石井氏一族 二流 |
石井伊賀の末流・石井豊前の末流 |
参考諸家系図によれば、藩士石井家は二系統ある。 その一は石井伊賀守直光を中興の祖とする家系。 その二は石井豊前を中興の祖と伝える家系である。 ■ 石井伊賀守直光を中興の祖とする家系。 当家は南部光行に従って甲斐から糠部に移った甲州譜代の家と伝える。但、天正八年に三戸城火災の時に居宅類焼により記録悉く亡失したとしている。 伊賀守直弥は南部信直に仕えて二千百石を食禄し家老を勤めた。慶長六年の和賀岩崎陣(主従四十六人)、同十九年の大坂冬の陣(主従四十人)に従軍した。寛永三年将軍家光上洛に際して主南部利直に随って参内、この時朝廷から伊賀守を受領したという。慶安三年死去した。妹閑は利直の側室(香林院殿)となり彦九郎政直(花巻城主)、七姫(藩士中野吉兵衛元康妻)の生母となった。直弥の長男善太夫古光は父と別に五百石を食禄した。慶長十九年南部彦九郎政直に附けられて花巻に従い、その家老を勤めた。寛永三年将軍徳川家光の上洛に際して主南部利直に随臣したが、同年京都で客死した。南禅寺に葬った。嗣子なく禄を収められ、その家名は断絶した。直弥の家督は、嫡子となった次男伊太夫勝光が病身のため退嫡、慶安三年に嫡孫伊賀公光が相続した。この時遺領二千百石は分割され、公光は千五百石を相続し、他は公光の叔父市右衛門好光と、弟山三郎正光が各二百五十石を相続、残り百石は収められた。公光は近習を勤めたが明暦四年乱心の罪により翌万治二年永福寺に蟄居、禄を収められ嫡流は断絶した。市右衛門好光は父直光遺領の内、二百五十石を和賀郡立花村に食邑したが、彦孫甚五右衛門慶光の代に罪を以て収禄、家名は断絶した。石井家は山三郎正光の家を中心に血脈が保たれその分流に正光の次男安右衛門光隆を祖とする家および正光の二弟宗右衛門光綱を祖とする家がある。 石井伊賀守直光━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┣古光 石井善太夫 のち断絶 ┣勝光 ━━━━┳公光 石井伊賀 のち断絶 ┃ 石井伊太夫 ┣忠光 石井伊左衛門 のち断絶 ┃ ┣正光 ━━━━┳照光 明治元年支配帳 ┃ ┃ 石井山三郎 ┃ 石井兵作 石井直人家 ┃ ┃ ┗光隆 明治元年支配帳 ┃ ┃ 石井安右衞門 石井道之進家 ┃ ┗光綱 明治元年支配帳 ┃ 石井宗右衞門 石井 直家 ┗好光 のち断絶 参考諸家系図が掲載する 別本によれば 直光┳光古━━━┳光武 久太夫 ┃ 善太夫 ┗光保 惣左衛門 ┗光親 山三郎 ■ 石井豊前を祖と伝える家系 石井豊前を中興の祖とし(石井左右家の譜を参照)、代々三戸普代の一族と伝える。 石井豊前┳綱長 ━━━━┳綱清 明治元年支配帳 ┃ 石井新助 ┃ 与五郎 石井左右家 ┃ ┗秀綱 明治元年支配帳 ┃ 与三郎 石井八十八家 ┣綱吉 ━━━━┳綱貞 ━━┳綱広 のち断絶 ┃ 石井新三郎 ┃ 新三郎 ┃ 新三郎 ┃ ┃ ┗貞省 明治元年支配帳 ┃ ┃ 三次郎 石井嘉藤治家 ┃ ┗綱吉 ━━━┳綱広 のち断絶 ┃ 五郎左衛門┃ 勘太郎 ┃ ┗綱慶 明治元年支配帳 ┃ 清三郎 石井練蔵家 ┣綱貞 ━━━━元綱 ━━綱亮 ━━┳綱忠 ┃ 三戸御給人 兵九郎 兵九郎 ┃ 宇左衛門 ┃ 石井与三郎 ┃ 明治元年支配帳 ┃ ┃ 石井六郎家 ┃ ┃ 三戸御給人 ┃ ┗某 明治元年支配帳 ┃ 文助 石井野助家 ┃ 三戸御給人 ┗某 ━━━━綱定 ━━当綱 ━━━┳綱盛 三戸御給人 一戸兵部 五右衞門 ┃ 五郎右衞門 石井近藤六 ┃ 明治元年支配帳 ┃ 一戸五右衛門家 ┗綱重 明治元年支配帳 金助 一戸条右衞門家 三戸御給人 諸士リスト(あ?い) 盛岡藩士の家系メインリスト |