北 きた 

北松斉信愛の末裔


『参考諸家系図』によれば、南部家二十一代信義の子剣吉左衙門尉致愛を祖としその子が北尾張守信愛と伝える。致愛は信義没後に三戸郡〔青森県)剣吉村に生まれ、外祖父剣吉左衛門五郎に養育された。成人後、二十四代晴政の代に旧地剣吉村ほかを知行し、永禄年間に死去した。その子剣吉彦太郎信愛は剣吉村に生まれ、家督の時剣吉村二千五百石を知行、三戸城の北方に屋敷を持ち北殿と称され、北左衛門佐〔のち尾張守・松斉)と称した。ただし、同書は致愛の信義落胤の話は口外されることなく外祖父に養育されたとするほか、信愛は五男種市新六愛久に対し「種市は我が家の本名にして藤原姓工藤氏であることを子孫に伝えべし」と申し渡したことを伝えている。なお、異説として、当家は信義の弟堤弾正左衛門光康(大光寺氏祖とされている)の子弾正左衛門某とする説、信愛の父を工藤氏の流れをくむ剣吉兵庫愛正とする説も載せる。『系胤譜考』は信愛を信義の子として致愛を載せない。

 いずれにせよ北氏は工藤氏の血族剣吉氏。一六世妃初頭に致愛ヵ、弾正左衛門某ヵ、三戸南部氏嫡流から入って家督を継ぎ一門となり、晴政の時期に信愛が北の名字を名乗った。家中で重きをなすに至った背景には、信直の叔父で、信直を擁立した影の立て役者南長義の女婿となり、晴政と合戦に及ぶなど対立する中で擁立に導いた功労者(『八戸家傳記』等)であったと勘考される。以降、信直の股肱の臣として重きをなした。

 戦国大名が居城の四方に一族の屋敷を与え、これをもって名字とすることは他地域にも見られる。なお、『奥南旧指録』は北氏の遠祖を南部氏の祖光行の孫時実の三男宗実とするが、後世の付会と思われる。同十七年春大光寺左衛門佐光親が出羽比内〔秋田県〕を襲って信直に献じた時、信直から郡中統治をゆだねられ、文禄四年隠居した。慶長三年嗣子で花巻城代の秀愛の死去に際して信愛は花巻郡代となり、和賀、稗貫二郡八千石を知行、その裁断を任された。年代無し三月二十一日付徳川秀忠御内書には南部尾張守と宛名書みえる(『宝翰類聚』)。信愛は同年信直の死去で剃髪して松斉と号した。慶長五年、奥羽仕置で滅亡した大迫旧主大迫右近や葛西大崎の残党、紫波の旧主斯波詮直、和賀旧主の遺子和賀忠親の反抗に花巻城を死守した。同十七年花巻城で死去。花巻の雄山寺に埋葬された。信愛は名跡を願わず死去したため、禄は収められ、祭祀は藩命により三男九兵衛直継が掌った。

剣吉致愛━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
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┣信愛┳愛一 ━━┳直愛        明治元年支配帳 北 主膳
┃  ┃ 北彦助 ┗愛言┳愛元     明治元年支配帳 北守助右衛門
┃  ┣直愛      ┗愛路     明治元年支配帳 梅田文右衛門家
┃  ┃ 北主馬允 
┃  ┣直継━━━━宣継━━可継━━恭継━━節継━━━━━━━━━━━━━━┓
┃  ┃ 北九兵衛 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃  ┃      ┣継坦       明治元年支配帳 南部伊豫
┃  ┃      ┗継賜       明治元年支配帳 七戸求馬
┃  ┃        七戸隼人
┃  ┣愛邦 北内蔵介
┃  ┣愛久━━━━┳定尋       明治元年支配帳 種市勇八家
┃  ┃ 種市新六 ┣愛茂       明治元年支配帳 種市寿太郎家
┃  ┃      ┗愛親━┳愛忠   明治元年支配帳 種市新六家
┃  ┃          ┗愛明   明治元年支配帳 種市門次郎家
┃  ┗直吉 北十左衛門 大坂の陣 大坂城に籠城
┃    実は桜庭安房光康二男 信愛外甥
┗女 桜庭安房光康妻


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