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| 書評と紹介 『青森県史 資料編4 南部1 南部藩領』 |
| 盛岡大学長 加藤 章 |
| はじめに 本書の「青森の地を『みちのく』という視点からではなく、東アジアにおける北と南の文化が接触し融合する地としてとらえ直してゆこう」(盛田稔「刊行にあたって」資料編 近世1)という大胆な宣言は、旧版「青森県史」(1926年)の時代には思いも寄らなかったであろう広く大きなスケール、そして戦後歴史学の中でも1970年代から80年代にかけてのめざましい進展をみた「北からの日本史」研究の成果の上に自信をもって打ちだされた編さん方針といえよう。 さらに本編は「盛岡藩領」といっても、岩手県域をのぞく現青森県域が主ではあるが、藩主南部氏一族にとつては墳墓の地であり揺藍の地でもあるだけに、今後新しい岩手県史を編さんするにあたっては、本編の豊かな成果に大きく依拠せざるをえないことは明らかであろう。 とくに「資料編 近世1 近世北奥の成立と北方世界」の第1部に収められた編年史料(天正15年から寛永20年)にみられる整然たる綱文と文書、記録、編さん史料は、まさに「近世初期北奥の情勢」そのものを活写しているといってよい。それだけにそこから生みだされた「近世4」の盛岡藩の展開過程をみると、その後いかに幕藩体制に組み込まれていったかが明らかになる。それと同時に転封されなかつた外様大名南部氏の特色ある地方知行や馬産の構造、北方大名としての凶作・飢饉の苦悩と蝶夷地警備問題などをかかえた地域社会の変貌が浮き彫りにされるような史料の横成になつている点はすぐれた本書の特色となっている。 二、内容の構成 本巻の構成は七章からなり、次に章節を示しておく。各章の初めに詳細な解説がついている。( )内は節の小項目数を示す。 第一章 盛岡藩政の確立 第一節 幕藩関係の構築 第二節 領域の確定と隣藩関係(2項目) 第三節 領内地方支配機構の整備 第二草 地方支配と地域社会 第一節 領内検地と新田開発(2項目) 第二節 地方知行制と所給人制(2項目) 第三節 元禄飢饉後の地域社会(2項目) 第四節 村と町(4項目) 第三章 交通と流通 第一節 街道の整備と村々(3項目) 第二節 海運の発達と流通(3項目) 第四章 諸産業の発達 第一節 農業 第二節 山と林業(3項目) 第三節 水産業(2項目) 第四節 醸造業(2項目) 第五節 各種産業 第六節 市と商業 第五車 馬産と牧 第一節 藩牧と野馬の管理(4項目) 第二節 里馬の飼養と藩の政策(4項目) 第六章 信仰と宗教 第一節 藩の宗教政策の動向(3項目) 第二節 仏教寺院(2項目) 第三節 神社信仰(3項目) 第四節 修験道(2項目) 第七草 北方問題と地域社会 第一節 災害・凶作・飢饉(3項目) 第二節 蝦夷地警備と領内海防(5項目) 第三節 百姓一揆と打ちこわし 第四節 藩政の動揺と地域社会(3項目) 第一章「盛岡藩政の確立」では既刊「近世一」を受け、正保元年(1644)から寛文四年(1664)までの盛岡藩の幕藩関係の確立過程をとりあげている。とくに基本史料としての「江戸幕府日記」は、もつとも正確とされる姫路藩主酒井家の伝来本(「姫路本」)を底本とし、「柳営日次記」(内閣文庫本)などで厳密な考証をふまえた精度の高い編年史料といえよう。それに盛岡藩側の「家老席日誌 雑書」を対照させることで、対幕府関係や領域確定さらに八戸藩分立、領内「通」制度成立などの経過がより明らかになつた。とくに三代藩主重直の跡目を定めぬままの死去による相続問題に関して、従来から種々の解釈論があり、新史料が期待される所であつた。「柳営日次記」寛文4年12月6日条の頭注原文「山城守養子願之儀、年来及言上可御聞処、其内山城守死去、弟両人有之段及御聞、為同性之間遺領被分下、」(No74)は、幕府側の意図を簡潔に示すものとして注目される。結局、死去(9月12日)から三ケ月ほどの領内の騒動は、かつて参勤遅参による閉門などで改易のおそれがあつた重直の前歴(「近世1」No1125、1128)や、その年5月の上杉綱勝の急死による死後養子の十五万石減封の前例、さらに跡目をめぐる憶測から生じた盛岡藩内の譜代派と新参派の家臣団対立など幕府の決定が遅れたことによる領内の不安が惹きおこしたものであった。さらに分地決定後、盛岡新藩主重信が「山城守跡目と不存、しん儀に御とりたて被召仕候と存」ずる旨のきわめて主観的かつ政治的な意志表示(No90・91)をしたことが後世種々の解釈を生むもととなつたといえよう。 また寛文?元禄期の領内統治法令(No93)は、刊本「藩法集9、盛岡藩上」(創文社、1970)の「御家被仰出」と対比すれば重複もあるが独自の法令も多いことに注目したい。また寛文元年支配帳(No204)も、「慶安支配帳」(「岩手県史5 近世2」746頁)より新しい時期のもので、重直による新規召抱の家臣を多数含む八戸分地直前の家臣団構成を示し今後の分析が待たれる。いずれも「杉沢家文書」「堀内家文書」の史料的価値の高さを示している。 第二章「地方支配と地域社会」では、旧族居付大名たる南部氏ならではの典型的な地方知行の実態を示す新史料が紹介される。 盛岡藩では寛文四年の八戸分地後に領内総検地が行なわれたことが、各地から見出された八冊の名寄帳によつて明らかにされたという。しかし部分的にはそれ以前から知行地中心の検地が行なわれ小高帳も作られていた。(「岩手県史」5巻 近世2 373頁)。また寛文九年(1669)の「与力新田令」(No93)は御家中、牢人、百姓によらず新田開発を奨励し、いわゆる「奥郡」(沼宮内以北)は高百石まで開発を認め、望む者は誰でも召し抱えるとの法令であつた。譜代の家臣はもちろん、「牢人」離として在地にあつたその一族の者も積極的な新田開発を行い、「知行新田」として知行高を増やし、「与力新田」として「与力」や「所給人」の身分と知行を獲得した状況が具体的に示される(No120?143)。 藩政中期における地方知行の実態は、藩内の「諸士」と「在々御給人」から年貢の種類、知行百姓の生活から特産物などまでを記した「書上」(No157、164)によつて知ることができる。しかし「所給人」が農村における藩政の末端を担い、新田開発、植林や給人昇格へのあつせんさらには縁組、相続、伊勢参宮などに至る一族内の経営に関わる記録、「諸願書写控帳」(No165)は「所給人」奥山家の果した役割を浮き彫りにさせる史料として注目される。 また「凶年記」(No166)によれば元禄飢饉に際し、藩から幕府への報告と陳情が通り、翌年の参勤御免となつた経緯。また藩政においても城下詰御番の家臣を三分の一ずつに分けて交替制とし、五ケ月または十ヶ月の休息を与えその間知行所にて生活し知行百姓の救済にあたった例など興味深い。 盛岡藩の村には肝入が蔵入地と知行地のそれぞれに置かれ、年貢、諸役銭の上納や宗門人別帳も二系統で作られた。貢納形態は充分に把握できないが米と豆のほかきわめて多様であり、水稲経営を主にできない地域だけに金納(金目高)化が目立っている。しかし知行百姓の所務(No287)には年貢の外に柴、杭、薪、萱など現物納や労働力提供分の日雇銭、舫金までが課せられている。 第三章「交通と流通」では、藩政前期の交通整備状況を示す慶安2年(1649)の「大道筋」(No297)いわゆる奥州街道を中軸に内陸、海辺の街道筋の要所に番所が配置された。そこには藩政後期のさかんな商品流通を物語る宿屋の「判鑑」(No200)が準備され、また人馬を継ぎ立てる宿駅もおかれ、駄賃銭も公定されている(No299)。駄送される野辺地向けの長崎御用銅と並んで南部特産の「定例大豆」や臨時買い上げの「別段大豆」など大豆の比重が大きくなり、幕末には二万八千石ほどが上方へ移出されていたことは注目に値する(No31)。流通の活発化とともに人馬を提供する下北地方の農民に過重な負担がかかり、蝦夷地御用の助郷とともに嘉永六年(1853)の「百姓騒動」(No610)の原因となつた。海運ルートは近世初頭には特権的豪商が日本海ルートで田名部や野辺地を中心に活躍したが(No218)寛文期以降の西廻り航路の整備で新たに近江商人の地方進出は両湊をへて松前や太平洋ルートヘつながっている。長崎貿易の中心となる俵物の集荷は田名部の山本屋理左衛門(No37)が差配人として活躍していた。御用銅は正徳新令(1715)以後、毎年六五万斤が課せられ、野辺地湊から西海廻で下関を通り大坂に運ぶようになった(No34)。大量の大豆もその際に運送されている。盛岡藩が御用銅と大豆を通して東廻り海運による江戸市場とともに大坂市場と直結していた意義は大きい。 第四章「諸産業の発達」ではまず農業経営に関する五戸通の蔵入地肝入太田家文書と所給人円子家文書が紹介されている。太田家の農業経営が田打から稲刈までの細かい日程と労働力提供者が記され、中には日雇形式の労働力もみられる。円子家では田植に際して苅数、肥、溜、そして苗の数など詳細に記録され、農業技術史的にみても興味深い。とくに円子家の「日記并日雇帳」(No242)には、知行百姓と思われる二十数人ほどの労働力のローテーションの実態と同時に水車稼や家計収支、さらには「旦那」(当主)をめぐる地域の人々や代官などとの交際関係の中に典型的な所給人の生活をうかがうことができるが、今後の分析をまつ史料である。 山林関係では寛永七年(1630)、知行地から山林・広野が切り離され蔵入地となつたがなかなか実行されていなかった(No244)。とくに新田知行地には植林が多く、むしろ藩側が所給人らの知行主に「取分山」として植林を認めるようになった(No254?257)。 盛岡藩の林業については寛文期、田名部中心に活発な木材の取引が行なわれた。越前・越中の船持の豪商たちが桧山の運上請負人として活動していた(No263?272)。それが宝暦頃には田名部の桧山も切り尽され、取引の船も入らず藩は「御留山」として必要な材木は一本ごとに極印を打つなどの林制改革が行なわれた(No245)。その後植林が積極的に行なわれ山奉行、山守が活動するようになった。天明6年(1786)には藩の財政難対策として全て「運上山」に切り替え、部分的に「御囲山」を残して高価な良木を育成している(No248)。とりわけ、円子氏や苫米地氏のように知行所内において大規模な植林が二分八分の「取分山」制で行なわれ給人の林業経営の一端をうかがわせている(No253?257)。 幕末期困窮する知行地百姓が無断でその木材を伐り売却した例(No262)がある。その処分については知行主たる円子氏にまかされた。一種の裁判権が知行支配権に含まれていたことを物語るものであろう。 醸造業では寛政元年(1789)三戸地方の酒造人の名前と酒造株高・米高の一覧があげられている(No300)。そこでは酒造・休株高が一万六千五百石を超えている。それは数年続いた天明大飢饉のあと、天明8年(1788)に幕府が諸国に酒造米高・株高の調査を命じており、それへの回答とみられる。同様に七戸町盛田家文書の酒造関係史料(No304)も寛政元年の天明飢饉直後の状況を示している特別のものとみるべきであろう。むしろ野辺地町野村家文書(No307・8)が酒造業の実態を示している。醸造に関連しては、幕末期の五戸通の「糀屋仲間」関係史料が六点おさめられている。 ほかに水車稼の運営と搗賃を記す円子家文書、三戸町の紫根の関係史料、さらに近世初頭の定期市の成立過程を知る「雑書」からの史料の中に貨幣流通促進をはかる「銭おろし」の方法が示されている(No331)。また野辺地の野坂家と七戸の盛喜家の「勘定帳」から藩政中期の商業取引の範囲や商品を知ることができる。 第五章「馬産と牧」は「藩牧と野馬の管理」と「里馬の飼養と藩の政策」に分かれる。古代から名馬の産地といわれていた北奥地域は近世以降も盛岡藩の「南部九牧」と総称され藩牧を経営していた。とくに現青森県域がその中心であり、関係史料を集中的に集めて本書の一つの特色を形作っている。 藩牧経営の方法を示す幕府への回答書(No342)はきわめて具体的で、本来野生の馬を三才の春「野取」していたものが、この五十年程は「当歳」(一才)で捕え、里馬のように人家で育てるようになつた。その理由の一つが狼害が多くなつたことによることが知られる(No396?401)。また、「南部史要」にも牧馬について上杉家への細やかな回答が全文紹介されているが、幕府のみならず他藩からも馬の飼育のモデルとされていた(No344)。 藩牧のみならず諸士や所給人の知行地内でも馬の飼育が行なわれ、五戸通の牧田命助、切田宮門、三浦庄七らの「惣馬帳」「持馬帳」「掫駒」史料などは「岩手県史」にも見られない新史料である(No415?418)。馬は盛岡藩にとつて有力な商品でもあり、すぐれた解説にみるように馬産の意義は再評価される可能性がでてきたといえよう。 第六章「信仰と宗教」では藩の宗教政策と仏教、神社信仰、修験道関係を収める。本藩の宗門改は蔵入地と知行地の支配系統別に実施されたとされる(解説)が、町検断の関わり方を示す転出者への送状の様式(No454)が載せられている。現青森県域の盛岡藩宗教関係史料には残存状況に修験道への備りがみられる。それは現岩手県地域の信仰形態と対照的だとされているが、修験道の京都本山との関係史料が多いことなどその意味の追求は興味ある今後の課題であろう。また、領内「寺社本末支配附」(No483)は今後の調査にあたって活用に便利である。 第七章「北方問題と地域社会」はまず十八世紀半ば以降、盛岡藩が直面した宝暦・天明・天保と度重なる災害、凶作、飢饉の甚大なる被害状況を示す貴重な記録史料(No567、568、573)が全文掲載され、この地域が「全国的にみて最も悲惨な飢饉体験を迫られた地域」であつたことを明らかにしている。 つぎに近世後期の盛岡藩を揺さぶった幕命による北方の警備と海防問題関係史料が集中的に載せられている。それは寛政元年(1789)の「蝦夷騒動」勃発以後の「御境松前御加勢」(盛岡中央公民館蔵)(No579?587)の史料によつている。しかし、この事件がシヤクシャイン事件の約120年後のアイヌの蜂起事件というだけでなく、ロシアの南下という情勢下にあつて、盛岡藩より早く幕府が蜂起の情報を野辺地にいた最上徳内から得ていたことなど(「久奈志理擾乱始末」北大附属図書館蔵 浅倉有子「北方史と近世社会」42頁に引用)重要な史料としてつけ加えておくべきだろう。 また松前派兵に当つて増加しつつあつた所給人、与力が多く動員されその役割を果たしたが(No581・2)、それとともに高割人足、御用助郷、新役賦課など多くの百姓が過重な負担を強いられた。その軽減・減免の要求の広がりは一揆寸前を思わせる(No598?600)。 ラックスマン来航後、急速に展開した北方警備体制の中で寛政5年3月盛岡と弘前両藩の関係は「古来之確執之底意有之事」に「堪忍を加、丁寧を尽し、諍論等無之様別相慎可申事」(No587)などと幕府から命ぜられるほどであつた。 このことは北国郡代設置に関わる「田名部一件」(No588)をめぐつて田名部は後花園天皇の康正2年(1456)以来の由緒ある拝領地とか野辺地も南部光行の戦功の地とか、重直没後の家臣団対立の例にみる騒動の不安などをあげ、召上反対運動を通じて南部氏側の歴史意識が高まつていたことと関係があろう。寛政5年(1793)7月、松平定信の老中退任で召上の一件は消滅したが、その後も蝦夷地警備さらに勤番出兵が続き、北方からのロシアの外圧の前には両藩の対立をこえて連携が順調になされている(No591)。 しかし幕府が両藩主への警備負担への見返りとして南部利敬の四位昇進、津軽寧親の七万石への高直しがなされたことが、かえつて南部氏の対立意織をあおった。南部氏は文化5年(1808)二十万石へ高直しと侍従昇進をみたが、弘前藩は一〇万石となり江戸城大広間の席順が上位にあつた(No595・6)。このような問題がのちの相馬大作事件を生むもととなり、さらに両藩の民衆意識の近代化を妨げることになった事実はさけるべきではないだろう。 「百姓一揆と打ちこわし」の第三節は盛岡藩として全国一の一揆数にこたえる膨大な史料集がすでに刊行されているため、未刊の新史料を載せている。三戸代官所給人による「万日記」(No610)にみられるように五戸・七戸通の嘉永6年一揆は、三閉伊大一揆の直後にもかかわらず、なぜか出された厳しい「御改正」に対する一揆であつた。反対して集つた四千人の間に「色々之風説」があつたこと、また「不思儀なる事、御国中一統御百姓共人気不穏」と野田通の農民一万四千人の仙台進入の話が記録されている。「大面倒之由」と城中での「大評定」の情報が記されているが、領主側には三閉伊一揆と直結して拡大することへの不安があり、この一揆の要求はほとんど認められている。 第四節「藩政の動揺と地域社会」においては天明飢饉下の知行所の経営や金上侍の実態つまり帯刀・名字御免にともなう農民としての諸役御免、さらに金子上納による与力、さらに給人への昇格のコースを物語る一連の史料(盛田家文書)が注目される。 南部利敬の藩政改革は寛政から文化期にかけての蝦夷地問題の緊迫化の中で実行された。江戸中期まで「国風」と認められた「在所」のよび名や方言の使用などが、文化期から眉剃り強制やアツシなどの蝦夷地産物の禁令がだされ、「風俗」に関する価値観が逆転する。かつての「国風」が「異風」とされ、「在所」が「御国」とされ、「日本一統之風俗」(No623)を強く意織する様になつている。「南部領」を「盛岡領」と唱えることもその一連の動きであつた(No625・6)。その藩主利敬は幕府の北方政策に対して厳しい批判を行なつている。「公用太切之事と者乍申往古より之家法も有之儀」と北奥の外様大名の意地を見せ、幕府役人は譜代衆であり外様大名とは「家風」も違うことを主張し「国」(盛岡)の為にならないことは「公辺之御沙汰」といえども他にやりようがある筈などと抵抗を続けていた(No623)。 天保三年から連続する凶作飢饉の惨状の中でとくに寺社町奉行大矢勇太の上書はきわめて現実的改革案である(No630)。しかし本史料の後半は藩主利済自身による辛辣な反駁文が大矢の意見本文の項目ごとに「答弁」の形でのべられている点に注目しなければならない。財政改革の論点から外れているものの藩主側の論理や政治意識が直接に読みとれる珍しい史料である。横沢兵庫の上書(No631)にもそれがみられる。 最後の「商人と藩政」(No639?643)は天保の大飢饉と窮乏する藩財政の補填策としての借財方法やその膨大な借財高そして大坂商人を蔵元に領内産物の組織的な専売制と預り切手の通用が保障されていたことを示す(No643)。しかしこの弘化4年(1847)過大な五万二千五百両の御用金に反発した農民・商人の三閉伊一揆がおこり、ついに改革派の家老横沢兵庫の罷免、そして嘉永6年(1853)の三閉伊大一揆へと発展し、藩政の改革と要求貫徹を引き出したのであつた。 三、おわりに 本書は「はじめに」(浪川健治近世部会長)でのべられているように、盛岡藩の現青森県域について「豊富な史資料により、体系化した初めての成果」とよぶにふさわしい内容といえよう。「解説」にもりこまれた最近の近世史研究の視点と新発掘の史料が多く採用され、今後の分析が待たれるところである。それは通史編への期待ということになろうがいくつかの問題点をあげておこう。 一つはこの地域の「与力」や「所給人」にみられるように農民的・商人的性格と武士身分との結合がもたらす社会的ステータスの問題である。 円子家や木村家など「家」共同体として豊かな「家産」を所有し武士身分に上昇する。これを従来の「兵農分離」制の弛緩とみるか、新たなるブルジョアジーの出現とみるか、その存在意義を明らかにすることが課題となろう。 第二に幕末の北方警備をめぐる盛岡・弘前両藩の関係である。古くからの対立意識のうえに外圧の危機を前にして新しい協力関係が生まれはじめていたようにも思われるからである。それは幕府によつて崩されたが、新しい県史として北東北の連帯感につながる要素にも目を向けることも大切であろう。 第三に戦後の社会経済史研究の成果を見直す一つの契機として民衆運動のたかまりに対する領主側の政策や政治意識の分析がさらに必要ではないかという感想をもったことをあげ拙い書評をお詫びして欄筆する。 (A4判、713頁、青森県、平成15年3月刊、6090円) |