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| 徳川綱吉政権と盛岡藩 2 生類憐みの令と盛岡藩 |
| 細井 計 220315 |
一 「雑書」について 二 越後騒動と盛岡藩 三 生類憐みの令と盛岡藩三 生類憐みの令と盛岡藩(一)生類憐みの令の内容 徳川綱吉は五代将軍に就任し、延宝八年(1680)十二月に大老の酒井忠清を罷免してからは、自ら指揮して幕政を推進したので、後世に「天和の治」と評されたほどである。しかし、貞享二年(1685)以降になると、悪評高い生類憐みの令(憐愍令)を頻発して「犬将軍」とまでいわれた。綱吉は貞享二年から死去する前年の宝永五年(1708)までの二十四年間に、七十あまりの生類憐みの令を出し、犬をはじめ生類すべての殺生を禁じ、違反者に対する取締りを強化する一方、元禄元年(1688)からは放鳥を実施し、同七年には十回も大島・新島・神津島などへ放鳥していた。 生類憐みの令に関連して出されたものを列挙してみると、例えば貞享四年には、一月二十八日、二月四日、二月二十一日、二月二十七日、三月二十六日、四月九日、四月十日、四月十一日、四月三十日、六月二十六日、七月二十日、九月十三日、十一月十五日、十二月二十三日と、立て続けに発令されている。このうちの主なものは、 (イ)食料とて、魚、鳥を蓄養してうりひさぐ(売販)こと、今より後かたく停 禁すべし、鶏、亀もこれに同じ、但し翫弄のために魚、烏飼ふことはゆるす べし、鶏、亀、貝類に至る迄、食料とては一切飼置べからずとなり (貞享四年二月二十七日条) (ロ)市井各所、大八車并牛車にて、しばしば犬等を毀傷するよし聞ゆ、これ心 用ひざる挙動、いとひがごと(僻事)なれば、車夫等それぞれ罪科に処せら る、今より後、宰領をさしそへて、牽引懸ざらんやうなさしむべし、勿論土 人ならびに辻番人心いれ、あやまちあらしむべからず、先にも令せられしか ど、今にをいて、主なき犬来れば食物もあたへず、又は犬其他生類とも授受 せざるよし聞ゆ、生類愛憐すべき令をおもひたがへたりと聞ゆれば、何事に つきても、生類愛憐のこゝろをむね(旨)とすべしとなり ( 貞享四年七月二十日条 ) (ハ)捨馬すべからざる旨、かねて令せられしに、違犯の者ありて、さきに遠流 に処せられ、其後しばしば罪せらるるといへども、今に猶さるものあり、い とひ(僻)が事なれど、寛宥の御沙汰をもて、こたびも前に同じく遠流せら る、公私領ともにきびしく暁諭し、生類慈愛の事を簡(肝)要とすべし、 此以後馬をすつ(捨)るものあらば、其地の代官、地頭の過失たるべしと なり ( 貞享四年十二月二十三日条 ) などとあり、違犯者に対する処分としては、次のようなものがある。 (ニ)台所頭天野五郎大夫正勝、八丈島に遠流せらる、庖所の井に猫落て死せし 事によてなり、其子二人は鳥居左京亮忠則にあづけらる ( 貞享四年二月四日 条 ) (ホ)こたび前令にそむき、病馬を荒地に棄たるもの十人を追捕して、遠流せし めらる ( 貞享四年四月九日条 ) (へ)小石川御殿番保泉市右衛門某が奴僕、犬を斬たるをもて八丈島に遠流し、 市右衛門は俸禄を収公せらる ( 貞享四年四月十日条 ) (ト)生類愛憐のこと、先々も令せられしに、こたび武州寺尾田、代場両村のも の、病馬をすてし事ひ(僻)が事なれば、死刑にも処せらるべけれど、こた びはまづ遠流せしめらる、今より後、違犯せば重く罪せらるべしとなり ( 貞享四年四月十一日条 ) (チ)中門の番せし持筒頭水野藤右衛門元政が所属の賎吏等、門上に集たる鳩を 礫にてうちたるよし聞ゆるにより、前にしばしば令せられし群生愛護の旨に そむけりとて、与力、同心ことごとく遠慮せしめらる ( 貞享四年四月三十日条 ) (リ)中奥小姓秋田淡路守季久が家人、八日の御忌辰を犯し、吹矢にて燕を射た ることあらはれ、一人は大辟(死刑)に処し、一人は遠流せしめらる ( 貞享四年六月二十六日条 ) 右からも明らかなように、病み馬を遺棄した者や犬を斬った者は流罪、鳩を磯で傷つけた者は遠慮の処分を受けた。また、吹矢にて燕を射た者のうち一人は死刑、一人は遠流に処せられていたことなどがわかった。 (二)生類憐みの令施行の実相 ところで、生類憐みの令の施行に伴う実際の状態はどうだったのか。 次に掲げる史料は、その辺のことをよく伝えているので紹介しよう。 (イ)飼犬の毛色簿書にしるし、もし犬見えざる時は、何方よりか他の犬をつれ 来り、其員数を合するよしの聞えあり、畢竟人々をして生類愛養せしめらる べきの盛(誠)意にて、しばしば令し下さるゝ所に、実意あらざる挙動なれ ば、今より後、飼犬見えざる時は、成べきほど尋ね出べし、もしなおざり (等閑)にするものあらば、所属へうたふ(訴)べし、他の犬まからば、こ れもよく畜養し、その主しれば還しやるべしとなり ( 貞享四年二月二十一日 ) (ロ)生鳥飼事停禁すべし、しかし鵞、鸞(あひる)并に唐鳥などの山野に住な れざるは、はなち(放)さらば飢渇すべければ其侭にをくべし、卵を生ぜば よく畜養し、請ふものへやるべし、鶏を絞殺して売買する事あるべからず、 亀飼こと一切禁ずべし、筍(簀)を設け魚貯へ置て売るべからずとなり ( 貞享四年三月二十六日 ) (ハ)捨子あらば、すみやかにうた(訴)へ出るに及ばず、其土人等介抱して養 育するか、あるはこひ(請)出るものあらばつかはすべし、禽獣の類、人の 疵付たらんあらば、これまでのごとくうた(訴)へ出べし、禽獣互に争闘せ るか、またはみづから傷つけたらんは、うた(訴)へ出るに及ばず、よく養 育して其主あらんはかへ(返)し遣はすべし、主なき犬は食物をあたへざる よし聞ゆ、畢竟食物をあたふれば、其あたへしものゝ犬のごとくなり、のち までもかゝづらふ事ありとおもひ、いた(労)はらぬもありと聞ゆ、いとひ がごと(僻事)なり、今より後、かゝるふるまひあるべからず、飼犬死せば 所属へうた(訴)へ出るよし聞ゆれど、別儀なきはうた(訴)ふるに及ばず 犬のみにかぎらず、すべて生類は、人々慈愛の心を本とし、あはれ(憐)む 事を要とすべしとなり ( 貞享四年四月十一日条 ) (ニ)御当代になり、犬を御いた(労)はり被遊候に付て、犬目付といふ役人、江 戸中は不及云、果々をも見あるきて、犬をうち申候か、又あしくあたり候も のあれば、町なれば名主に断り、その者の名をきゝ、所を書付、又武士屋敷 なれば、その者の主人をきゝ、その翌日、武士は支配方、町は町奉行よりこ とは(断)りあるゆへ、所をはら(払)はれ籠(牢)舎する者多し、増山兵 部家来の侍は、犬にくわれ候て、その犬を切殺したる科に依て切腹す、土屋 大和守家来は犬にくわれ、少(し)犬を切たる科に依て、江戸を追払せられ て、大和守も延(遠)慮候て引込、土井信濃守中間は、犬をたゝきたる科に よって扶持をはなさる、か様のわけなるゆへ、犬に人のおじおそ(怖)るゝ 事、貴人高位の如し、うちたゝく事はさし置て、お犬様といふ、此ゆへ日に まし、犬にもおご(驕)りつきて人をおそれず、道中に横たはりに臥て、馬 にも代八(大八車)にもおそれず下坂におす車引、はいはいと声をかけて引 にも、犬おそれずそのまゝ臥てある所へ、車をとゞめかねて引かけて、車の 輪にてひ(拉)しぎころす事あれば、その車引何人ありとも皆せいばい(成 敗)にあふ、もし手足をそこぬる事あれば、外科をかけて養生療治をくはふ る、頃日は犬医師・犬針立などいふもの出来て、病犬をたすくるといへば、 犬乗物・犬駕籠などいふ者にのせて、医師の方へつれ行事おびただし、犬死 申候へば奉行所へこと(断)はりをいふ、則(ち)目付・横目きたりて、何 といたし死申候やと、其犬主は不及申、近所の町人を呼出し、一人々々の口 書をとる、若切疵・突疵などあれば、猶以せんさく(穿鑿)むづかし、是に よって我、かいそだてたる一疋の犬にももち(持)あつか(扱)いて、人に もとらせたがれども、誰ももらふものなし、犬の子をも死なぬやうに飼そだ つべし、水堀などへ捨べからず、捨候事後日に聞えたらば、科に可被仰付と のよしなるゆへ、捨る事もならず、喰物をあたふる事もならず、みな主なし 犬と号してかまはず、依人(之)、犬支配より一町々々の犬をあらため、主 づけをして帳面にとどめしゆへ、煩にも、尤死たるには、支配所へ行て断り をいひ、死(に)候へば館(棺)入、無縁寺を頼て土葬にする ( 「御当代記」 ) 右の(イ)では、飼い犬の毛色を帳簿に記載し、飼い犬が行方不明になったときは出来る限り探すこと。他の犬が迷い込んだら蓄養して飼い主に返してやることなどが規定された。(ロ)では、鳥の飼育は禁止するが、鵞鳥・鶩(あひる)・唐鳥などは山野に放鳥すると飢渇してしまうので、そのまま置いてもよい。鶏を絞殺しての売買と亀の飼育、それに簀に貯え置いた魚の売買などが禁止されていた。(ハ)では、捨て子の介抱養育、負傷した禽獣の養育、無主の犬にも食物を与えることなどが規定され、「すべて生類は、人々慈愛の心を本とし、あはれむ事を要とすべし」と諭された。そして、(ニ)では、犬の扱いの悪い人は、「犬目付」の報告によって追放や牢舎になる者が多く、なかでも犬を切り殺した科で切腹した侍もいた。だから人々は犬を恐れて「お犬様」というので、犬はますます横着な態度をとるようになった。最近は「犬乗物」や「犬駕籠」などに乗せて、「犬医師」や「犬針立」などへ連れて行くことが多くなった。また、犬が死んだら棺に入れて無縁寺に土葬をしていたという。貞享・元禄期(1684?1704)の江戸は、今ではとても考えられないようなことが横行していたのである。 (三) 「雑書」 にみる生類憐みの令 さて、生類憐みの令に関連して「雑書」をみてみよう。生類憐みの令は、「雑書」貞享四年(1687)十月二十五日条 に、「生類憐之儀、人々仁心も出来候様ニと被思召て之儀候、(中略)人々心より慈悲之志のおこり候様可仕候」とあるように、当初は儒教や仏教による人心教化を意図していたが、しだいに悪法化していった。「雑書」貞享四年四月二十二日条 をみると、
とある。これは貞享四年四月十一日に発令されたもので、すでに『徳川実紀』第五篇から引用して例示したところであるが、病み馬を遺棄した者を流罪に処し、生類憐みの令を遵守させようとしたものである。 元禄二年(1689)六月二十九日に、老中の大久保加賀守忠朝から江戸留守居役が呼び出されたので、関新平が大久保邸へ参上したところ、猪・鹿・狼が作物等にあたり、荒れた時のみ鉄砲を使用することが許可された。その時、公儀から出された書付けは次のようなものであった。 覚 右によると、従来どおりの生類憐みについて督励した上で、特に今度は猪や鹿が田畑を荒らしたり、狼が「人馬犬等」に被害を与えた時は、時期を区切って鉄砲で討留めてもよい。しかし生類憐みの志を忘れてむざと討ってはいけない。そして「猪・鹿・狼あれ不申候節、まきらハしく殺生不仕様ニ堅可申付候」と伝えられたのである。 こうして十一月二日には、先 達って「日切鉄炮ニて為御討候得共」、猪・鹿・狼の被害が止まらないので、盛岡藩では口上書をもって、同月二十五日より十二月二十五日まで日数三〇日の討掃を申し出て了解を得ている。其の期日内に討留めた鹿・猪・狼の数は下表のごとくであった。
注 元禄2年11月25日から同12月25日までの日切れで、討留めた鹿・猪・狼の数。 元禄六年九月十一日 、老中土屋相模守政直の御用人衆よりの呼出しで、盛岡藩の留守居役滝六右衛門が伺候したところ、御用人の磯屋太左衛門から「当年鳥御献上候内、初鶴・初菱喰御献上被成、其外諸鳥被献上候儀御無用可被成由」が伝えられた。このことからすると、生類憐みの令下であっても、初鶴と初菱喰の献上は続行されていたことがわかる。元禄八年十月になると、「雑書」同年十月二十三日条 に、 覚 とあるように、捨て子と捨て犬の禁止が改めて厳命された。そして捨て子や捨て犬をするのは、育てることができないからだろうから、そのような場合は役所に申し出れば、養育を申し付けてやるというのである。 ところで、元禄八年の盛岡藩領は飢饉に襲われた 。この年は、夏中から冷気が強く小袖を着用し、夏の土用中に霜が降って北風が強いという、典型的な霧雨・早冷による冷気がもとで、ついに大凶作・飢饉となった。これまでの年貢収納高は14万俵(一俵3斗7升入り、5万1800石)であったが、この年はその28・6パーセントしかみこめず、10万俵(3万7000石)の不足となった。そこで藩当局は、元禄八年十月、幕府に「領内不作之儀」について報告した結果、「領地大分損毛之儀達御耳、来年参勤御免被遊之旨被仰出願」と、将軍綱吉から来年の参勤が免除されたので、その費用をもって飢饉の救済に充当したのである。この年(元禄八年) の十二月になると 、次に掲げるような変わった仰せが出されている。 覚 右からも明らかなように、飢饉で犬の食べ物もないから、随分いたわり養育するようにとの指令である。飢饉で諸民の飯料もないというのに、犬の養育に注意を払わせているのである。このようなところにも、生類憐みの令下における犬の扱いの特異さが惨み出ているといえよう。なお、この仰せに関連して、『南部史要』 は次のように説明している。すなわち、近臣が諌めて「犬よりは人の餓を如何せん」と問うたところ、五代藩主の南部行信は「犬餓ゆれば餓死者を食ふ、我これを見るに忍びざるのみならず、その味を旨しとして害を人に及ばさんことを恐る」と答えたという。この仰せと同様のものが、元禄十二年十二月十三日 にも出されている。 次に、犬の殺害に関連した出来事に目を転じて見よう。「雑書」元禄十二年七月二十四日条 をみると、次のように記されている。
これによると、元禄十二年七月二十三日、一条長五郎は盛岡城下の八幡町を通行中、同所の六之尉の飼い犬が吠えかかったので、「刀を抜はらい候得ハ、犬のふへへ切込、無間も犬死申候」という事件が発生した。そこで町奉行の上田八十右衛門に伝えたので、検分のため、徒目付の猿橋四郎兵衛を同夜六つ過ぎに派遣し、八幡町検断肝入と町同心小頭の両人が立ち会い、犬の死骸を白木綿で包み、新箱へ入れ、塩詰めに致し、川原町千日之寺内へ埋めさせた。翌二十四日、親の一条勘五郎を町奉行宅へ呼び、目付の鴨沢十兵衛をもって長五郎の御預けを伝えたのである。元禄十二年九月二十一日になると、「雑書」に 、 とあるので、親勘五郎に預け置かれていた長五郎が、あの時は具合が悪くて犬を殺してしまったということを、光源院(五代藩主行信の娘)が聞き、即刻許すように詫びを入れたので、町奉行宅に親の勘五郎を呼び寄せ、「向後ケ様之儀不仕様、慎可申由申渡、相免候様ニと」町奉行に伝えられたのである。 元禄十五年十月十八日になると、「於江戸、橋本権之介殿赤坂屋敷御飼置候あひる、何方よりか犬参喰申候付て、鳶口にて御うち庇付、近所之屋敷へ参死候由付て、権之介殿従御手前被仰出、御僉議之内あかり(揚)屋へ被遣候之由、犬主は不相知旨」が、江戸より伝えられた。江戸お供を任命されていた橋本左兵衛は、甥にあたる幕臣の橋本権之介が犬を殺したので、江戸お供は御免となった。これに関連することが、「雑書」元禄十五年十月二十三日条に詳しく記されているので、繁を厭わず次に紹介しよう。 一先達て従江戸申来候橋本権之介殿犬御殺候付て、御僉議之内、あか 右からも明らかなように、橋本権之介は犬を殺した罪により、十月十三日牢屋において切腹、伯父の左兵衛は遠慮という処分となった。そして十月十五日になると、御用番老中の土屋政直から江戸留守居役の斎藤新介が呼び出され、次のような「生類御憐之御書付」を渡された。
以上みてきたように、江戸で犬を殺した幕臣は死罪となったが、盛岡城下での場合は、親にお預けの後に、今後慎むようにとのことで許されている。したがって、生類憐みの令とはいっても、江戸府内と盛岡城下では、その対応が異なっていたのである。 お わ り に 本稿では、盛岡藩の家老席日記である「雑書」(『盛岡藩雑書』)を主たる史料として、徳川綱吉政権下にみられた越後騒動や生類憐みの令と、盛岡藩との関わりについて検討を加えてみた。 これまでの考察ですでに明らかになったように、延宝九年(1681)六月二十六日(ただし、この年は九月二十九日に天和と改元)、越後松平光長家の改易を招いた越後騒動の結果、盛岡藩(南部重信)に御預けとなった小栗市之助と十三郎の兄弟は、盛岡にあること四〇年にして、享保五年(1720)八月七日に赦免された。そして同年十一月二十三日には、市之助が三十人扶持、十三郎が二十人扶持で藩士に取り立てられ、盛岡で生涯を終えることになったのである。一人扶持とは米六石に相当するので、市之助は百八十石、十三郎は百二十石の中級武士ということになろう。一方、生類憐みの令についてであるが、これが発令された当初は、儒教や仏教による人心教化を意図し、生類愛憐思想の涵養を目的としていたものであるが、貞享四年(1687)以降になると、繰り返し発令されるたびごとに悪法と化していったのである。そして病み馬を捨てた者を遠島(島流し)に処し、さらに江戸府内で犬を殺した幕臣は切腹ということになった。しかし、同じ犬殺しであっても、盛岡城下の武士の場合は死罪とはならず、親にお預けの後に許すという軽い刑で処理されていたのである。悪名高い生類憐みの令とはいっても、将軍のお膝元の江戸府内と外様大名の盛岡城下の場合では、その対処の仕方が異なっていたことを、具体的に明らかにしえたと思う。 前頁・越後騒動と盛岡藩 【参考】 近世こもんじょ館 生類憐れみの令と盛岡藩 犬を殺した事件 法令等 『雑書』雑録 『御仕置裁許帳』に見る他藩の例 |