盛岡鎮護の神仏 2 |
工藤利悦 |
目次 一 序にかえて 盛岡城築城の目的 1 盛岡の地名 2 盛岡城築城 3 竹田伽良倶理の説 4 築城の動機 二 城地の見立て 四神相応の地相を 1 朱雀 2 青龍 3 白虎・玄武 4 四神とは 以上前号 三 寛延の盛岡城絵図は語る 神仏に盛岡の加護を祈願する寺社とその略沿革 1 四鎮山の一・姫神大権現 2 鬼門鎮護の祈願所・永福寺 3 四鎮山の一・早池峯大権現と生門鎮護の祈願所・岳妙泉寺宿寺 4 盛岡領惣鎮守の社・八幡宮 5 四鎮山の一・岩鷲山大権現と将門鎮護の祈願所・大勝寺 6 四鎮山の一・新山大権現と病門鎮護の社寺が見えない理由 7 在来の神 終に 【前承】 三 寛延の盛岡城絵図は語る 神仏に盛岡の加護を祈願する寺社とその略沿革 盛岡市中央公民館の資料展示室に入って右折すれば、右壁面に大きな盛岡城下の絵図(写本・紙本着色、172・0×172・0センチ)に遭遇する。実は本来この手の絵図は城絵図と呼ぶが、城下の様子が描かれていることから、一般には城下絵図と呼ばれている。この絵図は寛延二年(一七四九)当時の城下の様子を描いているのみならず、神仏に加護を祈願する盛岡の姿を如在なく表現している。 1 四鎮山の一・姫神大権現 盛岡城を中心として描かれる絵図の四繞には、真北に南部家の菩堤寺である聖寿寺・東禅寺を初めとする北山の寺院群があり、その遥か延長線上に遠望の姫神岳が坐している。姫神岳は盛岡城を鎮護する山として、岩鷲山(岩鷲大権現)・早池峰山(早池峰大権現)と共に「南部の三鎮山」、或は新山(新山大権現)を加えて「南部の四鎮山」と呼び崇敬されてきた山である。それぞれの山には神格があって、大権現と呼ばれる神が住しているとの信仰から、息災安穏・五穀豊饒を祈願、祀ってきた。その大権現は、「仏が仮に神の姿をかりてこの世に現われたもの」という「本地垂迹」の考えから、大権現には本来の姿の仏尊が存在することになる。それが本地仏といわれるものであり(梅原廉「南部利直に見られる宗教政策」)、姫神大権現の本地仏は、「十一面観音菩薩」であるとされている。十一面観音の功徳は除病、滅罪、求福を祈り、敵難、水火難を受けず、虫毒や寒熱を蒙らず、延命と説かれ、領民の息災安穏・五穀豊穣と、領内安堵、領民安泰を祈願するための佛尊として崇拝されてきた。麓の川又村に若宮(一間四面)を建立、玉東山筑波寺西福院(岩手年行事)が別当を勤めている。また、南部重直の代、寛文八(一六八六)年に城下仁王町から川又村に十一面観音菩薩を移して観音堂(三間四面)を建立(『封内郷村志』)、代々藩主の祈願所として隆盛を誇った。代々の別当を清雲院が勤めたが、明治維新後の神仏分離令修験廃止によって観音堂は村社姫神嶽神社となり、仏像は近くの東楽寺に移されて、現在、岩手県指定の文化財となっている。 2 鬼門鎮護の祈願所・永福寺 絵図右隅、北東(艮・うしとら)の方向に宝珠盛岡山永福寺が座している。明治二年(一八六九)の廃仏毀釈令によって廃寺(その後再興)となり、往時を偲ぶよしもないが、盛岡城の鬼門鎮護と領国安堵・領民安泰を加持祈祷する南部家の祈願所として寺領八百石を有した真言の古刹である。この方向を鬼門と称し、陰陽道では、万鬼(悪鬼・悪霊)が出入りする処であると云う。古来、災禍はここから出入りすると信じられ、殊に王城・城地においては、鎮護のために、この方位に寺社を建立して鬼門除けとする風習があった。 永福寺は仁和寺内皆明院院跡、和州小池坊末寺と伝え、本尊は「十一面観音立像」であるが、除災招福の修法本尊は十一面観音の応化身とされる「歓喜天尊像」である。歓喜天は象頭人身の尊像で、加持祈祷の本尊とするのは、宇宙の主宰者・唯一絶対の根本佛は大日如来であるとの考えに基づいている。つまり、十一面観音は、大日如来の功徳のうち、すべての真理、働きを具像的に表現した佛尊であるとされ、歓喜天は九千八百の諸大鬼王を将領し三千世界を遊行し、三宝を守って衆生を利し、祈願する者には悉く満足を与えることを誓いとしている善神である。歓喜天に立願することは、取も直さず十一面観音や大日如来に対して祈願することに通じるとされている故である。寺伝によれば、元和三年(一六一七)南部利直は盛岡城築城に際し、鬼門鎮護の祈願所として三戸より移転建立したことを伝え、『封内郷村志』には、「真言宗奕代祈願所、寺領八百石、是為封内諸刹之冠也、故寺格無出其右者云々」とある。また、『盛岡砂子』には「此地は御城の鬼門に当りて、京都の比叡山、江戸の東叡山に比して、当城鎮護の為御建立にて、住持も位(くらい)権僧正に至る」と見える。同寺の草創は、延宝八年(一六八〇)正月十三日の火災で堂宇のすべてを焼失したため、縁起古記の類を焼亡して詳らかではないが、延暦十三年(七九四)、坂上田村麻呂によって奥州六観音の一つとして十一面観音をまつり、田村の里(青森県八戸市七崎字上永福寺地内)に国土安泰を願う祈願寺として創建された伝え、現在、その七崎(ならさき)には、三戸へ移転した跡の旧境内に永福寺末寺の普賢寺(真言宗豊山派)が存立、『寺社修験本末支配之記』によれば、永福寺自坊として「一、普賢院 七崎 天保六年(一八三五)六月二十一日(南部家より)現米五石被下置之」と見える。明治二年(一八六九)の廃仏毀釈令によって七崎神社を分離している。一方、三戸に移転した永福寺(青森県南部町沖田面字早稲田地内)は、『竹田伽良倶理』によると、七崎からの移転は伝えず、建久二年(一一九一)に鎌倉永福寺門徒宥玄によって建立と見える。蛇足ながら、史書によっては、承久二年とか、同六年など諸説錯綜するが、『篤焉家訓』や『聞老遺事』の説によれば、東鑑(鎌倉幕府の日誌)より、「建久六年七月十日、今度上洛之間、供奉の御家人等多賜身之暇帰国云々」を引いて、承久は字形相似による建久の誤写、元年、二年説についても、同様六年の誤りと考証している。但し、最近の学説では、南部光行の糠部郡拝領説を疑問視していることを置いてのことである。また、『封内郷村志』には「嶺松院、盛岡永福寺旧地、真言宗、同寺末寺也」、『奥南旧記』巻三『寺社修験本末支配之記』は、永福寺自坊とし「嶺松院 三戸 天保六年(一八三五)十月二十一日(南部家より)現米五石被下置之」等と散見する。同院もまた明治二年の廃仏毀釈の際に廃寺となり、旧境内にはかつて境内神であった新羅神社と早稲田観音堂が存立している。新羅神社は『雑書』承応二年(一六五三)四月十一日条に新羅大明神、同十七日条には新羅宮と散見し、藩命によって祈祷が行われていた。早稲田観音堂は寛保三年(一七四三)の『奥州南部糠部順礼次第全』に「和瀬田の同舎十一面観音菩薩」とあり、糠部三十三観音の第二十三番札所とされている。創立年代は不詳であるが、本尊は沖田面の早稲田より出土したもので、のちに盛岡永福寺の祈願佛となったと伝える。「盛岡」の由来は永福寺の山号「宝珠盛岡山」による(実は、自分の文章に水を差すことになるのだが、慶長初年の伝馬証文に「盛岡」の文字がある)ことは既述の通りである。ちなみに、永福寺は明治初年の廃佛棄釈に際して廃寺となり、同寺五十八世宥祥法印は復飾の上、旧境内の一部に岡山神社を創設、神職岡山弘衙を称した。のち岡山定盈と改名、明治二十一年(一八八八)に死去している。 3 四鎮山の一・早池峯大権現と 生門鎮護の祈願所・岳妙泉寺宿寺 絵図の右下、盛岡城の南東・巽(たつみ)に盛岡領鎮守の八幡宮が座し、その延長線上に、遠望して早池峯山が見える。この方向を北東の鬼門に対して生門という。 早池峯山は早池峯大権現が御座します盛岡城の生門鎮護の山であり、岩鷲山・姫神岳と共に「南部の三鎮山」、或いは新山を加えて「南部の四鎮山」とも称され、篤く崇敬されてきた山である。藩士による「三十三騎代参」は頻繁に行なわれている。早池峯大権現の本地仏は、古代から「薬師如来」の山として信仰されていたが、近世当初南部家の支配となるに至って「十一面観音菩薩」とされている。薬師如来は除病延寿、衣食満足等の十二の誓願を持ち、除産苦、求子等七難を消滅させてくれるといい、個人の七難のみならず、国家の七難をも除去する現世利益信仰である。早池峯山の別当は妙泉寺である。一方、十一面観音は、大日如来の功徳のうち、すべての真理、働きを具像的に表現した佛尊であるとされ、歓喜天は九千八百の諸大鬼王を将領し三千世界を遊行し、三宝を守って衆生を利し、祈願する者には悉く満足を与えることを誓いとしている善神である。「寺社修験本末支配之記」によれば、妙泉寺は仁和寺末で、寺領百七十石一斗五升を稗貫郡に有する大迫岳の早池峯山妙泉寺と、大和国小池坊の末寺にして八戸弥六郎家の祈願所の所以によって同家より二百石を宛行われた、閉伊郡遠野大出の早池峯山妙泉寺の二ヶ寺の存在が知られる。両妙泉寺は、明暦元年(一六五五)以来九十年間に亘り祭祀権を巡って表裏の争論を続けたが、藩主南部重直の采配は、万治元年(一六五八)に「甲乙なく、同格に勤めるよう」にと裁決(遠野「早池峰山妙泉寺文書」)、落着している。しかし、藩は大迫口を盛岡側の本道としたこともあってか、盛岡城内での席次は岳妙泉寺を上席とし、加えて盛岡城下に宿寺を構えることが認めている。しかし、『奥南盛風記』は延宝七年(一六七九)に「八幡宮御鎮坐に付、妙泉寺を引て加賀野の先大日山へ移る」と、その移転を伝えている。絵図上に、早池峰山を背にした八幡宮が鎮坐する所以である。 加賀野へ移転後の妙泉寺宿寺は、絵図・やや東の方向にして、永福寺から見れば中津川の対岸山中に描かれ、この地は現在妙泉寺山と称されている。寺地は二万八千八百坪(縦二四〇間・横一二〇間)と広大であり、本堂は三間四面、庫裡は七間半に十二間。他に三間四面の大日堂や勢至堂等が建てられている。岳の妙泉寺は慶長十二年(一六〇七)南部利直より百五十石(「南部利直書状」)を宛行われて再興された寺院で、延宝二年(一六七四)から仁和寺の直末寺となり、翌三年には仁和寺の院跡「宝光院」の住職を兼務している(「早池峰神社文書」)。盛岡城危急の時には、隠し砦としての役割を担い、要害普請が施されており、盛岡城から加賀野の妙泉寺宿寺を経て、岳妙泉寺へと避難、更に宮古へ山つたいに落ち延びるルートがあったとも伝えられている。明治維新後の神仏分離令によって盛岡の宿寺は廃寺となり、跡地はりんご園になったとの伝えもあり、また一時城内から桜山神社が遷座されていた時期もある。岳の本寺は早池峰神社となり今日に至っている。 一方、遠野大出の妙泉寺は、大迫岳妙泉寺と同様に、古代からの歴史を有する古刹である。慶長十二年(一六〇七)南部利直より寺領百三十五石を宛行われ、寛永四年(一六二七)に八戸弥六郎が八戸から遠野へ知行替となって以降は八戸家の祈願所となり、承応年中(一六五二?五五)以来同家より高二百石を宛行われていた。明治維新後の神仏分離令によって廃寺となり、旧来の新山宮を改めて早池峰神社と称し現在に至っている。 4 盛岡領惣鎮守の社・八幡宮 絵図の右下、盛岡城の南東・巽(たつみ)に早池峰山を背にして鎮坐する八幡宮がある。延宝九年(一六八一)に早池峯山の別当寺である妙泉寺宿寺を加賀野に移転させ、その旧境内に建立された盛岡領惣鎮守の社である。祭神は誉田別命・白山姫命の二柱を祭り、その始めは、永保三年(一〇八三)に清和源氏の氏神である石清水八幡宮を甲斐南部(山梨県南部町地内)の地に勧請したのが起原で、承久三年(一二二一)に甲州から糠部郡滝沢村(青森県三戸町地内)に勧請された社と伝えている(「滝沢系図」)。『竹田伽良倶理』「八幡宮略縁起并伝記年譜の話」によれば、承久二年八幡宮を普門院ならびに滝沢氏の先祖量満対馬が甲州より奉じ、糠部郡滝沢村に仮社を建立すると共に、南部家の始祖新羅三郎義光の鎧を馬場氏の先祖嶋平治郎が、同前髪を鎌倉永福寺の門徒宥玄がそれぞれ奉じ、鎧は雷堂に納めて櫛引村に、前髪は新羅堂に納めて沖田表村に安置した。承久三年に本社を櫛引村に建立、滝沢村から遷座したと伝える。時代が下って慶長年間、盛岡城築城の時、烏帽子岩の傍らに存していた八幡の小社に、新たに八幡宮を勧請、新八幡と号して別当は金剛坊に命じている。寛永十一年(一六三四)に永福寺が三戸沖田表村より盛岡に移転の時、同寺境内にあった櫛引八幡宮の摂社雷堂及び新羅堂も城内の新八幡宮に遷座。その後延宝七年(一六七九)二月、妙泉寺宿寺の跡地を城内八幡宮の御旅所とした折りに、雷堂及び新羅堂も併せて造営している。爾来新八幡宮は盛岡領鎮守の社として広く領内万民に祟敬せられ、繁栄は今日に至っている。明治維新に際して本宮である城内八幡宮は廃宮されている。別当金剛坊は城内八幡宮別当を兼務し、廃藩まで供米一ヶ月片馬を給せられている。ちなみに櫛引八幡宮は寛文年間に八戸領が分封せられた後も、境内は盛岡領の飛び地とされ、別当普門院には社領千三十九石余が宛行われ、例年盛岡から藩主代参の使者が派遣されることを恒例としていた。 5 四鎮山の一・岩鷲山大権現と 将門鎮護の祈願所・大勝寺 絵図左下は盛岡城から見て北西、乾(いぬい)と称し、この方向を将門という。残念ながら、公民館所蔵絵図の北東隅部分は切り取られ欠落しているが、永福寺蔵の類本絵図には岩鷲山が座している。岩鷲山には岩鷲山権現が御座します封内第一の鎮山として崇敬されてきた山であり、将門鎮護の山であった。藩士による「三十三騎代参」は頻繁に行なわれている。岩鷲山大権現の本地佛は「十一面観音菩薩」であるが、山頂を形成する一山を薬師岳とする処から推して、早池峰山と同様、古くには薬師如来信仰の山であったことを物語るものと知られる。登山口は柳沢口・雫石口・平舘口の三路あり、柳沢口は中世以来、鎌倉御家人の末裔工藤氏が代々大宮司別当を勤めていたが、その後その家臣筋と伝える齋藤出羽と、自光坊の間に祭祀権の争いがあった。一方、厨川工藤氏系図によれば、工藤如光の譜に「或諸光、仁右衛門、豊前、利直公慶長元年(一五九六)家督、此時二百五十石となる(中略)。元和二年(一六一六)四月朔日死、天室清公禅定門、東顕寺、此の時、雫石村安楽坊をして、岩手山に代参せしむ」と見え、慶長・元和の頃には雫石の安楽院が祭祀執行の代理を勤めていた姿も見える。しかし、寛永十年(一六三三)に、岩鷲山の祭祀権は同年に創建された岩鷲山大勝寺に移転している。岩鷲山を別名「大勝寺山」とする所以である。 大勝寺は、寛永十年に南部重直が国入りに際し、江戸から伴って来た愛妾お勝の方の発願により、寺領高百十一石五斗八升を以て創建された寺院である。お勝の方、篤信者てあったという。寺号大勝寺はお勝の方の名に因みもので、八ヶ寺ある末寺は、すべてに勝の字が付されている。しかし、お勝の方に帯同して江戸から盛岡入りした羽黒派修験十人があり、これに当時岩鷲山の祭祀権を代理執行していた前述の雫石の安楽院が加わり新寺創立に至ったのが大勝寺であるとも伝えられている。開山は安楽院であるが、二世高海以降は三世行海、四世養海と、法灯は安楽院の手を離れて継承している。江戸から帯同した修験者の中にお勝の方の近親者がいたと伝えるものもあるが定かではない。当時、修験間に、本山派と羽黒派の勢力抗争が有り、その渦中に創建された寺院と知られる。 大勝寺境内は絵図左下岩鷲山と盛岡城とを結ぶ直線上、城下仁王小路に描かれている。この地は初め大宮豊受皇太神権現社と由緒を同じくする稲荷社の境内であったが、自光坊の神明社の社地となり、自光坊が松尾町へ移転後、大勝寺が創建され、その境内となった。明治初年廃寺となり、岩手山神社が創建されている。自光坊は本山派修験の総録であり、大勝寺は羽黒派であったことは既述の通りである。一方、雫石口は、享禄三年(一五三〇)の「大僧都平政久」による大宮再興の棟札を有する、西根大宮社神主円蔵院(高四十五石)が、また、平舘・平笠口は大蔵院(高十二石)とそれぞれが勤めた。古くには平笠口は自光坊が別当を勤めていたとする伝えがある。自光坊が岩鷲山別当であったとする記録は諸処にさんけんするが、次の記録もその一つである「大勝寺と申候て、当時岩鷲山別当被仰付(中略)自光坊と両別当被仰付置候云々」(『岩手山記』所収自光坊書上)は柳沢口の祭祀権に係る記録と知られるが、実態はよくわからない。また、滝沢村教育委員会『岩手山の石造文化財』によれば、「雫石別当円蔵院の記録では「以前は岩鷲山田村明神と号していたが、この時(貞享三年(一六八六)の噴火に際して正一位権現を取得)岩鷲山大権現と唱えるようになったという」とある。しかし、齋藤出羽家は後世まで「岩鷲山田村明神」の別当を勤めていたほか、家老席『雑書』によれば、既に貞享三年を遡る延宝元年(一六七三)十二月三日條に「岩鷲山権現」は散見する。 6 四鎮山の一・新山大権現と 病門鎮護の社寺が見えない理由 絵図右下南西・坤(ひつじさる)を病門といい、また鬼門に対して対角線上にあることから裏鬼門ともいう。この方位にある志和の新山(標高現在テレビのアンテナが林立し、展望台などもある)は「南部の四鎮山」の一に数えられいるだけに、絵図に当然描かれて然るべきと考えるが描かれていない。一方、時代はやや下降するが、寛政頃の成立と見られる『封内郷村志』には「この山、南昌山と相並び層々対峙す。四月至って雪消え尽きず。曾て嶺上に権現宮を営建、霊験最も新たかなり、毎歳祭祠を怠らず、常に庶民間断なし。当山の来由は知らず、相伝えていう。鷲嶺・姫神岳・早池峯と東西北三方に立ち、然して城府を擁護すに、惟南方一所闕けるを以て、此の山を新山と称して祝し、以て四鎮山となすと云、これ平安城地に将軍塚を築て四方の国鎮となす、所謂、その例に準ずるか、未だ其濫觴の詳びらかを知らず云々」と記している。つまり、当初岩鷲山・姫神山・早池峰山を以て三鎮山としていたが、南方(実は病門)鎮護の鎮山がないため、後世に至って新山一山を加えて四鎮山としたとの伝えである。従って三鎮山を四鎮山とした時期は、絵図が描かれた寛延二年(一七四九)を上限として、著者大巻秀詮は享和元年(一八〇二)に六十二歳で死去していることから推して享和元年以前ということになるだろうか。しかし、ここに府に落ちないことがある。この時期を遡る寛文五年(一六六五)に、盛岡藩では、八戸領として高二万石(内高四万二百六十九石五斗)を分封するに当たり、志和郡内に高弐千七百六拾四石四斗八升八合(内高五千八百六十五石四斗四升五合)を分知しており(『御領分通分諸上納金銭雑記』『郷村古実見聞記』)、その際に新山の山頂付近から山腹にかけ一帯に存在した新山権現(本地佛は「十一面観音菩薩」)の境内は、入子の形で盛岡領飛び地として残し、寛文十二年(一六七二)にその境界に藩境塚十五基を築いていること。平成十三年に筆者らは予備の現地調査を実施して、その内四基の塚を確認しているのであるが、盛岡藩は新山権現の境内地を敢えて飛び地として確保した理由は何処にあったのだろうかという疑問である。 新山権現の歴史は古代まで遡る霊地とされ、寺跡から出土した平安期の鏡等(銅双雀鏡、銅菊花双雀鏡、銅秋草双雀鏡、銅梅花鏡、金銅懸仏)は岩手県指定文化財となっているほか、別当寺池峯山新山寺は中世には斯波氏の祈願所であったとも知られている(『盛岡砂子』)。従って、新たに加えたために新山と称したとする『封内郷村志』の説は当たらないと考える。 一方、古くから岩手の郷には男神岩鷲山と女神姫神嶽は夫婦であり、そこへ早池峰山という妾が登場する説話がある。全国に点在する三山伝説と基軸を一にするものであるが、何れも盛岡を中心に座する山々であることから垣間見ることは、南部家の支配領域拡大の歴史を加味した、盛岡築城以降に創造された説話であることを意味する。新山を加えた四鎮山も当然盛岡築城後に成立したものではあるが、その時期は寛文以前であらねば、八戸領の中に新山権現境内を盛岡領飛び地の形で存続させた意義は判然としない。『封内郷村志』は、奇事くも寛文年中以降に、何かの事情により一旦中絶していた四鎮山が復活したことを、語り伝えているのではなかろうか。 新山権現の別当寺新山寺は寛永二十一年(一六四四)奥付のある支配帳には、寺領二十石(後に百二十石)と見え『盛岡砂子』には証文の出たのは元和五年(一六一九)前後かとしている。時代は下るが、城内における席次は上位十二番目の待遇(『諸寺院御礼着座之次第』)を有していることを併せ見て、伝承中絶の背景には、盛岡城築城当時に新山寺は外加賀野へ移転したことや、推して加賀野へ移転の頃か、永福寺の末寺となると云った変遷を辿っていること。また「聖天の御山永福寺」をまとめられた梅原廉氏からの直談によれば、「裏鬼門の祈願所は永福寺が新山寺より受取り、持っていた記録が永福寺に現存する」と云われることなどが背景にあったとも考えられる。謎解きは今後の課題である。 7 在来の神々 絵図右上、東南の永福寺後方に米内村の大豆門権現(現・在庁神社)や同村米内薬師(現・薬師神社)や、絵図絵図右下、南西、病門に見える本宮村の大宮豊受皇太神権現社(現・大宮神社)等など、在来の社も点在してある。大豆門権現・米内薬師は共に不来方氏が崇敬を受けたと伝える古社であるが、慶長十四年(一六〇九)中津川の上之橋の渡初めは、大豆門権現の獅子頭(狛頭とも)が儀式を盛りたて荘厳かつ盛大な儀式を執り行ったと記録している。大宮豊受皇太神権現社は豊受大御神を主神として宇迦御魂神(稲荷大神)を合祀する社。盛岡市指定文化財になる同社鰐口は応永十三年(一四〇六)の在銘、その歴史の重みを今に伝える。南部家はこれら在来の神々に対しても厚く崇拝の意を示している。大宮神社御由緒記によれば、志和城築城の時に鬼門鎮護の社として伊勢神宮の内宮・外宮二社の分霊を奉斎、内宮分社は大宮権現と号して雫石川(五十鈴川に見立てたと伝える)の右岸に、一方外宮分社は雫石川左岸に位置する現岩手山神社の所(仁王小路地内)に鎮座し、その地は後世に大勝寺境内となったと伝える。大宮大権現は雫石川の氾濫に悩まされた末、志和城の巽(東南・生門)に位置する現在地に遷座したとし、本宮の地名は同社の由来に基づくことを伝えている。また盛岡城の将門の方位にあたることも考慮されていたものか、社司鈴木伊豫守は、天和四年(一六八四)に盛岡城内の鳥帽子石の注連懸けの神事を掌ると『盛岡砂子』に見える。享保二十年に城内に造立された稲荷大明神の別当は鈴木を名乗り、因幡・伊賀等を称している。大宮大権現別当鈴木氏一類の人物と見られる。一方、後年新八幡宮の別当を勤めた金剛坊も在来の八幡別当ではなかったろうか。 終に 盛岡藩は戦陣に出動する場合、これには参覲交代の御供も含まれるが、また、官職に就く場合に於いても誓詞神文を城内桜山神社に奉納し、神前で神水を頂くものであった。その立場によって誓詞文言に異動はあるが、『御警衛御供人数へ被仰出御法令并誓詞神文』より、進発に際する誓詞神文を次に紹介する。 誓詞神文之事 一、今度就警衛於其場抽誠忠之輩、不撰大小上下夫々可有褒賞之事 一、働之穿鑿無依怙贔屓可遂注進、縱令手違有之共不可咎遺失事 一、構私之利口猥に軽公私令批判之輩於有之は、逆臣同意可行其咎事 右之条々於相背は 大日本国中大小之神祇、殊当国岩鷲山大権現・早池峰山大権現・櫛引八幡 宮霊罸可罷蒙者也。仍所捧神文敬白如件 年月日 氏名諱・花押 更に、軍制は次のように定めている。 一、御家御幡 壱流 地白綾、精好之内 二幅白地 上御氏神尊号、下鶴御紋 但 尊号 八幡大菩薩と書、御紋共に黒く 一、隊御旗 四本 但乳附 地白綾練之内 三幅白地二ツ引竜鶴御紋招白地 神名 但 神名 黒く書 淡路丸大明神 岩鷲山大権現 早池峰山大権現 愛宕山大権現 右御旗は御家御幡之左右に立御床机之地を卜候事 一、 以下略 『御家御軍制』 常時・非常時の別なく、身命を誓って加護を祈願する一端が垣間見える。以下に祈祷料等、年間経費(江戸は除く)を示し結語に代える。 安政五年午十月より翌未九月迄十二月分御用米本払大図積帳 (前略) 一、三拾弐駄片馬 諸祭礼入用米并三戸御神事軟米、田子村観音御寄付米 (後略) 安政六年『御定目』 御元払御金銭天保元年より同三年迄概壱ヶ年分大図取調帳 (前略) 一、二十五両と三十三貫六百二十四文 御祈祷料 内 一、十七両二歩 殿様・若殿様御当卦供養法、御星祭御入方 一、七両二歩と十二貫五百二十九文 大般若御祈祷に付、御初尾并御掛銭・僧中へ粥被下 候御入方・在々 より相詰候僧中御賄代 一、十八貫文 例月朔日護摩供御祈祷御入方一ケ月一貫五百文宛 一、三貫九十一文 不時御祈祷諸御入方 一、二十四両一歩と千百九十一貫二百九十四文 八幡御神事御用 内 一、一両二歩と二百二十四文 御初尾并御馬代金御備御用 一、二十二両三歩と四十四貫七百八十四文 寺社御奉行・御者頭、御先跡乗馬場警固相勤候者へ被下金、御馬方六 人・御賄所小者二人御渡金銭并籠堂詰御賄御用諸品御員上代・御厩御用 諸品御買上代 共 一、五百六十九貫四百六十二文 大納戸にて御神事御用諸品御用意御渡被成候に付御、買上物代 一、二百八貫九百五十八文 山林方にて右同断諸品御買上代 一、三百七貫七百五十九文 御作事処にて右同断に付所々御繕御用代 一、八貫六百十五文 御小納戸にて右同断御用諸品御繕代 一、十貫二百文 御神興御供に罷出候修験の者へ被下銭 一、三十一貫五百長五十文 御町組御同心御神事御用代相勤候に付袴損料被下銭、御行列入御道其持 并諸貸人御雇代 一、九貫七百三十文 獅子踊・大神楽の者へ被下銭 一、金九両一歩と四百三十貫二百長五十文 御城内稲荷御祭礼御用 内 一、一両一歩と六十文 御祭礼に付、御初尾御馬代金 一、五十一貫四百二文 御祭礼に付入用諸品御貫上代、別当渡 一、八両と三十貫文 寺社御奉行・御者頭、御先跡乗相勤候に付被下金銭 一、五十一貫二百五十九文 大御納戸にて御祭礼御用諸品御用意御渡被成候に付 御入方 一、百四十六貫百三十二文 御作事所にて所々御繕御普請御用代 一、五十一貫五十九文 山林方にて御祭礼御用諸品御買上代 一、十貫四百八十六文 別当并大神楽・獅子踊の者へ被下銭 一、八十三貫百三十二文 御行列入御道其持人足并諸御貸人御雇代 一、六貫七百八文 御祭礼に付定番御雇代 一、二十九両三歩三朱と百七十七貫六百七十六文 神社御用 内 一、三両と一貫七百六十九文 御城内八幡稲荷神明并教浄寺阿弥陀へ御備御用 一、十六両一歩と十三貫四百六十文 櫛引八幡御神事に付滝沢八郎へ御渡金銭并御掛銭御馬代金共 一、一歩と七貫三百四文 本三戸八幡御神事御用諸御渡方并御馬代金共 一、十一貫二百八十四文 七戸八幡御神事御用御渡方、御納戸御用意諸品代 一、一歩と四十八貫八百七十四文 春日御祭礼御用并端午御年取御用諸御渡方 一、八貫二百七十五文 梅宮御祭礼御用諸御渡方并端午御年取共外御渡方共 一、二歩と一貫文 岩鷲山御祭礼の節御献備御用金剛杖代御渡方 一、一貫九百五十文 御厩にて稲荷馬頭観音両天宮御祭礼御用御渡方 一、四百文 大宮権現御台所へ参候節、御初尾并御勘定所井戸浚に付御神酒代 一、一貫文 御城内八幡御節季物買上代 一、二十一貫五百文 榊山御本社御摂社端午御備物五月九月御祭礼に付御渡方并御年取御節季 御渡方共 一、六百文 御城内大日御祭礼并御年取御用御渡方 一、一貫五百文 御城内毘沙門同断 一、九両二歩三朱と五十八貫七百四十六文 不時所々御代参并所々御宮御祭礼の節御初尾諸御用代御渡方共 一、九両三歩二朱と十八貫九百文 御帰国初て御仏詣に付聖寿寺東禅寺教浄寺へ御備御用并御祥月に付御香 奠御備御用共 (後略) 『南旧秘事記』巻之十八后 拠『内史略』后十八 以上前号 |