毛馬内 けまない

毛馬内左門家


明治元年支配帳に高知・毛馬内左門家がある。『参考諸家系図』によれば、毛馬内九左衛門長次の養五男九左衛門長囿を祖と伝える。長囿は実は長次の孫で、かつ毛馬内三左衛門次自の二男である。初め用松と称し、次いで九平次、九左衛門、蔵人、内蔵と改称した。延宝元年に祖父長次の隠居養子となって、その隠居料三百石を相続、志和郡黒川村(盛岡市)に采地を食邑した。花巻郡代、用人を歴任して元禄十五年国家老(加判役)となり用人を兼ねた。当時、他の家老が全て江戸詰であったためという。同年三百石を加増、更に宝永四年三百石を加増され、高九百石となった。同五年病により退役を願い出たが許されず、名を内蔵と拝領した。同八年年頭名代として将軍家宣に謁見した。享保八年隠居剃髪して敬岩と号したが、同十三年中野浄山、漆戸峯青と倶に、藩主利視の近習に祗候を命ぜられ、同十四年老臣に列せられ、生涯寵遇を得た。延享二年死去した。その跡を嫡子蔵人(のち九左衛門、彦右衛門)直道(直員とも)が享保八年に相続、のち世子信視近習となった。同十三年家老(加判役)となり、九左衛門と改めた。同十五年百石加増、千石となった。同十六年及び二十一年に年頭名代として将軍吉宗に謁見した。元文三年家老を退役、者頭となり、延享二年吉宗の嗣・家重の将軍宣下祝儀使者を勤めた。のち中丸番頭を勤め、宝暦五年死去した。その跡を嫡子衛士(のち蔵人)直祝が相続した。明和元年に弟毛馬内佐蔵長照に百石を分知、残り九百石となった。中丸御番頭、天明五年家老(加判役)を務め寛政五年死去した。その跡を嫡子左門(のち蔵人、典膳)直興が相続、中丸御番頭を勤めて、享和元年家老(加判役)となり、御銅山御用、蝦夷地御用懸、御勝手御用懸等を担当した。文化十四年典膳と名を拝領、文政八年金方二百石を加増、千百石となった。藩主利済を擁立した功績と伝えられている。その後同十一年に地方百石、天保四年に金方百石を加増、高千三百石となり、同十年大老(加判役)となった。同十五年松前表警衛を担当、嘉永元年二百石を加増、高千五百石となった。同六年死去した。その跡は、嫡子蔵人直方が部屋住で嘉永五年に家老(加判役)となり、同年父に先立ち死去したため、直興の孫で直方の長男左門(のち典膳)直基が祖父の養子となり、嫡孫承祖した。同年家老(加判役)となり、翌七年典膳と名を拝領した。安政二年退役し、その後御新番組御番頭、加番組御番頭、別段手当御備組御備頭を歴任した。森集亭と号して俳歌を能くした。慶応三年死去。その跡を嫡子左門(のち繁条)直恭(のち直章)が相続した。その跡をタマが相続して家名が絶え、その女で旧盛岡藩士桑田の権利継承者は京都府に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山聖寿寺にある。高千五百石の内地方千石の采地は、二百八十石余を上田通黒川村(盛岡市)に、二百一石余を長岡通西長岡村に、六十八石余を同通草苅村に、百石を同通星山村(以上紫波町)に、百五十石余を安俵通矢沢村(花巻市)に、百石を大迫通亀ヶ森村(大迫町)に、六十六石余を大槌通舟越村(山田町)に、十二石余を雫石通上野村に、二十一石余を同通雫石村(以上雫石町)に食邑、残り三百石は金方で食禄した。

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