八戸湊の飯盛女 ─船小宿・出稼ぎ・祭礼─ |
青森県三戸町立図書館 相馬英生 年報 都市史研究 17 遊郭社会 都市史研究編 2010年2月 |
はじめに 「遊廓社会」研究に関しては、三都以外における事例の具体的な発掘と相互の比較・検討から、その固有性や普遍性を考察することが求められています。 本報告は、遊廓社会論の視点から、八戸藩の城下町八戸の北東に位置した八戸湊における飯盛女を取り上げ、飯盛女を抱えた船小宿、飯盛女の出自と出稼ぎの実態、祭礼との関わりなどの点から検討を加えるものです 注釈。 青森県における遊女の実態について、明治五(1872)年十一月、娼妓解放令直後に青森県権令、権参事から大蔵大輔井上馨へ宛てて出された伺いの中には、同県下では青森(青森市)、鯵ヶ沢(鯵ヶ沢町)、深浦(深浦町)、八戸鮫浦(八戸市鮫町)などの「北海往復之船舶」が集まる港を中心に「洗濯師」「丁子産物」「菰冠り」「オシヤラク」などと呼ばれる娼妓が存在し、これは「当地方古来之習風」であり、厳しく取り締まれば産業を失うため、黙認してきたとの県の認識が示されています 注釈。なお、八戸湊は近世においては、湊村(みなとむら)、白金村(しろがねむら)、鮫村(さめむら)の総称であり、したがって、「八戸鮫浦」とは八戸湊全体をさすと捉えた方がより正確でしょう。同湊は八戸藩における第一の港として、とくに文政期に実施された藩政改革以降は、国産物を江戸や大坂に移出する拠点として栄えました。なお、天保期以降、中心は鮫村から湊村へ移り、湊村では新井田川河口右岸付近に本町、左岸付近には新丁(湊新丁)が形成されました。 1 八戸湊における遊女の存在形態 本節では、八戸湊における遊女の存在形態について見ていきます。天保(1842)年五月に八戸湊を訪れた江戸の落語家船遊亭扇橋は旅日記「奥の枝折り」の中で、同湊における遊女の実態について次のように記しています。 (史料1) (前略)与兵衛殿・其外市兵衛殿・惣助殿同道にて湊と申所へ参り申候、是ハ城下より一里御座候、遊女屋数多有之大谷屋と申へ参り泊り申候、与兵衛殿妾宅お熊と申者元ハ遊女にてあら熊(と)申あだ名に御座候、酒をよく呑ミ三味セん小弦なそひき申候ておもしろき女に御座候、此所之遊女屋ミな後家にて御家中又ハ町家の富家の世話に相成り居り申候、夫より佐女と申所へ参り候、是にも遊女屋十二軒有之申候、湊ハいわしあミをひき魚油御役所有之申候、此所ハ芸者と申ハ無之、遊女ミなみな三味セんをひき申候、かまとかへしと申唄をうたひ申候、(下略)まず、船遊亭扇橋は自分が世話になっている「与兵衛」の妻「お熊」のように、八戸湊では「芸者」が存在しないため、遊女が三味線を弾いている、また、遊女屋はみな後家が経営し、家中や裕福な商人の世話になっているとしています。この点について、八戸湊においては、遊女と芸者が未分化な実態とする指摘があります。続いて、八戸領内から人々を引きつける一大歓楽街としての八戸湊の様相を見ていきます。 嘉永七(1854)年三月、盛岡藩士が出張時に記した旅行記「三閉伊日記」によると、八戸藩領で内陸部に位置する「葛巻」(くずまき=岩手県葛巻町)の若者たちが年に一、二度は八戸湊を訪れ、散財しているとしています 注釈。さらに、安政五(1858)年九月、八戸城下や領内に対して出された布達からは、八戸湊へ領内各地から遊興や遊女を求めて集まる様々な人々の姿が浮かび上がってきます。 (史料2) 御町奉行江藩は在町の者が「鮫・湊小宿」へ通うことはこれまで違法とはしてこなかったが、家業を打ち捨て遊楽に溺れ、そのうえ別荘を構えてわが家同様としている者がいるため、今後は他領商人との商売上の付き合いならば「鮫・湊小宿」へ行くのはかまわないが、単なる遊興のための出入りは禁止する、としています。さらに、安政七(1860)年三月、八戸城下において売春を目的に「両浦(鮫・湊)売女並右同様不所業之女」を止宿させ、「家中次三男」や「町家若者」を呼び集めている者がおり、また「鮫・湊小宿」へ行く者は「中宿」(男女の密会の場)を求めているとしています。つまり、「鮫・湊小箱」や八戸湊から城下へ流入する「両浦売女並右同様不所業之女」が城下を始め、領内の風紀を乱す元凶であるとする藩の認識を読み取ることができます。 ここで、鮫や湊の「小宿」とは一体どのようなものだったのでしょうか。 表1は文化二(1805)年と文政三(1820)年の「八戸藩勘定所日記」から「船方小宿」「小宿」「飯盛小宿」に関する記事をまとめたものです。いずれも、飯盛女を抱えた宿をさしており、これ以降、名称は「船小宿」に統一します。まず、文化二年五月、藩は船小宿から提出された飯盛女の書上げによって飯盛女の人数を把握し、船小宿を鮫村で二十軒、湊村でも八軒と定め、それ以上の増加は認めないとしています。その理由として、船小宿では事実上、飯盛女による売春が行われていたので、一元的に管理する必要があったためと考えられますが、表1の2、3に見えるように、実際のところ非公認の船小宿は増加の一途をたどっていたようです。 以上見てきたように、八戸藩における飯盛女は、建て前上、船小宿において飲食の給仕をする仕事を持ちながら、売春を稼業とする者のことをさし、人数を制限し公許された「準公娼」としての性格が強いとしておきます 注釈。そのため、公認の船小宿に抱えられた飯盛女以外は取締りの対象となったと考えられます。 2 飯盛女の出自と出稼ぎについて 続いて、飯盛女の出自に関する「勘定所日記」の記事をまとめたものが表2です。 まず、1?3に見える、他領から他人の娘を「娘」や「養女」 としてもらいうけるということは、飯盛奉公を意味します。そして、「宮古藤原村」(岩手県宮古市)、「久慈谷地村」(岩手県久慈市)、「宮古辺」という三陸海岸に沿った地域から、八戸湊へ飯盛奉公に来ていることに注目したいと思います。 この地域は、八戸城下から海岸沿いに「浜街道」と呼ばれる街道が盛岡・仙台藩領まで延び、人や物資の交流が活発な地域であり、飯盛女に関しても、三陸海岸に沿ったルートが供給地の一つだったことがわかります。 とくに、1と3に見える宮古は、盛岡藩領を代表する港町で、遊女町として有名な鍬ケ崎がありました。鍬ケ崎遊女は盛岡城下津志田遊廓や同城下へ赴き、また、浜街道を北上し、「卯子鳥明神」(岩手県普代村)や「新山権現」(同田老町)などの祭礼時には、参拝客を目当てとして短期間の出稼ぎをするなど広い地域にわたって活動していました 注釈。次に、八戸湊における飯盛女の出稼ぎの事例を紹介します。 (史料3) 乍恐口上天保四(1833)年九月、湊村の船小宿は天保の飢饉の影響で経営状態がおもわしくないとして、「飯盛女御礼金」年百両のうち五十両の免除を願い出ました。この中で、八戸湊にいても客が来ない状態を打開するため、隣接する盛岡藩領の「中奥通」(盛岡城下以北の地域)、「五三戸」(青森県五戸町三戸町)、「野辺地」(同野辺地町)、さらに「田名部」(同むつ市)といった下北地方まで飯盛女を派遣していると主張しています。しかし、盛岡藩領も飢饉の影響で不景気であり、飯盛女は派遣された働き先から十分な給金を得られず、そのため多くの飯盛女は稼ぎ先を一つの場所に定められず、彼女たちの中には持参すべき衣類などを不足させているものもいるという状況にありました。天保四年はいわゆる「天保の飢饉」が最も激化した年といわれており、飢饉の影響で生活苦となり、他所より仕事を求めて、逆に八戸湊へも「売女鉢之者」が集まってきていました 注釈。続いて、飯盛女の出自と出稼ぎについてさらに検討していきます。 (史料4)(藍文字筆者強調) 乍恐口上この史料には、天保七(1836)年五月に、飯盛女と思われる「とわ」が馴染み客の「郷助」と八戸湊に近い「諏訪神社」図では「諏訪大明神」)で心中を図った事件の顛末について記されています。ここで、藍文字部から次の(一)?(三)が読み取れます。 (一)二十二歳になる「とわ」は「田名部」から「九ケ年以前」、つまり、十三歳ほどで、船小宿経営者であろう「湊新丁茂吉」のもとでの奉公に出されている。 (二)「とわ」は盛岡藩領野田通、八戸藩領久慈通で一カ月ほど「在働き」(出稼ぎ)をしている。 (三)「久慈谷地村」の「竹松」が「茂吉」と「とわ」の身請けを希望する「野田之御侍」との間を取り持っている。先ほど三陸海岸に沿った地域を飯盛女の出身地として指摘しましたが、さらに盛岡藩領最北の田名部にまで広がっていることが確認できます。田名部出身の「とわ」と五戸から「とわ」のもとを訪れている「郷助」、両者とも盛岡領民という点は、八戸湊が盛岡城下以北における最大の遊女町として、隣接する盛岡藩の広い地域からも遊女や客を引き寄せる場であったことを象徴しています。そして「竹松」の行動からは、八戸湊での飯盛奉公を斡旋したり、遊女の身請けを仲介する業者のような存在を窺うことができるのです 注釈。 出稼ぎに関してさらに見ていくと、八戸湊の遊女の主な出稼ぎ先として、三本木村(青森県十和田市)があげられます。安政二(1855)年、新渡戸伝、十次郎親子を中心に、当時「三本木原」と呼ばれ原野が広がっていたこの地で、大規模な新田村(稲生町)の開発が始まりました。万延元(1860)年、「物産開業之仕法」全十一力条では、馬産、大豆、〆粕、養蚕、馬鈴薯、魚網、硝石などの産業育成をめざすとしています。この中の十カ条目には「遊女屋之事」として、今まで不毛の地が多くて人や産業が少なかった当地にあっても、近年、蝦夷地の開発に伴って人の通行が増えており、三本木へも遊女を置くことで旅客が集まり、やがて産業が活発化し、町が栄え賑やかになるという考えが示されています。いわば地域振興策の一環として、育成すべき産業の一つとして「遊女屋」が考えられていました 注釈。 このような遊女屋設置によって旅客を獲得し、宿場ひいては地域の活性化を図ろうとする事例からは、元禄から享保にかけて都市の発展と下層都市民の急増を背景に、売春が広範な都市民ひいては公権力に収益をもたらすとした宿場町との類似性が指摘できるでしょう 注釈。 「三本木台新墾繁昌記」によると、「(前略)吉野家・小桜屋ニ娼妓有り、色ヲ争ヒ、八戸訛ノ淫声ハ博労市懸(いちがけ)ノ心耳ヲ貫ク、調子違ノ三弦ハ轎夫・馬士之胸中ヲ悸ス、(後略)」とあり、三本木の遊女屋で「市懸」(出稼ぎ)の「博労」、「轎夫」(駕籠かき)、「馬士」(馬子)を相手にする八戸湊の遊女の姿が記されています。さらに、三本木を経由して盛岡藩領の北部へ出稼ぎする遊女について、文久三(一八六三)年三月、八戸藩領の鮫や湊から盛岡藩領の野辺地や田名部へ出稼ぎに赴く女たちを一夜でも留め置く場合は、「二丁目」(十和田市稲生町)に限ることなどの布達がありました 注釈 。(史料3)でも確認したように、八戸湊の遊女の出稼ぎ先は、三本木、野辺地、田名部といった盛岡藩領北部全域にまで及んでおり、とくに三本木においては「八戸訛ノ淫声」と表現されるように、遊女の大多数を占めていたことが推測されます。なお、近代以降も、八戸湊の「小中野村」や「鮫村」からの娼妓の出稼ぎ先として、最も多いのは「三本樹(木)村」とされています 注釈。 3 祭礼と船小宿の関わりについて 次に、八戸城下における最大の祭礼であった法霊祭礼と船小宿の関係について見ていきます。同祭礼においては、享保六(1721)年から長者山への神輿渡御が行われ、それに付随する祭礼行列に八戸城下より踊子が参加しています。八戸湊から踊子が行列に参加するようになつたのは、文政十(1827)年のことです。八戸藩士遠山家の日記、「遠山家日記」によると、同年初めて、「当年ハ鮫湊売女共御供被仰付、弐組被罷出随分賑敷相成」、「今晩長者山ニ而ほうらく芝居、鮫・湊女共致侯儀」(七月二〇日条)、「今日於長者山打毯并騎射、其外鮫・湊女子共踊有之」(七月二十一日条)とあり、「鮫・湊売女」つまり、八戸湊の遊女が祭礼行列に参加し、「ほうらく芝居」や「踊」といった芸能を披露することで、祭礼を盛り上げている様子が窺えます。また、時代は異なりますが、祭礼行列の「御供」は「踊子供」、「三昧せん引」、「踊師匠」、「世話人」などからなる総勢四十名ほどで構成され 注釈 、踊子や三味線、太鼓打らが祭礼時に着用する着物や祭具は江戸から調達されたものでした 注釈。ここで「鮫・湊踊子」が飯盛女のことをさしているのかはつきりしませんが、「踊子」たちを統括し、衣装や道具を整えて祭礼に参加する中心的な存在が船小宿であるため、踊子の主体は飯盛女であったと思われます。続いて、船小宿の法霊祭礼参加を藩が重視して、半ば強制していた実態について検討します。 (史料5) 一、湊村小宿共より麻疹流行二付、御神事之節踊子御免之願書差出左之通、文久二年(1862)七月鮫・湊の船小宿から「麻疹」の流行のため、法霊祭礼参加免除願が出されましたが、藩は法霊祭礼に参加することと引き換えに、御礼金の五分の一を免除しているのであり、「子供」が病気ならば「中年」(大人の意味か)でもかまわないので、参加するように厳命しています。同月十九日、船小宿は改めて参加免除願を提出しましたが、またもや却下され、「子供出兼候ハヽ中年之者罷出、踊等出来不申侯ハヽ行列計も御供致侯様」、つまり、子供が参加できないのならば大人が参加し、踊りができなければ行列に参加するだけでよいので、必ず参加するように命じられています 注釈。祭礼参加に要する費用を始めとする負担は船小宿に重くのしかかっていたようで、天保十三(1842)年から慶応三(1867)年にかけて、祭礼参加に伴う御礼金減額願、屋台など祭具修復や衣装購入を理由とした拝借金願が十二件出されています 注釈。また、文久三(1863)年六月には、「七月御神事之節御供踊子師匠無之ニ付」、つまり、法霊祭礼のお供をする行列へ踊りを指導する「師匠」がいないとして、盛岡藩領から「七之助」夫婦の呼び寄せ願が「鮫村小宿」らから出されました 注釈。 ここまで見てきたように、他領から招致された指導者による指導を受けた踊子、行列を華麗に演出するための着物や祭具、屋台などは祭礼を盛り上げるため必要不可欠なものであり、それらを整えて祭礼に参加する主体が船小宿でした。そのため理由のいかんを問わず、藩は祭礼への参加を船小宿に強制せざるを得ず、その代わりに諸経費などを御礼金減額や拝借金下付でもって、船小宿へ不十分ながら保障する必要があったと結論づけることができます。ただし、船小宿と祭礼との関わりについては不明な点も多く、今後さらなる検討が必要と思われます。 むすびにかえて?八戸湊と遊廓社会? 最後に、八戸湊において「遊廓社会」との関わりが窺える事例を確認したいと思います。 (史料6) 一、鮫村住居願之通、生国武州足立郡千住宿三丁目中田屋治兵衛倅賀兵衛、親分湊村重三郎、右之通唄渡世ニ付小宿子供共稽古ニ付小宿共より茂願出、願之通被仰付これは、嘉永四(1851)年九月に、「小宿共」(船小宿)から出された「武州足立郡千住宿三丁目」(東京都足立区千住)「中田屋治兵衛倅賀兵衛」の鮫村住居願です。前述の「踊子師匠」の「七之助」夫婦は法霊祭礼に参加する踊子に、この「唄渡世」である「中田屋治兵衛倖賀兵衛」は「小宿子供共」に対して、芸能を教授する目的で招致されています。とくに「唄渡世」という表現からはプロの芸能者が想起されます。また、嘉永五(1852)年二月には、「盛岡領遠野出生」(岩手県遠野市)、「細梳并髪結渡世」の「徳四郎」一家の湊村住居願が、「願人」である「親分新丁清之助」らから出されています 注釈> 史料的には多くありませんが、八戸湊においても「踊子師匠」「唄渡世」「細梳并髪結渡世」といった「遊廓社会」で生きる人々の職業が窺えます 注釈。また、こうした職業の者たちを八戸湊に招致するには、「湊村重三郎」、「新丁清之助」といった「親分」、彼らのネットワークが介在したことを想定すべきでしょう 注釈。さらに、「筆満可勢」によれば、鶴岡の「剛助」は女郎屋の経営者でもあり、八戸湊においても、「湊村」や「新丁」(湊新丁)に「親分」の居住が確認できることから、彼らは「遊廓社会」と何らかの接点を持っていた人物である可能性が高いといえます。八戸湊における飯盛女や船小宿に関する史料は、まとまりを欠き、本報告では、「勘定所日記」を中心とした藩政史料にその多くを依拠せざるを得ませんでした。今後は他地域における遊女の動向を視野に入れながら、八戸湊における「遊廓社会」の具体像を掘り下げていく必要があると考えています。 |