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| 南部重直について |
| 工藤利悦 |
| 月報[とわずかたり]平成13 年3月11日号 【今月のテーマ】から転載したものです 南部重直は近世南部家中興の祖と称される信直の嫡孫にして、利直の三男として慶長十一年に江戸の上屋敷・櫻田邸で生を受けました。生母は、蒲生氏郷の養妹(諸説あります)源秀院殿です。兄弟は四人、姉妹三人、長兄家国、次兄政直は何れも妾腹の子として生まれたため、重直は生まれながらにして、家を継ぐ嫡子として成長しました。幼名権平、諱は元服の時に正直、のち重直と改めました。慶長十七年将軍徳川秀忠が南部邸に臨駕の折、本多佐渡守の介添えで秀忠に拝謁、その後、元和四年十二月二十三日従五位下山城守に叙任し、寛永三年将軍秀忠が上洛の時、父利直と共に供奉しております。記録では年齢十五歳、京都で元服し、南部家の行列に越前家と同じ形・同じ蓋の挟箱が使用されたのは、烏帽子親を依頼した越前家松平伊豫守が、祝儀として小袖入御挟箱を重直に贈った故事によるものと伝えられています。寛永三年には實年齢二十一歳、元服の年齢としては疑問の残る話です。同九年十月遺領十万石を相続、十一年六月将軍家光の上洛に供奉、八月四日に与えられた領地の御判物は、今に伝来しています。 同十二年居城を三戸から森岡城に移し、盛岡を永世の治府と定めました。戦国時代の遺風を色濃く残す家風を改革しました。江戸での有能な上級・中級家臣団の召抱、組織の改革は顕著に見られます。 重直の治世を伝える史料は殆ど皆無に近い状況ですが、寛永十八年には封内巡見を行ない、翌十九年の大飢饉には廩倉を解放して難民を救助したこと、舫制度を建てて参覲交代にお供する藩士の救済、現米支給対象諸士への俵の内実三斗五升を三斗七升としたことなどが善政として伝えるほか、宗教政策では寺社の再興及び寄進、総禄制の制定、人材の登用諸職人の採用など、見るものは数多くあります。急激な構造的改革は、譜第家臣団の拒絶感を招き、その一人である伊藤祐清の『祐清私記』は、中・下級譜代層の感情を忌憚なく伝えています。 例えば、「南部重直の事蹟」の項に「重直公と申者、民姓に至る迄邪に侈る者をは鮮なし、頓て御親父利直公は三戸え御移り被遊候得共、山城守様は森岡の城に御座候」とあります。同書「御城御築之儀秀吉公より御免之事」などでは、利直は盛岡城築城に意を注いだ姿を伝えています。従って、「利直が築城現場を離れた時には、重直は父の代理を勤めて工事に 当った」と読みたいのですが、前後の文意から推して、父と行動を共にしない親不孝を強調した記述です。この様な記載は随所に見られ、『内史略』もまた観点は共通しています。日時記載がないことより『祐清私記』から引用、と推察されますが、ある時、重直の病床に幕府から見舞の上使及び医師が到来したことを伝え、添えて、(文意)上意に養子の許可が無く、自分の代での家名断絶を憂い、世を拗ね悪政を行なったと書留めています。ある時とは、『徳川実紀』他によって、重直が死去三日前のことであることが確認されています。『内史略』の筆者は、日時を確認出来なかったのかもしれませんが、結果において、過去に遡って悪政を行なったと言ってることになります。重直に対する悪評価の最たるものは「南部重直家士四十二人を故 なく馘首」したとする事件かと思いますが、同事件も捏造に近い事件であることは明かとなっています。 推して、伊藤祐清を含めた譜第家臣団には、江戸で召抱られた家臣団に対する、一種の妬みに近い感情があった、鉾先が重直に向けられ、何時しか誹謗と変質されていったのではないか。寛文元年に起きた舟越与兵衛兄弟による谷村惣兵衛殺害及び脱藩した事件の真相は、単なる殺人事件ではなかったと考えます。後日、八戸藩主の立場を名乗る直房と行信とが、各々、迎えの使者を以て転居の居所に舟越氏を尋ね、ねぎらい、路銀を与え、帰参後は旧禄を宛行い、元職に復帰させていることなどから推しても、両派の抗争を伝える事件であったと思います。 八戸藩分封は、重直に嗣子が無いまま死去したための処分、との説が定説になっています。しかし、寛文二年九月二十八日「御養子の事にて閣老より船越伊豫守永景・荒木田十左衛門来る」(国統大年譜)、『徳川実紀』によれば、翌二十九日、「南部山城守子なきをもて、公の御旨にまかせ、嗣子定めんよしうたふるにより、御けしきうるはしく、やがて其人をえらび賜はるべきよし仰下さる」、十月三日「御養子御願之通被仰付由、由緒系図書上なす」(増補国統年表)、四年九月十日「殿様大切之由を御老中様に仰せ上げ候へば、成程養生候様に御跡式の義は兼て御養子訴訟し置かせられ候に付、自然の義にあり候へ共少しも相違あるまじく候(秘記・老中奉書文言)」、同十二日死去と、一連の経過から看て、無嗣子による処分説は誤りであると考えます。 後世の歴史家は無視していますが、『南部史要』も、寛政四年、田名部上地事件に拘わり幕府へ提出した嘆願書の文言から推して「重信・直房両人に遺領相続を命ぜられしは、藩よりの内願によるものなるが如くにもみられる」と所見を記しています。 重直に限らず、私達を取巻く地域の歴史を再評価する必要があることを痛感いたします。 参考 一、南部重直略譜 重直 権平 山城守 従五位下 母は氏郷(蒲生飛騨守)が女 慶長十一年(南部利直三男)生る、十七年十二月二十日台徳院殿父が邸にならせたまふのとき、はじめてまみえたてまつり、新藤五の御小脇差をたまふ、時に四歳 元和四年十二月二十三日従五位下山城守に叙任し、寛永三年御上洛のとき父とともに供奉し、九年十月遺領を継、十一月朔日父が遺物、一文字の刀及び道阿弥肩衝の茶入を献じ、六日はじめて城地に行のいとまをたまひ、さきにたてまつりし茶入を恩賜せらる。十一年六月大猷院殿にのぼせたまふのときしたがひたてまつり、八月四日領地の御判物を下さる。十二年三戸を改めて盛岡城にうつる。十三年交替の期を仰出さるるのところ、あやまりて遅参せしにより、御勘気をかうぶりて蟄居し、十四年十二月二十二日ゆるさる。二十年六月十四日領地閉伊郡山田浦に阿蘭陀船漂着し、乗船するもの百二三十人なり、その内十人を捕へ、このよしを言上せしかば、石川伊左衛門某藤井善左衛門某に通辞道句を添て彼地に下され、御感の奉書を賜ふ、則かの徒を両使に渡し、家臣七戸隼人某、漆戸勘左衛門某これに副て江戸に参り、時服羽織、白銀等をたまふ。正保二年二月十九日御城総構の堀浚をつとむべきむね仰を蒙り、承応二年四月二日上使をもつて病を問せらる。寛文四年九月十二日卒す。年五十九、三峯宗元即性院と号す。盛岡の聖寿寺に葬る。室は加藤左馬助嘉明が女 子弟 女子 母は嘉明が女 某 吉松 母は某氏 承応元年正月七日父に先だちて卒す。 女子 母は某氏 勝直 南部勝直を参照 『寛政重修諸家譜』巻第二百十 |