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「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の作成とその歴史的背景について 2 |
本堂寿一 170709 |
一付・豊臣秀吉朱印状の諸城破却令の実際? 目 次 はじめ (1)「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の概要 ■ 署判者と充(当)所について ■ 信直の居城が埒外とされた理由 ■ 本城候補の不来方と埒外とされた高水寺城の謎< 以上前頁 ■ 存置筆頭とされた烏谷崎城について ■ 志和・遠野・和賀・稗貫の南部領としての確定について ■ 北信愛の署判と「唐之供」の矛盾 ■ 氏郷と信直の付き合い ■ 長政家臣内山助右衛門による館破却 ■ 48城注文の存在と『祐清私記』 ■ 48城注文が遅れて流布した謎 ■ 破却から存置となった厨川城の謎 以下 次頁 (2)48ヶ城注文の写本系列とその内容について (3)破城と不破城はどのように選定されたか (4)発掘調査からみた破却の状況 (5)奥羽仕置における天正18年と同19年の城わりの実際について おわりに ■ 存置筆頭とされた烏谷崎城について ところで、不来方への築城は長政のお墨付き(内諾)であったとは言え、慶長3年まで秀吉の許可なく居城とすることは不可能であった。したがって前述のように48ヶ城注文に「不来方 平城 福士彦三郎持分」とさりげなく記された部分にはそうした意味が含まれていたことになる。対してそうした信直の隠された意趣とは異なり、48ヶ城注文の筆頭に置かれたのが鳥谷崎(以下「鳥谷ヶ崎」とする)城である。すなわち存置しなければならないナンバーワンとして最も際立った城郭である。鳥谷ヶ崎城とは稗貫郡主稗貫氏の旧本城であり、この地方の中心地であり、これが後の花巻城である。したがって信直にとって和賀・稗貫郡の統治と伊達領に対する警護が不可欠な課題として浮上したことこそ、48ヶ城注文存置の筆頭に鳥谷ヶ崎城が置かれた理由として看取される。 『南部根元記』や『祐清私記』によれば、九戸城陥落は天正19年9月4日である。そして6日には浅野長政他攻囲軍武将4名(堀尾帯刀・井伊兵部・蒲生氏郷)連署による百姓に対する還住令(『南部家文書』)が出され、長政の帰還は前述のようにそれから二日後の9月8日であった。よって九戸政実ら囚人の護送隊は先に出発していた可能性が高い。信直は前述のように長政を鳥谷ヶ崎まで見送りしたとされている。その一書『祐清私記』によれば、途中、不来方に10日昼ごろ到着、翌11日昼ごろ不来方を発ち、同12目に鳥谷ヶ崎到着、そして長政は翌13日に鳥谷ヶ崎を発ったとある。信直が鳥谷ヶ崎で北左衛門尉信愛の二男主馬助直愛(48ヶ城注文署判者の筆頭)に8,000石を与えて鳥谷ヶ崎城の守護としたのはこの時と伝わる(知行宛行状は9月25日。『岩手県史』第3巻)。つまり八戸氏を別格とすれば家臣最大の所領である。このように48ヶ城注文とは直愛の持城としての鳥谷ヶ崎城を存置し、その所領8,000石内の旧諸城の破城にはじまる書上であるということが最も留意される要点である。改名前の「直愛」は「秀愛」であったが、同年11月2日に信直から「直」の諱字を拝領して「直愛」となり(『岩手県史』第3巻)、信直の期待も明らかである。 『南部根元記』によれば、弾正(長政)は、鳥谷ヶ崎は大境(伊達領との境)の要所であるから、ここには然るべき者を置くべきだとし、それに対して長政家臣の浅野庄左衛門(勝左衞門重吉)は九戸との前哨戦で活躍した主馬介を推薦したという。鳥谷ヶ崎城は前年の仕置における浅野駐留軍の本陣であり、庄左衛門(重吉)はその目代として駐在した城郭であった・(詳細は121?122ページを参照のこと)。ところが長政帰還後、和賀・稗貫一揆で庄左衛門は籠城となって窮地に立ち、それを信直が救出したという(『奥南旧指録』「同御代十八ヶ崎援兵之事」)。よって鳥谷ヶ崎城は三人にとって共通に印象深い城舘であった。長政は13日にその鳥谷ヶ崎を発ち、同14日付けで「御陣所」の長東大蔵大輔正家に書状(「浅野良書書状写」『岩手県史』第3巻)を送った。 長吉(長政)書状は鳥谷ヶ崎を発って翌日とすれば平泉あたりからの発送であったろうか。一関を越えればまもなく豊臣秀次の本陣三迫であり、そこは徳川家康もいた。仕置軍第五陣である。長吉書状は、降伏した九戸故実妻子および斬った九戸一味の首150余りをもって中納言(豊臣秀次)に届ける途中であること。南部方居城の普請については相談して行なうことを申し付け、これもまもなく完成するであろうということ。仕置きについてもより堅く命じ、その残留兵の帰還などについて詳しくは羽柴会津少将(氏郷)から連絡があるであろう、といった内容である。後述のように途中の胆沢・江刺では伊達領における存置城舘について大谷吉継等が盛んにその修復工事を行なっていたころである。よって長政の言う「南部方居城」とは、信直に約束した不来方城でも、主馬を推薦した鳥谷ヶ崎城でもなく、中央指令によって修築することになった九戸城のことであった。 ■ 北信愛の署判と「唐之供」の矛盾 以上のように48ヶ城注文の筆頭が「鳥谷崎」であり、署判者の筆頭も鳥谷ヶ崎城主とされた南部主馬直愛であり、この点からも鳥谷ヶ崎城がいかに重視されたかが明らかである。ところが間題は「唐之供」として肥前名護屋滞在中とされた主馬直愛の父信愛(剣吉・平地・南部左衛門尉持分・唐之供・留守彦八郎)までがなぜかその署判者として名を連ねていることである。この不在者の署名は正式な文書としては明らかな矛盾である。この点から48ヶ城注文については偽書ではないかという疑いも沸く。しかし、前述のように内容は決して時代状況に齟齬したものではない。よって署判者の不在をわざわざ記すことは有り得ないということからすれば、書写時における改竄か、正文とは異なる草案段階のものとして考えざるを得ない。草案とすれば信愛の署名も「唐之供」という不在証明も問題とならないわけであり、最も妥当である。すなわちこの文書は正文の写し(案文)ではないということである。いわゆる南部史において南部(北)信愛は藩主信直の擁立についても和賀・稗貫2郡の領有化についてその働きが高く評価されている人物である。その彼が草案とは言え、48ヶ城注文の署判者の一人であったことは、その作成に深く関わっていたということである。 ■ 志和・遠野・和賀・稗貫の南部領としての確定について 一方、『南部根元記』によると、長政が帰しようとしたころ、前田利家の使者内堀四郎兵衛が三戸に到着し、長政に対して志和・遠野・和賀・稗貫(『奥南旧指録』では「和賀・稗貫・志和三郡」)の領地を南部(信直)に渡し、九戸籠城者の生け捕りも南部に渡して首を刎ねること、氏郷は踏みとどまって九戸の城普請をすること、といった連絡が届いたとある。この裏づけとなる史料が天正19年7月23日の「前田利家書状」(『南部家文書』)であり、利家は信直に「貴所御分領之儀太願外に於此方迄に申合候(中略)為其内堀四郎兵衛被指下候」と書き送ったものである。よってそれまで北上川流域部の多くは南部領として確定していなかったということである。この文書はそれへの目途をっいたことを伝え、その認可は8月には確定したと推定される。信直はその決定と利家からの通知を何よりも心待ちにしていたに違いない。 以上のように天正19年7月の「前田利家書状」によるかぎり、前年7月の秀吉朱印状「南部内七郡」には和賀や稗貫は含まれていなかったということである。志和と遠野については異論が多いが、和賀・稗貫については南部領と別扱いされていたことは後述の浅野家の家史『済美録』初代長政の事蹟考証とも符合し、その処分については長政も九戸帰還直前に得たことになる。おそらく信直は公認された新領地の鳥谷ヶ崎まで喜んで長政を見送り、その道すがら不来方への本城移転や鳥谷ヶ崎への支城について長政から様々な助言を受け、その支配について意を強くしたに違いない。したがって信直にとって長政の見送りは北上川流域の統治構想の旅でもあり、48ヶ城注文の筆頭に鳥谷ヶ崎城が置かれた意義は大きいと言わざるを得ない。後述のように残留となった氏郷との血判証文はその直後のことであるが、信直は当然に氏郷に対して新領地を含む領内統治について相談したと推定される。 豊臣秀吉朱印状の「南部内七郡」に和賀郡と稗貫郡が含まれていなかったことは以上のように肯定せざるを得ない。元来、和賀氏と稗貫氏領に南部氏の勢力は及んでおらず、まさしく「南部外」であった。よって「南部内」となるまでは秀吉の直轄領(蔵人地)かと考えられるわけであるが、それとして明記した史料は存在しない。この点については後述のように南部信直領と木村吉清領の間として浅野長政に預けられた保留地としては確かであり、それゆえに浅野軍が駐留し、検地にも長政自らが対応したものと推定される。 これまで「南部内七郡」については実数を明示したものとして疑うことはなかった。よってそれを郡名に置き換えることが論点であった。しかし「七」は様々な事柄に充てられた慣用的仮称数字と見なすことも可能である。確かに前田利家のいう「貴所御分領之儀大願」とは、南部側からすれば利家の斡旋で可能とした「御分領」であり、それは「南部内七郡」として主張したためとは認めがたい。やはり伝えられるように津軽領に代る加増に対する南部側の熱意(太願の御分領)ではなかったか。もし、和賀・稗貫郡も天正18年の「南部内七郡」として周知されていたならば、浅野軍が天正18年に鳥谷ヶ崎に留まり、和賀・稗貫郡各所に目代を配置するといったことはなかったに違いない。 以上のように天正19年に和賀・稗貫郡を含む北上川流域が南部領として確定したことと、鳥谷ヶ崎城存置が筆頭であるという取り合せからすると、48ヶ城注文とは、第1に天正18年の城わり令に対する破却としての事後処理であり、第2に天正19年の新領地確定における領内統治に合わせた城舘存置の対応策でもあったということである。よってそこには信直の自分仕置を含めた統治構想のビジョンといったものが反映していると予測される。 ■ 氏郷と信直の付き合い 各記録からすれば九戸城の普請は蒲生氏郷とされている。それは前述のような経緯から正しいであろう。しかし長政の指示と伝えられながらも氏郷勢がなぜ残留して九戸城の普請に当らねばならなかったか、また南部領初めての石垣普請の九戸城がどの程度の期間で完成したのか、具体的なことははとんど不明である。氏郷は伊勢松坂城を築いており、また九戸城普請の後ではあるが黒川城(会津若松城)の普請などで、城郭造りの名手と伝えられている。しかしそうした経験が買われたというのではなく、『氏郷記』によると秀吉から奥州押えとして会津・仙道に約42万石を与えられた人物であり、その立場から残留を命ぜられたと理解される。『南部根元記』によるとその勢は約3万(『氏郷記』によると2万8千という)とされ、再仕置軍の主力であった。よって九戸城本丸の石垣もこの蒲生勢が主力となって普請したと推定される所以である。 『南部根元記』によると、九戸城は11月上旬に完成して信直に引き渡され、信直は氏郷を三戸城に招いて三日間もてなし、嫡子彦九郎利正(利直)と氏郷の妹(養女という)との婚約の約束をとりつけたとある。また、同書はその一方で総大将の豊臣秀次から氏郷に対して「両年に渡る仕置の働きについて関白(秀吉)も承知していることであり、旧伊達政宗領の上下七郡を安堵する」という内容の書状が同年9月20日付で届いたとある。氏郷領は合わせて19郡である。『会津若松史』によると文禄3年(1594)の検地で約92万石という。氏郷は喜び、三戸に寄って一日逗留し、彦九郎との婚約を約束し、九戸城を信直に渡し、10月上旬には九戸を出発したともある。このように『南部根元記』の氏郷の行動記録は転倒している(『南部根元記』の底本とされる『信直記』は10月上旬説)が、それにしても九戸城が1ヶ月や2ヶ月で完成したとは驚きである。先の長政書状でまもなく完成するといった報告からすれば意外と工事は早かったのかも知れない。しかし九戸を去って約6日後にまもなく完成するであろうとは、どの程度で完成と見なしたかやはり疑問である。工事は延長され、『南部根元記』の11月上旬完成とはそんな点にあったかもしれない。やはり現在のような石垣の景観を見せたのは11月上旬ではなかったか。 ところが、氏郷帰還が10月上旬という伝えについても、その時分に氏郷はすでに帰還した後であった。その証拠が帰途の岩手郡沼宮内から伊達政宗に病気見舞いに送った9月20日の書状である(『伊達治家記録』)。それは天正19年9月15日の「敬白起請文前書之事」という信直宛氏郷起請文書とそれに添えた氏郷の血判起請文取換しの5日後のことである。すなわち氏郷の帰還は正しくは9月も半ばである。信直は浅野長政を見送った直後、氏郷を三戸城に招いて血判書を交換し、両家の縁組まで約束したのである。氏郷と信直が9月15日に取り交した「敬白起請文前書之事」とは、信直と氏郷の深い結びっきを伝えた何よりの証拠である。そしてその血判起請文を交換した時が『南部根元記』の伝えた信直が三戸城で氏郷を接待した日であったに違いない。しかし、豊臣秀次からの前述の氏郷に対する書状が9月20日付とすれば当然に九戸には到着してはおらず、それをもって氏郷は喜んで三戸城に伺ったということは無理である。氏郷は忙しく、秀次からの書状を受け取る以前に帰還の途についたわけである。その書状を手にしたとすれば、日数からして鳥谷ヶ崎か平泉あたりであったろうか。 以上、9月段階の氏郷の行動を再整理すると、氏郷は9月15日に三戸城で信直と契約を交換し、3日ほど逗留し、そして再び九戸城の工事現場に立ち寄り、九戸城を信直に預けるという引渡しを済ませ、19日には九戸を発ったと見なければならない。二戸(九戸城)から沼宮内までは急げば半日程度、すなわち翌日の20日である。したがって氏郷が九戸城の再普請を落城とともに着手したとしても、直接監督できたのは10日間に満たなかったことになる。氏郷は城普請を代官にまかせて早々と帰途についたのであった。一方、前述のように信直が長政を鳥谷ヶ崎まで見送り、長政と同じく9月13日に鳥谷ヶ崎を発ったとすれば、信直は15日の三戸城での氏郷との起請文交換に間に合ったであろうか。花巻から三戸まで今距離にして約110kmであるが、13日朝に長政の出発を見届け、早馬で戻れば可能である。信直は忙しい日程の長政と氏郷を両天秤にして将来の布石を得るために奔走していたのである。 残留を命ぜられた氏郷はなぜ急いで帰還しなければならなかったか。先の沼宮内から政宗に対する氏郷書状には「近日、其表江可参候間、其節万々、可申述候」と、十分に話し合おうとある。その政宗は徳川家康から9月23日に岩出山城が完成したから移るようにという指令を受け、その日に米沢城から移城したとされている。すなわち、それ以前に政宗の旧大崎・葛西領への配置替えとともに、政宗の旧領を氏郷に与えることが決定していたのである。政宗の居城移転は氏郷に対する新領の委譲であり、氏郷は秀次からその指令が下るのに合わせて帰還の準備を急いでいたということになる。つまり、氏郷には一時も早く政宗の旧本拠米沢に入って新しい支配体制の整備に取り掛かる必要があった。氏郷は10月3日にその将蒲生郷安を米沢城に置いて38,000石で知行させた(『岩手県史』第3巻)という。その後まもなく浅野長政は岩出山で政宗と氏郷と引き合わせようとしたが、政宗の病気によって不成立に終った模模様である。(『伊達治家記録』)。こうして氏郷が会津帰着できたのは10月13日であった(『会津若松史』2)。よって信直は長政ではなく氏郷から城わりの続行とそれに対する報告指示を受け、その破却と存置数についても氏郷に伺いを立てたと推定される。それは9月15日の血判証文を取り交した接待の日が最も妥当である。 ■ 長政家臣内山助右衛門による館破却 前述の長束大蔵大輔宛浅野長吉書状には「弥々仕置等、堅申付、頓而罷上候」とある。また、同じ『浅野家文書』に10月5日付の浅野左京大夫宛徳川家康文書(『岩手県史』第3巻)あり、それは浅野勢の一部が九戸から帰還するにあたり、大崎方面にあった家康に挨拶状を送ったのに対する家康の返書だという。左京大夫とは長政の嫡子幸良であり、幸長に対する礼状とすれば、浅野勢の主要部隊は9月末ころまで奥北に残留していたことになる。したがってその浅野勢を幸長が指揮していた可能性が高い。 一方、浅野勢の残留について『祐清私記』には「内山助右衛門奥北の舘破却之事」として詳しく記録されている。この記録について、盛岡市の神山仁氏(日本城郭史学会会員)は一次史料ではないとしながらも、長政の言う「弥々仕置等、堅申付」と関連するものとして高く評価している(神山仁「元和一国一城令と奥羽地方の城郭一南部領の一国一城体制について」『舘研究』第一号・1998、岩手の舘研究会)。また、工藤利悦氏は「一見して天正19年に九戸政実一揆の戦後処理に関する記録であるが、内実は天正20年の書上が成立するに至る過程を知る上で、極めて貴重な記録」(工藤利悦「領内36ヶ城を破却」『古文書を旅する22』2004.盛岡タイムス社)だとしている。よって本稿もその全文を転載し、浅野勢の残留とはどのようなもので、それが天正20年の48ヶ城注文にどのように結びっくのかについて考えて見たい。
『祐清私記』(伊藤祐清一延享2年・1745没)は多くの事例を収録し、『南部根元記』などでは到底知り得ない内容を多く含む編纂物である。しかも南部家擁護の立場からは不釣合いと思われる内容も多々含まれている。それだけ著書には学者として事実に徹しようとした姿勢を看取することができる。しかし蒐集素材(典拠)を明確にしていないため、その正否を問えないのが難点である。ただしこの「内山助右衛門奥北の舘破却之事」については、これまで述べてきたような長政と氏郷の帰還当時の状況ともよく符合しており、祐清はそれだけ具体的な記録類を手にしていた可能性が高い。特にも残留した浅野勢は氏郷の指示によって行動したという内容は興味深い。しかし「帰路の砌は可令同旅候」「其辺一人捨置も気遣なり、未半廃却候共我等と一所に被罷登候へ」という氏郷と内山の同時帰還は有り得たかは問題である。もしそうであったとすれば、内山の上記行動もまた極めて短期間であったということになる。さらに内山の城わりと48ヶ城注文とをすり合わせると、後述のように破却と存置の対象となった城舘はかならずしも一致しない。むしろその違いが大きいことが明らかである。このことは天正19年の城わりと天正20年の城わりの違いということではなく、48ヶ城注文を天正20年の事件として『祐清私記』が掲載しなかったということは、その存在を全く知らなかったということである。すなわち48ヶ城注文とは祐清ほどの役人(寛保元年?1741、諸士系図・武器古筆等諸用係という。『岩手百科事典』岩手放送・昭和53年)も目にすることのなかった不出の文書であったということである。 「城」と「舘」の相違について 話題は転倒するが、「城」と「舘」の相違は文字に即すならば、城構えか舘構えかということであり、48ヶ城注文に限らず、城わり指令への対処としては前者を重視したに相違ない。すなわち秀吉朱印状の「家中之者共相抱諸城」の「城」はそれなりに意味があったと考えられる。ところが「内山助右衛門奥北の舘破却之事」については「九戸の城」「郷村之館」「七館」「関城」「居城三戸」「岩手・紫波・閉伊等の舘」「筋道舘」「中野・福士の両舘」「志和郡には高水寺城」「其外居舘」などとあって、特に「城」と「舘」の区別はない。よって三戸城・九戸城・高水寺城といった規模あるものは「城」と呼ばれたとしても、そうした拠点城館以外は「城」か「館」といった概念で区別されていたかは疑問である。しかし「城」および「舘」に対して「平屋敷」となれば、防御的構造の有無によって区別はなり得たであろう。ところが何らかの構えある在郷の土豪屋敷も「館」と呼ばれて例は少なくなかったと思われ、さらには「舘」という地名を残しながらその位置すら不明な例も少なくない。破却はそうした「域」「舘」全てに及んだとは考えがたいから、数を限定して「城」と見なすにふさわしいものから選ばざるをえなかったと推定される。 上記「内山助右衛門奥北の舘破却之事」の中で九戸近辺・二戸・鹿角両郡で七舘破却したということについては、九戸・二戸といった郡名が成立していたかも問題であるが、鹿角郡の城舘だけでも『鹿角由来記』(『南部叢書』)に「四十二舘」と伝え、盛衰を問わなければ実数は59ヵ所に及んでいる(拙稿「北の戦国城館跡発掘調査報告書を読む「米代川流域鹿角地方の城館について『北上市立博物館研究報告』第13号)。したがって「七舘」の「七」とは「南部内七郡」とか「閉伊七郡」の例の如く、仮称数の意と解され、実数とは認めがたい。一方、存置については「花輪・毛馬内・大湯・長牛右四ヶ所秋田境の要地なれは関城の為残置」「去共七戸の城は津軽の押残置ける」とあり、実数と見なさざるを得ない。ところが48ヶ城注文では鹿角郡の存置は2ヶ城のみであり、七戸城は破却とされている。 ■ 48城注文の存在と『祐清私記』 一方、「内山助右衛門奥北の舘破却之事」の「一戸・八戸・北郡等は信直居城三戸近辺にて信直私の破却も可レ然候とて此地の事をは被レ止ぬ」とか、「其外の舘共は信直の下知にて来春より夫々被破却可然と氏郷も数々宣けり」、「岩手・閉伊・志波・和賀・稗貫等の舘共信直の手にて来春破却せられよと信直へ被申置」等の記述は、まさしく氏郷が信直の自分仕置を認めたことを意味し、これが48ヶ城注文の作成と結びっく内容である。ところが「岩手には不来方の中野・福士の両舘、志和郡には高水寺城、稗貫にては鳥谷ヶ崎斗りは被残けり」とあり、48ヶ城注文において高水寺城が埒外となっている点と大きく異なっている。すなわち「内山助右衛門奥北の舘破却之事」と48ヶ城注文に継続性があるとしても、南部側は天正19年の城わりを継承しつつも、天正20年にはその方針を大きく修正したことになる。また別の見方をすれば、高水寺城のことや後述の厨川館を含めて48ヶ城注文以後に変更が「内山助右衛門奥北の舘破却之事」の記事に挿入されているということである。 内山助右衛門の帰路については「帰洛の節に放火して可通と子細なき事」とあり、急ぎの状況をよく伝えている。しかし前述のように浅野幸長勢が9月末まで残留していたことからすれば、氏郷にその浅野勢である内山勢が加わって帰還したとは考えがたい。また「其辺一人捨置も気遣なり」といった氏郷の急ぎの都合に合わせた同行も考えにくい。こうした「内山助右衛門奥北の舘破却之事」の記事の矛盾について『祐清私記』の著者(祐清)が浅野幸長勢の残留や48ヶ城注文の存在を知っていれば、当然に整理し直したであろう。 ■ 48城注文が遅れて流布した謎 そう言えば、近世の記録類(編纂物)で比較的古いとされる『南部根元記』や『奥南旧指録』『奥南盛風記』、またはこれらの原典とも評される『信直記』、そして近年刊行された前掲書『青森県史』収録の『御当家記録』(寛政9年?1797をさはど下らない成立という)にも48ヶ城注文、およびその関連記事は存在しない。また家譜とは言え、当時の当主経歴として信頼性は高いとされる『南部八戸家系』八戸政栄・直栄の条にも存在しない。これら記録の年代の展開はいずれも天正19年の九戸一揆平定から翌年の文禄元年(天正20年12月8日改元)の朝鮮出兵記事へと続き、天正20年とするほぼ一年間における南部領内の状況には触れずまいである。この年は朝鮮出兵以外に記事が少なかったということが第一の理由であろうが、それだけにこの年の状況についてはいずれの著者も記事を欲したに関わらず、その年に諸城の破却が行なわれたということも、その48ヶ城注文が存在するということを知らなかったということである。 後述のように、八戸政栄の八戸城(根城)については、48ヶ城注文において破却対象とされ、その破却の実態が発掘調査によって明らかにされた唯一の例とされている(栗原知弘・佐々木清一「根城跡一近世家臣団と秀吉諸城破却令」『城破りの考古学』平成13年)。ところがそれはどの大事件が当代の系譜にも記録されていないということは不審なことである。八戸城の「破却」は記録されるはどの問題でなかったからであろうか。この点に八戸城「破却」が天正20年のこととして特定できるかといった問題を提起せざるを得ない。いずれにしても48ヶ城注文は江戸時代の各編纂記録の周知外にあったということは事実である。 ■ 破却から存置となった厨川城の謎 前述のように『祐清私記』の「内山助右衛門奥北の館表却之事」と48ヶ城注文の内容が直接結びつかない例として、同書の「岩手郡工藤行光か事」における厨川城存置の記事も注目される。その部分を抽出すると、「当城は去る天正十九年浅野長政之下知に拠り、其臣内山助右衛門承り破却せらるへきの処に、信直不来方普請の心懸に拠有之、其頃の警護之城にと被存破却相止候」とある。すなわち48ヶ城注文では厨川城は破却となっており、それを信直が止めたということは明らかな矛盾である。『祐清私記』で上記のように厨川城を不破としたことは、内山らによる帰路の道筋での放火から免れたことを意味する。しかし厨川城の実際の破却は利直の代になって不来方の普請が完了してのことである。ここでも『祐清私記』の著者は48ヶ城注文について全く知らなかったということは明らかである。著者は、厨川城の破却において持主の厨川小次郎が抵抗し、利直は彼を大釜彦右衛門に討たしたということを伝えたかったのである。すなわち「岩手郡工藤行光か事」と48ヶ城注文を対比させるならば、厨川城は天正20年に破却の対象となったものの、その後、信直の意向において警固の城として存置対象となったということである。この変化については「破却」とした48ヶ城注文の実行性も問われねばならないが、『祐清私記』の記事はそうした変化を飛び越えた内容として逆に意義ある記録だと言わざるを得ない。 以上のように『祐清私記』の浅野勢(内山氏)によるとされる館破却記事と48ヵ城注文を単純に結びつけること無理である。それは著者祐清が48ヵ城注文を全く知らなかったからである。それにしてもなぜこれほどの重要文書が南部家関係記録でも古いとされ、比較的信頼できるとされる編纂類にまで見落とされたのであろうか。特にも古書の諸用係であったという祐清の目にも止まらなかったということはやはり問題である。次頁へ 前頁へ |