南部家重臣の支配形態・所務の実体 中野南部家の事例 1




         

■ 鹿角御境預かりと盛岡城中ノ橋御門預かり
 
三御門と九惣門の警衛

○ 三御門   追手御門(八戸弥六郎家)・中ノ橋御門(中野吉兵衛家)・日影御門(北
土佐家)を三御門という。時代により変遷はあるが、八戸・中野・北の三
         家が警衛した。八戸家が家老を勤仕する時は中野家が追手御門を受け持ち、北家が中ノ橋御門を警衛する。この時日
         影御門は楢山五左衛門家が対応する。中野家が家老を勤める場合には、北家が中ノ橋御門、楢山家が日影御門を警備
         するのが仕来りであった。

○ 九惣門   城下の出口九ヶ所に惣門があった。時代により名称にも変遷はあったが、
高知の諸家が単独であるい小身の家は数家組合で警衛にあたった。次ぎに示す『御番割遠近帳』からその一端が読み
         とれる。
          因みに新山惣門・八幡町出口惣門・加賀野惣門・寺町惣門・四ツ家惣門・仁王惣門・夕顔瀬惣門・上田惣門・下小
         路惣門の総称である。

○ 高知諸家  明治二年の時点では三家・着座高知・高知に細分化され全体で31家を数
えた。
■ 三家    八戸・中野・北(文政五年以降南部を称した)
■ 着座高知  隅屋敷・中屋敷・新屋敷(はじめ三戸を称し、のち南部を称した)・南(
文政五年以降南部を称した)・桜庭・三戸(はじめ戸澤を称した)
■ 高知    石亀・八戸・奥瀬・桜庭・毛馬内・毛馬内・漆戸・野田・内堀・下田
下田・新渡戸・藤枝・奥瀬・岩間・黒澤・向井・山本・漆戸・安宅・花輪

高知の中でも八戸家は仙台に対峙し、中野(鹿角郡花輪)、桜庭(鹿角郡毛馬内)は秋田に対峙、北(鹿角郡大湯)は津軽に対峙して藩境警備の任を帯びていた。

ここでは中野氏を抽出して重臣家の知行形態、所務の実体について概要を捉えようとする試みです。



御番割遠近帳          
中野吉兵衛

一、元文三年御家老   一、同四年 同断  一、同五年 同断  
一、同六年 同断 五月病死
傳三郎
七月継目被仰付、八月十四日より中ノ橋御門      名改 筑後
一、寛保二年火事場詰  一、三年火消役  一、同四年 同断 三月延享元年と改元
一、延享二年八幡前詰、六月十三日御免、同十八日中ノ橋御門被仰付
一、延享三年中ノ橋御門預、二月十八日鹿角花輪知行所え御暇願之通被仰出、三月十四日花輪
三月十八日中ノ橋御門、十二月二日斎藤新助御預 一、同四年右同断、
一、同五年火消御役、六月廿六日中ノ橋御門預り、火消御役被仰付
一、寛延二年八幡前詰、五月十三日御免、七月八戸弥六郎為代追手御門当分被仰付、七月十三
日御免、同日中ノ橋御門被仰付
一、同三年右同断 七月三日淡路丸大明神御宮詰被仰付、中ノ橋御門御免
一、同四年火消御役、六月三日火消御役御免、同六日中ノ橋御門預
一、宝暦二年淡路丸大明神御宮詰被仰付、七月十一日直々御宮詰被仰付
一、同三年火消御役人、五月十八日御免、同日中ノ橋御門被仰付、
一、同四年出火之節御城内八幡前詰、七月三日御免、同日中ノ橋御門
一、同五年中ノ橋御門
一、同六年中ノ橋御門、八月朔日実母病死に付右御免、九月廿四日中ノ橋御門
一、同七年火消御役  一、同八年中ノ橋御門
一、同九年右同断、 同四月十八日病死、同五月晦日筑後跡式無相違被仰出、尤、忌中候得共
格別之家柄に付上使御目付を以被仰出
政之助
一、宝暦十年火消御役、七月十三日より中ノ橋御門、 一、同十一年中ノ橋御門、 
一、同十二年右同断  一、同十三年火消御役被仰付
一、同十四年中ノ橋御門  一、右同断  
一、明和三年火消御役、 一、同四年火消御役  
一、同五年中ノ橋御門                 名改 吉兵衛
一、同六年中ノ橋御門、九月十六日大向伊織思召に不叶儀有之内御預被仰付、十二月兼て御預
被指置候大向伊織、御用有之候間、御徒目付共え相渡候様被仰付
一、同七年中ノ橋御門、二月十九日御席詰被仰付
一、同八年右同断、六月廿九日病死 
吉左衛門
同年八月十三日、親吉兵衛跡式無相違被仰付、八月二十九日中ノ橋御門
一、同九年火消御役、七月十一日中ノ橋御門、九月二日名改
吉左衛門こと筑後
一、安永二年正月十一日中ノ橋御門  一、同三年中ノ橋御門、七月十三日追手御門
一、同四年同断一、同五年同断 一、同六年同断 一、同七年同断 
一、同八年火消御役被仰付、七月十九日御免、九月二十七日中ノ橋御門 
一、同九年中ノ橋御門、同月十九日八戸弥六郎代追手御門
一、同十年追手御門直々被仰付 
一、天明二年正月十三日火消被仰付、六月十五日御免、七月十一日追手御門
一、同三年正月十三日追手御門 一、天明四年正月追手御門
一、同五年正月十三日火消御役被仰付、六月十三日火之御番御免、七月十三日中ノ橋御門
一、同六年中ノ橋御門  一、同七年中ノ橋御門 
一、同八年正月十三日火消御役被仰付、九月朔日御免、同月二十四日中ノ橋御門 
一、同九年中ノ橋御門  
一、寛政二年正月十三日御席話被仰付  一、同三年同断  一、同四年同断
一、同五年同断、六月廿一日御用有之登被仰付、七月廿六日出立
一、同六年正月六日、来年年頭御名代被仰付
一、同七年十二月廿七日、
御自分儀席活申付置候上は、年寄共不勘弁之取扱方有之候は意見を加可申処、等閑之心得
にて出席罷有 此度之一件公辺之恐、諸国之聞得心外至、依之申付方も有之候得共、用捨を
以退役被仰付候
一、同八年中ノ橋御門 一、同九年中ノ橋御門 
一、同十年正月十三日火之御番被仰付、六月十一日御免 七月十三日中ノ橋御門 
一、同十一年正月中ノ橘御門 一、同十二年中ノ橋御門  一、同十三年中ノ橋御門
一、享和二年中ノ橋御門  一、同三年中ノ橋御門    一、同四年中ノ檎御門
一、文化二年正月十三日火消御役被仰付、六月朔日御免、七月十三日中ノ橋御門被仰付、同十
月十四日、八月十四日八戸弥六郎差控被仰付当分追手御門被仰付 
一、同三年正月中ノ橋御門被仰付、同三月三日出火之節防方被仰付候処致出精候段御聴遊ばさ
れ御満足旨被仰出
一、同四年正月中ノ橋御門、同六月十五日此度松前辺為見廻公義若年寄堀田摂津守殿、大目
付中川飛騨守殿、御目付遠山左衛門、御使番小菅猪右衞門、村上監物、近日追々御下り被成
爰元御止宿之内自然出火在之候ハゞ人数召連御旅宿近所え相詰候様被仰付 同六月廿一日
追手御門、同九月十七日公義若年寄堀田摂津守殿、箱館御奉行羽太安芸守、御使番小菅猪右
衞門、近日之内追々御帰府に付て申来、依之爰元六日町御止宿に付御発駕迄之内自然出火在
之候ハゞ人数召連御旅宿近所え相詰候様被仰付
一、同五年正月追手御門、同年十一月御席詰被仰付 一、同六年同断  一、同七年同断  一、同八年同断
一、同九年十一月十七日幼年中席詰申付候処出精相勤満足申候、依之地方弐百石加恩被下置旨
被仰出
一、同十年九月廿三日御手前末家中野斎宮儀父之喪中継目不被仰付病死に付御大法之通身帯被
召上、惣て御家中家々ぇ往古より御次第も有之、夫々本知被下来候事に候、然処斎宮身帯は
元来御自分拝知之内より致分知候趣に候間、此度思召も有之、右身帯弐百石直々御手前え還
附被仰付候間、已来本知え相加御軍役相勤可申旨被仰出
但、斎宮手廻共ぇは右御戻被成候弐百石之内より致扶助候様御沙汰に候
一、同十一年十月廿日知行所八幡通御代官所之内瀧田村用水堰代長さ七拾六間、幅五間御用地
御取上被成、右替地追て可被下置旨被仰出
一、同十二年 
一、同十三年十月十五日、親勤功有之に付御席詰被仰付、十月十六日長病に付御役御免之儀願
上随て御差留被成度思召候得共、長病之事故、願之通首尾能御免
【張り紙】
同十三年十月十九日筑後老衰之上多病にて御奉公可相勤躰無之に付、隠居仕忰出雲家督被
仰付被下度旨申上願之通無相違被仰出十月廿一日願之通名改
出雲事 筑後
一、同十四年二月二日、此節御用少にも被為有候間、日々罷出候も大儀に思召候、依之申合候
て隔日罷出候様、尤、病気差合等之節は壱人にて日々罷出候様可致胸御沙汰被成候
一、同十五年十月六日、近年家格も相直り高増迄昇進之上、其方往古の家柄にも有之旁此度南
部称号相免候間、已来相名乗可申事、右之通於御前被仰渡之、尤、嫡子嫡孫共に已来相名乗
可申事、二三男ぇは相控、只今迄之苗字相用可申事、御称号之儀御沙汰に付て右御礼願上可
申、尤、太刀折紙長袴にて御礼可申上事
南部筑後
一、文政二年同断、 一、同三年同断 八月晦日御供登、十一月四日下り
一、同四年二月十三日長病にて近々快気出勤可致病躰無之に付、御席詰御免被成下度旨申上、
願之通御免被成候、尤、是迄骨折相勤大儀に思召候、依之白鞘御刀一腰拝領被仰付同日御席
詰御免
一、同五年正月火之御番被仰付、六月朔日御免、同十七日松前奉行為帰府、爰許御止宿に付発
足迄出火有之候ハゞ旅宿近所ぇ相詰候様被仰付、同廿六日末家中野衛士儀先達て打続嫡子斎
宮迄病死に付御定法之通身帯弐百石御取上、直々筑後ぇ還附被成下候右之内より致扶助候様
被仰付候処、斎宮子弓治当十七歳罷成有之候に付、弓治ぇ右還附被成下候弐百石弓治ぇ分知
仕の相応之御奉公被仰付旨申上願之通被仰出、 一、同六年 
一、同七年十二月七日御席詰被仰付、
一、同八年六月十二日久々病気に付御役御免被成下度旨申上候得共未だ年来と申にも無之事故
彼是心配無之養生仕候様被仰出、六月廿九日久々病気に付御席詰御免被成下旨再申上、願之
通首尾能及び御免被成候旨御紋肩衣御帷子拝領被仰出、七月追手御門番
一、文政九年正月火消御役、四月十六日兼て輪無鶴紋形相用候様被仰出、尤、対服之儀は相控
候様御沙汰被成出候処、思召有之、以来対服共相用候て不苦旨被仰出、六月廿一日火消御役
御免、七月十三日追手御門
一、同十年正月追手御門番、三月三日屋舖地間狭に付御鷹部屋御地面之内表御門並五間程、裏
行十八間二尺拝借申上願之通同十五日被仰付
一、文政十一年正月追手御門、七月直々追手御門
一、文政十二年正月火之御番被仰付、五月廿五日火之御番御免、八月十三日来る十七日迄追手
御門  一、同十三年正月追手御門
一、天保二年正月中ノ橋御門、正月廿九日桜庭肥後代火之御番被仰付、五月十日火之御番御免
七月十二日中ノ橋御門、八月三日南部左衛門尉様御発駕迄之内出火之節防人数召連御仮屋
前ぇ相詰候様被仰出
一、天保三年正月中ノ橋御門、五月十八日久々病気に付隠居仕、嫡子午之丞家督被仰付被下度
旨候得共未老年と申にも無之、思召を以御留被成候間、猶心永遂養生相勤候様被仰出
一、同四年
一、同五年正月十三日中ノ橋御門、七月十三日直々中ノ橋御門 一、同六年正月中ノ橋御門、
七月直々中ノ橋御門
一、同七年正月中ノ橋御門、七月十二日直々中ノ橋御門 十月廿三日筑後儀当五十一歳罷成候
処、久々疝積相煩之症差加、頃日に至■滞仕上、臨時の眩暈仕、全快御奉公可相勤病症無之
に付隠居仕、忰午之丞当二十二歳罷成候、此者家督被仰付被下度旨申上願之通無相違被仰出
忰 午之丞
十一月二日名改願之通              午之丞事 吉兵衛
一、天保八年正月火之御番被仰付 七月中ノ橋御門 八月二日末家中野忠太夫義前々丸之内蔦
一通相用候外替紋等も無御座候に付、不苦御儀にも御座候ハゞ拙者家紋之内丸之内割菱、此
度相譲武器并衣服共にも為相用申度旨申上願之通被仰出、九月追手御門 
一、同十年同断 一、同十一年同断、(中略)十二月廿一日御領分海岸御防頭
一、天保十二年三月六日御新丸表御門前罷通候節鑓伏不申哉に相聞得候、以来同列並合之通鑓
伏可申旨被仰付、三月廿日聖寿寺・教浄寺・東禅寺火之御番被仰付、依之非常警衛被仰付、
十一月廿日当春御沙汰被成候節之通知行所替地被仰出候、此度伝法寺通・雫石通・沢内通・
福岡通・五戸通にて高弐千石替地場被下置旨被仰出、此元知行替地場御沙汰被成候に付、兼
て御預被成置候花輪御館御蔵御武具并御同心とも同通御代官ぇ引渡可申旨被仰付
【補】  『諸士給人由緒書上』『中野家系譜』
父筑後儀名利を専にいたし、君命を不重猥に我意を募 其儘難差置廉も有之候得共 家
柄を思召 格別の御仁恵を以 御用捨被成置候処 先達て知行所務書上被仰出候砌 高
不相当不廉直の書上いたし 其上同列へ対し家来の者下坐向の儀に付 品々筋なき過等
の申立有之段重々不心得至極に付 重き不念可被仰付筈の処 格外の御憐愍を以 身帯
の内三ケ一御金方色替 残高知行場所替被仰付南部土佐可為次席候 尤家来の者は 向
後都て同列並合通と相心得可申旨天保十二年正月被仰出申入候以上
一、天保十三年  一、同十四年六月廿七日大備之節浮勢別手備被仰付、閏九月十三日定火之
御番被仰付
一、同十五年三月廿三日御備御試之節御備頭被仰付 (以下略) 一、弘化二年(本文略) 一、同三年 一、同四年
一、嘉永元年二月十六日御近習頭御用本役同様相詰候様被仰付、表御礼之儀、五節句は是迄之
通月次御礼し不為請候、尤、表にては家格之通、於奥は御近習頭座順と相心得可申旨被仰出
三月四日思召を以御勝手向御仕法御改正被仰付、御国産取調御用懸被仰付、三月七日於御
前御一字拝領被仰付、七月四日御入国御使者被仰付、十一月廿五日加判御役被仰付御近習頭
兼帯被仰付、同廿六日御近習頭重相勤候様被仰付
一、同二年同断 四月十一日勤番登被仰付、六月廿日来る廿二日出立被仰付 
一同三年同断 一、同四年同断 (以下略) 一、同五年同断(以下略)
一、同六年同断 七月二日御目通差控被仰付(条文割愛) 十一月十一日松前表御警衛并御領
分海岸防禦御用懸被仰付、十一月廿三日御役儀休息被仰付 同日兼て実躰相勤候に付御上下
拝領
一、同七年正月乗算に地御領分海岸御備頭被仰付(以下略)
一、安政二年正月十三日定火之御番被仰付、四月廿日加番御役被仰付、四月廿四日松前表警衛
并御領分海岸防禦御用懸被仰付、五月三日先年身帯之内色替場所替等被仰付候処、其後少将
様御深慮之御旨も被為有、且思召有之、旁々元知行場所へ御取戻被下置、以前の通南部壱岐
上席被仰付

【補】  『諸士給人由緒書上』『中野家系譜』
安政二年五月五日                     南部吉兵衛
知行元場所へ御取戻被下置候付 花輪御館 御武具蔵 御武具并御同心共に 以前の通御
預被成候間 同通御代官より引請可申候

 


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