・者頭、天保二年隠居、同十五年没)━宇右衛門(先手役、明治三年隠居、貞衛と号した)━唱(部屋佳で座敷奉行、維新後南部利恭家従)と継いだ。その跡を明治十年の士族明細帳では秀親が相続とあり、同十一年の明細帳では同年に秀益の叔父秀興が相続、住所は加賀野村(盛岡市)五十八番屋敷と見える。唱および秀興は兄弟、秀興を叔父とする秀益は唱の嗣子秀親と同一人と思われる。秀興の跡を秀男が相続、その跡を継いだ鎮夫はブラジルに移住した。歴代の墓地は盛岡市の永泉寺にある。 諸士リスト(は行) 盛岡藩士の家系メインリスト |