紫波郷土史同好会(佐々木忠夫会長)の第1回研修会が5月25日、紫波町赤石公民館で開かれた。約40人が参加。本紙に連載をしている近世こもんじょ館長の工藤利悦さんが「斯波氏と高田書兵衛 中世から近世への移行」をテーマに話をした。要旨を紹介する。 【講演趣旨】 高田吉兵衛(中野吉兵衛)についての生の資料、はつきりとした裏付けとなる文書などについて、実は1点もわたしは見たことがない。すべて後世の人が書いた記録で伝えられている。どこまで真実なのか全く分かりません。ですからここでは伝説の人物としてお話します。 最初に紹介するのは「南部粮元記」という記録です。 「高田吉兵衛、南部へ帰参のこと」という項目にある。高田吉衛は九戸政実の弟で斯波家に婿養子になったとされています。 自身の中間(ちゅうげん)が、斯波の御所がかわいがっていた中間を討ち取ってしまい、御所から中間を討つように言われた。それはできないと吉兵衛は拒否したため、斯波御所と仲違いとなり、吉兵衛は南部氏の元に行ったと書かれている。(註1) 「祐清私記」を見るとつじつまの合わないことがたくさん出てくる。 九戸政実の弟がなぜ斯波家の婿養子になったのかという疑問。その伏線として、三戸の南部氏が岩手郡を切り取る話が結構出てくる。「参考諸家系図」をみると、九戸氏と岩手郡や紫波郡の諸士は結構かかわりがあったことが分かるが、「南部粮元記」は「ない」という形で筋立てするから、つじつまが合わなくなる。(註2) 「祐清私記」の「中野氏の先祖を尋ねるに」の前半で、吉兵衛がすごい力持ちだつたこと、その次に高田吉兵衛が九戸政実の弟だつたことから信直が信頼していなかったことが書かれている。信直だけでなく、子供の利直にも殺したいという意思が働いていたことがみえます。(註3) 慶長8年(1603年)正月17日、利直に招かれて城に出向き、毒酒を飲まされて毒殺されたことが書かれている。そのときに酒の相手をした利直の長男彦六郎家直、野田内匠も一緒に死んだという悲しい話です。しかし、この話は系図の上には全く出てこない。 どういうふうに書かれているかというと、九戸政実の乱が終わつて文禄3年(1594年)4月4日、今崎城において従兄弟の九戸隠岐と歓談中、従兄弟に殺されたことになっている。ところが「祐清私記」では利直に毒殺されたとされている。 彦六郎家直について「祐清私記」は、慶長8年(1603年)正月18日の夜としているが、南部家の各藩主の子供のことを書いた公子伝をみると、慶長3年(1598年)に福岡で生まれ慶長18年(1613年)正月19日明朝に福岡で16歳で亡くなったとある。ちょうど10年違えて記録している。 野田内匠はどうか。「祐清私記」には慶長8年正月18日夜とあるが、参考諸家系図によれば、寛永元年(1633年)10月14日夜に亡くなったとある。 吉兵衛については2代目を継いだ直正をみると「始め正康、想吉、虎丸、吉兵衛」とし、没年を寛永元年10月15日に郡山城で45歳で亡くなったことになっている。 3人の関連は一見なさそうだが、野田氏と中野氏の2代目が死んだ日が1日違いになっており、これが何を意味するか不思議(註4)でならない。やっばり吉兵衛は伝説の人物だと感じる。 南部家には御三家というのがあります。筆頭が遠野の八戸家、二番目が中野吉兵衛の家、三番目が北家。中野家は江戸時代を通じて良く生き残ったなと感じる。本当はいつ滅ぼされてもおかしくなかった。 それは要するに、中野吉兵衛は相当の人物だつたからに違いない。中野家がなぜ残ったか。まず斯波を滅ぼした功績がある。南部領が広くなった大功労者。兄政実の一揆に終始信直方として軍功をあげた。戦後の恩賞には、敵味方の戦没者を弔う一寺建立を願い出て執着しなかった(註5)。そうして重臣に取り立てられた。試練があったのは九戸政実の弟だつたということ。それで今述べたような事件が起きたと『祐清私記』は記述しているのですが中野家はそれを乗り切った。 「盛岡タイムス」平成17年6月7日 註1 ■南部叢書本『南部根元記』上巻 信直公御威勢日々弥増繁昌し給ひければ、遠近其威に帰服せずといふ事なし.其頃九戸左近将監弟に高田吉兵衛と云者有り、南部へ帰参せしは、本志和の御所の聟と成り、高田を知行せし故に高田殿と云へり。然るに何故に帰参せしと其故を尋るに、西の御所比爪の橋造立の奉行を吉兵衞尉承り、幕打廻し居る所に御所の仲間源蔵と云者あり、日頃御所の御機嫌に参り御覚厚きに依て、家中の諸士に対し毎度慮外の振舞しける、され共御所御秘蔵の者なれば誰にても手さす者なし、居間彼普請場何の禮儀もなく乗打して通りける、吉兵衛尉が仲間才太郎と云者是も労らぬ曲者なれば、いかに御所の仲間にもあれかし、此普請場を乗打せんものは家中に於て覚なし、作法を知らぬ溢者、いかで安穏に通すベきとて馬より引落打てかゝる、互に劣らぬ太刀打にて散々に切むすぴしばしが程戦ひしが、何とかしたりけん、源蔵才太郎が太刀請はづし弓手の肩先より胸板へ鋒先を打こまれ忽にうせにけり.戸部の御所此由を聞召以の外に御立腹せられ、乗打の咎はさる事なれども、我が召使を左右なく封殺す条甚だ以て奇怪の振舞なり、彼源蔵を討たる者を早速討て出さるべしと頻に使を立られける。高田并家中の面々一向に申けるは作法を破る曲者を打留たる事手柄にて候、御褒美迄こそなからめ如何に御所の仰なりとも彼を討つて出さるゝ事當家の御名折なるべし、御請は叶ひ申間敷由口々に支へ申ける間、吉兵衞尉も此儀尤と思ひければ、御所への御請申けるは源蔵を左右なく打申御咎め余儀なく存候、併家来其仕業にて某可存候得ば御問合申べき間も是なく候、それに付御立腹の段是非なき仕合に御座候、但し彼者打て出し候事は不罷成候、作法を破り候者打留申事男の手柄にて候得ば、某とても彼者を討れず候、此儀無念に思召され候はゝ、某が一命を参らするより外は有間敷候と云あげられければ、御所以の外御立腹にて其後は高田と義絶し玉ひけり、御所にはともすれば高田を失なはるべき計策を廻らし玉ひければ、吉兵衞尉兎角しわの住居は始終如何と思はれける、兄九戸左近将監此事を聞て安からぬ事と思ひ、頓て信直公へ右の次第具に訴申、信直の御介抱を願上ける、信直則承引是あり吉兵衛尉を召出されける、扨御前に召れの玉ひけるは、志和を手に入様に相計ふべし、左あらんに於ては恩賞は其節に宛行べきと則御證文を給りけり、吉兵衛尉畏て御請仕り頓て其名を改め修理亮と召れ三戸へ侍候す、其後信直公より計策の為めにとて不来方の中野館に据へ置玉ふ、是より福士は南方の押なり、かくて慶膳館に居住し中野・福士相並んで守る、修理亮様々に謀略を廻し志和の諸士を語らひける程に簗田・岩清水・大ケ生等の面々大方南部へ心を寄てなびき随ひければ、其外の諸士も互に心置て君臣の間もむつましからず、かくて行末いかゝと見得にけり 註2 九戸弥五郎が斯波家の女婿となった背景 『祐清私記』は、様々な疑問を提起している。「岩手の諸士三戸伺公のこと」の項では、南部氏は岩手郡を掌中に収めるために、福士氏には高飛車に、一方井氏には娘を人質の提出を求めるかたちで懐柔策を講じたとあり、一方、「高信公岩手郡切取事」の項では、一方井氏に接近するため、一方井氏と親密であった九戸政実仲介の労をとったと記述している。南部家が岩手郡内の諸士と疎遠であるために、岩手郡を切り取ろうとしたと語りながらの手段としてである。九戸政実の家臣としての立場が曖昧な表記であることの意味するものは何であろうか。ちなみに『参考諸家系図』は、福士氏の妻は九戸氏の分家姉帯氏から嫁いでいたと記録している。政実の弟弥五郎が斯波家に縁付いていることと、岩手郡の諸士が九戸氏と親密であったことは根が同じ。どの様に解釈すべきだろうか。南部家の正史に伝わらない史実が潜められていると考えざるを得ない。 註3 ■ 『祐清私記』 一、中野氏の先祖を尋るに、九戸左近政実の弟なりしか、斯波御所之聟にて、志和郡の内、高田といふ所を知行し高田吉兵衛と名乗て御所の家臣たり、子細有て御所と不快し、舎兄之政実を頼て南部ぇ降参仕度由申越けれは、政実右之由信直公へ言上すれは、信直公召抱へきとの御諚にて軈て高田を信直公ぇ奉仕忠節を抽、然に信直思召様は吉兵衛事元来志和住居者なれは、末々は何卒して志和をも汝か手に入度思召計策之為、又南之押として高田氏を不来方之内中野館に居置ける、軈て吉兵衛を改中野修理と名乗ける、色々智略を廻し、志和を南部之手に入度と考、岩清水右京杯も語ひけるに、大形残り無く志和侍南部ぇ降参すれば、志和減亡目之前に来らんと諸人之取沙汰なり、然所に信直公志和表ぇ出馬終に志和南部之手に入、其後天正十九年辛卯九戸政実逆心之時、二心なく修理南部ぇ一味す、軈て九戸を誅罰、後に修理動すれは信直公ぇ御恨を申ん有様に見えければ、如何にも敵味方と分互に刃を磨きけれ共、現在の兄弟なれば既心残るらん、右之志折々見得ける、殊に修理大力にて有ける由、常狩杖を築けるに、五寸廻唐竹之中に鉄の細棒を入て突けるよし、其已前三戸御城石垣組候節、中野氏奉行迚有ける処に、上より大石の落るを修理杖にて抑ける、見る人足を見て如何に力強きともケ様なる大きなる石は三十人にても引へきな、増て上より落を安穂に突留ること古今の大力と取沙汰しける由、信直公三戸にて冬雪の上にて追鳥杯被遊、御慰候に、信直公かんじき物を召て雪之上を自由に御歩い候なり、修理は男大きく力強けれは、歩かね雪を踏禿しけれは、信直公御覧じて、如何御身は常に鬼之様なれ共、如是之節は我に馳付候へきかと被仰ければ、扨々をかしきを被仰候、御前を手取にいたし候は我心の儘にて候と申けれは、去れば我に追付見よと宣て被馳玉へしか、修理持たる狩杖を持直し被召しかんじき押ければ、心なく雪の上に倒玉ふは修理堪忍しなひと被仰ければ、既に討んと思ひ共、一先堪忍し、折々修理か面顔替る事兄左近か敵と信直公思ひしゆへか、信直公も何卒節を見合、失んと思召けれども左も無く暮し立ち玉ふ、後同八年之頃、森岡を居城に構ひ、是は浅野弾正長政公御相談にて有、利直公永代郡山之城に住居あらんと思召けれ共、長政公之御異見に、郡山は仙台に近し、森岡を御収立候得と有ければ、如是頓て森岡に住居ありし、或時志和郡鹿妻川屋堤之普請之時、利直公中野使ぇ被聞けるは、如何に修理此川を刎へきかと被仰ければ、御前にて御刎候はゞ御供申さんと申ける、利直聞召汝先に刎るかと仰られける、其時修理申けるは、是非御望に御座候はゞ刎て御目に懸け申べし、乍去臣は君より跡に立は習にて候得は、先御先にと申けれは至極道理に被誥玉へて、去らは我先に可刎、汝は跡より刎候得と宣へて僅なる小川なれとも、廣弐間も有るへきを向之岸へ刎玉へて、修理刎来るを切らんと思召、腰之物ぬき玉へて修理は中途より抜合けれは、利直公も叶はせ玉成す、修理へ詫事し玉となり、如是大剛之人にて、利直公も恐敷思召されけり. 一、秘伝に曰、慶長八年正月十七日之事成に、利直公思召候様は、修理こと其儘捨置物ならは、末之邪魔たるべしと思召、色々計策を狙し玉へと、終に空く打過玉ふ、後修理を呼寄毒打にせんと思召、修理方へ使を立玉ふ、其夜修理不思議之夢を見る、年頃廿九斗の女郎、烏帽子直垂を着し枕元に立寄せ玉ふて、汝今度盛岡に行なは再び帰まし、行は無用と有ける、修理夢なから、扨難有御諚にて候得共、是非参らて叶はぬ事にて候故、明日罷立、此末御守玉へと申ける、右女郎宣は、我は此段を守る辨天なり、汝か成果哀に思ひて斯は顕れ来る、是非々々止り玉へと宣て、何方共なく失せ玉ふと見て夢は覚けり、修理は不安と思とも、去る事之あるべきとは不知、翌日十八日森岡へ着けり、御城になれは、利直公御対面、御次に彦六郎家直公御座候ひける、利直公被仰けるは修理事久々にて対面なり、酒一ツと被仰付ける、御次衆兼て用意之毒之酒に熨斗を添へて利直公之御前へ備ければ、利直公盃を取せ酌へ合せ玉へて修理方に遣ければ、修理居たる所を立て、扨殿様には久々にて懸御目、一滴も被上ぬ我等に被下条迚、もの事に一献御請被遊、我等に被下候様と自身に酌を取り土器を御前に備へけれは、利直公驚き玉ひて、彦六郎家直公を被召、修理は従来之持病起り六ケ敷事を言なり、汝是に居て修理として酒宴し慰候と宣ひ御座所を立玉ふより、修理引止奉らんと仕る内に、足はやく奥へ入玉ふ、痛数裁家直公父上之命に依て酌を請て献を合て修理方へ指、其席に野田内匠居て修理より内匠迄指、互に指しつ被指つ呑けれは、暮頃より宿所へ帰り、家直公直に御病気毒酒に懸り医者毒けし色々被指上共、其印なをく、痛敷哉正月十八日之夜御年十六才にて終に隠れさせ玉ふ、内匠も其夜死す、修理は翌朝死せり、斯る憂事に逢も前生之因果とは知ねとも浅間数次第と風聞せり、 一、右之事は可秘人之不知事なり、彦六郎家直公御死去を秘して御食傷にて御死去と風説致候由、 一、修理を三戸御城之鶴平より下の川ぇ落さんと被成候事 一、栗谷川にてしない折に事 一、都山にて尾崎堀切之時はね申候事 一、春打之時門之かけに討んとする事 一、野田内匠無據相伴死る事 右救度御ねらひ被成候と言、漸々毒酒にて御殺被成候得共、御手敷成御事なり、余り御不了簡之被成方と密々風説有 註4 ◇ 『祐清私記』を検証する 『『祐清私記』は、利直の子彦六郎家直の死去は慶長八年正月十八日夜とあり、『公子伝』によれば「家直君、兵六郎、後大膳経貞、又経直、母今淵将監政明妹、慶長三年福岡に生まれる、同十八年正月十九日福岡にて卒、十六歳云々」とある。正月十八日夜と正月十九日は同じであろうが、ちょうど十年を違えて記録している。ちなみに、他の記録はほとんど『公子伝』と同じである。 野田内匠については慶長八年正月十八日夜とあるものの、『参考諸家系図』二の野田内匠直盛の譜には「信直公に仕ふ、利直公糠部郡姉帯村、稗貫郡新堀村に三百石を賜ふ、(中略)世子重直公に眤勤す、寛永元年十月十四日死」とし、この事件との関係は否定した形である。 中野修理直康について、『参考諸家系図』七は「文禄三年四月四日夜、今崎城において従弟九戸隠岐と閑談数刻に及ぶ、隠岐俄(にわか)に刀を抜て直実を刺す、その故を知らず、時に想吉正康即座に隠岐を討ちてこれを殺す(中略)同六日死、四十二」とあり、『祐清私記』の説とはだいぶ違う。しかし、関連して二代目を相続した直正の譜を見ると「始正康、想吉、虎丸、吉兵衛」とし、没年について「寛永元年十月十五日郡山城に死、四十五」と記している。従って、これも一見、関連なさそうだが、実は野田内匠直盛と中野吉兵衛直正の忌日が一日違いであるのは単なる偶然のことであろうか。妙に引っかかるものを感じる。 関連 (中野・野田氏の寛永元年死亡説に異説) 『増補国統年表』寛永元年十二月二十三日条に「花巻城主彦九郎政直君卒、毒酒の為也、年廿六、宗青寺」と散見。『内史略』前17は、これをさらに具体的に「寛永元年彦九郎政直公十月十三日卒去、この時野田内匠直盛同十四日に死、中野吉兵衛正直同十五日に死、右両人彦九郎様御心易く時々御咄に罷出、十月十三日の夜も罷出、何も毒酒にて死去」と伝える。『内史略』の説は、推して『参考諸家系図』の出拠史料と同類の書と窺える。 しかし、南部家系図は彦九郎政直の病死は寛永五年七月二十六日と伝え(忌辰録等も同じ)、野田内匠直盛について『系胤譜考』に記載なく、『参考諸家系図』二は寛永元年死とするが、信直公以来御代々家弼(『篤焉家訓』巻之一)には承応元年没とある。 少なくとも国直事件を伝える事実は寛保年間にはあったことは『祐清私記』が書き留めていることで確認できる。しかし、登場者がダブル政直事件の記載はない。つまり後世になって創作された事件と思える。この事件については、花巻地方では、仙台伊達氏に内通していると疑っていた葛西氏の旧大臣であった柏山氏を毒殺するために利直の息彦九郎政直が犠牲になったとする伝えもある。 忌まわしい事件の連続で心めいるが、『内史略』后2に「重直公御舎弟利長寛文二壬寅年正月、桜庭安房宅にて毒酒にて御卒去と云々」とある。 中野吉兵衛毒殺説の真偽を問うときに関係がない事件ではあるが、、後世にいたり、中野吉兵衛事件をベースにして、何れも重直が拘わったかのよう口振りで、まことしやかに政直事件、利長事件が語られていることを考えた時に、時代設定は古くなっているものの、何かしら一連の作為を感じてならない。 註5 ■ 『参考諸家系図』 九戸右京信仲九男 直康 又直実・始康実 初九戸弥五郎・中高田吉兵衛 後中野修理 母八戸但馬守信長女、 幼にして晴政公にに仕ふ、殊寵を得たり、嘗て竊に間諜の命を蒙って志和に出奔す、斯波民部太輔詮真に仕て其女婿となる、依て同郡高田村に采邑を得て高田吉兵衛と改む信直公天正十四年間を得て三戸に帰る、命に依て岩手郡不来方の荘中野城を守る、東西中野村を賜て食邑とす、是に於て中野修理と改む、不来方城代福士宮内秀宗と相並て斯波氏を謀る、制度を任せらる、同十六年直康の謀略に依て斯波氏滅亡す、其他悉く公域に属す、皆是直康の功也、故に其報賞として同郡片寄村高田村二千五百石加賜す、前に合て三千五百石也、移て片寄村今崎城に居る、且郡中の制度を掌る、同十九年兄九戸政実叛逆ノ時心を傾て奉行す、故に聊疑れず、且九戸城中の案内を知るを以て上方諸将の郷導をなし、又人数配り政口を定等の大功有、九戸役散て後賞を賜ふといへども固辞す命を拝せず、是を以て終身寵遇衰へずと云、文禄三年四月四日夜今崎城に於て従弟九戸隠岐と閑談数刻に及ぶ、隠岐俄に刀を抜て直実を刺す、其故を知らず、時に二男想吉正康即座に隠岐を討て之を殺す直康死せずと雖も傷甚深し、即日之を訴ふ、公大に驚且歎情して印書を賜ふて慰療せしむ、其書達せずして同六日死 四十二、林庵知公禅定門、同郡山村長岸寺 妻 斯波民部大輔詮真女 ■ 志和郡内における吉兵衛による寺院建立 鳳林山長年寺の寺伝によれば、加賀國石川郡堀川郷(石川県金沢市)にある龍光山宗徳寺の四世大陰彗善禅師が文亀二年(一五〇二年)三月九戸郡に来郡の折、郡守九戸氏の求法により伽藍を建立して長興寺と号したのに始まるという。中野吉兵衛康実は兄政実一揆の後、主家の許しを得て志和郡郡山に一寺建立久保山長岩寺と改称、さらに寛永六年(一六二九年)三代元康の代に封地転封のときに新封地同郡彦部村に随転させ、寺号を近城山長徳寺と改め、更に四代直保が、延宝二年(一六七オ四年)に秋田佐竹藩との藩境論争の最中、秋田境警備の任をおびて鹿角郡花輪村へ封地替えとなり、花輪城代に任ぜられたた時、寺も随転してて鳳林山長年寺と号したと伝えている。 既述の各寺院における寺伝には微妙な違いが認められるが、表に纏めてみた。以下の通りである。 | 長輿寺 | 長岩寺 | 長徳寺 | 長年寺 | 創建 | 文亀二年 | 永禄三年 干支は文禄三年 | 康永五年近城軒を創建 | 文亀二年 | 間山 | 大陰恵善和尚 | 不明 | 無底良常和尚 貞和四年水沢黒石に正法寺を創建 | 大陰恵全和尚 | 開基 | 九戸 | 志和市之進正明 | 大巻の葛原義敬 | | 中興 | | 文禄二年 | 文亀二年 | | 中興開山 | | 梅岩嶺雪和尚 | 大陰恵全和尚 | | 中興開基 | | 中野修理康実 | | | 二世 | 大虚舜徹和尚 | | 大虚舜徹和尚 | 要岩正的和尚 | 三世 | 融山文祝和尚 | | 融山文祝和尚 | 大樹正棟和尚 | 四世 | 嶺廓永鷺和尚 | | 嶺廓永鷺和尚 | 山月慧海和尚 | 五世 | 俊応聞全和尚 九戸軍記などは薩天和尚 当代に長岩寺が建立さる | | 岳応林賀和尚 | 岳応林賀和尚 | 六世 | 真宕了堂和尚 | 開山 梅岩窟嶺和尚 | 順閲弘永和尚 | 梅宕穎雪和尚 | 七世 | 的叟白端和尚 | 二世 香室嶺応和尚 | | 白応宗意和尚 | 八世 | | 三世 通眼俊達和尚 当代に長徳寺建立 | | 暁屋東分和尚 寛永六年長徳寺を建立 | 九世 | | | | 香室嶺翁和尚 | 十世 | | | | 南外楚雲和尚 延宝二年長年寺を建立 | その他 | | | 明治初年まで長岩寺末 | | 本寺 宗徳寺について 開山 玉叟良珍禅師 相模の人 普済善救禅師の高弟 永享四年加賀能美郡 粟津に龍谷寺を創建、「洞上連灯録」は永享四年に作る。文禄三年小 幡宮内大夫の求法により石川郡堀川郷に移転、龍光山宗徳寺と改称す 明治四十五年弘前市耕春院と合併し耕春山宗徳寺として現在に至る。 二世 龍伝恵全和尚 越後柏崎に香山寺を開山 香山寺は名久井・法光寺、 盛岡・報恩寺の本寺(報恩寺は当初法光寺末としていた、寛文十三年 藩主重信の意志で改められた) 三世 宝山正珍和尚 八戸左近将監の帰依により応永十八年八戸に大慈寺を 創建、遠野大慈寺の前身、八戸藩創立により八戸にも建立、八戸但馬 信長三男大樹正棟が再興(長年寺二世と同名、同人ヵ) 四世 大陰彗善和尚 九戸氏の帰依により長輿寺を創建 五世 大虚舜徹和尚 長輿寺二世となる 十三世 明室禅哲和尚 弘前に津軽為信の帰依により耕春院を創建 明治四十四年四月三十日、耕春院と宗徳寺が合併、耕春山宗徳寺と号し、 大正二年二年新伽藍の竣成をみた |