秀吉朱印状にみえる南部領の考察
南部内七郡と糠部郡について
「八戸地域史」第五号(1984)八戸歴史研究会
三浦忠司(当時・百石高校教諭)

「八戸地域史」 目次


一、問題の所在


 天正一八年(1590)七月豊臣秀吉の麾下に馳せさんじた南部信直は、秀吉より次のような朱印状をえて本領安堵をはかった。
  覚
 一、南部内七郡事大膳大夫可任覚悟事
 一、信直妻子定在京可仕事
 一、地行方令検地台所入丈夫ニ召置 在京之賄 相続候様ニ可申付事
 一、家中之者共相拘諸城悉令破却 則妻子三戸江引寄可召置事
 一、右条々及異儀者在之者 今般可被加御成敗候条 堅可申付事
   以上
  天正十八年七月廿七日  (豊臣秀吉朱印)
    南部大膳大夫とのへ

 ところが、この朱印状には「南部内七都」とあるのみで信直の具体的な本領地は記されていない。そのため、「南部内七郡」とはどのような郡をいうのか、史家によって種々見解が説かれている。大きく分けると、見解には両説あり、一説は岩手県史説、他は岩手県中世文書注解説である。

  前説は北・三戸・二戸・九戸・鹿角・岩手・閉伊の七郡説で、志和・稗貫・和賀の三郡は含めず、北・三戸・二戸・九戸の四郡は糠部郡より分れていたと説くところに特徴がある。後説は糠部・鹿角・岩手・閉伊・志和・稗貫・和賀の七郡とし、志和・稗貫・和賀の三郡は含まれており、北などの四郡は分立せず、糠部郡が存在していたと説く。

 この両説のうち岩手県史説が、青森県.岩手県の歴史界においてはほぼ通説化されており、かなりの著作物がこの通説を採用している。しかし、この通説のような見方は果して妥当なものであろうか。もっと根本的な面から史料に即して再検討する必要がありはしないであろうか。

 本稿では、このような通説に疑義を呈する立場から、通説の主張の根拠とするところはどこにあり、どこに両説の争点があるか、その争点を史料に即してどのように再解釈した方が妥当であるか、また他の史料からどのような見方ができるか、などについて以下に論考し、結論的には岩手県中世文書註解説を支持する論を展開したい。なお、最近、渡辺信夫長谷川成一両氏が通説を排する見解を示しており、その指摘は正鵠を射たものといえよう。

二、争点の検討


 岩手県史説と岩手県中世文書注解説のそれぞれの根拠は、両説を代表する見解によれば、岩手県史説では、
「和賀・稗貫の二郡は当時和賀・稗貫氏の所領であり、志和郡もまた信直押領の地にすぎないので信直の所領として公認されていなかった。従って、この三郡が信直領として公認されたのは、『南部根元記』、『奥南旧指鐘』および『南部史要』が指摘しているように天正一九年九月の九戸政実一味の滅亡後と解するのが妥当であろう。そうして見ると、ここに七郡というのは、二戸・三戸・九戸・北(現在の上北・下北)・閉伊・岩手・鹿角の諸郡であり、前記三郡は、奥羽平定に対する信直の功蹟に対し、先に津軽三郡を失わせたことへの代償として与えられたものであったと見るべきであろう。」と主張し、
岩手県中世文書注解説では、「天正二十年に書き上げた『諸城破却共書上之事』に書かれた城の肩書は、稗貫・和賀・閉伊・紫波(志和)・岩手・鹿角・糠部となっている。当時九戸・二戸・三戸・北は郡と称していないから、この七郡が南部内七郡の内容と見るべきである。そうでなければ、天正二十年に信直が、和賀.稗貫・閉伊の諸城の書上をすることができない筈である。」と説く。

 前説は、和賀・稗貫・志和の三郡は信直領ではなかったから七郡には入らず、従って「南部内七郡」は糠部を四郡に分けて数えるべきとし、後説は、破却した城の所在地に和賀ら三部と糠部郡があり、かつ九戸などはまだ郡と称していないから、和賀ら三郡と糠部郡を含めた七郡が「南部内七郡」とする。

 両説の根本的な見解の相違は、天正一八年の朱印状発給の段階で和賀・稗貫・志和の三郡が信直領に入っていたか否か、糠部が北・三戸・二戸・九戸の四郡に分れていたか否かであるといえる。とすれば、天正一八年における信直の三郡領有の有無と糠部郡の分立の時期の有無が検討されるべき争点となろう。

(1) 和賀三郡の領有の有無について


 岩手県史などの著作が、和賀・稗貫・志和の三部の領有が天正一九年の九戸の乱平定後と解する見方は、「南部根元記」の天正一九年の条に、「浅野弾正殿も既に登らんとし給う所に、爰に加賀羽柴筑前守利家より弾正殿へ為御使者内堀四郎兵衛三戸に到着し、則利家の御断りに依て志和.遠野.和賀.稗貫等の御本領領悉く南部へ被相渡」とあることを根拠としている。そして前田利家の七月二二日付信直宛書状に、「然者貴所御分領之儀太願外ニ於此方追々申合候」とあることが「南部根元記」の裏づけであるとする。更に、前田利家の八月二〇日付の書状の、木村杢助持参の御状の秀吉への披露と朱印状の交付、「当秋中か来春」の奥羽仕置の予告と領内の反逆の徒の成敗などという文面も、天正一八年のものと解されるとして、三郡領有の証拠の一つであるとしている。しかし、「南部根元記」の記述は、渡辺氏の所説の如く三郡の加増ではなく、浅野長政らの仕置軍が三部を南部氏に正式に交付したものと解するのが相当であろう。なぜならば、秀吉からの加増、ないしは所領安堵であれば、天正一八年と同様、朱印状があってしかるべきであり、よしんばそれが伝存しないとしても、朱印状をえたという所伝があってもいいはずであるが、これらが全く伝えられていないということは三郡の加増があったとする見方が根本的に成立しないことを意味するものである。「南部根元記」などの記述は、これらそのものが江戸中期以降編述された伝紀本であり、そのままでは根本史料とはなりえないものであるし、七月二二日付利家書状もその文面だけでは意味不明である。従って、これらをもって志和などの三郡が加増されたとみることは本来的に無理な解釈と考えられる。

 更に、八月二〇日付の利家書状は、その文面にある朱印状は本領安堵のそれではなく、信直上洛の路次の保証の朱印状とみなされることと、「去夏」の木村杢助の派遣は天正一七年と解されること、「当秋中か来春」の奥羽仕置の予告は、天正一八年の秀吉の出馬の事実から天正一八年以前のことと知られること、などから、この書状は天正一八年ではなく、天正一七年のものとみた方が無難である。そうみると、この書状は直接天正一八年の本領安堵とは関係せず、三郡領有の裏書とはなりえないものであろう。

 また岩手県史は志和郡以南の和賀・稗貫の地には浅野らの中央軍が進駐し、浅野の帰還後には代官が駐在していることは、この地が信直領ではなく、秀吉の直轄地であったことを物語ると記述している。しかし、中央軍の進駐があったからといって、ただちにその地が秀吉の直轄地であったと考えることは早計であろう。この地には秀吉の太閤歳入地が設定されることはありえないと、すでに長谷川氏が明確に指摘している通りであるから、この浅野の進駐はあくまでも奥羽仕置の貫徹、すなわち、宇都宮・会津において小田原不参を理由に領地を没収された和賀・稗貫両氏の旧領を接収し、反対勢力を討伐するためであり、ひいては新領主の権力基盤が脆弱な和・稗の地に太閤検地を施行するためであった。従って、中央軍の進駐は旧領主から新領主の信直へ移って錯乱している和・稗の地に一時的に軍事介入したものにすぎないとみなすべきであり、領内の鎮静化とともにその所領が進駐軍より新領主へ交付されるべき性格をもつものであった。和・稗以南の旧葛西・大崎両氏の旧地は浅野らの中央軍の討伐を経た上で新領主の木村氏へ引取渡されているのはこの例であり、このような領地の交付の仕方から考えれば、天正一九年の九戸の乱後に志和・和賀・稗貫の三郡が引渡されたということは、三郡の新たな加増ではなく、秀吉の駐在官から正式に南部氏に三郡の所領が交付されたものと解すべきである。

 従って、また南部信直が天正一九年九月以降家臣に和・稗の地の知行状を発給している。

 事実は浅野の太閤検地を経た上で三郡の所領が正式に交付されたからに他ならない。更に、和賀・稗貫の両郡が天正一八年の時点では、依然として和賀・稗貫両氏の所領であり、志和郡も信直の押領の地にすぎないとの前掲の見解について検討すると、志和郡については、天正一六年七月には信直は志和郡へ侵入して領主の斯波氏を滅亡させているし、和・稗両郡については、天正一八年七月と八月の宇都宮と会津における秀吉の奥州仕置によって和賀・稗貫両氏は公式にその土地の領主権を剥奪されているから、和・稗両氏の所領はその時点から本来的には存在していないとみるべきである。そして、また志和郡が単なる押領の地であったとしても、すでに南部氏の支配下、ないしは掌握下にあったとすれば、津軽為信が押領の津軽の地を本領安堵された如く、南部氏も天正一八年の朱印状で志和郡を本領安堵されたと考えて何ら差支えないのではなかろうか。

(2)糠部郡の分立の時期

 

( ア) 知行状にみえる糠部郡


 岩手県史説の大きな問額点は、和・稗の信直領有の時期にばかり目を奪われて、糠部郡名の使用については全く論及していないことである。そこで、次に公文書たる知行状における糠部郡の使用について検討を加え、糠部郡が公式的にはいつまで使用されていたかを明らかにしてみよう。糠部郡の知行状への使用については、つとに渡辺・長谷川両氏が指摘していることであるが、ここでは更に実例をあげて子細に検討すると別表のようにまとめることができる。(出典は『岩手戦国期文書1』に依拠)

 これによると、天正一九年一一月の松岡九郎右衛門宛の信直知行状から、慶長・元和を経て寛永六年一二月の八腰舞大蔵宛利直知行状に至るまで糠部郡の使用がみえている。このことは、糠部郡が公式的には寛永初年まで郡名として使用され、機能していたことを明確に示すものであり、天正一八年の秀吉の朱印状にある「南部内七郡」の中には当然糠部郡が入っていたと考えられる。もし、岩手県史などの通説が説くように、この時点で糠部郡が三戸郡などの四郡に分立していたとすれば、知行状に三戸郡などの郡名が記されているはずであろうが、これらが一切ないということは糠部郡が分立していない証左であろう。ちなみに、糠部郡方の郷村体制について付言すると、太閤検地の史的意義の一つに、従来までの庄・保・郷などの郷村体制を改め、支配地を数個の郡に分け、その下に村をおいて統治させるという郡?村の新たな郷村体制を確立したことがあげられる。この点から糠部地方の太閤検地の実施状況をみると、和賀・稗貫両郡には淺野による検地が実施されたが、志和を含めた以北は検地が実施された形跡がない。従って、糠部郡という広大な郡域は未だ数個の郡に分離させられることもなく、寛永初年までは中世さながらの広鵜域のまま一括して糠部郡と呼ばれる郷村支配体制となっていたとみられる。

 

(イ) 糠部郡の分立と三戸郡などの成立


 知行状への糠部郡の使用は右にみた通りであるが、糠部郡がいつから三戸郡などへ分離したか、いいかえれば三戸郡などの創設がいつ始まったか、この点からの検討も糠部郡の存在を立証するためには必要である。北郡・三戸郡・二戸郡・九戸郡の郡名の、確認しうる、確実で、公的な初見は寛永一一年のことであろう。寛永一一年八月に将軍より南部家に最初に領知判物が交付されるが、これに関連した史料たる「領内郷村目録」と「南部郡数之事」に三戸郡などの四郡名が初めて登場する(いずれも盛岡市中央公民館蔵南部家文書)。

   陸奥国北郡三戸二戸九戸鹿角閉伊岩手志和稗貫和賀十郡都合拾万石(目録在別紙)事
   如前々全可令領知之状如件
     寛永十一年八月四日  (徳川家光花押)
            南部山城守とのへ
                 (南部重直宛徳川家光判物

    覚
 六七戸田名部迄
 一、壱万三百弐拾石五斗弐升三合     北 郡
 一戸金田市福岡浄法寺迄
 一、壱万弐千首九拾四石弐斗五升四合   二戸部
 三戸五戸八戸種一迄
 一、三万六千八百五拾八石七斗壱升七合  三戸郡
 九戸江刈葛巻久慈野田迄
 一、壱万三千弐拾六石八斗        九戸郡
 鹿角中
 一、壱万四千八百八拾弐石六斗一升七合  狭布郡
 一、弐万弐千七百八拾石四斗九升壱合   岩手郡
 一、弐万八千三百弐拾三石壱斗弐升    紫波郡
 遠野閉伊迄
 一、弐万三千弐百八拾四石六斗五升    閉伊郡
 一、弐万三千六百八捨石三斗八升三合   稗貫郡
 一、弐万弐百弐石四斗五升弐合      和賀郡
 高都合弐拾万五千五百五拾四石七合
  寛永十一年後七月十二日
                 (領内郷村目録)

   南部郡数之事
 一、六戸七戸田名部迄          北 郡 壱郡
 一、三戸五戸八戸迄           三戸郡 壱郡
 一、浄法寺壱戸福岡金田市迄       二戸郡 壱郡
 一、九戸江苅‥葛巻久慈野田迄      九戸郡 壱郡
 一、鹿角 狭布郡                壱郡
 一、閉伊遠野迄             閉伊郡 壱郡
 一、岩手郡                   壱郡
 一、志和郡                   壱郡
 一、稗貫郡                   壱郡
 一、和賀郡                   壱郡
  〆高拾万石
                   南部山城守
   閏七月十二日             重直
    永井信濃守殿
    安藤 右京殿
    内藤伊賀守殿
                 (南部郡数之事)

 領内郷村目録と南部郡数之事は、判物をもらうために幕府へ書上げた文書の控と推されるが、この両史料を綿密に検討すると、北・三戸・二戸・九戸郡の四郡の記載様式と狭布(鹿角)・閉伊・岩手・志和・稗貫・和賀郡の六郡のそれとでは大きく異なっていることに気がつく。北郡等の四郡には、具体的な地域範囲を示す記載があり、他の郡には閉伊を除くとそれがない。四郡に限って具体的地域範囲を明示しているということは、この時点で糠部郡が四郡に分けられたことを示唆するものであり、寛永一一年に判物が交付されるにあたって、北・三戸・二戸・九戸郡の四郡が、糠部郡より分離独立して成立したものと推定してほぼ間違いあるまい。

 このような糠部郡の三戸郡などへの分立の徴候は、すでに寛永一一年以前に信直や利直の知行状にみえるところである。知行状にある郷村の書式をみると、糠部郡の場合には、戸の地域名を記したときには「糠部九戸之内尻引」、「糠部郡五戸之内上新田」、「糠部郡一戸之内岩舘村」などと、戸の下に村がつくことが多いが、他の郡の場合には、「志和郡日瓜村」、「和賀之郡黒岩村」、「稗貫之郡猪鼻村」などと郡の下に直接村が記されている。糠部郡は郡?戸?村という郷村組織になっているのに対して、他の諸郡は郡?村という組織になっており、きわめて対照的である。これは単に書式の相違というだけでなく、糠部の郷村構造の特異性をも反映したものと考えられ、糠部郡は早くから数ヵ郡に分立する傾向を内包していたと考えられる。

 このように寛永一一年に至って糠部郡が四郡に分立したということは、少なくとも公式的にはそうなっていることから、天正一八年の「南部内七郡」には、北・三戸・二戸・九戸などの四郡は当然入っていなかったとみるべきであり、これら四郡の郡名がすでに入っていたとする通説の見解とは大きく異なるものである。

 ところで、寛永のこの時期に糠部郡が四郡に分立した理由は何んであろうか。その理由は委細不明である。しかし、南部氏の居城たる盛岡城が寛永一〇年に正式に居城と定められ、これ以後ここを中心に領内統治が開始されたこと、寛永四年に糠部の旧勢力を代表する実力者の根城南部氏が遠野へ転出し、糠部統治の政治上の障害がなくなったこと、慶長以来に個々に検地が実施されて郷村把握が進み、旧糠部郡内を何らかの関係(戸数、または馬産などの生産力)で再編すべき必要が生れたこと、などといったことが考えられる。

三、結 論


 本稿では、天正一八年における秀吉朱印状の「南部内七郡」の一つに糠部郡が数えられ るという立場から、従来の通説たる岩手県史説を次の二つの観点から再検討を試みた
 一つは、志和・稗貫・和賀三郡の領有の時期について、伝紀本の記載内容・秀吉の駐在官の性格・三郡の旧領主の領有権の喪失の時期などを史料に即して再解釈し、
 二つは、糠部郡名の存在について、信直・利直の知行状と領知状の関連文書たる郷村目録などから、糠部郡の後年までの存続と三戸郡の分立の時期などを実証した。
 このような再検討の作業から「南部内七郡」には、通説のいうごとく、北・三戸・二戸・九戸・鹿角・岩手・閉伊の七郡ではなく、糠部・鹿角・岩手・閉伊・志和・稗貫・和賀の七郡であり、天正一八年の朱印状の段階では、糠部郡は北・三戸・二戸・九戸の各郡に分立していないと結論づけることができた。従って、従来の通説は今一度検討の余地があろう。ただ、本論稿といえども、限られた史料をめぐつての解釈であるので、今後新解釈や新史料の究明によっては修正せざるをえない内容を持っている。更に一層「南部内七郡」をめぐる論争が喚起されることが望まれる。
 


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