平成22年7月15日 |
南部大膳大夫分国諸城破却共書上之事 偽書の可能性指摘 |
岩手史学会大会で工藤利悦氏が発表 「あり得ない誤記」 |
岩手史学会大会が11日、盛岡市盛岡駅西通のアイーナ内の岩手県立大アイーナキャンパスで開かれ、史学会の会員や市民ら約40人が出席して研究発表が行われた。発表したのは千葉明伸さん、工藤利悦さん、阿部茂巳さん、茶谷十六さん、深澤秀男さんの5人。それぞれ積み重ねてきた研究を紹介した。 5人のうち工藤さんは、天正20年(1592年)6月11日付の南部大膳大夫分国諸城破却共書上之事について検証。偽書の可能性があることを示した。 同書上は南部領内48城を書き上げたもの。このうち12城を存続させ、ほかの城を取り壊すことを時の豊臣政権に提出した。この2年前の豊臣秀吉朱印状にある「領内諸城悉く(ことごとく)破却」の命令があり、12城を残すということは秀吉の城割政策が不徹底に終わったことを示す基本史料とされてきた。 工藤さんは、書上の原本だけでなく、写本も確認されていないことに加え、徳川幕府に提出した記録の控本である寛政御記録にも天正年間に城割に関する動きが見受けられないなどから、書上の基本史料としての価値に疑問を持った。 「『系胤譜考』、『祐清私記』などが成立した寛保年間(1741?44)には原本は既に散逸していたと思う。この書上に関連する文書は15、6見ているが一つとして同じものはない、すべて内容が違うというのが大きな特徴。その史料が全く史料批判されず、基本史料として使われてきた」と提起した。 書上にある48城の城主や代官を参考諸家系図等を使って検証したところ「その当時のものと年代的に付合しないものがあまりにも多い。城主名と連署名が異なっているものなど、一つの文書としてあり得ない誤記がある。こうしたことから天正年間の記録でなく、後世の偽書だと結論に到った」と分析結果を説明した。 このような偽書が作成された意図について「南部家が花巻城を属城として幕府から認めてもらうために作成された記録。花巻城は天正18年、北直愛を城代とし延宝7年(1679年)に郡代制に移行したが、その後も花巻御城と呼ばれてきた。文化12年(1815年)に幕府から属城として公認され、藩が意図してきたことが成就した」と解説。南部藩が政治工作に作成した文書と推察した。 最後に「歴史を検証する者として史料を使う場合、史料批判をして使用できる史料なのか検証が必要。書上は史料批判をしないまま使われてきた反面教師となる史料」と話した。 「盛岡タイムス」平成22年7月15日 |