南部根元記考
「岩手史学研究」no13 太田孝太郎・草間俊一

    一
 再部根元記は南部藩成立の由来を述べたもので、初代光行が源頼朝より糠部の地を恩給せられて、この地に下向して以来、時に盛衰はあつたが、二十六代信直の時前田利家を介して秀吉より本領安堵の朱印を受けたこと、その後和賀、稗貫一揆、九戸乱の平定により、信直の勢力が確立するに至つた事情を物語るものである。殊に最初の「信直公御家督之由来」は鎌倉・室町時代の北奥の地の歴史を物語るものとして重ぜられ、その後の南部藩に於ける諸種の史書は何れも根元記をもとゝし、又元禄年間に著わされた奥羽永慶軍記も根元記に基ずいて書かれたものと考えられ、明和年間の『伊達秘鑑』も亦この事によつて北奥の歴史事情を述べていることは明らかである。然しその記述の内容に於いて鎌倉・室町時代の北奥の歴史の史実について、何れ事実を物語るものであるか疑間である点については草間稿『南部藩の歴史について」に於いて述べた所である。それは兎も角として、近世諸藩の成立に於いて諸藩がその藩の由緒を述べ、藩初の功績を述べたことは一般に見られる所である。この結果多くの記録物が成立したのであるが、南部根元記も亦かゝる記録物の一つとして考えられるのである。然し南部根元記には諸種の異本があり、それ等が何時頃、如何なる形で成立したものであるか明らかにされていないので、それ等について考察して見たいと思う。

    二
 南部根元記は江戸時代に刊本となることはなかつたが、今日残る写本は二十余程を数える事が出来ることは、藩政時代相当流布されたことが考えられる。南部根元記の諸異本を見ると、その項目に於いて少ないものは八項から、多いもめは五十項に及ぶものがあり、その書名も、「南部根元記」と呼ぶものゝ外、「奥陽糠部高源記」「向鶴南部軍記」「南部旧記録」「東奥南部由来記」「東奥軍記」「信直記」「信直実記」「九戸軍記」「九戸実録」「貞享記」「吾妻物語」等十一種を数えることが出来る。然しその中で五十項に及ぶものは「増補南部元記」 とある増補本で、信恩までを増補してあり、三十三項に及ぶ「南部根元記」及び 寛政七年の奥書のある「南部根元記」は三巻本で、何れも第三巻は利直時代の岩崎一揆、大迫一揆及び重直・重信の時代にまで及んでいる。従つてこれ等を除外すれば、「信直公御家督之由来」から「九戸落城」と征討諸将の『平泉一覧』に筆をとゞめるまでの記事の内容は大体類似している。然し大体類似していると云つても、その記事に幾分の相異、出入があり、項目も八項から二十二項までの相異がある。今その記事の内容と項目の順序を見ると、大体次の表に示す四系統に分類出来ると思う。


 元文本根元記(南部)叢書本信直記向鶴南部軍記
南部信直公御家督之由来信直公御家督之由来この項小題なし(南部三郎甲斐国より三戸え入部之事)
信直公馬場野館的射並九戸九郎討れし事なしなしなし
天正元年九戸一乱之事なしなしなし
高田弥五郎南部へ帰参之事高田吉兵衛南部へ帰参之事高田南部帰参之事高田吉兵衛南部へ帰参之事
北左衞門佐北国へ使者之事北左衞門佐北国え使者之事同左北左衞門佐北国え使者之事附斯波没落之事
志和没落之事同左斯波没落之事 
大浦右京自立津軽騒動事津軽騒動之事 同左津軽騒動之事(附郡司政直逝去之事) 
比内合戦之事なしなしなし
信直公小田原へ参陣之事信直公小田原参陣之事信直公小田原へ参陣之事なし
関白並秀次公奥州御発向殿下並中納言秀次奥州下向之事なし
葛西大崎所々一揆蜂起之事同左同左(但、附録として末尾にあり)なし
和賀稗貫一揆蜂起同左同左和賀稗貫蜂起之事(鳥谷崎之事)
九戸反逆之事同左同左三戸九戸戦之事
(九戸謀叛を企事附信直公御出馬之事)
九戸籠城付上方勢下向之事上方勢下向之事根曽利姉帯取出没落之事上方勢発向附姉帯根反之城没落之事
(上方勢下向之事附退治之事)
根曽利姉帯取出没落之事根曽利姉帯取出没落之事
波打勢引退之事波打之勢引退之事同左波打引除諸軍勢陣取之事
(諸軍勢陣取並九戸責之事)
九戸追手搦手軍之事なしなし
諸勢陣取付城攻之事同左諸勢陣取付城攻之事(九戸落城之事)
九戸没落之事九戸落城之事九戸落城之事
九戸降人誅戮之事附平泉之事同左同左九戸落城之事
九戸城改福岡地図町間福岡古城間数なしなし
備考 向鶴南部軍記の欄の( )は目次に小題に載せてあるけめど、本文の中の小題なし、従って目次は十一項目なれど本文は八項目なり


 元文本は元文六年の奥書のあるもので、上巻のみで下巻は失われている。これは当時古本、松川本、和田本、松井本の諸伝本があり、それ等諸本との異同を注記せるものである。その詳記によつて見れば、和田本、松井本(工藤註・松川本ヵ)は幾分語句の相違はあるが大体同系統の本と思われる.元文本は主として松井(川ヵ)本によつたものゝようである。然し別に著者家蔵の一伝本があつて、それが松井本と類似していると見る方が良いかと思う。この下巻は失われているが、宮崎文庫本(現岩手大学所蔵)の文政八年の奥書のある南部根元記二巻本は末尾に「享保九甲辰年十二月五日」の奥書のある根元記の写本で、元文本の註記より推し和田本と云われる系統の本の様であり、下巻の大体はこれによつて知ることが出来る。(但しこの文政本はその目録に『葛西大崎ワサト抜』とあり、葛西大崎一揆の一項を除いているが、元文本はこれを載せている。)国史叢書の「南部根元記」はその本文の奥書によつて文政本と同系統のものであり、その記事内容は全く同じである。国史叢書本の「附其後」以下の追加は、その解題によれば寛延年間の後附としているが、文政本にはこれがなく、元文本には後附の初めの「八戸南部氏の事」と「四戸氏に関する記事」は、「松川本曰云々」として、第一項の記事の末尾にあるものと同一で、寛延年間以前にあつた事は明らかである。尚その他の九戸戦に関する批評は、元文本の下巻が失われている故、元文本にあつたか否か不明である。

 南部叢書本は「元文二歳五月吉日写之」と奥書のあるものを底本としているが、南部根元記は多くこの系統に属し、古いものでは宝永三年本寛保年間本、その外天明本寛政本等の書写年号の奥書のあるものの外、年号の奥書のない諸種の写本を見る。この中にはその目録に、「葛西大崎所々一揆之事」が「九戸叛心之事」の次にあり、又「諸勢陣取附城攻之事」と「九戸落城之事」が前後しているものが二本あるが、本文の記述の順序は叢書本と変りがない。

 信直記は「元禄十丁丑年七月書写之 藤根吉当 改良金」と奥書のあるもので、最も古い記年をもつ写本である。これには「信直家督之由来」の項に小題がなく、「葛西大崎所々一揆之事」項がなく、附録として書いてあり、又福岡城についての記事を欠いている。この系統のものとしては、記年はないが「吾妻物語」と顕する「静廬江沢氏蔵」「竹谿源義蔵書」の二蔵印ある一尺の大本で、遒麗な文字で書かれた見事なもの、「信直実記」と顕する「弘前医官渋江氏蔵書記」「青松」の二印のあるもの、又安政の頃の筆跡と思われる「寅八月吉祥.小山田宇太郎信奉」の奥書のある南部根元記は、享保十二年の奥書のある根元記の複写本で、尚その後に書体を異にして、「福岡宮城間数」を追加している。この外に「始に貞享記とあるを以て題名記し置ぬ、原本の書さま不穏文あれど、其まゝしるしおくもの也 明治十四年六月」と奥書のある「貞享記」は、南部利剛の手写によるもので、また之れに属する。

 最後の「向鶴南部軍記」は「弘化五歳三月」の奥書のあるもので、「信直小田原参陣」の項と、「秀吉並秀次奥州下向」の項を欠いて居り、本文の小題は目次の小題と相違せるものであるが、「九戸本覚」はこの系統に属する。これには古い写本もなく、且つその記事の内容も当時存した根元記の記事を抄出した様に感ぜられる故、一応これを除外して考えたい。

   三
 次に記事の内容について見ると、大体は類似しているが、幾分の相異が見られる。信直記系統のものには最初の書出しに「所謂国有聖人、則其国治、家有賢人、則其家必齋也。」(仮名交じりのものもある)と「爰に南部大膳大夫源信直と云人有けり云々」の上に冠して有り、又第一項の小題はないが、家督の由来の記事に於いて、光行入国の際三戸の地士の奉迎のことを述べて南部私大の由来を説明し、又守行の代より竹菱(ママ)の家紋を双鶴に代えるに到つた由来を述べている。「貞享記」には第一項にも「南部家督先祖由来之事」と小題を附しているが、その原本とせるものにあつたか否かは不明である。叢書本系統でも「東奥軍記」のみは、「信直記」の第一項と記事の内容類似するが、元文本では和田本、松川本の双鶴を家紋とする由来の記事を除いて、他は何れも以上の点に触れていない。元文本に云う古本もその詳記にない所を見ると同様と思われる。又「信直記」には藩主に対する敬称がなく、これは古い写本及びその形を伝えると考えられる。「吾妻物語」「信直実記」「貞享記」何れも同様で、たゞ「吾妻物語」だけ末尾に「信直公居城になされけると云々」とあるだけである。国史叢書の南部根元記も敬称のない所が多いが、「東奥軍記」はじめ他はすべて敬称を用いている。

 元文本はその項目が多い故、後の増補によるものと考えられようが、その記事の内容を見ると単なる増補でなく、相異なれる記事があり、にわかにかく断定することは出来ない。第一項の「信直公家督之由来」に於いて秋田との合戦を義政の代の事とし、晴政の代の記事に於いて一旦養子とした信直との不和のいきさつから信直を謀殺せんとしたこと、又実子晴継が晴政に先立つて死去せりとし、そのため晴政は落胆して家宝什類の焼却を行つたなど、家宝什類の焼失を天文年間の火災による焼失によるとする一般の説と異なる伝えを記し、天文八年の火災による焼失の伝えを和田本の一説として註記しているにすぎない。その外、他事にない記事が多い。而してこれらがその当時、或はその後の他の史書に記されていない伝えである事を考え合わすと、元文本のみがもつ別系統の伝えであることが考えられ、単なる後補によるものでないと思う。

 この事は「北左衛門佐北国へ使者之事」の項に秀吉の九州出征軍の陣立の記事があり、これが後に述べる根元記の成立に当つての重要な資料と考えられる「北松斎覚書」に類似する点など、覚書の姿を伝えている事と併せ考えて古い姿を残すものであると思う。その事は又前田五兵衛を利家の舎兄(和田本古本松川本は舎弟)とするなど、「覚書」及び「信直記」系統の古い形のものに類似し、「信直公小田原へ参陣之事」に津軽為信の老母の見参の記事を詳述し、又「志波没落之事」の上に加えた数行の文章など、古い伝説の形態を整えて居り、他の根元記と別系統のものとして成立したものと考えられ、その増補も単なる後補によるものではない。
                                         
 次に南部根元記の古い形のものが如何なるものであつたかについて考案して見ると、「福岡古城之間数之事」は「信直記」系統では享保十二年本にはじめて見られるもので、古い形の写本には之れがないことは後の追加によるものであることが考えられ、叢書本系統でも古い写本である宝永三年本、寛保二年本にはこれがないことは後の追加であること明らかであるが、元文本系統のものには何れもこれがある。

 「葛西大崎所々一揆之事」の一項は「信直記」は附録としてあるが、「吾妻物語」「信直実記」「貞享記」には之れがない所から考えると、後の追加であると思われるが、叢書本系統では元文本の詳記にある古本が何時頃のものであるか不明であるが、その記事に詳記のない所を見ると古本にはこの一項があつたと考えられ、宝永三年の「東奥軍記」にもこれがある所より見れば、この系統のものには古くからあつたものであり、先に述べた「北松斉覚書」にもこの事に説き及んでいる所を見ると、この一項は後補による追加とは考えられず、この記事の有無によつて著作の年代の前後を論ずることは出来ず、「信直記」系統とは別系統と考えねばならない。元文本系統では文政本が「ワサト抜」いた主旨は明らかでないが、本来は存在していたものである。

 根元記は何れも九戸乱の平定後、征討将士の帰途平泉一覧のことを述べ、それにつゞいて「平泉之由来」の事に説き及んでいるが、信直記系統のものでは「信直記」を除いて、「吾妻物語」「信直実記」「貞享記」何れもこれを欠いている事は、信直記系統のものから見ればこれも後補によると思われ、この系統のものでは「信直記」は最も古い形のものとは云い難い。他の系統の諸本に「平泉之由来」の記事が本来あつたのか、後補によるかは不明であるが、宝永三年の「東奥軍記」にはこれが入つている。

 以上によつて考えると、享保九年には根元記には三種の系統の異本があつたことは明らかであり、更に遡つて「信直記」の書写せられた元禄十年にも三種の系統の異本があつたことは、元文本が古本としたものが、叢書本系統のものとすれば、元文年間に古本とするものが、それより四五十年遡ると考えて差支えなかろうし、又叢書本系統の宝永三年の「東奥軍記」の奥書に「右の書は北氏の家宝也、号南部根元記と云、亡君重信公御代初て此書干世顕る」とあるによつて明らかである。又元文本もその内容について上述した如く、古い形をもつ別系統の根元記であることが考えられ、元禄十一年の「奥羽永慶軍記」がその内容より見れば、この系統の根元記を利用している事より明かである。

     四
 元禄期に於いて既に三種の系統の存した南部根元記は、何時頃成立し、そしてどうして三種の系統の異本となつたかについて考えるに当り、先ず夫々の異本が何時頃まで遡り得るかについて考えて見よう。「信直記」は元禄十年の書写本であるが、この種の系統のものとして最も古い形のものでないことは、前述の平泉の由来の記事のあることによつて知られる。これについて前述の「貞享記」は明治の写本であり、その原本が如何なるものであるかわからないが、「信直記」より古い形を伝えている事を考えると、その題名の如く貞享の頃書かれたもので、かく名付けられたと考えられる。然しそれが初めて書かれたものか、又己に抄本として伝えられてあつたか明らかでないが、本来題名が無かつたものを貞享年間書写した人が便宜からかく名付けたものと考えられ、「貞享記」が最初のものでなつたことは同種のものに「吾妻物語」「信直実記」があることによつても知られる。

 叢書本系統では元文本の古本が何時まで遡り得るか明らかでないが、「祐清私記」を書いた伊藤祐清の手写にかゝる宝永三年の「東奥軍記」は、前に引用した如く奥書に重信公の代に初めて世に顕わるとあり、少なくとも元禄四年以前であることは明らかである。更に「平泉由来之事」の記事のあることは、前に述べた如く後の挿入と思われるから、この種の根元記も元禄以前に遡ることは明らかである。元文本系統のものも、「奥羽永慶軍記」との関係より見て元禄以前に遡ると思われるが、それ以上の事は推測することが出来ない。以上今日伝えられる根元記の諸写本より、その存在した上限の年代を推測したのであるが、その何れがもとになるものであるかについては、これを明らかにすることは出来ない。
 
 次に根元記の記事の内容よりその成立について考えて見ると、根元記の記事の内容は、信直家督の由来の南部氏の系譜、北松斎が加賀前田氏に使した事から信直小田原参陣までの記事と九戸争乱の記事の三つに大別され、その間に志波平定、津軽叛乱、葛西大崎一揆に伴う鳥谷ケ崎一揆のことが挿入されている。以上について南部氏の系譜はしばらくおき、慶長十七年北松斎自筆の覚書」と「九戸軍記」が重要な資料となつている。南部富哉氏旧蔵のもと北家蔵本の「北松斎覚書」は自筆本であるかどうかは疑問の余地あるが、奥書に「干時慶長十七歳六月吉日」とあれば、この時代に近いものであると考えて差支えないであろう。

 「九戸軍記」は多くの異本があり、何時頃出来たか明らかでないが、北氏旧蔵の「九戸記」は南部家旧蔵の元禄十二年藤根吉品の筆写の「九戸軍記」と同一内容のものであり、「九戸軍記」の最も古い形をもつたものである。この「九戸軍記」の成立を考える時、「氏郷記」との関係が考えあわされる。「氏郷記」で最も古いものは伴信友の識語のある史籍集覧所収の「蒲生氏郷記」で、氏郷の家臣清田出雲守の覚書の形をとつて居り、いま伝わるものは神戸道門の加筆によるものである。これが最初に出来たのは元和寛永頃と考えられ、群書類従本は信友の識語によれば更に後入の増補潤飾したものである。史籍集覧はこの「蒲生氏郷記」の外に、「氏郷記」三巻本を収めているが、この三巻本は識語によれば寛永十年頃の述作とおもわれる。また国史叢書所収の「蒲生軍記」は解題に岡田惟中の著とあるが、内容は集覧本の「氏郷記」と同一である点より寛永中の述作であること疑がない。

 「九戸軍記」は「氏郷記」を潤飾して、九戸の乱の事を書いたものであると思われることは、「夫国ニ在聖賢則ハ其国光レリ、在奸佞則必発乱トカヤ」の書出しは、「氏郷記」の「夫日出而天地明也、花開而山林紅也、国ニ聖人在ル時ハ其国必治リ、家ニ賢人生スル時ハ其家必光レリ矣」と類似し、その記事の内容に於いても「氏郷記」の要点を抄出し、その中に南部関係の記事を挿入している事によつて明らかである。尚「九戸軍記」はその記事の中にも、九戸の乱を誇大し、政実以下九戸将士の奮戦の有様を物語ると共に、南部の一族九戸氏の末路に同情の思いを寄せているのを見る。これは「氏郷記」の記事が余り同情のない筆致で書かれているのに対して、九戸に関係ある人によつで書かれたものである。

 この事は浄瑠璃本の形をとる明暦二年の「九戸軍記」の序文に「九戸左近将監政実とて勇猛乃武士宮野乃城主として天下の耳目を驚かす、勢ひ世上に損ひし人なりしに、一煩の滅亡乃由来まちまちにして一答ならす向も………」とあるのはこのことを良く物語ると思われる。而して根元記は「九戸軍記」に基ずいたと考えるより、直接「氏郷記」に基ずいたと考えられる点が多いがその述作の精神に於いて「九戸軍記」と同様であること思うと、「氏郷記」の成立した寛永後間もない頃に成立したと考えたい。

 最後に南部氏の由来について考えると、寛永十八年の諸藩系図の書上と密接な関係があることが考えられる。この系図の書上げに際しては、南部藩に於いても自家の由緒に対する関心が高まり、根元記を述作せしむる大きな動機になつたと考えられる。而もそれも元文本に見る如き異説の存する所を見ると、当時南部藩に於いても系図についての一定の意見が纏まらなかつた時代を反映しているとも考えられるとすれば、根元記の成立も寛永十八年に近い頃に書かれたものか。而してその時一人によつて書かれたと見るべきか、かゝる歴史の穿鑿に関与した人々によつて夫々書かれた明らかでないが、最初「覚書」や「氏郷記」をもとゝして、割合に早い時代に異本が成立したと考えられる。信直記系統のものは藩主に敬称のない点、その他「覚書」や「氏郷記」の体裁に近い事を考えると古い形を伝えていると思うが、叢書本系統の「葛西大崎一揆」の記事は「氏郷記」に要述する所であればこの点に於いて新しいものとは云いがたく、元文本の九州出陣の陣立の記事も「覚書」の形を伝えるものであればこの点に於いて新しいとも云い難い点をもつている様に思われる。従つて異本は成立するにしても余り時代の差を考えることは出来ない様に思う。

    五
 南部根元記の題名について考えると、「東奥軍記」の奥書に「右之書世間南部根元記ト云フ。御家之魂書也、仍号南部根元記、為風塵、尤恐畏、依之或人東奥軍記ト改、尤可為秘蔵者也とあるのは、根元記の本質を最も良く云い現わしていると考えるが、九戸の乱を中心として考えると「九戸軍記」「九戸実録」の名は、亦その一面の本質を云いい現わしたものであると考えられる。又「北松斎覚書」が「当代生替りの若輩衆ニ有間、被存間敷」を思い、「見来の覚に吉かせかきしるす者也」とあることを思うと、それが御家の魂書としての意味をもつたものであり、「覚書」と云う題名があつたものでないことを考える時、それから発展して書かれた南部根元記も明確な題名を付けることがなかつたため、「貞享記」の如く筆写年号を附する結果ともなつたと考える。「吾妻物語」の題名も同様に考えたい。「信直記」の題名はこの本の記述が信直一代のことで、その後の利直時代の岩崎一揆等に及んでいないのでかく名付けたもので、 「氏郷記」の題名に倣つた と考えられる。尚南部根元記が一巻本か、二巻本であつたかについて考えると、氏郷記によつた九戸の乱を中心とする部分と「覚書」、によつたそれ以前の二つの部分より構成されて、二巻本となつたと考えられ、「東奥軍記」外はこの体裁を残しているものが多い三巻本は何れも利直及びその後を増補して一巻としたもので、本来の形でないことは前にも述べた如くである。
(一九五二・七・二五初稿一二・二〇改稿)


『南部根元記』の編者は獅子内杢則昌か


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