南部利済 1
工藤利悦

          これまで、南部利済は三閉伊一揆を研究する人達の
立場から、苛政をおこなった為政者という視点で評価
されてきました。それも一面ですが、人間は多面性を
もった生き物です。その点、藩政全体の中での追求は
どれほどなされていたかについて、以前から疑問はな
かった訳ではありませんでした。

私たちは、「近世こもんじょ館講座」と銘打って、
月一度、岩手県立図書館を会場にして、三時間程度で
はありますが、有志集うて歴史講座を開催していま
す。十一月は、系図を読む─南部利済─がテーマで
す。

次ぎに示す史料は南部家文書・沢田家文書(家老楢
山佐渡関係文書)を中心としたものですが、これまで
語られることが無かった利済像が見えてきます。偏っ
た史料の収集は行っているつもりはありません。人を
見ることの難しさを痛感するととも、今後の研究課題
あることを強く主張したいと考えます。

現時点では「ひんしゅく」を買いかねない内容、か
つ、拙い文章ですが、その一端を綴ってみました。賛
否両論、多くの方々のご意見を頂けるならばありがた
いと思います。


南部家三十八代信濃守利済は、波瀾万丈の一人であったと云えよう。実
父南部信濃守利謹は、三十四代信濃守利雄の嫡子として生を受けながら、
安永三年(一七七四)廃嫡となり、晩年は子敏また自玄齊などと称して文
化十一年(一八一四)十一月に死去した。享年六十九歳。利済はその長男
として寛政九年に(一七九七)盛岡下屋敷で誕生している。母は石原氏清
鏡院である。幼名を源太丸といい、のち北山願教寺で仏門に入り浄祐を称
した。文政三年(一八二〇)還俗して三戸修礼謹明を名乗り、高四百石を
宛行れた。時に二十三歳。その前年文政二年に長男信候(後の利義)が、
楢山帯刀隆冀の妹列子を母として出生している。同四年、更に加増あって
高八百石となり、家格は高知に引上げられ、南部修礼信親と改称してい
る。

同七年、藩主利用は江戸より帰国後、病床に臥す日が多く、加賀金沢の
国主松平(前田氏)加賀中将齊広の女恒子と婚約(文政三年)をしていた
が、婚礼の式未だの中、同八年七月二日病を押して参勤のため盛岡を発
駕、途次宇都宮で十八日死去した。嗣子がなかった。当時、無嗣子で江戸
を離れる時には、仮の嗣子を幕府へ願出る慣例があった。推して利済は仮
養子に指名されていたものと想定される。十九日急遽、故利敬の養女雅子 
(実は松平右京亮輝延女、母は三十五代南部利正女幸子、文政八年三十六
代利敬養女、実は妹)の聟として家督相続が許された。時に二十八歳で
あった。この時利済と改称した。利用の命日は二十日とされ、前田氏恒子
との婚約も解消された。

略系図

南部行信┬信恩─利視┬信周─┬信丞─利用
│     │   └信浄─利用──豊 子
│     │          (井伊掃部頭直亮養女)
│     └利正┬利敬        ‖ 
│        │         ‖
│        │ 松平右京亮輝延 ‖
│        │        ‖───雅 子    ‖
│        └―幸 子   ‖        ‖
└利幹─利雄─――利謹──――利 済    ‖
‖───┬利 義
‖        └利 剛──利 恭
┌──―─列 子(妹)
楢山五左衞門┴帯刀隆冀──隆 吉(佐渡)

三十代行信  三十一代信恩 三十二代利幹 三十三代利視
三十四代利雄 三十五代利正 三十六代利敬 三十七代利用
三十八代利済 三十九代利義 四十代利剛  四十一代利恭
三十七代利用について
三戸信丞の嫡子利用が利敬の家督を相続したものの、目見前に
死去したので、急遽、三戸信浄の嫡子で、かつ利用の従弟であ
る駒五郎を内密に身代りに立て、後日利用として将軍に拝謁、
事なきを得た。

利済は十二月朔日、はじめて将軍家に拝謁、同月十八日従四位下四品信
濃守に叙任。九年二月藩主として初めての帰国(入部という)を行った。
幕府のおぼえよく、十二年五月には江戸府内行列に、先鉄炮側筒共に生火
縄の使用をゆるされ、同年八月には初めて永く上使を以て雲雀拝領の栄を
請け、天保四年正月から玄関に新飾りとして武器鉄炮二十弓二十長鎗十を
据えることが許されるなど、世人が目を見はるものであった。九州平戸藩
主松浦静山は、その著『甲子夜話』に利済を評して次のように記してい
る。
奥の盛岡侯〔南部信濃守利済〕、近代打続き不幸ゆゑ、以前退身の嫡
子信州(註・利謹の事)と称せし人の子の、僧となりしを還俗して家
督せしが今の侯なり。僧たりしとき、予が隠荘北隣福巌寺と云曹洞禅
の法眷にて、今福巌住持、其行実をよく知れり。此侯、家を継し始め
に、諸臣の兵具を問たゞし、武器不足せし者は総て補ひ与へしと。又
帰俗の後もとかく以前の禅機を持して、戒行厳粛なりと。又此度津軽
侯、逼塞を仰出されしとき(註・文政十年四月)、家臣に命ずるは、
汝輩も知る如く、彼侯もと我家臣たりしが、諸侯に列するが如きは天
幸なり。今計らずも恥辱を蒙ること、憐むべきの甚きならずや。彼逼
塞中我内の者ども尤穏便なるべし。これ旧を念ふの厚情なるべしと。
聞者その徳意に感ぜざるなし。

利済襲封の時には、財政は極度に逼迫していた。従って、財政の建直し
と、家政の建直しが急務であり、財務に強い横沢兵庫、田鎖左膳、新渡戸
傳ら人材の登用があった。これに反発する門閥南部左膳の割腹事件等も
あった。藩政顧問として新宮涼庭を、更に産業振興を唱える佐藤真淵を迎
え、その一端は嘉永六年にペリーが江戸湾浦賀沖に来航する直前に、幕府
を売込み先とした硝石の生産体制確立などに窺えよう。文政年間まで産地
として全く無名の盛岡藩は、安政年間には一躍我国第一の産地と称される
に至っている。佐藤真淵を迎えたのは横沢兵庫の功績と知られ、新渡戸傳
の三本木開発は真淵の教えが影響しているとも云われている。硝石の生産
に献身的な功績があった医師大島周意は、後に近代溶鉱炉の創始者と云わ
れる大島高任の父である。

利済の政治姿勢は勘定奉行への下命(文政七年)に窺える。
(前略)下々困窮を深相考候へは、我等不自由致候杯は物の数にも無
之、実に及落涙候次第候、一衣を脱候ても、救助致度事に候へ共、連
年の不作中々手当行届兼、却て下の財宝を借上、漸公務を整、剰諸役
人の中にも心得違の者も有之(中略)必竟我等政事不行届の所より起
候事に候(下略) 
実は参勤交代の供連れ人数は、歴代藩主の中で、最少員数(八万石の時代
比較でも)であった。衣服は木綿を着用したなどは一例であり、また、改
革に向け、人の話を聞く耳を持っていた。天保七年に大矢勇太は、諫言の
書と伝えられている意見書を上呈している。諫言書としたが、内実、当を
得たものでないことは、横沢兵庫が同様に呈書した利済の返書に明瞭に答
えている。利済は襲封と同時に、藩士等に忌憚のない改革意見を提出させ
ていた。大矢勇太の書はそれに応えたものである。しかし、勇気がいる意
見であり、さすがにその末尾を
誹謗仕候様には御座候得共、(中略)、恐入不申上罷有候ては不忠の
義と奉存候間、不顧恐云々(十一月)
また家老三戸駿河宛の文言には
無調法至極重畳恐入奉存候、依之如何様共御仕置被仰付被下置度奉願 
上候 (十二月)
と結び、処罰覚悟の呈書であったことには間違いはない。対して利済は
苛政と申儀心得兼候、用金等の義にも可有之哉
と問い直し、後日
此度御手許へ心附之趣、書取差上候段寄特之至、御満足之事に思召
候、向後共に右実意不取失可致忠節旨被仰出、
同二十一日御町奉行加被仰付、同八年二月朔日寺社御奉行御町奉行兼
帯被仰付、二月五日御倹約御用掛、不作に付御救御用懸共被仰付  
(御番割遠近帳)
として応えている。大矢氏がこれを期として民政に拘わって行く第一歩と
なった。 一方、蝦夷地で病死した人達への供養(天保五年)等にも意を
尽している。弘化四年(一八四七)病により隠居する。報われず、蟻地獄
のような財政破綻の末とは言え、領内に一揆を多発させたことと、掲げる
理想と、余りにも乖離して行く現実に、精神的弱さを露呈した結果とも読
める。結果として隠居後も藩政の実権を握って放さなかったことを、権勢
欲の強かった人と見るか、藩財政建直しによる領民安寧の実現が天命と決
断した、複眼あっての事と見るかは意見の分れる処であろう。
信濃守利済代、金紋挟箱長刀御免、本国持并官少将ニ進ミ、打上腰網
代之駕鶴御免、大花奢ニ募り、国民を悩し、終ニ百姓一揆トなり、隣
国之厄介を懸、其ケ条ニ而押込蟄居被仰付、牢獄同然之座敷におゐて
狂ひ死卒す。嗚呼天成、罰なる哉、慎べくは奢也、穴賢」
(天保風説見聞秘録)
とまで美を強調して酷評されるのは、内実質素を旨とした人だけに哀れに
映る。幕府の見解は前者に近く、結果として嘉永七年(一八五四)江戸に
召還され、桜田の屋敷へ入ることもならず、麻布の下屋敷に幽閉され、安
政二年(一八五五)死去した。享年五十九、霊承院殿顕道宗祇大居士と謚
され、北山聖寿寺に葬られている。


【関連史料】

歴史家は、利済像を語るときに、三閉伊一揆と大矢氏勇太
一件を引きあいにする場合が多いようだ。
三閉伊一揆は史実であり、為政者として問われなければな
らない。一方の大矢勇太一件とは何であろうか。人の意見に
耳を傾けない藩主像を語ろうとしているように聞こえる。
大矢勇太等の意見は、真から藩主諫言の書と考えているの
だろうか。私はそのようには考えない。
何故ならば、大矢勇太等が意見書を提出した動機は、利済
が襲封と同寺に藩政改革を計画し、広く藩士に意見を求め、
それに応えた形で多くの人達が提出した意見書の一書である
からである。
何故、利済像を語る歴史家は、大矢勇太の書を諫言の書と
して提出された背景には触れようとしないのだろうか。
更に云えば、その後、大矢勇太は民政の第一線に抜擢され
た経歴について、口を閉ざす理由は何故であろうか。
そこには、大矢勇太による意志は無視され、単に、藩主誹
謗の書として印象づけるだけものに利用されているに過ぎな
い。歴史上に真実はあるとは思わないが、これでは史実さえ
意図的に歪めていると云われても反論すら出来ないのではな
いか。
史実に反する虚像を作らなければならない理由はどこに有
るのだろうか。どうも腑に落ちない。


以下に示す史料は、苦労して収集したものではない。
誰にでも手に届く身近な史料に過ぎない。
ご覧になられた方の意見は、各人の胸の中に収まれば良し
とし、感想までは求めるものではない。
しかし、筆者の考え方に誤りがあるだろうか。


善者である一面が、意識的に葬り去られる中で構築された
利済の虚像は、全面的見直しが必要であることを痛感する。




経 歴

安永三年(一七七四)
九月二十二日 父利謹廃嫡(のち子敏を称す)
寛政九年(一七九三)
八月二十九日 利済誕生
謹明  源太 修礼  後継本系 信濃守利済
母家女 留牟 利謹歿後剃髪号妙白、文政九丙戌年改清鏡院、居下
邸(後改清水邸)、弘化四丁未年九月十七日卒、葬聖寿寺 行年七
十五歳、法名清鏡院殿真月浄照大姉  『御系譜』
文化十一年(一八一四)                   十九歳
十一月十九日 子敏卒 行年六十九歳 聖寿寺に葬る
源太、願教寺で仏門に入り、浄祐と号す
一、源太様御事、願教寺後住に被仰付御引越(文化十一年戌十一
月)浄祐と御名改被成、壱ヶ年御手当金三拾両宛也、於永様は戸
沢検校へ被下、(同年同月)壱ヶ年御手当金拾五両七人扶持被下
之、直々下御屋敷に御住居故、是へ検校引越被仰付

『篤焉家訓』三之巻
一、子敏様御妾於よね長山蔵太へ引取養育致遣候様被仰付、剃髪い
たし妙白と名改、一生之内(文化十一年戌十一月より)三人扶持
雑事金弐歩銀拾四両弐分宛月々被下置之
『篤焉家訓』三之巻
文政三年(一八二〇)                    二十四歳
六月     浄祐、内々に還俗を申渡さる
一、文政三年辰六月、利敬公御卒去之後浄祐殿へ御内意有之候は、
思召被為有候に付、自今以後髪剃不申延し置、如何様にも結ひ候
に宜敷相成候節申上候様、御内意被仰出 何月願教寺御引取、志
家辺仮宅にて御還俗        『篤焉家訓』三之巻
一、文政三年辰十一月廿四日 浄祐殿御事、戸沢検校へ同居致候様
被仰出下御屋鋪へ御引越被成    『篤焉家訓』三之巻
十二月二十二日 高四百石を賜り、還俗して三戸修礼謹明を称す。家格を
高知に据えらる。室は楢山帯刀隆冀妹列子、但、前年に達次郎(の
ち利義)が出生している
一、同年十二月廿二日 浄祐殿御事四百石(弐百石地方、弐百石金
方)被下、高知に被召出、三戸修礼謹明と御名乗、漆戸左司馬次
座被仰付、下御屋鋪之内検校居所御拝領、同日御引移 後楢山帯
刀妹 列女 縁組願之通被仰付   『篤焉家訓』三之巻
文政四年(一八二一)                    二十五歳
十月朔日   高八百石となり、家格御家門に据えられ、南部修礼信親
(のぶはる)と号す
一、文政四年巳十月朔日三戸修礼殿御事四百石御足加御高都合八百
石御家門被仰出、南部修礼信親君と御名乗、直々下御屋鋪御住居
相成候に付、十二月廿五日戸沢検校大沢川原裏丁横丁之内上斗米
孫惣御取上屋敷被下引移、但、修礼君へは子敏様御持道具不残被
下旨被仰出            『篤焉家訓』三之巻
文政五年午七月廿八日長山蔵太方に罷在候妙白儀修礼様御引取御
養育被成候様被仰出、御屋鋪へ御退取
『篤焉家訓』三之巻
信親君文政八年酉九月廿四日御家御相続、同十二月林家御求御実
名利済公と御改、御名信濃守様と奉申
『篤焉家訓』三之巻
文政八年(一八二五)                    二十九歳
八月十八日  藩主利用、参勤の途次、宇都宮で病死、
八月十九日  信親(のち利済)、老中青山下総守忠良へ差出、利用の養
子となること願い「出、受理される。
八月廿日   利用の病死を弘め。二十八日盛岡城本丸に移徙。九月八日
盛岡を発駕、同二十二日上着、
九月二十四日 家督相続、願之通許可される。
十二月朔日  将軍家斉に初目見得、家老南部弥六郎・毛馬内典膳・八戸
上総目見得
十二月十八日 従四位下信濃守に叙任、実名を利済と改名す。                   
『御系譜』


利済評    再掲
奥の盛岡侯〔南部信濃守利済〕、近代打続き不幸ゆゑ、以前退身の嫡
子信州と称せし人の子の、僧となりしを還俗して家督せしが今の侯な
り。僧たりしとき、予が隠荘北隣福巌寺と云曹洞禅の法眷にて、今福
巌住持、其行実をよく知れり。此侯、家を継し始めに、諸臣の兵具を
問たゞし、武器不足せし者は総て補ひ与へしと。又帰俗の後もとかく
以前の禅機を持して戒行厳粛なりと。又此度津軽侯、逼塞を仰出され
しとき、家臣に命ずるは、汝輩も知る如く、彼侯もと我家臣たりし
が、諸侯に列するが如きは天幸なり。今計らずも恥辱を蒙ること、憐
むべきの甚きならずや。彼逼塞中我内の者ども尤穏便なるべし。これ
旧を念ふの厚情なるべしと。聞者その徳意に感ぜざるなし。
『甲子夜話』

津軽侯、逼塞 文政十年四月二十五日、免除閏六月六日
拠・弘前市史年表

この歳    領内蔵入地損耗高十五万七千石『岩手県史・年表』
文政九年(一八二六)                    三十歳
二月十三日  初めての帰国暇を賜う、十五日暇の御礼、懇の上意、刀一
腰を賜う                   『御系譜』
三月八日   江府発駕、同二十二日入部
文政十一年(一八二八)                   三十二歳
四月七日   婚礼、室、松平右京亮輝延女雅子、母は南部利正の女幸子
同十二年八月十四日卒        『御系譜』
『南部家譜』には「四月七日婚姻(利敬養女雅子)依
為婿養子無婚礼」と見える
文政十二年(一八二九)                   三十三歳
三月二十一日 御中屋鋪類焼         『篤焉家訓』二十二之巻
五月     江戸府内の行列に際して先規によって先鉄炮及び側筒に生
火縄の使用(実はこの時が初め)        『南部家譜』
六月八日   上使を以て鷹の雲雀三十を拝領(実はこの時が初め、以
降、恒例となる)               『南部家譜』
註 鷹の雁は以前から拝領していた。
八月十四日  内室松平氏雅子卒
この時上使として奏者番堀田相模守正篤を差向けらる。
御悔上使はこれが始めとなる。         『南部家譜』
天保二年(一八三一)                    三十五歳
十二月十五日 平日、行列のは挟箱は、革覆先挟箱使用を家格としていた
が、今後は革覆を取払い、かつ金紋の使用を許さる
『南部家譜』
天保三年(一八三二)                    三十六歳
五月     領内海岸筋巡見           『御家被仰出』
十二月二十八日 上屋敷玄関に新飾武器として鉄炮二十、弓二十、長鎗拾
七据える この飾りこの時が始め        『南部家譜』
この歳     上野位牌堂建設費を献納 領内に三万両の御用金を課す
『岩手県史・年表』
天保四年(一八三三)                    三十七歳
この歳    奥羽二州不順五穀不熟、領内及隣国共に大飢饉、飢民充道
路                      『南部家譜』
領内蔵入地損耗高二十二万三千石 稀有の大飢饉とされる
『岩手県史・年表』
天保五年(一八三四)                    三十八歳
二月十三日  領内飢饉のため、帰国願許さる。二十八日江戸発駕、三月
十一日着城                  『南部家譜』
六月     箱館に蝦夷地で病死等死去した士卒の供養費を建立、法要
をおこなう。                 『国統大年譜』
この歳    肥前佐賀藩より米を買付ける、北上川新山困窮の士民で賑
わう                     『南部家譜』
天保六年(一八三五)                    三十九歳
五月     志和街道ほか、街道の改修工事をおこなう
『南部家譜』
この歳     御産物御改御役所を設置す
この歳     領内蔵入地損耗高二十万石 虫害
『岩手県史・年表』
天保七年(一八三六)                     四十歳
昨年に続き大凶作 損耗高二十三万二千石 飢饉
『岩手県史・年表』
天保八年(一八三七)                    四十一歳
領内違作              『南部家譜』
領内損耗高十二万四千石     『岩手県史・年表』
天保九年(一八三八)                    四十二歳
この歳    江戸城炎上に付、檜、鐵を献納す   『南部家譜』
この歳    領内大飢饉             『南部家譜』
天保十年(一八三九)                    四十三歳
十二月二十八日 少将に任官            『南部家譜』
この歳    日影門外の稽古所を明義堂と改称、修学を奨める
天保十三年(一八四四)                   四十六歳
この歳から  領内各地で打直し検地を行う
天保十四年(一八四三)                   四十七歳
春     厨川通茨島辺で洋式軍事訓練をおこなう『南部家譜』
天保十五年(一八四四)                   四十八歳
この歳    桑の植裁を命じる          『御家被仰出』
この歳    塩の専売を企画す          『御家被仰出』
弘化二年(一八四五)                    四十九歳
正月二十四日 麻布の下屋敷類焼す         『御系譜』
弘化四年(一八四七)                    五十歳
この歳    三閉伊に一揆が起きる
嘉永元年(一八四八)                   五十二歳
六月十三日  病により隠居、嫡子信候(のち利義)襲封
『御系譜』
隠居奉願
私儀年来宿病の癇癪発動仕、其上疝積、留飲の諸症相加、眩暈逆上
強、御医師多紀楽真院、野間寿昌院、多紀安良薬服用、種々療養仕 
候得共、年来相催候病症にて、全快難仕旨御医師方申候、右病躰
故、平常御奉公は勿論、兼て相蒙居候松前表警衛御用も可相勤躰無
御坐候、依之年齢不相応の願奉恐入候得共、隠居被仰付被下、男子
無御坐候に付、弟鉄五郎当二十六歳罷成候、此者養子家督相続被仰
付被下置候様奉願上候、此段宜奉頼候以上
嘉永二己酉年九月二十三日
手揮候に付印形仕候 御名御印
阿部伊勢守殿
牧野備前守殿
戸田山城守殿
松平和泉守殿
松平伊賀守殿
一字下げて深谷遠江守殿
容鉢書
私儀昨年帰国以来宿病の癇癪発動仕、手医師共薬鍼相用候処、去冬
寒気の砌ょり病積留飲等の加症にて動気有之、出来不出来御座候
内、猶又風邪に被相犯、寒熱往来の為長途の旅行難仕、参府追々延
行相成候内、薬用乍仕押て当六月国許発足仕候処、道中別て欝滞眩
暈強、殊に炎暑の御時々昏朦仕、其上気分不揃に付、早速多紀楽真
院、野間寿昌院、多紀安良得療治候得共、前症弥増差募、逆上甚
敷、兎角年来相催候宿病にて快復の期相見得不申趣に御坐候以上
九月二十三日    御名


多紀楽真院 野間寿昌院 多紀安良
右は薬服仕其外手医師共薬鍼も相用申候
小川道伯 湯川安道
右容躰為見申候以上
九月二十三日    御名

病間へ相詰候御医師   
多紀楽真院 野間寿昌院 多紀安良 小川道伯
湯川安道            以上
九月二十三日    御名

勝手へ相詰候面々、
南部丹波守 永井遠江守 細川能登守 松平近江守
毛利左京亮、御小姓組山口采女、御書院番神 谷銀
一郎断 以上
九月二十三日


懐胎の婦人無御坐候以上
九月二十三日             御名
以上『内史略』后十二
十一月十一日 信徳主大明神祭事の祝儀として、大赦令を発つ
行大赦令免罪一等、下々自分呵置之者可宥免之儀示干一統
『南部家譜』
この歳から  三年間にわたり領内生産の硝石を幕府に献納す、
嘉永二年(一八四九)                    五十三歳
六月十三日  信候隠居、次弟利剛襲封         『御系譜』
嘉永三年(一八五〇)                    五十四歳
この歳 諸国飢饉
嘉永四年(一八五一)                    五十五歳
五月     三閉伊から一揆が起る 
嘉永七年(一八五四)                    五十八歳
正月二十六日 参府の内達により盛岡を発駕、二月二十一日上着
『御系譜』
四月二十六日 麻布下屋敷山亭邸に移徙、        『御系譜』
付添 家老毛馬内典膳、納戸役荒木田武太夫・佐藤準蔵・山内大
六、小姓役三戸大五郎、用人瀬山命助
病中介抱 三男斧次郎・南部泰次郎、他に目付役、勝手向賄方役、
医師并宮使老女・中老等也            『南部家譜』
一、霊承院様御休息詰
以前は御部屋と唱 利視公御代より御休息詰ととなふ
一、秀女  小寺玄淵女 同人末男三五郎 五十石 を以てその
家元とす
一、てふ女 江戸女 その弟青木縁之助を以てその家とす 縁之
助後繁次郎 五人扶持 元江戸御能役
一、千恵女 江戸出生 村瀬文江妹 元文江は尾州公の御用御肴

一、銀女  江戸女 藤田円女 円は五人扶持 
右は何れも新規御召抱 その家を御立被成    『内史略』
『御忌日記』によれば他にもあり、割愛
安政二年(一八五五)                    五十九歳
四月十四日  (昨冬より重病)今日薨去 公義躰は五月二十九日
『南部家譜』
六月十日   遺骸、江戸発駕 道中十五日振 同二十四日盛岡に下着、
葬干聖寿寺 法諱 霊承院殿前信州太守従四位下左近衛権少将顕
道宗祇大居士 国室楢山隆冀妹列子、受聖寿寺戒薙髪 而号光雲
院                      『南部家譜』


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