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『南部根元記』の編者は獅子内杢則昌か |
工藤利悦 171023 |
『南部根元記』は南部家の始祖光行より天正十九年に至る間の南部家の歴史を記述したものとして古くから知られた史書である。特に二十六代信直の記述が多く、信直が南部家の根元として命名された根元記とさえ称されている。しかし、その解題は『南部叢書』第一冊にあり、詳細な論考は太田孝太郎氏の『南部根元記考』があるものの、著者について触れる所はない。これに鑑みて『祐清私記』様々取集書事の項を見るときに次の二ヵ条がある。 (七条目)
改めて『南部根元記考』を見るときに、元禄四年以前の成立であること。寛永十八年の諸藩系図の書上と密接な関係があると考える。と考証されていることは傾聴に値する。 七条目の「寛永十八年云々」に関連する記述は、『同書』重直公御代のことの項に「寛永十八年六月九日南部家御系図御所望にて御留主居奥瀬内蔵助持参差上申候。私(伊藤祐清)曰将軍家光公正保元年五月諸家系図撰三百七拾巻此時之事可成、御処望之儀古老不及聞由」とも見え、『寛永諸家系図伝』の成立に方長老が拘わった記録として周知の処である。一方、これまで三十四条目は等閑にされて来た嫌いはあるのだが、太田説を発展させて『南部根元記』の成立を記録したことが読みとれる一条であることに意を強くする。つまり、『南部根元記』は獅子内木工によって編纂された信直伝であったことが彷彿されるのである。 獅子内木工に付いて、『参考諸家系図』四十四之巻によれば、獅子内杢、初め鹿討。諱を則昌と称し、鹿討内蔵助則方の二男と見える。その譜は「若年より算筆を好み、その術に通達す。重信公(一本重直公)寛文中に花巻より召出、禄若干を賜う、初め鹿討氏を称したが、音訓を転用して獅子内氏に改め御祐筆となる。現米二十五駄を賜い、後貞享三年八月十駄加増、のち追々加増あり、合現米七十五駄、高に〆て百五十石となる、元禄四年致仕し、同十二年死去」と見える。傍証史料の発見に勤めている昨今である。 |