(1)本発表の目的
元禄期は5代将軍徳川綱吉による「賞罰厳明」政策、生類憐れみの令、そして綱吉の好学による儒学の興隆政策が実施された時期である。これとほぼ同時期、北奥の盛岡藩でも好学な藩主南部行信の出現により一時期藩内で儒学の気運がにわかに高まった。しかし盛岡藩における儒学の気運は、いわゆる「儒者事件」と呼ばれる儒学を信奉する諸士の大量処罰によって頓挫することとなる。本発表ではこの盛岡藩における儒学を信奉する諸士への2度の処罰事件について事実関係を明らかにすることで、この時期の盛岡藩政が抱えていた問題点と、その背後にある儒学の存在について見通しをたてたい。
(2)「儒者事件」についての概要
まずこの「儒者事件」と呼ばれる事件がどのようなものであったかについて述べておきたい。この事件は当時の盛岡藩の家老であった北九兵衛や盛岡藩屈指の学者であつた北川新左衛門に代表される多くの諸士が一斉に処罰された事件で、元禄16年(1703)と享保3・4年(1718・9)に2度発生している。この事件について盛岡藩の代表的な歴史書「奥南旧指録」(史料1)「篤焉家訓」「内史略」(史料2)にほぼ同一の記載がなされている。ここでは元禄期後半に藩主南部行信に対し、北・北川等の「近臣」が「聖賢の道を行信公へ進め奉り、諸人に孔孟の教導仁政を専らとしけるが、後には儒教の名をかりて兵法を軽んじ私意を計」つたために処罰されたものであるとしている。そして「内史略」において元禄16年(1703)の一件が「儒者論」、享保3・4年(1718・9)の事件を「儒者論再起」と命名され、これ以降この事件に対しての研究はこれらの史料に基づいて「儒学派対保守派」の構図で研究されてきた。
本発表では同時代史料である盛岡藩の家老席日誌「雑書」と北九兵衛の日記「知覚記」を中心に処罰事件についての事実関係を明らかにすると共に、処罰事件以前の藩政についても考察してゆくことにする。
なおこの事件について「雑書」をみる限り、元禄16年の処罰事件において北川新左衛門一党の罪状の第一の理由は「近年無筋企新法」と記され「儒学」の文字はみうけられない。また享保3・4年の処罰事件においても処罰者の罪状も「儒学」という言葉はみられない。故に本発表では便宜上元禄16年に処罰された一党を「新法」派とし、元禄16年の処罰事件を「「新法」派処罰事件」、享保3・4年の事件については、その原因が七戸外記が「人別銭」の導入に反対したことに依るものであることから「「人別銭」事件」と称する事とする。
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第一章 元禄期の盛岡藩政と元禄16年「新法」派処罰事件
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1.元禄期の盛岡藩
「奥南旧指録」には「行信公御代の末」の藩政が「諸人に孔孟の教導仁政を専らとしける」ものであったとする。それではまずこの時期の盛岡藩政、元禄5年(1692)から元禄15年(1702)に藩主の座にあった5代藩主南部行信の藩政についてみていくことにする。南部行信の藩政についてはこれまで明確な研究が成されておらず、行信の藩政は父重信の藩政とひとくくりに評価される事が多い。しかし後に詳しく述べるが行信の藩政の下では「百姓自分検見」や「役人寄合」といった新しい制度が打ち出されていく。こうした行信の藩政の背景には、当時盛岡藩が直面していた問題が深く関わってこよう。
(1) せまりくる藩政の危機
この時期の盛岡藩が抱えていた問題、それは藩財政の破綻と相次ぐ凶作であった。元禄5年(1692)51歳の南部行信が父南部重信の隠居により藩主の座を引き継いだ時点で既に藩の財政は逼迫した状態にあった。藩の財政を支えていた鹿角の産金は、最盛期であった慶長年間に比べて元禄期にはその産出量は百分の一にまで減少していたといわれている。(「南部史要」)
行信はこうした逼迫した財政の中で藩政を担つていかなければならなかった。また元禄7年以降、盛岡藩は不順な天候が続き、凶作が相次いだ。*1 この為、元禄7年(1694)12月26日、江戸藩邸にて支出の節減が仰せ渡された。また、同時に行信自身の好みから召し抱えられていた相撲力士達を解雇し、農村出身者は帰農させた。そして元禄8年(1695)1月28日藩内における大幅な緊縮政策が実行にうつされる。財政の窮乏故に「拝借物之義願上」を止め、役所における諸費用の節減が指示された。また江戸為登米の受け渡しや舟奉行の業務の簡略化、御吟味役による諸事の吟味を徹底する事で出費の抑制がはかられた。これらの政策は「先前」の「格式」に構わず、節減を第一の目的として指示された。と同時に「御百姓迷惑」とならないように「諸事先例之儀ハ相止」として役金等の上納の際は「御代官両人共詰居申様」と申渡されており、役人の不正を抑制する意味をもつものであった。しかしこうした緊縮政策にも関わらず盛岡藩の財政は以後も慢性的に危機的状況が続くことになる。また行信が藩主の座に就いていた元禄5年(1692)から元禄15年(1702)の十年間の内、その大半は凶作であり、元禄8年と元禄15年には飢饉が発生している。これに対し盛岡藩では幕府老中に拝借米の支給を打診したり、行信の元禄9年(1696)の江戸参勤を免除してもらう等の対策に追われていた。*2 行信はこうした盛岡藩の危機を打開する必要に迫られていた。
(2) 行信藩政と将軍綱吉
こうした盛岡藩政の危機に直面した行信であったが、行信の藩政の革新を考察する為には、その背後にある将軍綱吉の存在についても検討する必要性があろう。ここでは塚本学氏の研究に代表される近年の綱吉研究を参考に、綱吉の施政が南部行信、ひいては盛岡藩に与えた影響についてみていきたい。
綱吉の治世の基本方針は「賞罰厳明」であり、その厳しい姿勢は幕府役人だけでなく、大名達にもむけられた。天和元年(1681)沼田藩の真田信利が藩政の失策を咎められて改易されたのはその代表的な例である。
こうした綱吉の政治姿勢は凶作という自然条件に起因するとはいえ、藩内が騒然としていた行信にとって大きな危機感をもたらしたと考えられる。元禄8年、盛岡藩は飢饉に見舞われ多くの餓死人が発生していたが*3、 盛岡藩は幕府老中阿部豊後守に出した「口上の覚」では盛岡藩に餓死人は皆無であるとしている。*4(史料3) このように餓死人の存在をを隠蔽して幕府に報告する盛岡藩の態度は、幕府の失政批判をかわすねらいであり、ひいてはその失政を口実にした改易を逃れる為であったと考えられる。行信にとってこうした綱吉の存在はまさに恐るべきものであり、行信は南部家の存続のためにも綱吉の望む藩政を領内で実現する必要性を感じていたのではないだろうか。
また、綱吉の治世のもう一つの特徴として儒学の興隆政策があげられる。綱吉は幼少の頃から儒学を愛好し、その精神を施政に反映させた。元禄4年(1691)に湯島へ聖堂を移した事や、林信篤を大学頭に任じ束髪を命じた事などに代表される儒学の尊重政策をとった。それと同時に綱吉は諸大名にも儒学による施政を要求した。それが如実に現れるのが綱吉の大名に対する儒書の講釈である。この綱吉の儒書講釈には行信以下南部家の一族も参加している。*5
盛岡藩においては南部行信は父重信と共に好学な藩主であったと評価されているが、元禄4年頃に幕府役人の探索の結果として作成された諸大名の評判記「土芥寇讎記」には重信・行信ともに無学な人物として評価されている。(史料4)「雑書」をみても盛岡城内で初めて儒学者による儒書進講記事が見られるのは元禄9年以降であり、綱吉の儒書講釈の後のことである。こうした事から見て行信は生来好学だつたのではなく、綱吉の影響を受ける事によって「好学」な藩主へと転身した、とみたほうがいいだろう。
また余談となるが、行信の従兄弟で八戸藩主であった南部直政は元禄元年(1688)に綱吉の側用人となったが、翌元禄2年(1689)に病気辞職している。その明確な理由は定かではないが、「御当代記」によると直政の手に小さな瘡が出来たのを綱吉が汚らわしく思った為であったという。こうした例も行信が綱吉に対し畏怖感を持ち、その存在を大きく意識する要因となったにちがいない。
以上の事から「奥南旧指録」に記される「行信公御代の末」に「諸人に孔孟の教導仁政を専らとしける」藩政の在り方は南部行信が将軍綱吉の影響を大きく受けた結果として実行されたものであるとみてほぼ間違いはないようである。
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*1 以下盛岡藩の凶作については<表2>を参照
*2 菊池1997 細井1996・9
*3 例えば横川良助の「飢饉考」では元禄8年(1695)の「大飢饉」では領分餓死20,765人、実 際には4?5万人であるかとしている。横川良助は安永3年(1774)から安政4年(1857)の人で、この数字には後年の伝聞やいささかの誇張が含まれるかもしれないが、「雑書」の中にも飢人の倒れ死の報告が散見されることからみてもこの飢饉によって少なからぬ繊死人が発生していた事は間違いないであろう。
*4 菊池1997
*5 元禄6年(1691)2月22日の「中庸」の講釈には重信、行信に加え、行信の嫡子実信が出席、元禄8年(1693)3月1日の「易経」の講釈には行信と実信、元禄9年(1694)3月1日の「易」の講説には実信が出席している。 |
2「新法」派の形成
以上のようにせまりくる藩政の危機を回避するためにも、行信は藩政の変革を行わねばならなかった。しかし笠谷和比古氏の研究にもあるように、当時の藩体制はすでに藩主一人の意向によって左右されるようなものではなかった。特に盛岡藩すなわち南部家の場合、藩体制成立時から根強い勢力を維持した有力者達、すなわち家老衆の存在があった。藩政の改革を必要とする行信にとって、この家老衆をいかにかして御し、発言権を拡大していくかが大きな課題であったといえよう。
(1) 盛岡藩の家老について
それではこの時期の盛岡藩の家老衆についてふれておきたい。
盛岡藩の家老を独占していた家は、そのほとんどが藩体制の成立期、あるいはそれ以前から南部家に仕える家の出身であり、彼等は概ね中世以来から大きな勢力を有していた。そもそも盛岡藩を創設した初代南部信直も当時の家中の有力者北信愛によって南部家の当主に擁立された存在であった。以後盛岡藩の成立過程は、こうした土豪的な性格のつよい有力者の協力のもとに推進され、この有力者達の多くがそのまま家老衆として以後の藩政に関わっていった。重信代から行信代にかけて家老職を勤めた家は、北、桜庭、中野、楢山、毛馬内、奥瀬といったいずれも南部家に古くから仕える家であった。
では家老衆の藩政への発言権はどの程度のものだったのかについて、後年の事例となるが元禄17年(1704)の「北可継日記」から一例をあげておきたい。(史料5)この時期もやはり藩財政は厳しい状況で、これに対応するために家老衆から密かに家中諸士から金を借り上げて対処する内意が出された。しかしこれを表向にすると、殿様が遠慮するだろうから、家老衆の「御内意」で実行する事としている。この事例から家老衆が藩主の裁可を仰がなくとも独自の判断で藩の政策を決定できる存在であったことがわかる。
(2) 「新法」派の形成
行信が藩政の主導権を握るためには、藩の政策決定に大きな影響力を持つ家老衆を御して、いかにして自らの意思を忠実に繁栄させる体制を作り上げることが必要であった。それではこの問題に対して行信がどのように取り組んでいったのかについてみていきたい。
まず元禄12年(1699)の段階で家老職を勤めていたのは中野吉兵衛、桜庭十郎右衛門、漆戸甚左衛門の3名である。これに元禄12年12月より北九兵衛栄継が加えられ、元禄13年(1700)には行信弟の七戸外記愛信が家老席への出仕を行信から命じられている。以後の藩政において北九兵衛と外記が重要な役割を果たすことから、行信がこの両者を自らの意向を反映させる体制を構築する上での足がかりとしていたと見て良いだろう。
一方、元禄12年2月27日、家中の実力者であり行信の死後に家老となる楢山五左衛門は休息を命じられており、元禄13年7月には家老漆戸甚左衛門が病気隠居となっている。この時期の風説を集めた一書「秘密之夢」は漆戸甚左衛門が行信の藩政に対して諫言する事が多く、行信が彼を疎んじたために隠居に追い込まれたという風聞が伝えられている。いずれにせよこうした家老の入れ替えによって以後の藩政に行信の意向が反映される状態になった事はたしかであろう。
・北九兵衛と行信の連携
行信が藩政を展開する上で重要視したのが北九兵衛栄継(よしつぐ・後可継と改名)である。北家は先に述べた盛岡藩成立期に南部信直の腹心として藩の設立に大きく貫献してきた北信愛を先祖とする家柄であった。*6 北九兵衛栄継が家老席に就任したのは元禄12年12月の事で、当時九兵衛30才と当時の家老の中では最も若年であった。後に詳しく考察するが九兵衛は儒学の素養が深く、儒学を信仰し始めた行信にとっては有能な部下であると共に、同じ政治理念を持つ同志であったにちがいない。行信は九兵衛と儒書の貸借を行うのみでなく、元禄13年以降九兵衛による儒書進講もさせている。また「知覚記」をみると、行信が九兵衛を頻繁に呼び出しており、九兵衛は時折行信と「御密談」すら行っている。さらに行信は元禄13年(1700)6月1日、行信の娘おつやと九兵衛の嫡子澄之介の縁組が結ばせており、行信がいかに九兵衛の存在を重要視していたかがわかる。
・七戸外記の家老席出仕
七戸外記が「老中(家老)詰之間」へと出席を命じられたのは漆戸甚左衛門が隠居した翌日、元禄13年7月17日の事である。それまでの盛岡藩の藩政をみてもこうした藩主の一族が家老席へと出仕する事例はみられず、この七戸外記の例は盛岡藩の中でも珍しい例である。*7
行信の他の弟達をみても主税政信は5000石、主計勝信は3000石をそれぞれ分知され、江戸に居住し藩政に関わる存在ではなか。もう一人の弟七戸喜庵英信や、また行信の子玉山刑部久信(後の6代藩主南部信恩)等は盛岡城下の「火消役」等、藩政の中枢とはいえない役職に就いている。
いずれにせよこの七戸外記の家老席への出仕は外記が行信から藩政に関与させるべき人物と認識された結果であろう。また後に述べる「大寄合」の制度が七戸外記を中心にして行われていることから考えて、彼が行信の藩政を展開する上での重要人物であったことがわかる。
・「新法」派の藩士の重用
またこの時期北川新左衛門や足沢左十郎といった後に処罰されることとなる諸士達、いわば「新法」派の諸士が北九兵衛の下に結集していたことが「知覚記」からうかがえる。北川や足沢が後の行信主催の儒書の討論会に参加していることから、彼等も儒学の教養深い人物であった事がわかる。またこの時期、こういった「新法」派の役職就任や加増も多く、元禄13年の間に足沢左十郎、木村久左衛門、鴨沢十兵衛などが御吟味役に、原茂兵衛が下御台所奉行に就任している。特に足沢はこの1年だけで2度の加増、合計100石の加増を受け、合計150石となっている。
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*6 九兵衛の家は信愛の三男直継が創設した家で、信愛の嫡流が絶えた後、北家の祭祀を継承する家 となり、栄継の父九兵衛宣継も重信・行信代に渡って家老職を勤めている。
*7 「公国史」はこの七戸外記の家老席への出席を後の「御席詰」の役職(藩主の名代として家老の 職務を監視する役職)の始まりであると記している。 |
3 元禄十三年以降の南部行信の藩政
行信は家老北九兵衛等と連携し、元禄13年以降、自らの意向を反映させた藩政を実行に移して行く。ここでは元禄13年以降の南部行信の下で行われた藩政について見てゆくこととする。
(1) 「大寄合」「小寄合」の制度
行信の新たな藩政への意気込みは元禄13年5月18日、行信が盛岡に入部の際の仰せ渡しに如実に現れている。これによると「御為に宜儀ハ誰成共」意見を述べることを認めるという、いわば幅広い政治献策が求める政策が明確に記されている。これとともに諸役人へは「寄合存寄不残申談」する事が指示され、役所において他の役人をも交えて相談するべき事が指示されている。
そしてこれは6月18日に「大寄合」「小寄合」として制度化された。「大寄合」は毎月1、7、17、27日に「老中(家老)、御用人、御勘定大頭、御吟味、御町奉行、御目付、御賄役、御末奉行」が参加し、「小寄合」は毎月1、2、12、22日に「御勘定大頭、御吟味、御町奉行」が参加して執り行う事が決められた。この「大寄合」「小寄合」への行信の出席はなかったが、ここで話し合われた事項は北九兵衛を通して行信の耳に入れられていたようである。*8
この「大寄合」「小寄合」の制度によって、これまで家老衆に独占されていた政策決定の場に、勘定役・町奉行といった人々も参加する事が可能になった。
(2) 百姓撫育の政策
行信藩政の特徴のもうひとつとして、領内における百姓の撫育政策が挙げられる。これは相次ぐ飢饉と凶作によって疲弊した農民に対して、活力を回復という目的もあろう。元禄13年7月12日、行信は年貢徴収において「百姓自分検見」を導入した。
盛岡藩ではこれまで年貢の上納を例年は検見役人を遣わして徴収する制度をとっていたが、これに諸費用がかさみ「御百姓迷惑」となるとして「御百姓共御代官立合、自分検見」とするように命じたのである。「秘密之夢」はこれが代官から申し渡されたとき、領民達は「憐愍深太守様之思召」と「挙て大悦仕」つていた事を記している。
この後も元禄14年(1701)9月9日の「百姓憐愍ノ覚」など百姓を労るようにとの仰渡が出されている。こうした農民撫育政策は行信による「仁政」の一環であったということができよう。
(3) 儒学政策
行信の施政のもうひとつの大きな特徴は儒学の普及政策である。先に述べたように行信は将軍綱吉の儒書講釈拝聴以後、無学な藩主から一転して、儒学に傾倒する好学な藩主となった。それではこの時期の盛岡藩の学問を巡る動向についてみていきたい。
・行信の好学と儒学者の登用
まず南部行信自身の好学についてみておきたい。「雑書」における城内儒書進講の初出は元録9年8月5日、根市権四郎による「大学」の進講が行われた記事である。また行信は元禄13年以降、江戸において本多与一郎、山口清六といった儒学者を登用して盛岡に連れ帰り、根市と同様、盛岡城内での御進講を行わせている。本多与一郎は元禄13年、行信は江戸からの帰参の際に、行信に伴って盛岡に到着、「御次」として盛岡藩に仕え、元禄14年2月4日に地形150石、金方150石の合計300石の扶持が支給されている。
さらに行信は北九兵衛にも「大学」の御進講を行わせている。九兵衛が儒書の講談を始めるのは、元禄13年8月10日からで、行信から直々に「大学」の講談を命じられている。この九兵衛の講義には家老中野吉兵衛、桜庭十郎右衛門の他、北川新左衛門や近習の衆や御次の衆も聞いている。行信はこの儒書の進講を自分のためばかりではなく、こうした藩士達にも拝聴をさせていた。
また儒書進講のみ成らず、藩主主催の儒書の討論会も行われ、これには家老、儒学者、北川新左衛門や足沢左十郎といった儒学の教養深い人物に加え、行信弟の七戸外記や七戸喜庵、それに行信の息子刑部久信といった藩主一族も参加している。
さらに「秘密之夢」にはこの時期行信が寵愛していた側室おこわが儒書に精通していた女性であり、行信は「表にてハ与市郎、奥にてハおこわの儒書の講談」を聞くといった生活を送っていた、と記載されている。おこわに対して北九兵衛が「大学句解」を貸していることから、彼女に儒学の素養があったことが確認できる。*9
・領内への儒学普及政策
行信の好学は盛岡城内における儒書の御進講や、討論会にとどまらず、領内への儒学に普及にも勤めた。元禄13年(1700)10月28日、家老中野吉兵衛宅で儒学者根市権四郎と大巻喜六*10 による講談を行うように命じている。また「秘密之夢」には北九兵衛宅においても北、北川達によって儒書の講釈が行われていたという記載がある。
また、元禄14年(1701)8月25日、三戸の御給人、御与力等の「学問仕度奉候」という要請に対して、藩は江戸より書物を取り寄せて支給し、また和賀郡土沢町の人々にも松川藤四郎を通して「小学」が支給されている。
こうした事例から見て盛岡藩では、学問を志しても一般の人々には儒書の入手は困難であったが、行信の儒学振興策によって儒学を学ぶ事が可能になったといえる。
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*8 「一先日大寄合に出候儀共申上候ヘバ一々被仰付 有別書」(「知覚記」元禄13年7月10日条)
*9 「一友之丞を以拙者召候由仰出奥へ出る、大学句解おこわへ借し候様にと御意にて二札借し表へ出る」(「知覚集」元禄13年10月22日条)
*10 「内史略」によると大巻喜六も根市同様に「林大学頭門人」と伝えられている。 |
3 行信藩政の問題点
さて元禄13年以降、従来の藩政を一新した政策をとった行信藩政であるが、その実行は順風満帆なものでなく、従来の体制からの様々な反発をうける。特に「奥南旧指録」に「儒教の名をかりて兵法を軽んじ私意を計る」と記されているように、彼等が結集軸としていた儒学への反発が大きかったようだ。それは渡辺浩氏が述べるように儒学が近世日本社会において「かなりの違和感を与える外来思想」であった為であると考えられ、南部行信の藩政と「新法」派の諸士達はそうした事態への対応を迫られる事となった。それでは元禄13年以降の藩政の問題点について述べていくことにする。
(1) 農民の「直訴」の乱発
行信は「百姓自分検見」に代表される農民撫育政策をとったが、盛岡領内は相変わらず気候不順に見舞われており、農民からの直訴が頻繁に発生している。元禄13年の「知覚記」にみられるだけで、百姓からの直訴は行信に対して1件、九兵衛に対して7件が発生している。またこの「百姓自分検見」を巡って偽りの訴訟まで起こす農民まで現れる始末であった。行信の農民撫育成策は結果的に領内に少なからぬ混乱をもたらしてしまった。
(2) 「新法」派への反発
行信の下で儒学を結集軸に形成された「新法」派であるが、この時期彼等に対しての不満も高まりつつあった。まず行信が登用した儒学者本多与一郎についてであるが、行信はこの本多を異様なまでに重用し、元禄14年1月1日の年始の御目見では本多は北澄之助とともに、家老衆より先んじて御礼を申し上げている。行信による本多のこのような扱いは、従来の役列、身分秩序を乱すものであり、この事は家老衆のみならず、他の藩士達からも大いに反感を買うことになったと考えられる。「内史略」はこうした本多の行動が当時落書にて「うそやたら本多もしれぬ与市郎信濃たまして高知とるなり」と椰揄されていたという記事が掲載されている。
またこの時期行信に重用された新法派が中心となって藩政の改革に乗り出すわけであるが、彼等の急激な昇進、加増も他の藩士の反感を買う要因になったと考えられる。さらに先に述べた元禄14年9月6日の「百姓憐愍ノ覚」は江戸から下着した直後の足沢左十郎が直接諸代官に申し渡している。この行動はこれまで藩主の仰渡を独占的に述べる権限をもっていた家老衆の立場からすれば明らかに越権行為であって、これは元禄16年(1703)の処罰の際、足沢左十郎が最も罪が重く、斬罪となつた理由と深く関わっていよう。
(3) 葬送権を巡る仏寺との対立
さらに行信時代の大きな問題として挙げられるのが、葬祭儀礼に関わる仏寺と儒学派の対立である。その代表的な例は元禄13年12月29日に死去した行信の嫡子実信の葬儀に儒式の例を取り入れたことである。
嫡子実信の葬儀は江戸金地院において執り行われたが、「御尊核御取仕廻之儀」における「儒法之通棺椁等之儀」は儒学者山口静六が中心となって行う事に決定されている。葬礼の中の「朝夕之奠」とはおそらく「遣奠」の事であろう。*11 しかし1月10日の法事の品目には「金剛般若波羅蜜(密)経」の読経があり、また盛岡においても聖寿寺において7日間の法事が執り行われている。この事から見て実信の葬儀は、完全な「儒法之通」の葬礼ではなく、仏式の作法と織り交ぜられた、大変ちぐはぐな葬礼となった事が予想される。
近世日本社会では寺檀制によって仏教が葬祭権をほぼ完全に掌握していた。*12 そういった社会的状況の中で「新法」派のこういった儀式の導入が、それまで藩内の葬礼を一手に引き受けていた仏寺と儒学を信奉する諸士達との軋轢を大きくしていったにちがいない。「秘密之夢」にも長慶院の葬儀(行信弟喜庵母)に儀式を導入した事や、北川新左衛門の舅相坂左五右衛門の葬儀を儀式で執行しようとした北川ら「新法」派の諸士と法華寺の僧が口論を起こしたという話が記載されている。
こうした状況の中、「御家中之者死去之節取仕廻之儀」が本堂仁右衛門宅において町奉行から五ケ寺*13 に仰せ渡されている。これによると「学問」には「死去之節仕廻之儀、一切出家不構様」とあることから、「火葬・剃刀髪迷惑」と申し出る者には、出家は剃刀を乗せるだけとし、その他は「応帯五竜四門引導」にて行うことを命令した。つまり、近世日本社会において儒学を信奉する者が直面する─仏教との折り合いをどうつけるのかという課題に対し、盛岡藩の場合は藩権力を利用して寺院に儒葬を承認させたのである。こうした問題は仏寺との確執を深くしていったに違いない。
(4) 隠居重信からの圧力
「秘密之夢」は元禄14年(1701)の江戸参勤の折、藩政の動揺を危惧した隠居重信が行信を叱責し、藩政を改めるよう指導したと記載している。*14 こうした行信の藩政に対する重信の影響力がうかがえるのが、「内史略」の中に「南部重信指令の書」である。この中で特に注目されるのは「此方」すなわち重信からの申し付けが「脇に成」と、自らの意見を藩政に取り入れられないと、行信の藩政を非難している。
この時期行信の参勤に同行して江戸にいたおこわが盛岡に帰されたり、元禄14年以降北九兵衛の儒書講釈が行われていないことからみても、「秘密之夢」にあるように行信の藩政に隠居重信圧力がかかっていたと思われる。
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*11 早朝に禅を供え、香を焚いて拝する事(芳賀1971)
*12 黒住1994
*13 五ケ寺=永福寺(真言宗)聖寿寺(禅臨済宗)報恩寺(曹洞宗)東禅寺(禅臨済宗)教浄寺(時宗)
*14 今回「盛岡藩雑書」や江戸藩邸における記録「御在府留」からはこの事例について明確に表す記 載は確認できなかった。 |
3 元禄十六年「新法」派処罰事件
(1) 処罰事件の経過
元禄15年(1702)6月18日江戸において隠居重信が死去、続いて同年10月11日行信が盛岡で死去した。この為行信の嫡子久信(後信恩)は10月21日盛岡を出発、江戸に参府して相続を認められ、藩主の座に着いた。これに伴い、将軍との謁見の為盛岡から3人の家老桜庭十郎右衛門、中野吉兵衛、北九兵衛が江戸へ参府することになった。この間盛岡が家老不在となる為、楢山五左衛門、毛馬内蔵人が家老代行を務め、七戸外記が彼等の補佐をする様に申し付けられている。
12月15日将軍への謁見が済んだ後、一人先んじて北九兵衛は盛岡へ帰り、翌元禄16年1月5日から政務を行っている。この北九兵衛が他の家老に先んじて帰された事が「新法」派に対しての処罰の予兆であった。
2月6日、江戸において儒学者本多与一郎が「永御暇」を願い上げ、2月14日には盛岡に江戸の家老中野・桜庭より足沢佐十郎の御吟味役解任と遠慮が通達されている。また盛岡にいた儒学者山口清六は「御用無之候付」として江戸登を命じられている。同月29日毛馬内蔵人に江戸登の命が下り、毛馬内は江戸において信恩の仰付をうけて3月21日に盛岡に帰還し、同日楢山五左衛門が加判役となり、翌3月22日、新法派の諸士が一斉に役儀取上、遠慮を申し付けられた。
同月27日には寄合の制度も停止され、4月6日には「外記様御儀、唯今迄御用之間詰候処、御休息被成様に」と、七戸外記も政務の場から遠ざけられていた。同月10日には行信時代の財政、特に元禄13年以降の政策の見直しがはかられている。信恩が盛岡に入部するのは5月26日であるが、その際、七戸外記は「出迎不用」を命じられている。信恩の入部の後、6月5日には北九兵衛が病気を理由に隠居を命じられ、同日新法派の諸士への処罰が正式決定する。
この後「大寄合」「小寄合」の制度も停止となった他、盛岡城内における儒書の進講も元禄16年以降行われなくなった。またこの後検地役人が各地に派遣されていることから「百姓自分検見」の制度もなし崩しに停止されたとみていいだろう。つまり元禄13年以降の行信藩政は元禄16年の事件を契機に全面的に否定されたのである。
(2) 処罰者の罪状について
それでは元禄16年に処罰された諸士の罪状について見ていきたい。処罰者については(表・)にまとめておいた。この処罰において北川新左衛門が中心人物として取り扱われていることは九兵衛や外記の立場が考慮されたものであろう。
処罰の第一の理由は北川・松田・足沢以下多くの諸士の罪状に記される「近年無筋企新法、御家中騒動為仕」た事である。この「新法」が具体的に何を指すのかはここからだけではわからないが、これまで見てきたことを考えると元禄13年以降の藩政の革新の事を指すものとみていいだろう。そして「依之大源院様不届被思召」と記されていることから彼等の処罰には重信の意向が大きく反映されていたことがわかる。
その中でも足沢左十郎に対して「其方頭取仕家中騒動に相聞候儀、畢尭我侭成仕方重々不届」として処罰者の中でもっとも罪が重く斬罪となっているのは、元禄14年の「百姓憐愍ノ覚」を家老を差し置いて代官に申し渡したことが大きく関係していると思われる。また寺社奉行であった松田への「支配之寺社方へも無法成仕方故」や宗門奉行であった青木甚内に対する「公儀大切の御改之宗門、あやしき様に仕成、出家共と及争論」というのは元禄14年の「御家中之者死去之節取仕廻之儀」に代表される「新法」派の儀式葬儀の導入が咎められたものであろう。
なおその罪状に直接「北川新左衛門一味」「無筋企新法」とは記されていないが、ほぼ同時に主に勘定役にあった諸士が多く処罰されている。また北川や松田の罪状の中にも「年寄共証文も無之、米穀自分手形にて御蔵より相出、其上奥郡御山をも証文無之、我侭為剪出」と記されていることから、財政をめぐるトラブルもあったことがうかがえるが、この点については今だ研究不足のために今後の課題としたい。
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