第27回盛岡市先人記念館企画展「日本文字始而造候居士一日本速記術の創始者田鎖網紀」が9月7日から、盛岡市本宮の盛岡市先人記念舘で開かれる。
日本語の「速記」は、盛岡に生まれた田鎖綱紀(たぐさり・こうき)の手によって生み出された。
田鎖は1854年、盛岡藩士の次男として生まれ、15歳で上京。大学南校(のちの東京大学)に入学。早くから語学や測量術を学び1871年に鉱山寮に招へいされた。秋田の大葛金山では米国人工学博士ロバート・G・カーライルと出会い英語速記符号に出合った。
田鎖は日本でも速記が作れないものかと、その後10年近い歳月をかけて紆余曲折を繰り返し、ついに独力で日本語の「速記」をつくりあげた。ひょんなところから明治15年に「日本傍聴記録法」楳の家元園子という見出しで掲載された。その後、速記者養成の講習会を開くなど、日本で初めて速記という言葉を作り定着させた.現在ではその開講式があった10月28日を日本速記記念日としており、今年で120周年。
同展では田鎖の足跡や「速記」についてゆかりの資料を紹介する。
開館時間は午前9時から午後4時30分まで(入館は午後4時まで)、毎週月曜日と9月24日、10月29日は休館(ただし9月18、23、10月14日、11月4日は開館)。入揚料、一般300円、高校生200円、小・中学生100円(団体割引あり、11月3日は文化の日無料開放)。11月4日まで開催。問い合わせは盛岡市先人記念館(電話019-659?3338)。
「盛岡タイムス」平成14年8月30日
【参考】
盛岡藩の家臣・田鎖一族
田鎖氏は閉伊十郎行光を遠祖と伝え、閉伊川沿岸に繁衍した一族である。世に閉伊源氏と称される一党で、本宗とする家が田鎖城に住居、その在名により氏としたが、室町末期に滅亡し、その末裔に至って本末は判明していない。
奥南落穂集によれば、一次、二次の閉伊氏があり、一次の閉伊氏とは、平安末期に藤原秀衡の旗下にあって中田城に住居、文治五年(1189)に平泉藤原氏と命運を倶にした閉伊右衛門太郎武国・その弟兵衛尉則国があり、武国の子閉伊次郎武芳、同五郎武保があったという。
第二次の閉伊氏は、鎮西八郎為朝の四男島冠者為頼の遺児十郎行光を遠祖と伝える氏族である。
十郎行光は佐々木四郎高綱の猶子となり、佐々木十郎行光と改め、のち奥州閉伊郡半地の地頭職に補され、建久元年(1190)田鎖城に住居したと伝える。二子があり、長男を出羽介家朝、二男を三郎行朝といい、この二流の子孫が大いに繁衍したが、金石文や伝存する黒森権現社の棟札等から推して、南北朝時代に南朝年号の閉伊氏、北朝年号応永三年(1397)の南部氏があり、その後閉伊氏は頽勢に向ったことが知られる。その後国人の列に落ち、天正十八年(1590)田鎖遠江守光好、その子十郎左衛門光重に至り、三戸に来て南部信直に仕えたと伝える。
従ってその類代については諸説あり判明しないが、閉伊氏の菩提所華原市華巌院記録(岩手県史所収)によれば、閉伊陸奥守頼基(承久元年・1219死去)─出羽守家朝(貞応二年・1223死去)─ 十郎太夫中務忠朝(承久元年・1219死去)─大膳太夫義基(康元元年・1256死去)─左京太夫為朝(正応二年・1289死去)─修理太夫義頼(正安元年・1299死去)─武蔵守為満(正中二年・1325死去)─雅楽頭義総(正中二年・1325死去)─左衛門太夫家勝(嘉暦三年・1328死去)─隼人正頼勝(建武元年・1334死去)─*十郎左衛門尉光頼(康永三・1344年死去)─*十郎太夫親光(延文五年・1360死去)─十郎左衛門為直(貞治五年・1366死去)─大膳太夫忠勝(応永四年・1397死去)─次郎太夫中務光総(応永二十九年・1422死去)─源一郎頼総(正長元年死去)─信濃守頼稠(嘉吉元年死去)─大膳太夫頼紹(嘉吉三年・1443死去)─左京太夫義紹(文明十八年・1486死去)─陸奥守広勝(延徳元年・1489死去)─相模守為勝(大永六年・1526死去)─遠江守直勝(享禄四年・1531死去)─修理太夫義忠(天文三年・1534死去)─中務太夫義就(天文二十三年・1554死去)─伊豆守光朝(弘治三年・1557死去)─遠江守義綱(永禄十二年・1569死去)─薩摩守重朝(天正六年・1578死去)と伝えている。(*は原本不明、転写本に拠ったという)参考諸家系図田鎖系図は右累代と一致しないが、十一代*十郎左衛門尉光頼以降の系を伝え、その子*十郎太夫親光─左衛門尉為延─十郎左衛門久朝、この後数代不明とした後、奥南落穂集に散見する田鎖遠江守光好、その子十郎左衛門光重にと結んでいる。その末裔田鎖正子氏は盛岡市に在住する。
また花輪系図によれば、十郎左衛門久朝の次に十郎左衛門朝重を掲げ、同郡花輪城に移ったと伝える。その子一朝の時に、在名により氏とし、花輪安房と称した。その子内膳政朝の女松(のち慈徳院)は南部利直の則室となり、重信の生母である。
閉伊十郎行光の末裔と伝える諸士(平士以上の家)は、明治元年支配帳に照らして、田鎖三流十六家、刈屋二家、和井内四家、長澤六家、花輪二家、高浜一家、根市一家、中村二家、赤前二家、重茂三家、大沢五家、蟇目一家、山崎二家、荒川一家、小山田二家、江苅内一家、片岸一家、箱石三家、大川二家、佐々木二流二家、花坂一家、釜石二家、関一家、田中一家、多久佐里一家、以上六十五家があり、地方給人以下については右家名のほか、内藤、近内、茂市、田代、閉伊口、中島、その他諸家がある。(「奥南落穂集」「参考諸家系図」「岩手県史」「明治元年支配帳」)
田鎖網紀の家系
閉伊十郎行光の後胤田鎖庄三郎義次の分流田鎖金六を祖とする。
初代金六は藩主重信の治世にその子七戸喜庵英信の家臣に召出され、二人扶持(高十二石)を食禄した。享保十六年(1731)主家英信が死去。その遺言により表に召出され、更に二人扶持を食禄した。その跡を田鎖金右衛門高稠の二男喜太郎(のち六兵衛)高矩が養嗣子となり相続した。明和三年(1766)に二駄加増、五駄二人扶持(高二十二石)となり、安永五年(1776)に隠居、同六年死去した。その跡を嫡子金六が相続、安永九年(1780)死去。その跡を弟力弥(のち金右衛門)が末期養子となり相続した。享和二年(1802)に出奔の後、文化十二年(1815)立帰り、天保六年(1835)死去した。その跡を米田左吉の二男数之助が名跡継ぎ、文化六年(1809)死去した。その跡を田鎖武右衛門の二男長之進高寿が末期養子となり相続した。文政三年(1820)に死去した。その跡を田鎖内蔵之丞の弟熊之助(のち六兵衛)高行が末期養子となり相続した。天保四年(1833)に三駄加増、八駄二人扶持(高二十八石)となった。小納戸、勘定奉行を勤め、天保九年(1838)金方七十二石加増、高百石となった。同十一年(1840)用人元〆勘定奉行側兼帯となり、十二年(1841)に武器懸、同年金方百二石加増、同十三年(1842)には近習頭も兼ねた。更に弘化二年(1845)金方五十石の加増を受け、二百五十二石となった。この時定府となった。嘉永元年(1848)家格は新丸番頭に昇格、左膳と名を拝領した。藩主利済の寵愛を受け、その権力は家老を凌ぐものがあったという。同年利済は世子利義に職を譲り退隠したが、その後も院政を行い、一方、利義の廃立と二男利剛の擁立を謀った。安政元年(1854)幕府の忌避に振れ慎を申し渡された。これによって家老横沢兵庫済衆等と共に失脚。加増高取上、家格引き下げの上隠居となった。万延元年(1860)死去した。謙信流兵学は免許皆伝の腕を持ち、学門は東条一堂に学ぶ文武両道の士であった。晩年は子弟の教育に当たったという。その跡を嫡子六之助(のち仲、仲蔵)高守が相続した。家禄は五駄二人扶持(高二十二石)。初め小性を勤めた。のち鉄炮方橋野鉄山並翁沢室場両鉄山吟味役を勤め近内村製鉄場建設懸となり、また勤中勘定奉行として閉伊郡橋野鉄山開削に従い功績を挙げた。戊辰の戦には使番を勤め、鎮撫使の応接に当たった。茶道を嗜み、孤松庵不羨に師事して宗匠となり、孤松庵白鳳と号した。明治二年(1869)に隠居して、同三十七年(1904)死去した。その跡を六太郎(のち綱郎)高智が明治二年(1869)に相続した。同十一年の士族明細帳によれば、油町一番屋敷に住居していた。その跡を高吉、高太郎と相続、その子で当主の高晴氏は青森県に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の法華寺、愛宕町の正伝寺にある。
◎ なお綱郎高智の弟に八十吉綱紀がいる。高紀は明治三年(1870)同苗田鎖政之助高徳の養嗣子となり、その跡を相続した。同家は田鎖庄三郎義次を祖と伝え、その子武右衛門綱茂が元禄元年(1688)に召出された本家筋の家で、養父高徳は安政五年(1858)に同家を継いだ実叔父である。慶応四年(1868)江戸に登り、明治二年(1869)に大学南校に入学。ガーデナー、内田弥太郎より英学を学び、採鉱夜冶金、機械理化学、簿記学、炭鉱学、経済学、博言学、その他を学んだ。また海軍兵学寮の本宿宅命より航海学並びに数学、測量学を学んだ。同三年(1870)大学南校のウイルソンの家庭を訪問して奇妙な文字「フォノグラフィー」を発見、のちの速記術への切っ掛となった。一方、一条基緒の推薦により鉄道寮の技師シェッファードの助手として京浜間の鉄道測量に従事した。翌四年(1871)再び一条の勧めで鉱山寮に招聘され、鉱山師長ガッドフレイに見込まれて、その助手として東山北陸の諸鉱山を巡見した。翌五年(1872)同寮に招聘された米国人工学博士ロバートカーライルに伴い秋田県大葛鉱山に赴いた。この時人の話す言葉をそのまま書き取るアメリカ記音学に傾倒、以後日本速記術の完成に努力を重ね、明治十五年(1882)時事新報に「日本傍聴記録法」を発表。その後も普及と改良に生涯を全うした。明治二十七年(1894)速記術創始と改良の功績により藍授褒章を授与され、大正十三年(1924)社会事業家表彰により勲六等瑞褒章に叙勲せられた。この間に明治十二年(1879)に神戸中国語学校長、同十八年(1885)前橋英語学校長等に就任した。昭和十三年(1938)死去。東京雑司が谷霊園に葬られた。その跡を一が相続、父の遺業を継承して普及・改良に当たった。その子で当主の源一は東京都に在住、また祖父や父の意思を継いで更に改良発展させ、またインテルステノ(国際速記タイプライテング連盟)の大会に出席して祖父や父の果たせなかった夢を実現していたが、平成八年死去した。(「参考諸家系図」「田鎖系図」「御役被仰付類」「支配帳各種」「士族明細帳各種」「盛岡藩御国住居諸士」「共有桑田権利者名簿」「旧盛岡藩士桑田名簿」「人物志」「非仏雑纂」「日本速記事始」)
工藤利悦 |