盛岡鎮護の神仏
工藤利悦

      総じて見れば、盛岡城築城は四神相応の地相を見立てておこなわれ
      た。縄張りからは、盛岡城を中心として北東・艮には鬼門祈願所の永
      福寺があり、南東・巽に生門の祈願所として、早池峰大権現の別当寺
      である妙泉寺(宿寺)━後年、妙泉寺を加賀野山に移転して総鎮守の
      盛岡八幡宮が鎮座した━を、北西・乾には、将門祈願のために岩鷲大
      権現の別当寺大勝寺南西・坤には新山大権現(別当寺新山寺)が病門
      祈願所(のち永福寺に替わる)として、また北山に聖寿寺・東禅寺の
      両菩提寺を造営して先祖代々を祀り、その背後に姫神大権現の別当西
      福院及び清雲院を配置、領国安堵・領民安泰のため、将に神仏に現世
      利益の加護を祈願する姿が窺われる。そして、盛岡城絵図はその図式
      を如在なく描いている。絵図の外ではあるが、八戸領となった三戸郡
      櫛引村には、中世以来篤く祟敬して来た櫛引八幡宮があり、その境内
      を盛岡領の飛び地として護持、社領千三十八石余を寄進して明治維新
      に至っている。

       ここでは盛岡鎮護のために造営された諸寺社の略沿革を書留めよう
      とするものである。

    目次
 一 序にかえて
    盛岡城築城の目的
   1 盛岡の地名
   2 盛岡城築城
   3 竹田伽良倶理の説
   4 築城の動機
 二 城地の見立て
    四神相応の地相を
   1 朱雀
   2 青龍
   3 白虎・玄武
   4 四神とは

   以下次号
 三 寛延の盛岡城絵図は語る
    神仏に盛岡の加護を祈願する寺社とその略沿革
   1 四鎮山の一・姫神大権現
   2 鬼門鎮護の祈願所・永福寺
   3 四鎮山の一・早池峯大権現と生門鎮護の祈願所・岳妙泉寺宿寺
   4 盛岡領惣鎮守の社・八幡宮
   5 四鎮山の一・岩鷲山大権現と将門鎮護の祈願所・大勝寺
   6 四鎮山の一・新山大権現と病門鎮護の社寺が見えない理由  
   7 在来の神
  終に



一 序にかえて
    盛岡城築城の目的

  1 盛岡の地名

 滔々と南流する北上川。奥羽山脈の山ひだから流れ出ずる諸葛川や木賊(とくさ)川・葛根田川などを集めて東流する雫石川、そして北上山地から涌きいずる中津川。この三河川が落合う天然の要害堅固の盛岡城は、元禄四年(一六九一)六月に「盛岡城」を正式の名称とするまで不来方城または森岡城と称されていた。「盛岡」の佳名は、藩主重信が南部家の祈願所である永福寺四十二世清珊頂相法印と共に、永福寺の山号「宝珠盛岡山」を詠み込んだ連歌から派生した名称と、故事は伝えている。
    幾春も華の恵みの露やこれ  重信
    宝の珠の盛る岡山      清珊頂相


  2 盛岡城築城

 およそ四百年の昔、不来方の地は築城普請で賑わい、作事の槌音が高らかに響いていた。三戸城主南部信直が、治府移転を意図した大工事であった。築城開始の時期、移転するための理由づけ等は諸説錯綜している。

 数年前になろうか。盛岡市主導で「盛岡築城四百年」の行事が、二年間継続事業として執り行われたことは周知の処である。実は、慶長二年(一五九七)説・同三年(一五九八)説が拮抗し、妥協の二年間継続事業であったと語り伝えられている。しかし、慶長二年説の論拠とされる記録類を辿って見れば、何れも着工を伝えるものが多く、一方の同三年説について云えば、山城國伏見に滞在中の南部信直が娘千代子に宛てた書翰の中に、豊臣秀吉が主催した醍醐(京都市伏見区)での花見に出席した様子を伝え、「前田利家を介して築城の許可をお願いしていたのだが、利家は忙しさに連れて忘れていたようだった。そこで昨日前田家に出向き、状況を問うた処、一両日中に御朱印状が出るであろうとの観測であった」という趣旨の文言が論拠とされている。山城國伏見は豊臣氏の城下であり、現京都市伏見区内の南部町は、南部家の屋敷があった所在地を今に伝える名残りの地名である。蛇足ながら、文中に見える「普請」は伏見城の普請であり、盛岡城の普請とは無関係と、否定する見解(西野隆次『青森県史研究』第四号「南部信直書状の年代比定について」)もある。


  3 竹田伽良倶理の説

 筆者は両説に対して、素朴かつ単純な発想ながら、「着工の時期や築城許可を得た時期を以て築城の年と云えるのだろうか」という疑問を抱いている。その様な視点で見直すならば、中津川架橋の上ノ橋にある慶長十四年(一六〇九)在銘の擬宝珠、および現在下ノ橋に取り付けられている、本来中ノ橋にあった慶長十六年(一六一一)在銘の擬宝珠が現存することを考慮しても、『竹田伽良倶理』が伝える、次の一文は傾聴に値するものと考える。

    岩手の城・往古の地名の話 
 抑、岩手郡不来方の城と申は、二十六代目大膳大夫信直公天正十九年(一五九一)庚寅十一月九日九戸城修復在り、福岡と改、三戸郡聖寿寺の城より引移りなされたけれども、分内狭くして要害の城にあらざるに依て、慶長二(一五九七)丁酉の春思召立、浅野弾正長政を以て豊太閤殿下肥前名護屋御在陣の節、軍役二千 五百人召連信直公出陣あり、太閤の御機嫌を伺ひ、領知岩手郡之内に新城築立度旨言上す、長政執達在之故に不及検使勝手次第新城築立可申旨被仰出といへども、翌慶長三年(一五九八)八月十八日豊太閤殿下薨去に依て延行す、兼て子息信濃守利直公惣奉行を蒙りけるが、翌慶長四年(一五九九)父信直公卒去に依て亦延行、打続たる不幸なれ共、御父君の存入を以て、慶長五年(一六〇〇)将軍家康公に絵図面を以て再言上在之云々

また同書、「八幡宮略縁起并伝記年譜之話」の条においては前文をほぼ再掲し、「慶長八年(一六〇三)迄に御普請全御成就被為被遊云々」と記録し、慶長八年竣工を伝えている。
 通説によれば、聖寿寺舘は天文八年(一六三九)或いは同十八年(一六四九)に焼失、その後、馬場舘を経て留ヶ崎舘(現城山公園の地)、叉は聖寿寺舘から留ヶ崎舘に移転したと伝えられている。従って、盛岡に移転する以前は聖寿寺舘を居城としていたということや、信直の名護屋在陣を慶長二年(一五九七)とするのは文禄二(一五九三)年の誤りであることなど、無批判に同説を肯定することにはならないが、慶長二年説、同三年説よりは説得力がある。しかし、竣工時期を伝える説はその他にもあり、総合的な竣工年の解明は今後の課題である。


  4 築城の動機

 新城築城の理由についても、築城時期と同様に諸説がある。『祐清私記』にみる、信直の世子利直の希望によって築城したとするの説などもあるが、総じて見れば、・大浦為信によって押領された津軽三郡(田舎・平賀・鼻和の三郡)を奪還すべく豊臣政権へ誼によって起死回生を謀ったがならず、志和・稗貫・和賀三郡を代替え地として編入されたこと、・豊臣政権の意向によって在地に住居する家臣団を、城下へ集中化することとなるが、三戸は地域狭小であり、治府の移転を余儀無くされ企画されたとする見解が大勢を占めている。私見は、機会があれば述べたいが、岩手郡に生れた信直には、故郷に近い新天地への築城と、三戸を離れたい理由があっての結論と考えている。、
  
二 城地の見立て
     四神相応の地相を

 盛岡城地は、かつて福士氏の居城であったと伝える。九戸一揆の戦後処理を終えて、帰陣の途にある浅野長政が、見送る信直に新城築城を助言し、信直は不来方の地と、志和郡の高水寺城址を候補とし、仙台領境からの遠近、及び地形の甲乙を以て二者択一したとする伝承を『祐清私記』盛岡築城之事の条は記録している。しかし、ポイントを現在の岩手公園に置いた、マクロ的決定要因は何であったのかは一切見えてこない。とは云え、意外にも城の北東隅に鬼門鎮護のために、真言寺院である永福寺を祈願所として配置したことに注視し、改めて盛岡城を鳥瞰するならば、そこには当時の戦略家が基本の一つとしていた、陰陽道の四神相応の地相を垣間見ることが出来るのである。

  1 朱雀
 まず、正面である南方に汗地(くぼち)があることを朱雀とし、このような土地は、官位・福禄・無病・長寿を併有する最も貴い地相とされている。盛岡城の正面の大手門は北向きであるが、三御門の一つであり、かつ、准大手門でもある「中の橋御門」が南東面に開かれ、その南西に北上川と中津川の落合(汗地)がある。大手門北向きは、地形上から背後を中津川によって「要害の固城」とするための縄張りと知られる。従って「中の橋御門」の存在は重要である。

  2 青龍
 南に向かって左方である東に、流水のあることを青龍という。北東の永福寺に十和田権現・別名「青龍権現」を配置して流水があることに見立ている。ちなみに、秋田県と青森県の県境にある最水深部三三四mの十和田湖の湖畔休屋に十和田神社(かつて熊野権現と称した)がある。祭神は日本武尊と南祖坊。南祖坊は十和田湖の主である蛇身の八郎太郎を追い出して十和田の主になったとされる伝説上の人物であるが、はじめ青森県八戸市七崎字上永福寺地内にある普賢寺(原・永福寺)で修行、その後諸国を行脚し、終に十和田の主となったと土地の伝説はいう。その生地と伝える地は、三戸郡名川町戸賀神社の後背の山腹にあって、今に十和田権現が祭られている。つまり、山や湖など自然界には神格があって、権現と呼ばれる神が住しているとする本地垂迹の思想に基づく信仰があり、盛岡の東方を十和田湖の神・十和田権現が守護していると説く。蛇足ながら、『祐清私記』「伊藤祐清覚書の条々」には、利直は南祖坊の生れ替りを伝えている。

  3 白虎・玄武
 一方、右方に当たる西に大道があることを白虎とされ、秋田へ通じる街道(大道)がある。後方である北に丘陵があることを玄武とするが、高松の池附近の丘陵を「神庭山」と命名していることは、将に盛岡城は四神相応の地相に建設されたことを物語っている。

  4 四神とは
 そもそも四神とは、古代中国で発生した道教思想に由来し、天の星宿・その方向を掌る神々、東は青龍・西は白虎・南は朱雀・北は玄武の獣神のことである。我が国でも、既に古墳時代の遺跡である奈良県明日香村の「キトラ古墳」や「高松古墳」の室内に四神が描かれていたことは知られている。平安京は、唐の長安に倣って四神相応の地相に建設されたと伝う。鬼門(北東)に上賀茂社、下鴨社があり、その延長線上に比叡山延暦寺を置き、東に大将軍社、南東に東福寺(魔王石)および剣社を、南は羅城門の先に東寺、西寺、更にその延長線上に大将軍社を、裏鬼門である西南の方向には大原野社および城南宮、西には大将軍八社、北西には愛宕社を、北には玄武社、その先に大将軍社、貴船社、さらなる延長線上の鞍馬山に鞍馬寺が配置されていた。ちなみに、大極殿の南面から南方にはしる大路を朱雀大路と称し、京都市内に点在する朱雀町など朱雀を冠頭とする地名などは名残りの地名である。朝廷では元日朝賀・即位礼などに四神を描いた四神旗を大極殿または紫宸殿の庭に立てて威儀をととのえたことなども知られている。
 江戸城の場合を見るならば、鬼門に東叡山寛永寺、南に増上寺と両菩提所を置き、北には遥か二荒山の山麓に日光東照宮、大猷院があり、『柳営秘鑑』は江戸を形容して、「江戸城の前は地面が開け、商人が集まる下町の賑わいは前朱雀にならい、人の群がる常磐橋、また龍の口潔きは左青龍の流れ、往還の通路は品川まで続き、右白虎を表して虎門がある。後ろは山の手に続いて玄武の勢いがある」といい、江戸城は天下の城の格に叶い、その土地は四神相応であると記している。津軽為信によって築城された弘前城についても、四神相応の地相によるとする説(佐々木隆「城下町弘前の風水と象徴」)等がある。
                          以下次ページへ続く


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