南部を名乗る諸家 32 補遺 1【各種南部系図】   尊卑分脈 藩翰譜

                1. 尊卑分脈 南部
                2. 藩翰譜  南部系図
                3. 藩翰譜 (文章系譜)


1 尊卑分脈 南部

   清和源氏
   第三頼儀次男賀茂二郎義綱・三郎義光流

頼信朝臣一男
頼義─────────────────────────┐
┌──────────────────────────┘
├義家  八幡太郎 譜略
├義綱  賀茂二郎 譜・子孫略
├義光  新羅三郎
│    譜略────────────────────┐
└快誉  伊豫阿闍梨 号西蓮房            │
┌──────────────────────────┘
├義業 号刑部太郎──────────────────┐
│┌─────────────────────────┘
│├昌義 号佐竹冠者 佐竹氏祖
│├義定 山本氏祖
│├義仲
│└源尊
├義清 武田冠者───────────────────┐
│┌─────────────────────────┘
│├清光 号免見冠者─────────────────┐
│└師光 方原二郎                  │
│┌─────────────────────────┘
│├光長 逸見太郎 逸見氏祖
│├信義 武田太郎 一条・板垣・武田祖
│├遠光 加賀美二郎─────────────────┐
││┌────────────────────────┘
││├光朝 秋山太郎 秋山氏祖
││├長清 加賀美小次郎 小笠原氏祖
│││
││├光行 南部三郎─────────────────┐
│││   紋松皮九曜星               │
│││┌───────────────────────┘
│││├朝光 南部太郎────────────────┐
│││├実光 南部二郎                │
│││├行朝 南部三郎                │
│││└実長 南部小四郎               │
│││┌───────────────────────┘
││││ 
││││ 【南部氏】
││││ 
│││├時実 南部又三郎───────────────┐
││││┌──────────────────────┘
││││├柾光 南部孫二郎
││││├宗実 南部孫三郎
││││├実柾 南部彦三郎
││││└柾行 南部六郎
│││└宗光
│││
││├光清 加賀美三郎
││├経光 加賀美四郎
││└光俊 於曽五郎
│├義定 安田三郎  安田氏祖
│├清隆 易い四郎  安井氏祖
│├長義 田井小次郎 河内五郎
│├光義 田井五郎  田井氏祖
│├厳尊 曽祢禅師  曽祢氏祖
│├義行 奈古十郎  奈古氏祖
│├義成 浅利余一  浅利氏祖
│├信清 八代余一  
│├義氏 利見余一
│├長義 田井小太郎
│├道光
│└光賢
├盛義 平賀冠者 
├実光 二郎勾当
├親義 岡田冠者
├祐義 刑部六郎
└覚義 阿闍梨     「国史大系」本


2 藩翰譜系図

南部
源義光 新羅三郎──義清 武田冠者──清光 逸見冠者─┐
┌──────────────────────────┘
└遠光 加賀美二郎──────────────────┐
┌──────────────────────────┘
│南部祖
└光行 南部三郎──実光 彦三郎───────────┐
┌──────────────────────────┘
└時寺 又三郎───政光 孫三郎───────────┐
┌──────────────────────────┘
└宗経 彦三郎───宗行 彦五郎───────────┐
┌──────────────────────────┘
└祐行 彦二郎───政連 孫三郎───────────┐
┌──────────────────────────┘
└祐政 彦六郎───茂時 右馬頭───────────┐
┌──────────────────────────┘
└信長 伊豫守───政行 遠江守───────────┐
┌──────────────────────────┘
└守行 大膳大夫入道 禅高──────────────┐
┌──────────────────────────┘
└義政 南部庄司──政盛 大膳大夫──────────┐
┌──────────────────────────┘
└助政 与二郎───光政 彦三郎───────────┐
┌──────────────────────────┘
└時政 彦三郎───通継 彦三郎───────────┐
┌──────────────────────────┘
└信時 左衞門佐──信義 修理大夫──────────┐
             早世            │
┌──────────────────────────┘
└政康 右馬頭───安信 右馬亮───────────┐
   実信義弟継兄家                 │
┌──────────────────────────┘
├晴政 彦三郎───晴継 彦三郎 早世
└高信 左衞門尉───────────────────┐
┌──────────────────────────┘
└信直 大膳大夫───────────────────┐
    慶長4年十月何時か卒 五十四歳        │
┌──────────────────────────┘
└利直 ───────────────────────┐
   信濃守 従五位下、文禄四年叙任         │
   寛永三年八月十九日従四位下           │
   同九年八月十八日卒 五十七歳          │
┌──────────────────────────┘
├重直 ───────────────────────┐
│  山城守 従五位下 元和四年叙任         │
│  寛文四年九月十二日卒 五十九歳         │
│┌─────────────────────────┘
│├兵六郎 早世
│└内蔵助 早世 実堀田加賀守正信三男
├重信 ───────────────────────┐
│  大膳大夫 従五位下 兄重直無嗣子        │
│  以重信為継嗣                  │
├政直 彦九郎                    │
├利康 彦八郎                    │
├利長 主水                     │
└直房 ──────────────────────┐│
    実主水利長男 従五位下 左衞門佐 寛文八年 ││
    六月廿四日卒四十歳             ││
┌─────────────────────────┘│
├直政 遠江守 従五位下               │
└某                         │
┌──────────────────────────┘
├行信 信濃守 従五位下
├某  主税
├某  主計
├某  左近
└女子 松平伯耆守継清室

   註 直房の出自について、主水利長男とする伝はこの系図を置いて他に知
     らない。因みに、主水利長について『南部家譜』は寛文二寅歳卒、三
     十七歳と見える。これに従えば、直房は逆算して寛永六年の生まれ、
     利長四歳の時の子となる。一方、寛永六年には長兄重直は二十四歳で
     あり、利長はそれを二十歳前後上回ることは考え難い。年齢的に合致
     しない。
 

3  藩翰譜 第九下   南部        

      新井白石の説です。史実であるか否かは異次元のこと、このような
     説もあることを紹介します。


信濃守源利直は、刑部丞源義光の(新羅三郎)曾孫、信濃守遠光が(加賀美二郎)三男、甲斐の源氏南部三郎光行が後胤、大膳大夫信直が男なり、光行が後、代々鎌倉殿に御家人として九代の孫右馬頭茂時が代に当たりて、正慶二年五月廿三日、相模入道平高時が滅ひし時、鎌倉にて自害しぬ、茂時が子伊豫守信長、其子遠江守政行、尊氏将軍の御教書賜て本領を安堵す、(此御教書一通、今に子孫に伝ふと云ふ)政行が子大膳大夫守行入道禅高、応仁の乱に鎌倉殿の御方として最前に馳せ参り、軍忠を致しければ、持氏の御感淺からず、御下文を賜て、陸奥の国司に補せられたり、(持氏の御下文、今に子孫に伝と云、以上其家の見えし所也)

 按ずるに、この時より陸奥に下りしか、また元より領せしゆえ、斯く御下文を賜りしにや、或書に、鎌倉殿、奥の泰衡追討の時に、南部三郎光行軍功ありしかば、奥の糟部(糠部の誤字か)の地を下し給ふ、本領の名に因りて、ここも亦南部と名付たりと云ふ、されども、この事系図にも、又東鑑にも見えず、また覚束なく思ふところもあれば、本文には略して爰にしるす、

 初め加々美遠光の三男光行、甲斐南部の地頭職たるに依り、南部三郎とは名乗しなり、
 其後陸奥国に移れる事、何れの代なると云ふ事、詳ならず、按ずるに南部記に興国三年八月、奥州宮方伊達宮内少輔行朝・石川・石橋・河村・田村・南部・滴石の輩、斯波・岩手の両郡へ攻め上りて、朝敵稗貫出羽守、并に其一族を誅せし事見え、又岩城飯野神社古文書には、貞和五年六月、奥の管領吉良左京大夫貞家、糠部・滴石以下、奥方の凶徒退治の為に発向の事見ゆ、糟部と云ひしは、今の五戸六戸などを云ふ辺にして、此時南部既に其地にありしかば、 或は南部とも云ひ、或は糠部とも云ふ、滴石とは、今の戸澤の家祖の事を云ひしなるべし、又今其家の伝ふる所を聞くにも、其祖初め三戸の地に来りしを、国人蛇沼・日澤二人の者共を迎て終に家を起せし事に因りて、年毎の元日、先づ二人の者共の子孫に対面して、後に一族家臣等年賀の事ありと云ふ、彼是を併せ考ふれば、正慶二年の夏、右馬頭茂時、鎌倉にて死せしより興国・貞和の頃に至て、僅か十餘年なり、思ふに茂時死せしより後、其子伊豫守信長、密に東に遁れ、幾程なく世乱れしかば、奥の宮方に随ひ、糟部等の地を取て、家起せしならん

  其子遠江守政行が代に及び、奥の宮方既に亡ひぬれば、将軍家に属して、本領を安堵せし事とみえたり、又其家に云伝ふる所、南部の掃部は、もと菱なり、大膳大夫守行、或時秋田城之介と戦ふに、二羽鶴飛ひ来て、味方の陣に双ひ舞ふ、此日の軍に勝て、悦ふこと限りなく、割菱の紋を改て、一双の舞鶴を幕に付けし由、系図に見ゆ、

 其子南部庄司義政、永享十一年、鎌倉の合戦に大手を攻め破て普広院殿の御感に預り、黒母衣を許さる、義政より九代、右馬允安信、男子五人あり、嫡子彦三郎晴政、二男石川左衞門尉高信、三男南部遠江守、四男紀伊守、五男靱負尉とぞ申ける、嫡子晴政が子彦三郎晴継卒して其嗣なかりしかば、左衞門尉高信が男信直を以て世嗣となす、天正十八年に至て豊臣関白、北条を亡し、奥に下らせ給ひし時、信直御陣に馳せ向ひ、見参して本領を安堵す(此時関白、来国次の脇指、并衣服等を賜と云ふ)

 或記に曰く、南部が被官津軽右京亮為信を初て、九戸修理亮政実等が、主に背て、国中常に静ならず、信直日々に逆臣に逼られて、今は田子と云ふ城一つを守り居て、国中の事を知らず、まして遠き境の事は夢にだも知らず、斯る所に天正十八年の春の末、都三条の辺に住む高上人清蔵と云ひし者、南部に下りて、扨も殿は未だ知召されずや、当時天下を知召すは、豊臣関白秀吉公と申せし御方にて、関東の北条が王命に随はぬを征伐し給ふべしとて、天下の軍兵を催して攻め下り、今は相模国に御陣を召され候なり、北条の亡ん事は、日あるまじ、其後は直に奥方にも御下向あるべしと承る、急き御方に参らせ給はば、当家の繁昌、御子孫の御行末、目出度こそ候へけれと申ければ、信直大に驚き、扨は今天下は既に定りしにや、さらば、その秀吉殿へ参らざらんには、当家の行末頼母しからず、又参らんとせんには、其隙を窺ひて、国中の逆徒等に国を奪はれんこと、踵を旋らさじ、如何はせんと案じ煩ふ、商人重て申やう、さらば先づ御家人の中を択はれて、御使を参らせられ、御方に参り給ふべき由を仰せらるべうもや候はんと、ありければ、此義尤も然るべしと、家の子郎等の其中を一々に択ひしに、極て頑なる田舎人、鎧着太刀佩て、馬乗たるには似も付かず、立居振舞の無骨さはさもありなん、物云ひ、鼻よりうめき出て、世の人、聞分くべしとも覚えねば、此も叶ふべしとも思はれず、あきれ果て居たりしかば、清蔵此上は、何か苦しかるべき、某御使と名乗て罷り向ひ、爰許の有様、一々に申し、又殿の思ひ給はん様を有の儘に申上け、御領安堵の御教書、取て参らせんと云ひければ、信直大に悦ひ、是に増したる事あらんと、彼の商人を使者として、当国の土産なれば、屈竟の逸物の馬共牽かせて、相模国へぞ上せける、南部が使、御陣に参りて、信直が参らざる趣を初めとし、津軽・九戸等が事、一々に述べたり、関白殿聞給ひ、国中の逆乱に依て道既に塞りたるに、早々使を奉る事神妙なり、南部が累代傳領の地、安堵の事子細あるべからず、又家人等が逆威を振ふこと甚以て奇怪なり、如何にても信直が城を守りて、秀吉が下向を待つけよと仰せありて、使をば返へされたり、信直悦ふこと限りなし、北条亡ひし後、同年の八月十日、関白殿、陸奥に御下向ありしかば、信直頓て御陣に参る、津軽の地は、最初に右京亮為信に賜ひし上は、南部に返へし附けらるるに及はずと云ふ

 明れば十九年の夏の頃、家人九戸(諸記に修理政実と見ゆ、蒲生記には右近とあり)櫛引将監等を初として、家の子郎等数多、信直に背き、此所彼所の溢れ者、招かざるに馳せ集て、既に多勢に及び、信直戦ひ勝つことを得ず、急き早馬を都に参らせ、此由を申す、三好中納言秀次卿を大将軍として、数多の軍勢を差向けらる、徳川殿にも向はせ給ふ程に、井伊兵部少輔直政、先人をうつて馳下る、蒲生飛騨守氏郷は、去年奥十二郡賜て、当国の鎮守を承りしかば、諸軍に先立て馳せ向ひ、姉帯(一書に穴田井)、祢曽利(根由利)二つの城を落し、九戸の籠つたる福岡(一書に糠部)の城に押し寄す、関白殿の御勢、徳川殿の先陣を始として、南部・津軽・松前の軍勢馳せ加り、入替々々攻めし程に、同九月、城終に攻め破られ、九戸・櫛引降人に成て出つ、秀次の御陣の辺に参らせて、一々首を刎ねたりけり、

 朝鮮の軍起りて後、軍勢の催促に随ひ、信直筑紫に馳せ参る、年五十四歳にして慶長四年十月五日卒しけり、

 信濃守利直、父に継ぐ(十万石)、幾程も無之く、慶長五年の夏、徳川殿会津の中納言を御退治あるべきにて、南部・津軽・秋田・山北の人々は、出羽守義光に随つて軍すべき由仰せ下さる、信濃守利直、軍勢を率ゐて最上の軍に馳せ集る、斯る所に、石田三成が催促にて、上方に軍起り、徳川殿既に討れ給ふと聞えしかば、此程馳せ集りたる奥方の軍勢、義光に暇をも乞はず、我も我もと遁け帰る、利直斯ては国中の事覚束なしとて、是も同じく引て返る、案の如く、明る慶長六年、岩崎と云ふ所に凶徒蜂起し、利直馳せ向て戦ふ、時既に冬に至り、風説殊に甚しかりしかば、引返へし、七年の春、再ひ軍を起し、戦ふこと程を経て、終に悉く平けぬ、同き十七年、利直関東に伺公せしに、十二月廿日、将軍家、彼の家に成らせ給ひ、物多く下し賜ひ、奉るもの又少からず、十九年の冬、大坂の軍起りし時、将軍家の先陣して、馳せ登る、明れば元和元年の夏、再び軍起りしには、程遠ければ軍散して参る、寛永三年八月従四位下に叙し、同き九年八月十八日、五十七歳にて卒す、

 嫡子山城守重直、家を継ぎ、寛文四年九月十二日、五十九歳にて卒す、嫡男兵五郎早世したりしかば、堀田加賀守正盛が三男を(内蔵助正勝と云しなり)養て子とせしに、是も早世して、世嗣とすべき子なかりし程に、舎弟等に所領を分ち譲る、大膳大夫重信、利直が二男、重直が弟なり(初め七戸の家を継ぎ隼人と申せし也)、兄重直が家を継ぐ(八万石)、重信が嫡子信濃守行信、其餘の男子猶多し、左衞門佐直房は利直の末子、重直が弟なり(実は利直が末子主水利長の子、初め主水と云しなり)、重直卒する時、八戸の地を分ち譲らる(二万石)、寛文八年卒しければ、其子遠江守直政、父に継ぎ、延宝二年十二月廿七日に叙爵す

   註 直房を主水利長の実子とする説の論拠は不明であるが、年齢的に矛盾
     があり明らかなる訛伝である。 前項2系図の末尾を参照

        この頃までの系図は、「寛永諸家系図伝」を請けて信直の父高
        信を安信二男に作られているが、以降の系図は安信の父政康の
        二男に作るものが多く見えるようになる。

        「こもんじょ館」南部信直の前半生について(疑問) 2  二十五代晴継との関係を参照


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