金矢 かなや

金矢正衛家 221116



 明治元年の支配帳に金矢正衛家がある。『南部氏諸士由緒』は金矢丹後光栄を祖と伝える。光栄は先祖より代々稗貫氏に仕え、稗貫郡金矢村滝代に住居し、初め滝代氏を、のち金矢氏を称した。光栄の代に稗貫氏が滅亡し、のち南部利直の代に花巻郡代北松斎に召出され、花巻城に出仕、寛永七年死去した。なお、『参考諸家系図』は、光栄を丹波とするが、『奥南落穂集』なども丹後光栄で散見する。その子主殿光成は初め滝代氏、のち金矢主殿を称した。南部利直の時、願を以て花巻に知行新田百石を知行し、花巻給人に召出された。承応二年に江戸上屋敷二階番として、また正保三年改め並びに慶安五年と伝える支配帳の何れにも花巻給人金矢主殿は散見する。『参考諸家系図』によれば、万治六年に浪人で死去したという。その子与右衛門次光は、藩主重直の代に、更に花巻給人に召出され、現米五駄二人扶持(高二十二石)となった。のち前禄を停めて現米二十五駄(高五十石)となった。寛文十二年死去した。次光に二男があった。嫡子与市兵衛光寿は寛文十二年家督を相続した。二男 与次右衛門光種は藩主重信の時に召出され現米六駄二人扶持(高二十四石)となり、のち組付御免、諸士に列した。光寿は、のち江戸で世子行信の次役となり、延宝八年に十駄、天和二年に高三十石を加増、高百石となった。この時扶持方を地方に色替となった。貞享元年地方五十石、同三年地方五十石を加増され、高二百石となった。その後新田二石二升五合を加増、二百二石二升五合となる。この間に盛岡給人となり、次役、徒頭、長柄奉行、足軽頭、鹿角花輪城代を歴任し、享保二年死去した。元禄七年に御流儀的妙化流砲術師範となり、船越新五兵衛安勝に奥義を伝えた。その跡を甚太郎(のち与一兵衛、享保四年に家督、同十九年に死去)━丹治(享保十九年に家督、明和八年に死去)━丹之丞(のち丹治、宇兵衛、丹治、明和八年に家督相続、者頭を勤めたが、文化八年罪を蒙り、隠居蟄居、文政三年死去)━光僚(初め熊太郎、のち男也、与一兵衛、文政八年家督、次役、者頭、天保十年隠居、同十一年死去)━光端(初め久五郎、のち与一兵衛、天保十年に相続、者頭、明治元年隠居、隠居名老遊)━光海(正衛)と相続した。光海は明治元年家督、炮隊長を勤めた。同十一年の士族明細帳によれば、和賀郡飯豊村(北上市)三十六番屋敷に住居と見える。その跡を七郎が相続、当主の正志氏は山口県に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の報恩寺にある。高二百十二石五斗二升三合は、内、六十五石を二子通飯豊村、七十石余を黒沢尻通長沼村(以上北上市)、三十二石余を福岡通堀野村、十二石余を同通下斗米村、三十一石余を同通野々上村(以上二戸市)に知行した。 二代主殿光成の二男甚七光俊は、寛文十二年に花巻給人に召出されて二人扶持(高十二石)となり、元禄四年死去した。光俊に初め子がなく、長沼平左衛門義治の二男甚十郎光当を養嗣子としたが、その後実子二男覚兵衛光則が出生。光当は分家して現米六駄二人扶持(高二十四石)を以て徒となったが、のち花巻給人の家として明治に至った。明治元年支配帳に金矢巳代治家で見える。一方、光当が分家後に嫡子となった光則の子孫は延宝八年に花巻から徒に召出され、現米六駄二人扶持(高二十四石)を給せられ、天保十一年に手鉾持となった。明治元年支配帳に金矢覚兵衛で見える。


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