大相撲は南部相撲が原形か?。 江戸時代に盛岡藩を中心に行われてい
た南部相撲を研究している奈良女子大文学部非常勤講師の木梨雅子さん(二九)は、当時の資料から南部相撲が江戸相撲に先立って興行を行っていたことや、江戸相撲より早く相撲式法が整備されていたことを確認した。木梨さんは「南部相撲が中央の相撲に影響を与えていた可能性が高い。盛岡藩は相撲文化のけん引役を果たしたと思う」とみている。
南部相撲は、相撲取りや行司など約五十人からなる盛岡藩のお抱え相撲集団。競技として行われたほか、殿様に披露する儀礼的な意味や、地鎮祭として行われる政治的な意味合いがあった。藩主ら上層の家臣団は、娯楽集団として位置付け重宝していた。
江戸相撲は、現在の日本相撲協会の前身「相撲会所」が中心組織となり、一七五〇年ころに隆盛となった。このころから、同会所が全国各地から相撲取りを集めて交流試合を展開し興行したといわれている。これまで相撲史の中核となっていた「江戸勧進相撲」の式法が整備されたのもこのころとされている。
木梨さんは、一六四四(正保元)年に書かれた盛岡藩の行政日誌「雑書」や、七五(延宝三)年に描かれた絵巻物「岩井流表取組上之巻」などの資料を調査。盛岡藩は江戸相撲に先立ち、藩が中心となって、南部相撲の興行を行っていたこと、ルールや行司の服装など相撲式法が整備されていたことを確認した。
南部家四代重信は、七六(延宝四)年、「新八幡勧進相撲」を開催。領
内にスカウトを派遣したほか、民衆から参加者を募り、八幡宮〔当時の新八幡宮)の建立費に充てた。
相撲集団は、盛岡城下が火災に見舞われたときは復興費をひねり出すため、領内を巡業、領内が飢きんの際は、領外まで足を運んだ。木梨さんは「盛岡藩は興行対策に優れた先進地だった」と指摘する。
木梨さんは「南部相撲は、江戸相撲よりはるかに古い歴史があった。南部相撲は、今日失ってしまった儀礼性や土着性、政治色が豊かだったことなど総体的なスポーツ文化だったと思う。今後は、フィールドワークを通じて民衆からの視点で南部相撲研究に取り組みたい」としている。
「岩手日報」平成14年9月10日
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