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| 秋田久保田藩の戊辰戦争 |
| 工藤利悦 |
| 旧盛岡藩士の末裔が組織する「旧盛岡藩士 桑田」があります。会員向けに年四回「弘 報そうでん」を発行していますが、かつ て、求めに応じて纏めたものです。 戦火を交えた相手の「戊辰戦争」を知ると いうことで。 鳥羽伏見の戦いと久保田藩 慶応四年(一八六八)正月のある一日、京都馬場通四條上ル丁の久保田藩々邸内は騒然としていた。去る三日にいわゆる朝廷方である薩摩・長州藩等と、会津・桑名藩を中心とした旧幕府勢力とが鳥羽・伏見にて戦火を交え、戦い終つて薩長両藩は破れた会津方一味を掃蕩する作戦を展開していた。この時こともあろうか久保田藩が朝敵視され、同藩藩邸に探索の手が及んだからである。 家老眞崎兵庫をはじめとする在京重役の面々は一時色を失つて驚き、堂上方や薩摩・長州等諸藩に知己を持つ平田大角が、とにかくに奔走し諸方弁疏に努めて漸くその諒解をとりつけ、同月十五日に至って藩主佐竹義尭に対し「奥羽諸藩尊皇の大義を知り、王師を援くべし」との勅命を得て、一同胸を撫で下ろすという一幕であった。一方、江戸市中の騒しさも無気味であつた。 前年のことになるが、暮も押し迫まつた十二月十三日に藩主義尭は江戸を跡にして帰国の途についた。この日庄内藩(藩主酒井忠篤)は江戸市中取締りの任にあつたが、不良浪士を掃蕩しょうとして薩摩の藩士と正面衝突をし、事件は翌二十五日に持ち越し江戸三田にある薩摩及び佐土原両藩の藩邸を包囲して焼払うという事態にまで拡大していた。このことは数日後に京坂にも伝えられ、相対峙する朝廷方と旧幕府勢力に油を注ぐ結果をもたらし、ついに冒頭のような京坂の情勢を醸し出し、延いては奥羽に戦火を巻き起す口火となつたのである。 その間にも藩地には、京坂及び江戸表から頻々と情勢の変化が報じられ、二月十四日朝廷は親征軍を編制したこと、三月二日には奥羽鎮撫総督九條道孝以下の一行が京都を進発し、大坂から海路を一路仙台に向かつたこと、それに先立ち眞崎兵庫が九條邸のほか、沢為量(副総督)醍醐忠敬(参謀)等三卿の邸を伺候したことなどが伝えられていた。藩はこれ等の諸情報に基づき、急迫する事態に対応し、先行きどのような展開をみるのかまでは読めないまでも、近々出兵令が出ることを予測して戦備の充足や軍制の建直し、また軍割に急であつた。 九条総督の仙台着任と討庄命令 朝廷は慶応四年正月十七日仙台藩主伊達慶邦に会津藩(藩主松平容保)追討の令を発し、次いで同月二十五日には米沢藩主上杉斉憲、盛岡藩主南部利剛とともに、久保田藩主佐竹義尭に対しても仙台藩を応援するように命じている。久保田藩はこれに基づき動員準備を手抜かりなく進めていたが、何か釈然としないものを感じていた。それは攻敵心もなく、唯ひたすら謹慎の意を表している会津をなぜ武力で討伐しなければならないのか。会津を救解に導くことにより、干戈を動かすことなく奥州の鎮撫に実効が奏せられるのであるならば、出兵は極力回避したいというのが偽わらざる本心であり、差当り出動は今しばらく見合せるという状況下にあつた。 かくするところに三月二十七日、仙台藩の使者が久保田城下に到着し、九條総督が総勢八三六人の隊兵を率いて同十九日松島湾東名浜に上陸したのち、二十三日藩主伊達慶邦が同道で仙台養賢堂に着営したとの情報をもたらされた。久保田藩使節は四月六日総督の宿舎に参候し、九條総督に謁見して天機奉伺の使者を努めたが、この時、三卿列座の中で「今般羽州庄内藩の追討を申付るので、速みやかに奏功を奉げること」との指令書を渡され、使節はこれに対して質問状を提出、説明を求めている。 要旨つぎの如くである。 一、庄内藩討伐を下命されたが、先に大政官より命ぜられている会津追討応 援との関連をどのように理解すべきか、両方とも同時に行なわなければ ならないのか。 一、会津討伐を下命される際にはその罪名を示されたが、今回の庄内藩討伐 令には出兵理由がないのはなぜか、罪名は何であるかを明示されたい。 一、庄内藩から謝罪があれば、その謝罪状況によつて赦免するということも あるのか、 一、(省略) 以上四項目からなる質問に対し、その回答は次のような内容であった。 (附札)庄内藩の罪状については、徳川慶喜が天朝に対して暴発反逆を恐れず、関東へ遁落の後もなお快復を主張し、あまつさえ旧冬に関東見廻の節、理由のない言い掛りによつて諸藩邸内へ砲撃し、焼払いをしたためである。 (口達)会津追討の応援はしなくてもよい。庄内が開城降伏をすれば赦免することもあり得る。 右の理由をみると、明らかに大義名分のない私怨によるものであったが、久保田藩としてこの討庄命令をどのように奉命すべきかを協議し、会議は家老渋江内膳を総大将とする出兵とともに「此度の征討は薩長二藩の私謀にして朝旨に非ず、皆其私怨に出るとの邪論巷説、藩中土民も疑惑を抱く、故に問罪の上、其罪を鳴らさざれば兵勢振はざる云々」とする、いわゆる庄内問責の請を総督に求めることの二点を決定し奉呈した。しかし総督府からの返事は「問罪は聞き届け難し」との一蹴であり、朝廷には逆えないという尊皇思想が支配していたこともあって出陣以外に手段はないと詮め同月二十七日矢島方面に向けて出動した。 その後閏四月七日に至って家老岡本又太郎同石塚源一郎の連名により庄内藩家老四名宛に宣戦布告の戦書を送ったが、やはり釈然としないものがあったとみえ、全く事理不分明の出兵を弁解したものにほかならなかった。これに対して庄内藩からの返書は、「現在朝廷からの命により家来の者を上京させており、罪状の糾明もされていない状況にあること、従って何故征討の軍が我が領内に入ろうとしているのか理由不明であること、しかし貴藩より宣戦布告されたということは、我が方の罪状を知つてのことと思われるのでその罪状を教えてもらいたい。咎めの理由を承知した上は、王師の労をするには及ばず、自ら謝罪するものであり、理由の無い討入りでは武門の習いとして弓矢の道を以て挨拶をせざるを得ない。領境を接する間柄でありながら干戈を用い、領民を苦しめるのは不本意のことであるから、貴藩のこれまで以上の周施尽力を懇願する」というものであった。久保田藩としてはこの返書に対して一言の反論する言葉も持たず、そのような状況下では到底戦意高掲などあり得るはずはなく、そして戦闘は敗退に終つた。大藩久保田藩にとつて屈辱であり「軍情を知らない副総督府から派遣された軍監が軍議に介入し、軍将は策戦も出来ない状況から指揮の渋滞を来すなど、作戦行動が支離滅裂となつたためである」とした戦地報告書を同月二十四日付で新庄に滞陣の副総督府へ提出するとともに暫時の休戦を申し入れたのである。 一方、沢副総督は討庄本陣を新庄城に置き、諸藩に使節を送つて出兵を促していたが、端兵急な督促は却つて災いとなり、思うような討入りの実効は見ることが出来なかつた。また岩沼にある総督府では列藩重臣に請われて解兵届を受理したことや、福島で世良下参謀が暗殺される事件が起きていること、奥羽列藩は副総督を薩長藩兵から引き離し、米沢藩兵に護衛をさせようとする動きがあつたことなど、薩長両藩としてそれらの諸形勢を考慮すれば、むしろ副総督府を新庄から久保田藩内に移し置く方にメリットあるとの判断があつた。然して副総督は閏四月二十九日久保田に転陣することを同藩に連絡した上、その諾否を確認する暇もなく新庄を逃げるように出発、当日藩境の及位に宿営をしたのち、翌五月朔日久保田藩々境の守将に渡した通告書は「院内境に進入して来る米沢兵を、随従兵である薩摩・長州・筑前の藩兵を以て守備するので、趣旨を理解して対処せよ」というものであつた。 しかし、久保藩側としては「自領の防衛を他藩の兵隊に行なわせるという指令は藩を愚弄したものである」と示命を拒否し指令を撤回させる場面もあつた。それは副総督に対して逆らう意志はいささかもなかつたが、こと薩長二藩の藩兵に対しては強い反感があり、入国を拒否する態度さえもみせた。副総督はこの状況から久保田藩内にとどまることを詮め、津軽への転陣を決意しなければならなかつた。 しかし、津軽藩との領境にある大館まで転進したが、藩境附近の道路は封鎖されているなど、津軽藩の形勢もまた不隠であることが察知せられ、遂に函館に向けて渡海することに変更せざるを得なかつた。同二十七日副総督一行は大館から日本海に面する能代港に転進し渡海の準備に当つたが、この間久保田藩は争乱が起ることを極力嫌い、平隠にことが運び一刻も早く厄難を免れたいと万端の手配を尽していた。 奥羽列藩同盟と久保田藩 慶応四年四月十七日、仙台藩家老但木土佐、同坂英力及び米沢藩家老竹股美作、千坂太郎左衛門の連名になる書状が久保田藩家老宛に飛来した。その要旨は「会津の家来が陳門に来て降伏謝罪の嘆願を申出ているので衆議いたしたく、重役を白石陣所まで出張されるように取計いを願いたい」というものであつた。 久保田藩とすれば、会津征討の応援に関する指令は解除されていたものの、庄内征討の即時決行を督促されている時だけに、もし会津の謝罪が聞き容られるならば庄内藩に対しても同様の取扱いを受ける可能性があると判断し、この招請を二もなく応じる態度を固め、九日家老戸村十大夫の白石出張を決定した。戸村十大夫は十八日に至つてようやく白石城下に到着、即日但木土作等と対面し、その後使命の遂行に従つた。 これより数日前のことになるが、戸村が白石に到着する以前すでに白石に集合した仙台・米沢等十三藩の重臣が協議した結果、会津藩に対して寛大な処置を望む嘆願書を作成、岩沼に滞陣中の九條総督に提出していた。しかし、この嘆願書は久保田藩として賛同するものであつたが、下参謀の世良修蔵の反対によつて十五日却下されるという経過があつた。次いで十九日に第二回目の会議が開かれ、朝廷の裁定があるまで各藩とも討会、討庄の部隊を国境まで撤退することを申合せ、翌二十日の会議の席上で解兵届を作成、九條総督に提出したのち、総督を岩招から仙台に移して軟禁状態にするに至つた。更に二十二日から太政官への申立書、奥羽列藩盟約書の草案を中心に協議が進められたが、日々の協議に参加した戸村十大夫は、あくまでも奥羽の地を兵火から衛ることであり、盟約はむしろ朝廷に弓を引くことになると消極的であつた。そのために、仙台藩等急進派の一部から「奥羽にては秋田異論の報に相聞え候云々」と疑惑の目を以てみられる一面もあつた。しかし、そのような中、盟約と申立書の提出を決定してから十五日目の五月三日、漸く成文がなつて二十五藩の重臣がこれに署名調印を行なつた。もちろん久保田藩の戸村十大夫の氏名もあつた。かくして十一日帰国した戸村十大夫は藩主に白石での状況を逐一復命した上、今後の対策を同職家老等と協議に入つた。またこれより前、同月九日から既述のように沢副総督が久保田城下に滞陣中であつたが、時たまたま米沢藩使節が城下に到着、薩長藩兵の処分について申入れる処があつた。戸村十大夫はこれの応接にもあたり、沢卿等一行の入国を認めざるを得なかつた事情などについて弁明する役を努めている。久保田藩はこのように同盟の中にあつても立場を危惧される状態であつたが、六月二十一日の夜半京都詰家老眞崎兵庫の使者が到着して復命した処によれば、去る五月二十八日朝廷は仙台藩及び米沢藩の京都邸を没収し、その藩士等の入京を禁じたとの報告であつた。はじめ鎮撫撫総督の指揮下にあつて鎮撫の実効を挙げることを使命とした奥羽列藩同盟も、会津・庄内両藩の救解を求めて行く過程で次第に薩長を敵とする立場が明確化され、遂いにその盟主である仙台・米沢の両藩も朝敵の立場に追込まれるに至つたのである。これまで久保田藩が副総督を迎えることに躊躇しり、転陣後も事態を穏便に処置するために、速やかに出国を願つた理由なども、もとはといえば同盟の一員として一途に薩長の退去を朝廷に歎願する目的からであつたが、ここに来てその道は閉ざされ同盟への去就について藩論の再検討が重大となつたのである。なお奥羽列藩同盟はこの期を前後にして長岡藩等越後六藩が加わり、名称も奥羽越列藩同盟と変更され、次第に軍事同盟化への道を歩むことになるのである。 奥羽列藩同盟を脱退す 五月十八日仙台にあつた九條総督は、秋田能代に滞在中の沢副総督と合同の上、海路帰京することを口実にして仙台を出発、盛岡を経由して七月一日久保田城下に到着。一方、能代に滞在していた沢副総督もこの日久保田城下に入つた。総督は直ぐさま今後の奥羽列藩への対応策など鎮撫総督府の最高方針を決定したとみられ、藩主義尭はこれら三卿を出迎えた際に庄内討伐について指令を受けている。 またこの日盛岡藩家老毛馬内九左衛門が藩主南部利剛の天機奉伺の使者として久保田城下に派遣されていたが、他方、仙台藩の使者志村又左衛門一行は三卿の引渡しと薩長藩兵の追放を迫まる談判のために、やはり同城下に到着していた。この間、城内では領境に迫まつている列藩兵を撃破する軍議が進められ、七月六日を期して庄内討伐のため一斉に出撃する旨を総督府に申出た。また時を同じくして砲術所の壮士等が、藩内勤王の士気を鼓舞することを大義名分に仙台藩使者を誅戮すること密議し、その意志を藩主に伝えるとともに、同四日夕刻宿所を襲撃して使者上下十一人を捕え、六人を斬殺、五人を獄中に投じた。この時、盛岡藩使者毛馬内九左衛門の従臣高橋惣助が騒動に巻込まれ、誤つて殺害されている。これによつて久保田藩は奥羽列藩同盟の脱退を表明、いわゆる官軍として錦旗の下に薩長藩兵等、総督府の随従兵と行動を一にするのである。 領内南部の戦線 かくして七月六日久保田藩は筑前兵と共に新屋口に、長州・薩摩・豊前・肥前の四藩兵は院内口にむけて一斉に出陣した。 新屋口にむかつた久保田藩ほかの征討軍は亀田・本庄と進み、更に二隊に分れて一方は海道を南下し、十六日初めて庄内兵と遭遇、合戦に及んだが利なく、その後じわじわと押され、八月十九日には久保田城下の南に位置する長浜まで後退を余儀なくされていた。他の一方は矢島に向かつたが、七月二十八日矢島上笹子に出て、これも鳥海山を越えて来襲した新徴組、新整組等の旧幕兵の奇襲を受けて矢島を失い、また由利郡を席捲して大沢郷から雄物川を渡河来襲した庄内藩に破れ、更に敗退を続け、九月十二日城下守備の拠点である椿台にて壮烈な攻防戦を展開した。しかし、十七日に至つて庄内兵は一斉に帰国し久保田藩は辛うじて危機を脱した。 院内口に向かつた征討軍は長駆して南下し、七月十一日院内峠を越えて及位に滞陣中の仙台・米沢藩を駆逐し、その余勢をかつて最上郡の金山を攻略、翌十二日には更に新庄に進み緒戦敵無しの感があつた。しかし十三日庄内兵の猛攻を浴びて敗退、その後も奥羽連合軍の追撃は激しく、またたく間に久保田領内奥深くまで食い込まれる戦況であつた。急を聞いた沢副総督は、八月六日久保田城下を進発し軍の督励に赴いたが回復することが出来ず、横手・角間川の守備も破れ、八月の末には平賀郡を全部失い、仙北郡もまた敗れた。以降両軍は各地で激戦を繰り広げ互いに勝敗を分けていたが、由利郡を席捲した庄内兵が仙北に雪崩込み、大曲の連合軍と連絡をとるに至つて、にわかに勢力を増大させた。久保田藩は庄内討伐戦に従つて既に数旬に及んだが、逆に領南の穀倉地帯の大半を敵手に占領され各地の要衡も破られそうになつており、また人命・財物の消粍も甚大で藩の苦境は言語を絶していた時に、九月八日薩摩・肥前等の応援部隊が来着した。一方、越後口の征伐軍が米沢藩を降伏に追込んで庄内藩の背後から封境に迫つたため、遂いに庄内藩も全線に亘つて将兵を撤収するに至つたのである。この間、西国諸藩の久保田藩に対する評価は、桂太郎の言を借りれば、「秋田藩は戦闘に拙く、応援諸藩兵は戦に倦み、士気沮喪す。斯る惰卒を以て勝誇りたる仙台・庄内の兵と対抗するとも勝算あるべからず」と辛辣であり、一方久保田藩では「羽州各藩には全軍の戦略構想に発言権はなく、地の利の暗い薩長肥藩の参謀の戦略不備から来る敗戦に焦燥しつつも、軍将に指揮権すらもないため士気はますます減退する仕末であつた」と回顧している。 領北「盛岡藩」との交戦 八月七日盛岡藩から十二所の守将茂木筑後に対して宣戦布告の戦書が到来し、翌八日十二所口、別所口、葛巻口、新沢口の四方面から進攻され戦端を開くことになつた。 実はこの時期、久保田藩は盛岡藩の向背については確信あつたとは言い難いものの、危惧していた津軽藩が庄内討伐に参戦の意志を明確にしたため背後の憂いなしとみて、殆んど全軍を庄内討伐に当ており、驚愕は一入でなかつた。従つて領境にはかねて守将茂木筑後の支配する少数の給士と同家の家士によつて平常の警備をする程度で戦備はなかつた。 この報は領内南部の大半を敵軍に占領され、なお敗退しているとの報と同時期であり、さりとて戦機を起倒転換する程の策略も持合せていなかつた。かかる中から盛岡藩重役との外交交渉により親交を深めようとして家老須田政三郎を十二所口に派遣したが、時すでに遅く破竹の勢で進撃してきた盛岡藩兵によつて十二所を攻略され、緒戦は完敗に終つた。その後十一日津軽兵の来援、統器の寄贈を受けて多少の勢を増したほか、桧山鎮将多賀谷長門が大館に着陣したことにより些かの増勢をみたほか、大館鎮将佐竹大和等を含めてそれぞれの持場を決定し戦備を強化した。しかし、十八日から二十二日の間、総勢力は三対一の劣勢であり、連日砲戦に始まり砲戦に終わる激戦に支えきれず、遂に大館城も捨てなければならなかつた。 主戦論者であつた須田政三郎が実戦において敗戦を余儀なくされているとの報が藩庁に届けられた日、領南の横手城からも危急迫るとの報が入り、藩主脳部は絶命的となり、憂色を濃くていた。 二十二日の戦いで久保田藩兵は山本郡荷上場まで敗走、ここで兵備を建て直して盛岡勢を食い止めようとしたが、一方盛岡勢は二十三日板沢二十四日早口村と進軍し、二十五日に坊沢へ本陣を置いて久保田藩と対峙した。二十七日に至り盛岡勢に後続部隊が到着、明日を以て決戦に臨もうとしていた。また久保田藩側においても肥前藩からの来援があり、これも直ちに逆襲に転ずるための軍議がなされていた。かくして二十七日両軍は今泉に進軍、四時間に及ぶ砲戦は凄まじかつたが遂いに雌雄を決することもなく引分けに終つた。しかし、翌二十八日佐賀藩・小城藩等の援軍が荷上場に上陸、盛岡勢にてもまた諸隊集結して攻撃態勢を強化していた。そして二十九日の戦闘は遂いに攻守を逆転、久保田勢優勢の展開に始終し、その後は岩瀬・大館・十二所と次第に悉く回復し、九月二十日には到頭盛岡勢を領内から駆逐出来たのである。この間、総督府より生保内口から盛岡領へ向けての進軍を命ぜられ、振援隊及び島原兵、薩摩兵と共に二十八日を期して進発、国見峠及び橋場村に駐留する盛岡勢を攻めてこれを破り、盛岡藩に対し問責の帥を発する旨を告げ、更に城地の明渡し、兵器の引渡しを行い、ここに兵乱は悉く鎧静したが、久保田藩の被害は甚大で、藩地の三分の二が戦災に曝され苦衷を嘗めるに至ったのである。 結論にかえて 十一月久保田藩が大政官に届出た調書によれば、雄勝・平賀・仙北三郡一三、一三五軒のうち二、三四九軒の民家焼失と遺家五軒・川辺・秋田二郡三、九五〇軒のうち二、三三五軒の民家焼失という状況かで農村の荒廃無惨であった。またその兵力約一万と応援諸藩兵七千人の戦費は数十万両に及び全て藩債として残ったのである。それに劣らず不幸なことは奥羽において孤立しながらも、かつ領内を戦火に曝してまでも勤王の節を守って維新を迎えた久保田藩であったが、対する中央の目は冷やかで、常に疑惑に充ちており、中央政局に出ては発言の場すら与えられることはなかった。ちなみに明治二年正月行政官から藩主義尭に渡されたものは功労状とは程遠い問責状であった。 一、慶邦(仙台伊達氏)の家来 並に利剛の軽卒を故なく殺害 いたし乱条 不届之事。 一、庄内征伐を仰付けられ候処、甚だ柔弱にし、且武道に無拙、都て朝敵悉 労 兵に打込み、他藩の力を以て防戦いたし、言を欺き増石歎願と申候 義、何の面目有りて望み候哉、功なく賞を願し私欲之大胆之事。 一、南部利剛城地召上げられ候上は、天朝之城地なるを以て其藩え守衛申付 け候処、城地に乗込み候程、剰へ城中土足の儘踏み込み、天朝を恐れず 不届至極の之事。 一、利剛東京へ召登られ候節、昼夜歩行の心得にて発足いたし候処、其藩守 衛を蒙りながら、天命を背き奸ばかりを断り、利剛に失を与えんと欲す るの条、武家に似合わず真義を失う不届の事。 一、盛岡城地守衛申付候処、利剛謹慎中を介けず、酒興乱舞等をいたし候 条、一端不和を醸すと申ながら隣国の好み、租税を失う佐義不弁不道之 事 一、(五ヶ條中略) 一、共藩柔弱に有ながら他藩を偽り候か、侮り候か、幕下の如く取扱軽から ず儀、不埒至極之事。 一、己を捨て人を救ふは人たるの道なるを、人を捨て己を立ん事を至りせし めば職分に似合わざる事 正月 中五ヶ条を紙面の都合によって割合したが推して知るべしである。 明治二年三月五日外債事件・同月二十五日志賀参事殺害事件、更に四月に入り、公卿愛宕通旭、外山光輔等が政府内部における薩長の横暴をにくみ、それを除こうとしたと言われる事件で、秋田藩大参事であり、世子補佐役でもあった公義人初岡敬治が嫌疑を受け、六月四日免罪によって斬罪に処せられている。また同月二十八日には秋田藩贋金事件をもって佐藤時之助が弾正台に自訴状を提出し縛に就くなど、あたら人材が多数消え、後続の傑出はしばらくなかった。これに対比して賊軍と言われた盛岡藩士をみると、軍官学財その他の各界に個人個々には血の滲む努力の結果であって、汚名挽回の反骨精神によるところ大きかったであろうことは否定しないが、それぞれ人材が傑出しており、秋田久保田藩とは隔絶の感がある。盛岡藩の明治維新を語る時に、往々にして「人物が居なかった」「先見の明を持っていなかった」といい「故に賊軍となり後世の遺恨となった」との批判を開く。それでは久保田藩と同様に孤立して錦旗を奉じていれば後世の遺恨とならなかったのかと言えば、これもまた甚だ疑問が残る。過去に「若し」は存在しないが、初めから戦を仕掛けて来た薩長に対して、奥羽列藩同盟が存在している四面楚歌の中で、久保田藩の轍を踏まずに、盛岡藩として「先見の明あり」と言わしめるためにはどのような道があったのだろうか。領内が戦火に晒されて領民が疲弊を余儀なくされた久保田藩の何処に先見の明があったというのだろうか。 |