生類憐れみの令と盛岡藩 1 犬を殺した事件 法令等 『雑書』雑録

   吉川弘文館『国史大事典』に記載されている『生類憐みの令』
 江戸幕府五代将軍徳川綱吉の時代に発せられた生類憐みに関する幕法の総称。将軍就任当初より綱吉は儒学や佛教の教えによる人心教化を意図し、天和二年(一六八二)五月、諸国に立てた高札で、忠孝を奨励し、夫婦兄弟仲良く、召し使いなどを憐むよう命じている。生類憐みの令の発令はその線上に位置付けられよう。

 通説によると、綱吉は天和三年に世子徳松を失ったあと嗣子に恵まれず、母桂昌院の尊崇する僧隆光から、人に子がないのは前世で殺生をした報いであり、子を得たいと思うなら殺生を慎み、生類憐みを心がけ、特に綱吉が戌年生まれであるところから、犬を大切にするよう進言されたことが発令の動機となったといわれるが、必ずしも根拠のある説てはない。すてに天和二年の三月と十二月に幕府御鷹投人が削減されており、ここに綱吉の生類憐みの意志を読みとることもでさる。

 生類憐みの令の最初とされているのは、貞享二年(一六八五)七月、将軍の御成の道筋に犬・猫が出ていても構わないというもので、続いて馬の筋のべの禁止、幕府御台所での鳥類・貝類・海老の使用禁止が合せられた。貞享四年以降、人宿・牛馬宿などで重病の生類を遺棄することを禁じ、また江戸町中のすべての飼犬の数・毛色などを帳簿に記すよう命じるなど、生類憐みに関する法令がつきつぎに発せられ、違反者に対する取締りも強化されていった。対象となった生類は、牛・馬・犬・猫・猿・鶏・亀・蛇・鼠やあらゆる魚介類・鳥類に及んだが、特に牛・馬・犬・鳥類に対する保護が著しかった。牛馬については、馬の筋を延ばしたり、尾先を焼いたりする風習をとどめ、捨牛馬を禁じ、また重い荷物を負わせてはならないとした。犬に関しては、大八車や牛車が犬をひき殺さないように注意せよと命じ、犬の喧嘩は水をかけて引さ分けよとも令した。増えた野犬を収容するため、江戸近郊の喜多見・四谷・中野などに犬小屋が設けられたが、その建設は大名御手伝をもって行われ、また諸方より資材が調達された。

 中野の犬小屋の総面積は二十九万坪余に及び、元禄八年(一六九五)に第一期工事が完了するとただちに十万頭が運びこまれたといわれる。ほかに村で犬を預かる制度があり、江戸西郊上野毛村ては十六匹預かって飼育し、一年一匹につさ金二分ずつの養育金をうけとっていた。幕府はこれらの費用を出すために、江戸の町人から小間(こま)一間につき金三分ずつを出させ、関東の諸国へ犬扶持をかけたりした。鳥類をめぐつては、鷹狩・狩猟の抑制に関連して、民間の鉄砲所持・使用に制限が加えられた。捕獲された鳥類はしばしば伊豆七島などに放たれた。幕府の鷹狩は元禄六年にまったく廃止され、鷹匠・鳥見などの鷹関係の役人は犬小屋役人に転じた。なお生類憐みの対象が人(捨子・行旅病人・囚人など)に及んだ点も看過することはでさない。生類憐みの令の施行範囲は主として江戸および幕領であったが、次第に諸藩に影響を及ぼしたとみられ、この時期、藩法の中に幕法をうけての生類憐みの条項が含まれていることが多い。

 この法に違反した者は死罪・遠島など厳罰に処せられる場合も少なくなく、『折たく柴の記』によると、「法を奉ずる人々」が「務めて苛察を以て相尚」び、一禽一獣のため処罰された者の家族で「流離散亡」した者は数十万人に及んだといわれる。そのため民衆の怨嗟の声は次第に大さくなっていき、宝永六年(一七〇九)正月綱吉が死去すると、法の永続を命じるその遺言にもかかわらず、六代将軍家宣はただちにこの法を廃した。生類憐みの令は、従来、綱吉個人の性格に起因する将軍専制体制下の悪法と評価されてさたが、近年、綱吉政権期の生類がもった歴史的、社会的意味を問い、その政策的意図を、生類憐みの志を軸として全人民を幕府の庇護・管理下に置こうとするものととらえる新見解が出されている。

 参考文献 塚本学『生類をめぐる政治』(『平凡社選書』八〇)、林基『享保と寛政』(『国民の歴史』一六)、大舘右喜「生類憐懸政策の展開」(『所沢市史研究』三)、塚本学「犬をめぐる政治?一七世紀を中心に?」(『月刊百科』二〇五)、同「生類憐み政策と西震(信州大学人文学部『人文料学論集』一四)、同「幕藩関係からみた生類憐み政策」(『徳川林政史研究所研究紀要』昭和五十四年度)(松尾美恵子)


盛岡藩の家老日録である『雑書』によれば、幕府からの令は領内に知らしめていたことは知られる。羽根を痛めた鳥を見付けた者には褒美を与える杯、生類をいたわる思想は伝わっているが、さりとて、藩主の狩は従前通り行われていたし、幕府は停止した鳥見等は存続する。津軽領では熊を殺した罪により流罪となった例なども知られているが、(『御仕置裁許帳』)対して、盛岡領にでも熊を射止めた記録はあっても処罰された例は知らない。慎み、或いは遠慮を申し渡された事例は数例確認されるものの、総じて発令以前と急激な変化は感じられない。

1 犬を殺した事件


1─1─1 元禄十二年七月廿四日
一、去廿三日一条良五郎八幡丁罷通候処ニ、八幡丁六之尉飼置候八才之ふち犬吠かかり候由、刀を抜はらい候得ハ、犬之ふへ(喉笛のこと)へ切込、無間も犬死申候由、此段御町奉行上田八十右衛門へ申聞候故、為見分、御徒目付猿橋四郎兵衛同夜六過ニ遣、八幡丁検断肝煎并町同心小頭両人立合、犬手所相改させ、犬之死骸白木綿へ包、新箱へ入、塩詰ニ致、川原町千日之寺内へ為埋置候様ニと申渡之

1─1─2 
一、翌廿四日一条勘五郎、上田八十右衛門宅へ呼、御目付鴨沢十兵衛ヲ以、其方子良五郎御預被成候、何方へも出不申様仕可差置旨申渡ス

1─1─3 九月廿一日
一、一条助五郎子良五郎、先頃於八幡丁役者六之丞犬を切殺候付、親助五郎ニ預置候処、右之節長五郎気色悪敷罷有、右之儀仕候由光源院様被為聞、即相免候様ニと御詫被遊候付、上田八十右衛門宅へ勘五郎呼寄、向後ケ様之儀不仕様慎可申由申渡、相免候様ニと八十右衛門ニ申付也 『雑書』
      『参考諸家系図』には事件の片鱗さえ見せていない

 次の事例は藩士橋本左兵衛に降りかかった騒動である。

 同家は幕府の旗本・橋本家の分家である。本家であり伯父である橋本権之助が、犬を殺した罪により切腹を申し渡された事件であっただけに、盛岡藩士である橋本左兵衛は進退伺いを提出たものの、幕府からの回答は「陪臣徒者には御構いなし」と云うものである。結局数日間の遠慮で終わったという事件である。

1─2─1
一、橋本権之助殿犬殺被申候、因て御仕置被仰付候に付、橋本左兵衛義、阿部豊後守様へ御留守居斎藤新介を以御内意御伺被成候所、書付を以御用番様へ相伺候様にと就御差図左之通南部信濃守家来橋本左兵衛今度御仕置被仰付候橋本権之助、父方之伯父にて御座候、在所に罷有候、如何様に可申付候哉奉伺候以上
右御書付、御用番土屋相模守様へ新介持参相伺候所、陪臣徒者には御構無之候、乍然御一分之御慎に候間 並御聞合被仰付候様にと被仰聞、其趣御在所へ相違、御直衆御遠慮迄、左兵衛逼塞被仰付置也 『内史略』前廿

1─2─2
元禄十五年十月十日江戸にて公義御馬医橋本権之助飼置候あひる、犬くわへ候に付打申候処、隣家へ逃込犬死す此咎に依て権之助揚屋へ入、夫より牢屋にて切腹被仰付、此方御家士橋本左兵衛(左兵衛為には父方の伯父)間柄に付、御伺の上遠慮被仰付、公義御片付相済候処にて御免有 『内史略』后三


1─2─3
元禄十五年十月十八日
一、橋本左兵衛、先達て江戸御供被 仰付置候之処、於江戸橋本権之介殿赤坂屋鋪御飼置候あひる、何方よりか犬参喰申候付て鳶口にて御うち疵付、近所之屋敷へ参死候由付て、権之介殿従御手前被仰出御僉議之内あかり屋へ被遣候之由、犬主は不相知旨、従江戸申来候付、御供不被 召連候、急度遠慮不及候之間、唯今之通相勤候之様ニと被 仰出 「雑書」

1─2─4
元禄十五年十月二十三日
一、先達て従江戸申来候橋本権之介殿犬御殺候付て、御僉議之内あかり屋へ御入置被成候之処、去ル十三日於籠屋切腹被 仰付候之由、諏訪部文九郎様より滝六右衛門所迄十月十四日之朝為御知申来、忌相掛候分御直参之御方或閉門、或遠慮披 仰付候、橋本左兵衛、権之介殿伯父ニて有之候付て、戸田能登守様御家来戸田久右衛門儀も伯父候故、能登守様方承合候之処、御手寄之御老中様御窺被成之由付、従此方も豊後守様へ御内意相窺候之処、御用番土屋相模守様へ書付仕相伺候様にと、豊後守様御用人より御案詞出、同晩相模守様へ相窺候処、倍(陪)臣之儀候得は従 公義(儀)御構は無之候得共、家中並も可有之候、並次第可申付之由ニ付、能登守様御留守居迄久右衛門儀如何様被 仰付候裁と相尋申候之処、遠慮可被 仰付由ニて候之条、左兵衛儀も遠慮申付可然候、御免之儀は追て御直参之御方御免之節、左兵衛儀も御免可被 仰付之旨、十月十五日付四戸権蔵御留守居共より申来候付、昨夜石亀弥左衛門九兵衛宅へ招之、右之趣申付、松田与左衛門所へ左兵衛召<寄申渡候之様ニと申付候之処、左兵衛依病気、与左衛門・弥左衛門同道左兵衛宅へ罷越、遠慮被 仰付之旨申渡
一、橋本左兵衛儀、御用番土屋相模守様相窺候書付之写
     窺候書付
                      南部信濃守家来
                          橋本左兵衛
 今度御仕置被 仰付候橋本権之介父方之伯父にて御座候、在所罷有候、如何様可申付候哉奉窺候、己上
   十月十四日
 右之通以御書付相窺候之由、四戸権蔵より申来 「雑書」

1─2─5
元禄十五年十月二十三日
一、去ル十五日御用番土屋相模守様より御留守居被為呼、斎藤新介伺公仕候之処、生類御憐之御書付御渡被成候写
  諸人仁愛之心有之様ニと常々被 思食候故、生類あハれミの儀度々被仰出候之処、今度橋本権之介犬を損さし不届被 思食候、依之死罪被 仰付候、弥人々仁愛之心に罷成候様に、大身・小身共に相守、末々迄急度可申含者也
    午十月日 「雑書」

1─2─6 橋本氏家系
 某                             橋本太郎左衛門─┐
   本国出羽の人也、将軍家光公の時御家人に召出され、三百俵を賜ふて御馬医を │
   勤む                                  │ 
┌──────────────────────────────────────┘
├正武 権兵衛                            権之助
│   将軍綱吉公の時部屋住料を別二百五十俵を賜ふて父と倶に御馬医を勤む、家督 の後
│   病に依て退役、小普請組となる 一本云、元禄中綱吉公の時生類殺害を 厳しく御制
│   禁なり、正武吹矢にて燕を射くる事露顕に及ひ、此罪に依て切腹の上禄収らる
├某   橋本権太郎
│   将軍家宣公の時、更に御家人に召出され、旧地三百俵を賜ふ
└正忠 或正安 始大河原藤兵衛 橋本左兵衛
   重信公元禄二年父正武願に依て、江戸に於て召抱られ、同七月先五人扶持を賜ふ、同
   十二月之を停て更に現米二百石を賜ふ、同四年現米の内百石を和賀郡滑田村の地方に
   換賜ふ、同十二月三日付小高帳あり、行信公同八年八月滑田村公弟三田侯主計勝信君
   御分地御用に依て、之を稗貫郡円満寺村に換賜ふ、同十五年三月御目付となる
   信恩公の時御吟味御元締を勤む、宝永元年十一月十五日死、東顕寺

    一本云、正忠は太郎左衛門二男にて、始大河原氏を称して戸田山城守に仕ふと、                          『参考諸家系図』七十六巻

1─2─4  幕臣・橋本系図
 正言                            橋本太郎左衛門─┐  
   豊臣秀次につかへ、のち処士となる。其後めされて大猷院殿につかへたてまつ │
   り、馬医となり、度米百五十億をたまふ。寛永二十年十二月十八日五十俵を加 │
   へられ、万治元年閏十二月二十五日百俵々加増あり、都て三百俵の禄となる。 │
   寛文八年五月十五日死す                         │
┌──────────────────────────────────────┘
└正武                            権之助    ─┐
   はじめて大猷院殿に拝謁す、寛文八年七月十日遺跡を継、元禄四年十月七日死 │
   す。                                  │
┌──────────────────────────────────────┘
├矩実                            太郎左衛門  ─┐
│  致仕号友水 母は八左衛門某か女                     │
│  寛文八年十二月二十五日馬欝となり、この日はじめて厳有院殿にまみえたてま │
│  つり、元禄五年七月二十二日遺跡を継、十四年十月二十三日致仕す。十五年男 │
│  樺之助某罪かうぷるのとき処士となり、宝永六年八月二十日めされて月倖十口 │
│  をたまひ、小普請となる。正徳三年七月八日死す。年六十五。        │
├某 久右衛門 戸田能登守家臣戸田久左衞門某か養子              │
├某 左兵衞  南部信濃守家臣橋本藤兵衛某が養子               │
└女子 美濃部小左衛門某か妻。                        │
┌──────────────────────────────────────┘
└某 藤五郎                         権之肋    ─┐
    実は某氏の男、矩実が養子となる                    │
   元禄六年十一月十五日はじめて常憲院殿に拝謁し、十四年十月二十三日家を継 │
   十一月四日馬医となる、十五年十月三日、生類を愍むべきむねしばしば仰出さ │
   るのところ、其禁を犯し、しかのみならす、言上すること御旨にかなはざるに │
   より死をた皇ふ。                            │
┌──────────────────────────────────────┘
└実澄  富之丞 太左衛門                  太郎左衛門
   以下割愛 『寛政重修諸家譜』巻第1397

2 「生類憐れみの令」に関する法令等


2─1─1 貞享四年三月七日
 去月廿六日、従阿部豊後守様被仰渡御書付之写 
一、献上物御領分より参上付候鳥類一年に一度程、数少く可差上候、其節仲間へも一通は可
 被遣候、献上無之時は無用に候事
一、活魚之類、貝類献上無用之事、附、仲間へも無用に候、以上
   卯二月廿六日
豊後守様御用人池村八郎兵衛口上に申渡候は、献上に鯛・鱸迄之様見及候、御老中方へも其通之様承及候仲間へも御付届迄之儀に御座候間、もうを(藻魚)はたしろ(鮨白)・ひらめ・あま鯛等之かろき肴にても可被遣候
右之通被仰渡之旨、二月廿七日付七左衛門より申来 『雑書』

2─1─2 貞享四年四月二十六日
     覚
一、生鳥之類飼置候儀、可為無用候、但し驚、あひる之類、其の外唐鳥之類、野山に住ざる鳥は、放候而も飼にかつえ可申候間、先其の分にて差置可申候、玉子うみ候はば能飼そだて、連々所望之方へ可遣事
 一、鶏〆殺し、売買
 一切可為無用事
 一、亀飼置候儀
 一切無用之事
 一、いけすの魚飼置売買無用事
右之趣堅可相守、於令違背者、可為曲事者也 『徳川十五代史』

2─1─3 貞享四年四月二十二日
  去十日戸田山城守様於御宅被仰渡御書付写
     覚
一、捨子有之候ハゝ、早速不及届、其所のものいたわり置、直に養候欺、又ハ望之者有之候ハゝ可遣候、急度不及付届事
一、鳥類・畜類人之疵付候様成儀は、只今迄之通可相届候、其外ともくひ又はをのれと痛煩候計にテハ不及届、随分致養育主有之候ハゝ返可申事
一、無主犬、頃日は食物給させ不申候様ニ相聞候、畢竟食物給させ候へハ、其人之犬のやうニ罷成、以後六か敷事と存、いたはり不申候と相聞不屈候、向後左様ニ無之様ニ可相心得事
一、飼置候犬死候得ハ、支配方へ届候様ニ相聞候、於無別条は向後ケ様之届無用之事
一、犬計に不限、惣て生類人々慈悲之心を元といたし、あはれみ(憐れみ)候儀肝要之事以上    卯ノ四月日   『雑書』
   『徳川十五代史』には「四月十一日令す」と見える

2─1─4 貞享四年四月二十二日
一、於江戸従 公儀被 仰渡之書付之写
 生類憐之儀被 仰出候得共、悪敷心得互に生類取やり仕候義(儀)も不自由成様仕候、惣<て息災成犬来候得ハ食物もたへ(食)させ、煩候犬杯来候得ハ聊爾ニ食物杯もたへ(食)
 させ不申様ニ仕候、此段何も心得違ニて候、上より被仰出候ハ、人々仁心も出来候様ニと被 思召て之儀候所ニ、うわへ計守候様ニ志うすき仕形ニて不屈候、たまたま生類憐候様成ものも有之候得ハ、却て出来し立仕、末々町所々屋つかい(厄介)を可致杯と申輩も有之様ニ相聞は候、度々申渡候趣を相守、人々心より慈悲之志のおこり候様可仕候 右之趣急度可相守之、若相背輩於有之ハ町所々は可訴、隠密仕置脇より於相知は、名主・月行事<可為不屈之由被 仰渡候  『雑書』

2─1─5 貞享四年十月二十五日
     覚
生類あはれ(憐)みの儀ニ付、最前以書付被仰出候処、今度武州寺尾村、同国代場村之者、病馬捨之不屈之至ニ候、死罪にも可被仰付候へ共、此度は先命御助流罪被仰付候、向後於相背は急度曲事可被仰付候、御領は御代官、私領ハ地頭より前方被仰出候趣、弥堅相守候様ニ、念入可申付者也 『雑書』

2─1─6 元禄二年七月十一日

於江戸六月廿九日大久保加賀守様御留主居被為呼、関新平参上候所ニ猪・鹿・狼耕作等にあたり、あれ候時計鉄炮打候様ニ御書付御渡候由、今日江戸より御飛脚ニて申来、右御書付之写
     覚
一、兼て被仰出候通、生類あはれみの志、弥専要に可仕候、今度被仰出候意趣ハ猪・鹿あれ、田畑を損さし、狼ハ人馬犬等をも損さし候故、あれ候時計鉄炮にてうたせ候様に被仰出候、然所ニ万一取たかひ生類あはれみの志をわすれ、むさと打候もの有之候ハゝ、急度曲事に可申付候事
一、御領・私領にて猪・鹿あれ、田畑を損さし、或狼あれ人馬犬等損さし候節は、前々之通随分追ちらし それにても止不申候ハゝ、御領ニては御代官・手代・役人、私領にてハ地頭より役人等申付、小給所にてハ其頭々へ相断、役人を申付、右之もの共に急度誓詞為致、猪・塵あれ候時計日切を定、鉄炮ニて為討、其わけ帳面ニ注置之、其支配々々へ急度
 可申達候、猪・鹿・狼あれ不申候節まきらハしく殺生不仕様ニ堅可申付候、若相背もの有之ハ早速申出候様ニ、其所之百姓等ニ申付、みたりかましき俵候ハゝ、訴人に罷出候様ニ末々可申付置候、自然隠置、脇より相知候ハゝ、当人ハ不及申、其所之御代官・地頭可致(為)越事<右之通堅相守可申者也  『雑書』 

2─1─7 元禄二年九月廿八日

  当六月従公儀生類あはれみ之儀、御書出御渡被成候 依之今度大御目付衆にて被仰渡候書付之写
     覚
一、猪・鹿・狼、田地を荒し、人民及迷惑候様子にて候はゝ、随分外の物にて威し、夫にも恐れ不申様子に候はゝ、玉なし鉄砲にて威し可申事<
一、右之通威し鉄砲にて討候ても恐れ不申、田畑を荒し詮方尽申候はゝ、或は二十日或は三十日と欺日切を立、日付を差出し、其役々に懸りの者に急度誓紙を致させ、玉込にて為討可申事、但初度は相伺不申候ても不苦候、乍去注進致候間有之候も、左のみ田畑之構にも不成程之義に候はゝ注進候て御差図請為討可申事
一、猪・鹿・狼鉄砲にて打候て、荒止申候はゝ日切之内に候共其儘鉄砲差止可申候、二三疋、四五疋打候ても荒止み不申候はゝ、日切之内は何疋にても荒止候迄為討可申事
一、日切立申候はゝ、鉄砲先差上可申候、二十日迄之内鉄砲為打候はゝ、荒止不申義有之間 敷候、自然荒<止不申候はゝ二十日過にて了簡の上、又幾日と日切致し、右之役々の者又改誓紙為致可申候、右の様子具に書付差越可申事
一、右之通日切致し為打候時、或は一二疋打留荒止候はゝ其段此方へ致注進、其跡にて又々荒候時は其趣致注進御差図次第為打可申事、乍去此方へ注進致候内、田畠悉く荒し候様に候はゝ了簡の上又日限りを定、右之通為打可申事
一、此方へ注進可致猶予有之程之事は兎角注進候て御差図可請候、追々致日切のへ付罷成にては自然法外之義可有之哉に候間、此段可有了簡事
一、尤荒候猪・鹿・狼等を打荒不申は、打申さぬ様に覚悟可仕事
一、打申者は、此方之者にても百姓にても構無之候、兎角猥に無之様に可仕事
一、打候獣は、最前に被仰出候通其所に埋置、早速此方へ注進仕、差置可請差図事
此度大目付衆にて被仰渡候旨趣は、生類御憐怒之事に候へ共、猪・鹿・狼等田畑を荒し、或は山奥里離れ一ツ家杯にては、人をも損さし候様子にては、夫には被替さる義と委細なる御心付にて、最前以御書付被仰聞候、然る所に生類憐みの儀を心得違、田畠を損さし人民迷惑に及候へ共、致堪忍兎角為打不申か、能と計相心得候か、亦今至り注進の方漸々四五ケ所ならては無之候、左候へは細々被仰出候御憐愍芝甲斐無之候、尤無用之義に獣殺候事御制禁之事候之間、此度之被仰出又々悪く心得、猥に不成様に可申付との事<に候   『雑書』

2─1─8 元禄五年三月十六日
 御鷹共不残逃し、御鷹匠は只今迄之通御鷹据候間に御番申付、御犬飼三四人も附置御掃除為仕、御餌指は何方成共辻番申付置可申由、御鷹部屋に差置候御犬飼之外は、御小者並に使可申由
一、御鳥見の者如例野廻仕、徒もの有之候哉気を付、尤、御百姓痛不成様急度可申渡之旨御
 意候由申来、今日御鷹共逃し、御鷹匠御鷹部屋御番申付  『御家被仰出』

2─1─9 元禄六年九月二十四日   献上の鳥・献上不用の鳥
一、去十一日、土屋相模守様御用人衆より、此方御留守居へ御用候間、壱人参上可仕候由申参、早速滝六右衛門伺候仕候処、御用人礒屋太左衛門を以被仰渡候ハ、当年鳥御献上候内、初鶴・初菱喰御献上被成 其外諸鳥被献上候儀御無用可被成由、被仰渡候由、去ル十三日付にて沢田一郎左衛門より申来ル 『雑書』

2─1─10 元禄八年十月二十三日
     覚
一、捨子之事前々より御触有之候得共、今以粗致捨子候様相聞候、向後弥捨子不仕候様、堅可被申渡事
一、跡々より相触候得共、度々捨犬有之不屈ニ候、下屋鋪、又は野屋敷、其外末々に至迄捨犬不仕、念入候様ニ可被申渡事
  附、捨子・捨犬之儀、養育難成ニ付、捨候者も可有之哉、左様之分に候は其支配々々へ申出へし、はこくみ難成におゐてハ其むきむきより養育可申付事
一、生類あわれミの事兼て被仰出候、弥以すゑすゑに至迄念を入、麁末に無之様可被申渡事、以上
    十月七日 『雑書』

2─1─11 元禄八年十二月十一日
     覚       
一、当年飢饉ニ付諸民飯料無之ニ付、犬之儀弥はみも有之間鋪候間、兼て被 仰付候之通、随分いたハり養育可仕候、無油断様ニと被 思召被 仰出候、以上
    十二月十一日
右之通被 仰付、御家中御代官中へ申遣之 『雑書』

2─1─12 元禄九年八月七日
     覚
一、知行取飼置候犬、知行へ遣し度候は、無遠慮差遣入念養育可申付事
一、居屋鋪ニ飼置候犬、下屋鋪等へ遣度者ハゞ是又勝手次第遣之入念可申付事
一、小給人之面々飼置候犬、御犬小屋へ遣度存候ものは、支配方へ相伺可任指図事以上
    子七月
右書付奥瀬内記より来ル 『雑書』
            2─2─3 を参照<

2─1─13 元禄九丙子年十月九日
   前田安芸守様より御留守居被為呼 柴田藤左衛門罷越候之所御渡被成候御書付
     覚
一、只今迄鳶・雁、所々にてうつさせ候へ共、差て減不申候間、面々屋敷にても申付 手前
 にうつさせ候て籠へ入、山本藤右衛門・佐原十左衛門方へ遣可申候 尤鳥の痛み不申候様に念入可申候 余付にて鳥類杯用申間敷候
一、惣て鳶 雁、屋敷之内に 弥巣をかけ不申様にはらはせ可被申事
一、鳶・雁ぅつし候て、外の鳥類へ障不申様に随分入念可申事
    十月 日 『内史略』前廿

2─1─14 元禄十年七月十七日
   御大目付神尾備前守様より御留守居被為呼、御渡被成御書付之覚
     覚
一、逆罪之者仕置事
一、致付火候者仕置事
一、生類に疵付或損さし候者仕置事
右之科人有之は遂僉議、一領一家中迄にて外へ障於無之ハ、向後不及窺、江戸之御仕置ニ准し、自分仕置可被申付候、但他所へ入組候ハゝ月番老中まて可被相伺候、遠嶋に可申付科ハ領内に嶋無之おゐてハ永牢或親類縁者等へ急度可被預置候、旦亦生類あはれミの儀、兼々被仰付候之通、弥堅相守入念可被申付者也
    丑ノ六月 『雑書』

2─1─15 宝永六年己丑正月十日 生類燐みの禁を除く
 常憲公(徳川綱吉)薨ず。世子代り立つ、生類燐みの禁を除く。此の日、卯の刻、前代の疾ひ急劇なる由、西丸に告来り、世子急ぎ本丸に馳至られしに、既に薨じて及ばず、松平吉保を牀前にめして、密談数刻に及ぶ。時に世子、吉保に、生類憐みのことは、深き遣命の旨ありと雖、之が為に人民罪を得る者至て多く、もし此の禁にして速に除かれざらんには、海内の御苦免がるべからず。縦令遣託の命に反くとも、此の禁除かざるべからずとありしに、吉保も異議申すべきに非れば、即ち牀下に進んで、其の旨を先霊に告げられ、吉保をして、此の禁除くべきことを老臣始め、諸役人に伝へしむ。時に松平輝貞、松平忠周等、前代の寵信を蒙りし輩は、唯いかがせんと愁傷するのみ。吉保、此等諸臣に向ひ、遺命の旨をば悉く世子に告げ了りぬ。其の他の事は、我々が心の及
ぶ所にあらずとて、倶共に退き出ぬ。世子は、やがて西丸に還られたり。 『徳川十五代史』常憲公記

2─1─16 徳川実紀に見る   2─1─13との同意文
(儲嗣家宣、綱吉の)御枕もとに松平美濃守吉保をめされ、御密語数刻にをよべり。この時吉保に仰けるは。(綱吉は)さきに好生の御志あつく。年頃生類いたはるべき事厳令あり。このころ御病中にも。吾と老臣等とを共にめし。我生類をあはれむ事。たとひひが事にもせよ。これのみは百歳の後とても。我世の如くなし置れんこそ。孝とは思ふべけれと宣ひつるが。然し近年ややもすれば。この禁を犯し。罪蒙るもの何十万人といふ数をしらす。いまだ罪案決せず。獄中に死せるものも少からず。かほどまで御遺命ありけれど。この禁除かざるにをゐては。海内の愁苦免かるべからずとありしかば。吉保も。宣ふ御旨誠に御至孝とこそ存奉れと申す。さらば此事奉るともがらにも傳へよと宣ひて。御みづからは霊幄にむかはせ給ひ。さばかり御遺命有し事ながら。万民の患にかへがたきをもて。この禁をば除き侍りぬと宣ひて退き給ひぬ。吉保は御前を下り。仰の趣を老臣等に傳ふ。松平右京大夫駅員。松平伊賀守忠周はじめ.今まで寵眷蒙りし輩吉保にむかひ。この後の事いかゞ侍るべきと申けるに。吉保。御遺命の旨はのこさず 儲嗣に聞え上たり。此後の事は。とにもかくにも我々が知る処にあらずと申ければ。をのをの低首して一言をいふものなし。 『徳川実紀』常憲院殿御実紀巻一

2─2─1 鷹野・鳥打ちなど  元禄二年の例
 正月九日   殿様午の刻雁討、向中野へ御出被遊
 正月十九日  若殿様巳の上刻御鳥討、三本木方へ御出被遊<
 正月二十三日 殿様巳の刻安庭方御出被遊
 正月二十五日 殿様巳の上刻川又方へ御出被遊、酉の刻御帰
 正月二十八日 若殿様辰下刻栗谷川辺へ御出
 二月朔日   若殿様辰の下刻向中野方へ御出被遊
 二月三日   若殿様巳の下刻栗谷川方へ御出被遊、申の下刻御帰
     (中略)
 八月九日   殿様・式部様・善之助様御同道、栗谷川方へ御鷹のへ巳の刻御出、申の刻御帰
 八月十三日  殿様・右近様御同道、栗谷川方御鷹野へ巳の下刻御出、申の中刻御帰
    以下割愛す   以上『雑書』
        鳥討など
元禄二年八月十三日
        五戸御鳥討 工藤甚平
        花巻御鳥討 澤田長左衛門
右之通、今日申付之、但、御鳥討は鴨沢善右衛門・赤澤儀兵衛病気故右両人申付
 八月十九日  花巻於二枚橋、真鶴一、澤田長左衛門討上、花巻御役人より足軽壱人付指上之
 八月二十二日 真鶴一、於郡山中野十内討上、今日為御上被成
     以下割愛す   以上『雑書』

2─2─3 江戸藩邸の犬を領内へ移す
元禄二年十月十九日
 江戸より去六日相立御下候犬二十八疋之内、三疋道中にて落候、其所に埋候儀不罷成候由に付、塩詰にして鬼柳迄持参埋置候由、其外は今日着  『雑書』
元禄二年十一月九日
 江戸御上屋敷有之犬拾弐、四寵ニ入、去七日之夜下着、御用状ニ申来候趣、御大名様方江戸御屋敷ニ有之犬、御後見御老中様へ御窺御在所へ被遣御方も御座候由、若殿様被為聞、阿部豊後守様御家来へ内証為御尋被成候得ハ何も御窺、御在所へ被遣御方有之由相見得候付、去月十九日豊後守様御用人迄柴田長左衛門被遣、此方両御屋敷犬共多、友喰けがなと仕候得はいかゝニ存候間、在所へ被遣不苦候は段々御下痛(労)り被指置度由被仰遣候処、御用人桜井権兵衛早速豊後守様へ申上候得ハ為御返答被仰越候ハ、御屋敷犬多有之、若損候てもいかゝニ候間、御在所へ被遣度之旨御尤ニ存候、左候は連々目ニ立不申様ニ御下可被成由、長左衛門ニ被仰含候、依之今度御下被成候間、参着次第在々御百性共ニ御預、痛(労)り差置候様ニ可仕之旨、若殿様御意之旨十月廿二日付甚左衛門より申来
 右之犬預候所々
  一、三疋 鵜飼へ
  一、六疋 栗谷川へ   『雑書』

             2─1─10 参照

2─2─4 狼鉄炮討  2─1─5に対応した処置 但、2─2─5に見える手続きの記録は見えない

元禄二年九月六日
 盛岡御代官所鉄炮討被遣候、玉なしおどし候て聞(利き)不申候付討殺、其所埋申候
  一、狼一疋          桂 源五左衛門組 田鎖久兵衛
       八月十一日門村川前にて討申、其所に埋置き候由
  一、同一疋          同人組      金田一甚十郎
       八月十三日連取山にて討、右同断
  一、小男鹿一疋                 同人
       八月二十一日庄ヶ畑にて討、右同断
  一、狼一疋          同人組      神 覚兵衛
       八月四日士龍なしきにて討、右同断
  一、同一疋                   同人
       八月十八日薇峠にて討、右同断<
  一、同一疋                   同人
       九月朔日竹口にて討、右同断
  一、一切討不申者  三人氏名割愛
 右之通御役人野村嘉左衛門・簗田平左衛門申上候、右之者銘々てかたは野村嘉左衛門・簗田平左衛門預置                         『雑書』

2─2─5  元禄二年十一月十七日
  猪・鹿・狼多田畑荒候付、先達御伺候て為御打被成討留候分於江戸御証文御調、去ル十一日柴田長左衛門以御上被成候写
   
      覚
    猪・鹿・狼拾五疋、奥州南部私領内ニて打留申候
     内  猪二疋、同所岩手郡米内村ニて打留申候
        鹿五疋         目付
        狼壱疋           谷地孫二郎
     内  猪弐疋、同所同郡川目村ニて打留申候
        鹿三疋         目付
        狼弐疋           太田源蔵
 右私領内村々猪・鹿・狼、荒田畑人馬犬等をも損さし候付、二十日之日切を究、先達て御断申達候て、右日切、従十月十一日同晦日迄為討申候所、猪・鹿・狼右之通打留申候、尤家来ニ為致誓詞、目付ニ付置為討申候、則討留申猪・鹿・狼拾五疋、其所埋置申候、以上
    元禄弐年十一月二日        南部大膳大夫
     高木伊勢守殿               御居判
     藤堂伊予守殿                     『雑書』

2─2─5-2  元禄二年十二月朔日
 旧冬十一月廿五日より、同十二月廿五日迄、日切ニ鹿・猪・狼討留候書付、江戸へ今日為御登候留
      覚
       鹿三疋 岩手郡川目村ニて討留申候
       猪壱疋         目付 目時武左衛門

       狼壱疋 同郡大ケ生村ニて討留申候
       猪三疋          目付 釜沢八郎左衛門
       鹿弐疋 同郡滝沢村ニて討留申候
       鹿弐疋         目付 太田源蔵
       狼壱疋

       鹿四疋、三戸郡浅水村ニて討留申候
       猪壱疋         目付 浜(谷ヵ)地孫次郎<
    合拾八疋内 鹿 拾壱疋
          猪 五疋
          狼 二匹
     正月十一日 

    一、木綿弐端
      中綿三百目
      鳥目百疋         猿橋野右衛門
 右は小友より罷帰候付被下之                  『雑書』

2─2─6  元禄二年十二月朔日
    猪・鹿・狼、追て為討被成度由、高木伊勢守様へ御窺被成御口上書之写
私領内猪・鹿・狼、荒田畑人馬犬等をも損さし候付て、先達廿日之日切を仕相窺、鉄炮ニて為討申候、未止申荒申候間、重て当月廿五日より極月廿五日迄日数三十日為討申度存候、随分追散申候へ共、止不申候付て右之通申上候、以上
    十一月二日          南部大膳大夫
     高木伊勢守様
     藤堂伊予守様
         御返答

 御領内猪・鹿・狼多田畑人馬等損申付て、先達被仰聞候通、日切鉄炮ニて為御討候得共、未荒止不申付て、重て又猪・鹿・狼為御討被成度、日切之儀、御口上書之通委細致承知候、左候ハゝ右日切之通為御討可被成之由右之通御窺被成候間、如先達之討候、猪・鹿・狼其所に埋置、日切相済候以後、討候生類之員数、目付ニ被遣者之名書付、為差登可申由、甚左衛門より申来 『雑書』

2─2─7 猪・鹿におどし鉄炮為御討被下度
元禄五年七月廿六日 上田通御代官所之内
 一、川目村・宇津野村  御持筒 永岡助右衛門・滝橋渡右衛門
 一、戸中村・増沢村・おそ沢村 御持筒 乙部半六・笹間覚五右衛門
右五ヶ所、猪・鹿 殊之外多在之、作毛荒候付おどし鉄炮為御討被下度と百姓共依願、御持筒四人并為目付、御歩鵜飼庄左衛門・佐藤市兵衛・長内三右衛門・松原嘉兵衛申付遣之、為討候処荒止候付、八月廿五日右之者共戻ル 『雑書』

2─2─8 元禄五年十月六日 狼討ち取りを命ずる
一、田名部御代官所之内、大間野・奥部野両所狼荒候付、鉄炮にて為御討被下度と願上、此段江戸へ申上被仰下内、奥部野村七郎・五郎、用心錆所持候付、此者におとし錆為討候様にと、筒薬三拾目相渡、御代官高橋四郎左衛門へ御目付矢幅八右衛門を以申渡之  『雑書』               

   ※ 狼討留の記録は多く散見するが割愛する

2─2─10 元禄四年閏八月八日
一、手負雁一羽、小向四郎右衛門組同心甚之丞見付候ニ付、為御褒美代物弐百文被下之                                『雑書』
 

追加
   宝永五年十一月五日 
於江戸、大御目付様方より御留守居被為呼、被 仰出御書付御渡被成写
一、兼て被 仰出候通、惣て生類あわれミ之儀専一に心懸、煩候節は猶以入念養育可致事
一、乗馬・牽馬途中ニて煩出、又はけかなといたし候時は、無遠慮其所之屋敷へ牽入可致養
  育、町屋等にて難牽入所にては、其所之者に申達入念可致養育事
一、道中にて次馬并雇馬煩出、又はけかいたし候ハゝ、其宿之者へ口付之馬方申合、入念養
  育之仕方承届可罷通、宿にて無之所に候ハゝ、其辺之者に右之通申渡可罷通候、左様之
  節は其所之もの入念養育可仕事
 右之趣、御料・私領家来下々迄急度可被申付候、以上
 子ノ
   十月
 右之通被 仰出、此元 上々様方并高知之面々へは、御歩行之者申付相触之、御物頭、御家中諸士へは御目付中より相触、寺社方・御町へは両御町奉行より相触之、在々へば老中より御代官迄宿継を以申遣ス                    『雑書』
                             
『御仕置裁許帳』に見る他藩の例


一覧にもどる