| 盛岡の歴史を語る会
工藤利悦氏の講演
盛岡の歴史を語る会(荒田昌三会長)は18日、盛岡市若園町の市総合福祉センターで開かれた。近世古文書研究所の工藤利悦主宰(盛岡市)が「盛岡藩の戊辰戦争」と題して講演。明治以後の盛岡藩や他藩の処遇などを紹介しながら、一般に認識されている戊辰戦争における盛岡藩の立場に対するとらえ方とは異なる視点から解説した。
工藤さんは冒頭「皆さんは奥羽越列藩同盟の一員であったのは、やむを得ないことだつたと考えるか。官軍の一員になるべきだつたと考えるか。あるいは......」と投げかけ、話を進めた。
1868年(慶応4年、明治元年)の鳥羽伏見の戦いを始まりとして69年、榎本武揚が箱館で敗れ終わった戊辰戦争。盛岡藩にとっては実質68年8月から、9月24日の盛岡藩降伏を経て10月10日に総督府軍が盛岡入城するまでだつたという。工藤さんは7月4日に「仙台藩士が、秋田で秋田藩士によって殺害されなければ、盛岡の戦争はなかったはず」、「以夷制夷」の策にはまった。と話した。
盛岡藩にとって戊辰戦争はどういう戦だつたのかという点を、戦争の被害や戦争後について資料をもとに探った。南部領内の焼失被害は盛岡降伏後に津軽が野辺地と鹿角を攻めた時のわずかだけ。ところが、官軍だつた秋田藩は「官軍に付いたことで四面楚歌となり、領内が荒らされ」甚大な被害を被った。(後掲資料参照)
秋田藩は50万両の拝借願を出すが、政府から出たのは20万両で全額を救済されなかった。69年大蔵省作成の藩債整理の資料によると、盛岡藩は内国債と外国債を合わせて約82万両だつたのに対し、秋田藩は390万両ぐらいの債務があった。この借金は薩摩、長州、肥前等から派兵された人件費で、秋田はそれを背負わされた。
さらに官軍は同年、久保田藩主に12ヶ条の問責状を出す。官軍としての効をねぎらうどころか、あれこれと事実であったかどうかも定かでない悪行振る舞いを並べ立てられ非難された。工藤さんは「問責文そのものは、官軍と称する人が書いたものだが、最初から偏見の目で秋田をみていたこと」と解説。「現在も官軍の一員という言葉が秋田に生きているのは誇りというよりも、悔しさを代弁する言葉ととれる」と述べた。
盛岡藩の出身者は明治期から活躍した人が多く、「表面的には賊軍だつたが、紙に書かれている資料を見ると、様々な特典(藩債処分、旧藩士への家禄支給等で)が与えられていたことが目に付く」と話す。その要因として考えられることは南部家の水戸藩(利剛夫人は徳川斉昭女、15代将軍慶の姉)、さらには皇族(利剛の長女郁姫は華頂宮妃・有栖川宮家)や分家八戸藩主(当主は信順、実は薩摩前藩主島津重豪13男)とのつながりを指摘す。「必ずしも今まで言われているような歴史と違う趣がある」という。
「盛岡タイムス」平成15年7月20日
【参考】
盛岡藩と、奥羽列藩同盟を離脱したため、盛岡藩が戦書を送り交戦した久保田藩との対比
1 戦災による罹災家屋の状況
○ 盛岡藩(藩主南部利剛)
9月20日盛岡藩は停戦、降伏のための交渉中にあった。
今般、従京師重臣三戸式部帰国、朝廷御内命之儀も有之候付、進軍相控候間、尊藩よりも御進撃御見合可被下候、委細は追て可及御応接候条、此段不取敢得御意候様、従盛岡表申付越候以上
盛岡藩
九月廿日 向井蔵人
楢山佐渡
秋田御藩御出張
御隊長中様 『復古記』巻137
しかし、
交渉の最中に侵入され放火されるといった出来事であった。。
野辺地馬門64戸と1ヶ寺 『野辺地戦争記聞』
利恭家譜に云、去月(9月)23日、野辺地に討入之兵へ及対戦に候上、官所(代官所)近く進撃無拠及戦争に候得共(中略)、此節柄賊兵哉も難弁、且官所下た迄切迫之撃込にて、不得止事一応防戦罷在候内、夜明官軍と心付退兵仕云々 『復古記』巻140下
註 『復古記』は明治政府がまとめた記録。
盛岡藩の記録が採用されている。
つまり、盛岡藩の言い分が採用されていることを意味する。
利恭家譜に云、9月23日鶏鳴、津軽氏の兵馬門村に入り、火を縦つて之焚く、遂に進んで野辺地駅に至る、杤内與兵衛逆ひ撃て大に之を敗る
『復古記』巻140下
鹿角濁川40軒土蔵10ヶ処焼失 『国統大年譜』
鹿角市史資料編第一集『濁川出陣日記』には「10数軒」と見える。
9月25日津軽兵が朝五ツ半時(午前9時頃)領境を侵入、放火し交戦となった。 鹿角市史資料編第一集『濁川出陣日記』
24日津軽氏の兵鹿角郡に入り、滑川(濁川)村を焚く
『復古記』巻140下
25日昼八ツ時、津軽兵濁川村へ不意に侵入、頻り発砲、関門並びに民家数十戸を焼く
『戊辰始末録』
雫石橋場 不明
「敵俄に侵入(中略)民家へ火を放ち発砲せられ」
『戊辰始末録』
「味方にて焼き払ひ」 『国統大年譜』
『国統大年譜』記載の橋場付近略絵図によれば、番所外、民家30軒程が描かれている。
利恭(南部)家譜、9月28日、雫石橋場村へ頻に発砲に付、不得止一応防戦人数引揚候処御軍監より来翰に付致拝見処、総督府より御問罪御進兵趣初て奉拝承候云々
『復古記』巻140下
28日平明、橋場道の敵兵(久保田藩兵)伐つて入る、我兵拒き戦ふ、未だ止まず、軍監より書を送りて総督府問罪の兵なりと告ぐ、是に於て軍を収めて兵を解かんことを請ふ、聴れず(下略)
『復古記』巻140下
○ 久保田藩(藩主佐竹義堯 のち秋田藩と改称)
戊辰兵火消失届 附戊辰戦争出兵人員及死傷者調
明治元年十一月 太政官日誌 156
雄勝・平鹿・仙北三郡村々兵火焼失取調覚
家敷総合1,710軒 雄勝郡
内385軒焼失 5軒潰家
家数総合5,503軒 平鹿郡
内818軒焼失
家敷総合5,922軒 仙北郡
内1,146軒焼失
山本・河辺・秋田三郡村々兵火焼失取調覚
(証)(記事なし〕 山本郡
家敷総合650軒 河辺郡
内269軒焼失
家敷総合3,300軒 秋田郡
内2,066軒焼失
外に、
一、御高札場4ケ所 一、駅場役所4軒 一、寺社3軒 一、備蔵4
但、米籾共、宮5宇
右仙北郡之内にて焼失
一、土蔵205 一、木屋338 一、寺院并堂宮33軒 一、駅場役所・村役所共8軒
一、備蔵・口蔵共12
但、米籾共1、金山無残 一、穢多8軒
右山本・秋田両郡之内にて焼失
右之通六郡之内にて兵火焼失御座候以上
十一月
右之通、国許より申越候間、御届申上候、以上
十二月 佐竹中将家来
村瀬 碍
○ 久保田藩の領内は三分の二が戦地となったために蒙った農鍬の被害
九月十八日を一期に敵軍は去り、戦闘状況の緊迫から介抱されると同時に、農民は荒涼たる村居を茫然として見つめる外はなかったのである。(中略)
当時の農事慣行によれば、八月十四・五日は毛引願を締切る時機であつた。然るに、戊辰戦争は、稲の成熟最盛の期を境として熾烈に展開したのであるから、田圃は全く踏み荒されるか、さもなき田圃も秋収の手は下されず九月下旬の候まで放任されていたのである。平鹿郡親郷肝煎等の申立によれば、「今年は作合も不宜、下地水損も有之処へ、山内澤入之村々ハ絶作同様の処も有之、此當分之処も有之、是を平均候ハゝ半作位に可有之」との申立であつた。作合も宜しからずとあるは、その原因が天候のみにあつたのではなく、植付時期以後の田圃の耕種不充分にあつたのである。兎も角収納半免といえば、去る慶応二年の風害につぐ凶作の様相を示したものと主張するのであつた。当時の諷刺唄にもある如く、金相場の急増と、軍事雑用が山程打重なる負担を強えられた農民は、更に半免不作の打撃を受けたと主張して、場合によつては、官軍総督に直訴しても是等戦争被害の代償を要求しかねまじき気配を示していたのである。
以上の如き各種の戦災を被つた久保田藩としては、総督から命ぜられる庄内・南部の取締に兵隊を派遣することゝ併わせて、領内救済の施策を急速に打ち立てねばならなかつた。 『秋田県史』403?404頁
久保田藩にては軍費補充及び土民兵火救済等の資に満てるため政府に対し五十万両の拝借願を提出せるに対し、明治二年二月十三日左の指令下附あり。
佐竹中将
其藩儀、昨春来奥羽賊徒連結之節、其中に孤立し、彼ノ凶暴之為メ米穀・貨財・民家等大半掠奪焼毀セラレ、其後官軍進入之砌、数月、兵食人馬供給等旁以国力疲弊、土民営業をも致兼候次第不堪見聞、今般五十万金拝借願出候条尤之儀ニ被思召候、然処於朝廷モ引続御用度莫大之折柄、不被為得己御聞届ニ難相成候得共、困迫之国情実ニ便ニ被思食、以格別之儀二十万金下賜候事 大政官日誌第17
『秋田県史』
2 会戦による死傷者の状況
○ 盛岡藩
南部(利剛)
兵員 空欄 死44人 傷109人
『明治史要』附表55頁
『戊辰始末録』に記載する戦死者は、農兵等を含めて116名
『明治元戊辰際於各地戦死者並殉国志士姓名』によれば、
内 於鹿角口戦死者(姓名割愛) 105名
於雫石口戦死者(姓名割愛) 14名
於野辺地口戦死者(姓名割愛) 5名
以上 124名
その他、楢山佐渡等 8名
未確認のままとする人数 10数名
負傷者については纏まった史料は見ていないので、後日調査次第掲載したい。
○ 久保田藩
佐竹義堯 兵員8698人 戦死351人 負傷者未詳 『明治史要』附表46頁
『秋田県史』第四巻維新編398頁は負傷者数を316人とす
戊辰戦争出兵人貞及死傷者調
明治二年六月二十二日 布政局日誌
於東京申立
先達御達御座候、昨年弊藩戦争之節出兵人員調并傷之分此度国許より申越候間、別紙之通御届申上候、
六月廿二日 佐竹宰相公用人
近藤良之進
去辰年
一 出兵 8698人 内戦死之者329人
右は弊藩戦争節出兵人数網ニ御座候.尤郷夫之分ハ討死手負之外相除申候
去辰年
一 傷 316人
但姓名書相添
右之通御座候 以上
明治二年巳六月 佐竹宰相公用人
近藤良之進
『秋田県史』維新編
戦闘の機略については既に記したる如く、久保田藩総軍の指揮者すら、戦場に至れば参謀府に従属する一隊長に過ぎない所遇を受け、進退については片々たる監軍の媒命によつて決するような戦場の状態であつたのである。戦線十里の間、兵力彼我伯仲して布陣された玉川・雄物川対戦に於いて見るも、仙(仙台)・庄(庄内)陣は良くその持場を分かち、その突進する策は従横緊密なる連絡の下に、敵の虚を衝いては迅速果敢に行動していたのに対し、わが方の布陣は徒らに小部隊を多数の小局所に散布し、敵の突撃に会つては進退緩漫、味方敗退の後を追つて援兵が右往左往するという醜体を幾度か繰返えしていたのである。この戦略は皆西軍参謀の命ずる所によつて然りしものであり、秋藩指揮者の関与は殆んどなかつたのみならず、この拙策に対して敢えて忠言を加うるようなことがあれば、西国督軍の叱責を豪むること必定であつて、その将たるとその兵たるとを問わず唯々これ従うという軍律であつたのである。北羽発達史著者も亦一硝限ありて、連戦連敗の形勢を馴致せるは、「是れ他なし、彼は云々、我は諸隊の統一を欠き、衆志固結せず、之皆軍隊強弱の分るゝ所にして、其敗因亦一に故に帰せざるは無し」(389頁)と断じたるに拘わらず、その後段に至つて死者少数を掲げ、是れ秋藩士気なし、秋藩人なきを喋々弁じたるは、前後矛盾の評言と言う外はない。
依つて顧みるに、双軍戦死傷者の数の少なきは、当時戦闘及び兵器の集団殺生に適せざりしに因るものである。それにつけても小戦闘にありて肉弾よく防衛の任務を尽せる総軍の一割に近きわが戦士のあつたことは銘記せねばならない。
筆者は、戊辰の戦争に関する影響として直接人命の損傷を筆頭に掲げたが、若し右評言の如き痛棒が秋田藩士の頭上に加えられたとしたならば、この打撃は、秋藩将来にとつてより大きな影響と見なければならない。論より証拠、西国藩はその将卒に至るまで秋藩士を目して退縮・脆弱とあなどり、藩士間には官軍風の旋風が捲き起り、戦友間に排の葛藤が閃き出したのである。このために、中央政局に出でては発言の場を与えられることなく、内にあっては壊滅的打撃擠を受けた藩地復興も容易に軌道に乗らず、藩政成績も挙げ得ずして廃藩置県の場に臨まざるを得なかった。
『秋田県史』維新編399頁
佐竹義就へ被仰渡
一、慶邦(仙台藩主伊達氏)の家来並に利剛の軽卒を故なく殺害いたし乱条不届の事。
一、庄内征伐を仰せ付けられ候処、甚だ柔弱にして、且武道に無拙、都て朝敵悉労、兵に打
込み、他藩の力を以て防戦いたし、言を欺き増石歎願と申候儀、何の面目有りて望み候
哉、功なく賞を願し私欲の大胆な事。
一、南部利剛城地召上げられ候上は、天朝之城地なるを以て其藩え守衛申付け候処、城地に
乗込み候程、剰へ城中土足の侭踏込み、天朝を恐れず不届至極の事。
一、利剛東京へ召登られ候節、昼夜歩行の心得にて発足いたし候処、其藩守衛を蒙りなが
ら、天命を背き奸ばかりを断り、利剛に失を与えんと欲するの条、武家に似合わず真義
を失ふ不届之事。
一、盛岡城地守衛申付候処、利剛謹慎を介けず、酒興乱舞等をいたし候条一端不和を醸す
と申ながら隣国の好み、租税を失う佐義、不辨不道之事。
一、合戦之砌、敵之人夫を生捕、罪なきに切害す軍法を不知不埒之事、
一、盛岡領鹿角郡守衛之輩、自分領国之様に申触し、百姓に疑惑を生せしめ、民害を醸し、
其業を妨る之条不届之事
一、同領守衛中被仰渡候六ヶ条之趣取失ひ、粗暴せしむる条言語同断之事
一、宿所之不自由、賄之麁末可令斟酌と兼て申渡置候筈、刀夜□等持運び候条、強盗之所為
に相当不届之事
一、奥羽合戦之節、利剛降伏謝罪及建白応接いたし、其後双方炮発令禁断候処、猥りに橋場
口へ付入、兵士を損しめ、剰へ鹿角郡へ津軽と偽り乱入放火せしむる条、其罪不軽事
一、其藩柔弱に有りながら、他藩を偽り候か、侮り候か、幕下の如く取扱不軽之儀、不埒至
極之事
一、己を捨て人を救ふは人たるの道なるを、人を捨て己を立ん事を至りせしめしは、職分に
不似合事。
正月
右之通御不審之ヶ条、於東京行政官より被仰出候由にて、佐竹右京大夫并四家之輩・家老之面々被召登候事
『国統大年譜』
旧盛岡藩士に対する家禄
本藩は元南部家の旧領なりしが、同家は明治元年王師抵抗の故を以て封邑二十万石城地共に没収せられ、更に其子息利恭に白石十三万石を賜はり、同二年七月盛岡に復帰、同藩知事被仰付、同年八月一旦禄制を立て、同年十一月禄制改定の計画を為し辨官へ伺出たり。其禄制は左の如し
南部弥六郎 千俵
南部吉衛 三百俵
上士 百二十俵
中士 六十俵
下士 三十俵
而して其伺未だ裁可なき内、明治三年七月南部利恭は藩知事の職を辞したるを以て政府は之を納れ、盛岡藩を廃し盛岡県と改めたり。同十月盛岡藩の伺出たる禄制未だ裁可なきも、閏十月より三等の割合を以て下賜の旨を盛岡県より士族に達し、旧一門二軒も上士の禄を給与せられたり。明治七年七月太政官の裁定を経て是迄仮渡の三等禄制を以て確定禄とする旨を太政官より岩手県へ達し、是に於て旧盛岡藩の禄制始めて定れり。之を同藩最後の制度とす。
而して今回の請願人等は仮渡高を確定高としたるは錯誤なりと称し、戊辰滅藩以前の禄高を標準とし請願せり、然れども、南部家は城地風邑没収の時に於て其君臣共に無禄となれり。故に白石新封以後に於て新に賜はりたる者に非ざれば家禄として所有すべき謂はれなけれし。而して其新に賜はりたるものは前述の如く明治二年十一月盛岡藩の計画に由りて仮渡たるものを同七年政府に於て確定禄としたるものの外他にあることなし。
又旧盛岡藩に於て慶應三年七月軍制を改め従前加番組と唱へし者を本番組に合併し、五十石以上の士は百石以上の者と待遇を同一にせしに、明治二年之事下士に編入し、下士掃討の禄を給与せられしは錯誤なりとして請願する者あれども、南部伯爵所蔵の明治二年の覚書中五月十二日の達あり。其大要は左の如し。
上士 御一門・御番頭家格
中士 新番組御番頭より百石以上諸士
下士 百石以下諸士
右之通相唱可申事
右之通百石以下の者下士に編入せられたるは明瞭にして、従て之れに相当する禄を給与せられたるは即旧藩の制度に適する処分なりとす(下略)
『秩禄処分顛末略』
「王師抵抗の故を以て封邑云々」の文言は旧仙台にも使用されている。
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