新聞紙上に展開した楢山佐渡論 4 濤庵迂人の舊暦散人に対する反論

   

「再び楢山佐渡」を読む 舊暦散人に答ふ


                          濤庵迂人

   佐渡の幼児

 (承前 欠)
 南部藩は平和の会盟の翌日、兵を進めて庄内を攻めむとせり。これ去らんぬる十一日、我が藩に賜りたる錦旗に答へまつらむんがためなり。干戈を動かせる同盟は会津のみ対してといふは餘りに偏したるものならずや。同盟諸藩の我が動員を拒むは元より然る所なりと雖ども、之を拒む諸藩の意も亦疑はしきもの多し。彼等は互に変乱に乗じて其の権勢を鞏固にし、其の版図も拡大せしむと、人には互に打ちあけざるとも、各々其の腹に一物を抱けり。かる同盟いかで永く持続すべけんや。殊に笑ふべきは総督に書を(たてまつ)りて、奥羽諸藩の兵を解きて悉く帰らしめたるさへあるに、五月六日盛岡より更に銃兵四小隊、砲兵一隊を仙台に送りたるが如きは、交通機関の完備せず事情を知るに難かりし時とは云へ、迂も亦甚だしからずや。伊達藩老臣但木土佐、我が目付江ばた(土へんに者)五郎に謂ひて同盟のために兵を留めよといへるが如きは、平和を貴ぶ同盟の意果して何処にありしか、若し薩長土肥等の跋扈を挫くにありとせば、兵を解きたるには矛盾なり。ここに於いて江ばた五郎駐兵の不合理を唱へて之れを拒むも遂に敵せず、同盟諸藩の我が藩を疑ふを恐れて、理不尽にも銃兵四小隊、砲兵一小隊を駐めたるが如きは、定見なき業と云ふべし。多少は徳川将軍の恩顧に酬ひんとする意ありたらんも、とまれ、我が藩は諸藩に愚弄せられつつ、正直(?)に依々として彼等の頤使に甘んじたるなり。之れを結果に見よ。伊達藩頻りに我が藩に慫慂して、秋田と戦端を開かしめて、我れ大に戦ひつつある時、彼等は已に(すで)に帰順の意を表し而かも(しばらく)これを我に秘し、時後れて之れを報じ来れるに非ずや。斯くの如くアヤフヤなる同盟に早く見切りをつけて、同盟を脱したるたる諸藩は愚か。はた不義なりとて此の怪しげなる同盟に心中立てせる藩は賢明にして、確念あるものか。吾人は半白老人、舊暦散人並び読者の(ほしいまま)に之に判定するに任せむ。九条・醍醐両卿盛岡に下らるゝに際し、百方辞を尽して銃兵二小隊を帰らしめたるはよれど、何の無謀ぞ。何等の愚ぞ。佐渡大坂より海を航して七月十三日(?)仙台に到り、但木土佐等と面議、同盟の鞏固ならざるを憤り、固く佐竹藩を伐たん事を約して盛岡に帰りたるは七月十六日なりき。何んぞ知らんや。この日は我が藩君利剛公の天機を窺はむと欲し、九条・醍醐両卿に謁し、書を上りて異思なかりしは之れを以て知らるるのみにあらず。六月二十六日、京師に於いて三戸式部に下し賜はれる詔によりても明らかなり。

 即ち其の大意を記せんには、今や天下の侯伯、輦下に参集し、各々己の力を尽し以て鴻業を賛するの時に当り、遠路絶隔の地に至っては、其事情通ぜさるためか、姦臣其主を要し、主鼠両端其形疑ふべきの族少からざるに、其藩碓乎として、其方向を定め未だかつて逆類に党せず、(かみ)甚だ之れを(よ)みず云々と。二三藩の跋扈をのみ、憤りて大局を見るの明を失し、勤王の藩公をして方向を誤るに至らしめ奉るは果たして誰の罪ぞ。かくして古武士の模範か。武士道の本尊か。当時血気にはやる我が藩の若殿はら亦その罪は甘んじて負ふべからむも、彼等は殆ど佐渡を信じ、て佐渡に待ち、いよいよ決心したるもの。その責めの全部を負ひて佐渡の従容として死につけるは元より其の処たるべきか。佐渡一たび帰国して、折角藩君が奉公の志も水泡に帰し、総督府の酒井藩(出羽庄内藩)征伐の急速なる命を避けられず、津軽藩を通じての命も果されずして止みにき。

 舊暦散人が但木土佐と談判の結果、盛岡より相馬口に一小隊を進めたりといふは誤伝ならん。佐渡が未だ京にある頃、先に仙台に残れる兵、進んで岩沼駅に至り、伊達藩頻りに白川に赴れの、ヤレ平潟に進めのと促すも、固より戦に関すべきの約にあらざれば敢へて進まざるに、六月初めに至り頻りに促して已まず。八日遂に岩沼を発して十一日岩沼に到れるに、伊達・岩沼二藩、岩城道危急なるを以て再び頻りに進軍を促し、その強硬なる態度に屈してかの名もなき(いくさ)を中村に発し(七月三日)十一日熊川村に到れる事ありき。散人は佐渡の謀らいによりて盛岡より兵を発せるが如く説けるは、恐らくはこの事を指せるならむか。さらば佐渡とは殆ど関係なく、而かも此の銃兵二小隊、砲兵一小隊二十七日佐竹藩伐たむとの理由によりて兵を引ひて帰り、八月十二日盛岡着。直ちに沢内道の兵に加はる。ここにおいて乎、同盟のためには単兵に止めず、悉皆引き上げ、一方秋田伐入を始めたるに拘わらず、一方会盟の事は有名無実に終りたるなり。且つ散人が遠山礼蔵云々の説も是に於て頗る怪しけるものとなるなり。

   在京中の佐渡
 
 天下の趨勢を洞察するに足るべき絶好の機に上京せる佐渡は、其の滞在中果たして什麼の行動を取りしか。これ佐渡の人物を品しつ(品評のこと)するについてはやや重大なる事件にあらずや。佐渡の京師に上りたる元年三月八日にして帰国せるは七月十六日なり。即ちその間五ヶ月餘(四月閏なり)この間に前田氏と共に洛中の巡邏を命ぜられ(四月十三日)、北は二条通より、南は六角通に及び、東は鴨川より西は堀川に至るまでを警衛せる事もありき。閏四月二十九日に洛中の巡邏を命ぜられ、五月二日軍悉く盛岡に帰りたるに、尚ほ佐渡、三戸式部、佐々木直作等は京師にと滞まりて、刻々に遷り行く形勢の観察を怠らざりき。半白老人、佐渡が老西郷を訪問したるが如く説けども、吾人の聞く所に拠れば佐渡は一度も老西郷を訪問せざりしといふ。佐渡は多く老西郷等の卓識ある志士と交際せずして、却って老朽事に堪へざる公卿等と交りを結び、殆ど彼等の言にのみ拠りて、佐幕に決意せるものの如し。そもそも頑迷にして、旧き形式に嵌りたるものの、当時礼法作法を無視して磊々落々を極めたる志士に意気投合せず、肝胆相照らさざるは寧ろ当然にして、佐渡の老西郷等と交わりを結ばざるは真に近き説と謂ふべし。殊に佐渡の幕下には佐々木直作あり。佐渡学者として(かれ)を信じ、常に国事を相談せりき。佐々木直作は学或は秀でたらんも、要するに道学先生なり。渠が佐渡に(もたら)せる報告は常に事理に通ぜざる、時勢に疎き公卿輩の言なりき。公卿等其の道学的眼光より観察して志士彼何をかなさむ。大義名分を説くと雖ども、大言壮語一時の快を行るに過ぎざるのみ。或は勤王の説を唱ふるも何んぞ赤誠事をなすの伎倆を有せむや。と頗る舊暦散人の口吻に類せる言を以て児輩視して、其の真相を看破し能はざりき。直作二条城、関白殿公卿等の間に出入しては、この言を聞かされ、悉く信じて之を佐渡に告ぐれば、佐渡は亦之れを真に受く。かくして佐渡が佐幕の思想は固められたるなり。加之、佐渡奥羽の諸藩同盟せる事、又関東・北陸の諸侯往々異志あるを聞き、さらでだに佐幕に傾きた佐渡をして、益々其意を固からしめたり。

 当時木戸孝允、佐渡に書を送りて勧告して曰く。君が股肱の臣として信ずるものは、識高からず。志小にし義理に暗く、倶に大事をなすに足るべき器に非ざれば、速やかに斬って捨つるべし。今にして禍根を断つに非ざれば、君が一身の方向を誤るのみにあらず。引いては貴藩の方針を誤り、今日迄の赤誠の素志一朝にして水泡に帰するに至らん。その意なきといふ、ああ、されど遂に佐渡は決して此の勧告に聴く程の達識の士にあらざりしなり。当時国にありて利剛公、佐竹氏盟に背くと雖ども三卿の在る所なり。(いづく)んぞ兵をその地に出すを得んや。当に佐竹氏と共に酒井氏を伐つべしと主張せらるるに拘わらず、群臣等伊達氏は大にして佐竹氏は小に、且つ佐竹氏の境険隘にして敵来たり易からず。伊達氏は境一水を隔つるのみ。頼む所無きを以て伊達氏に組せよと主張するもの多く、国論紛々として日又一日定まるの時なければ、終に猶予して決する能はず、野田廉平を京師に派して佐渡の意見を問ふ。佐渡いよいよ佐幕に決し、ひそかに大坂より海を航して帰途につけるは六月八日なりき。随ふもの直作・廉平等なり。

 初め佐渡と共に勤王の素志を以て京師に上れる目時隆之進等は佐渡が初志を翻して、異議を抱くを見て、しばしば争へども頑として聴かず。隆之進等強ひて争ふべからざるを知り、藩公の異志なきを訴へんと欲し、六月四日、子貞次郎、北田貞治、島李渓等と藩邸を脱せり。佐渡尚ほへいぜんとして悟らず。唯道学先生直作をのみ信じたりき。中島源蔵の如きは帰国せんとして、佐渡の大坂に下れる跡を追って亦大坂に到り言を極め、赤誠を竭して諫むるを聞かず。源蔵、佐渡を動かす能はず。又国に帰りて国論を変ずるの力なきを知り、思へらく、生きて賊名を受くる。死して藩公の異志なきを明らかにするに如かず。庶幾(こひねがは)くば佐渡をして悟る所あらしあらむと、遂に書を遺し、大坂の逆旅に於て腹を割って死せり。佐渡の頑冥尚ほ悟る所あらざりき。源蔵の遺書に曰く。

奸吏失大義名分忠臣走・我無罪而得疑
故死以報国恩、奥羽必不成官軍必有利、
願両公改心、□ □以輔国君保全杜陵

                 紙上のまま。後日に補正を期す


書中両公とは云ふまでもなく楢山佐渡・佐々木直作両公を指す。此の書を見て平気なるは両公の外更に一公あり。即ち書生論としておどろかざる識者舊暦散人その人なり。
 幸か不幸か、風浪に揺られつつも、難破もせず、仙台に到り、大坂を発してより三十八日にして故国の気早なる若武者の歓呼の声に迎へられつつ盛岡に着きぬ。

   秋田戦記
 
 佐渡海を航して仙台のに来るとの報に接して方向に迷ひたり。我が藩上下は如に悦びたりけん。当時の実話を聞くに、佐渡新たに京師より帰れるを以て善く京師の情を解するものとなし、上下悉く佐渡が言に従ひ、異議あるものと雖ども空しく思ひを秘して緘黙せるといふ。かして総督府の命によりて雫石の境上に屯せる酒井氏討伐の軍は佐竹氏の不義を鳴らすの軍に豹変しぬ。時に四月十八日仙台藩我が藩に使を送り、佐竹藩と伐たざるを責めて、若し盟に背かば境に臨む所の兵を以て盛岡に伐ち入らしむと嚇かす。佐渡が同盟の鞏固ならざるを責めたる仙台より却ってこの恐喝の辞に接して諾々たるのみ。我が藩を蔑視し、面目を蹂躙したる仙台藩も面憎くけれど、踏みにじらるる我れも哀れのものたらむや。佐渡が但木土佐に対する切論も果たして如何の力ありしかを疑はざらむとして得ず。それはとまれ、南部藩は殆ど外圍の諸藩より圧迫を受け、一方よりは総督府の命をも否み兼ねて、逡巡決せざるとき、佐渡帰りて秋田伐ち入りに決したるなり。而しも猶アクテーブに出でず。バッジーブの態なりしかば愈々我が藩の意思の透徹せざりしを見るに足るべし。

 愈々秋田伐ち入りの軍を発したるは七月二十七日。佐渡及び向井蔵人を以て総師となし、まづ鹿角に入る。十二所舘の守茂木筑後に書を與へ、佐竹藩がかの怪し気ななる白石の盟に背きたる罪を責め、且つ他藩仙台の使者を殺戮せることまで(なじ)り、速やかに罪を謝せば兵を止めむも、謝罪使遅ければ各藩の盟約により、軍を進むべしといふ難題を持ちかく。筑後たるもの如何ともすべからず、明八月九日報して曰く。軍を弊境に進むるとの命、吾を之れ聞けり。罪を謝せよとの言に至り、ては吾の専にするを得ざる所なり。之れを寡君に告げて後に報ぜんと、断乎として信ずる所あるの言。筑後としては出来したりといふべし。是にて軍を進む。

 十二所道、総師楢山佐渡、卒五百五十人。葛原道、総師向井蔵人、卒六百餘人。別道、将石亀左司馬(番頭 卒二百餘人)。大葛道、将足沢内記(番頭 卒二百餘人)・高野恵吉(目付・卒二百餘人)なり。の勢、統べて二千餘人と号す。この日、遂に十二所を抜く。而して同時に老臣杤内與兵衛、銃兵六小隊を率ゐて津軽境野辺地駅に屯せしめたるは、近く本紙上に光彩を添ふる洋々散史の野辺地戦争記聞くに依りて明らかなる所なり。十一日佐渡進んで大瀧に至り、次いで長駆して扇田に入る。

 この後の戦争記を吾人の知るがままに録せば、随分と興味も深からむも、吾人は前にも云へる如く、唯半白老人並びに舊暦散人の誤りを正すに止め、且つ佐渡の人物に就きて論評を下するに足るべき材料を挙ぐれば足り、且つ記事の冗漫を避くるがために、此処にに多く説かず。兎も角初めの内は勢い猖獗にして、遂に三哲山の敗を挽回して漸く進み、深く入り、瞬く間に大館城を陥れ、火を放つてその市街を焼き、尚ほ勝に乗じて板沢・坊沢・今泉等を陥る様、恰も破竹の勢を以て無人の境を往く如くなりき。されば今泉を焚きたるは八月二十七日、南部軍が秋田伐入りも此処は勢力の絶頂点にして南部軍の足跡を印したるも此処は最後と思ぼし。これより後は殆ど戦ふ毎に利あらず。抜きたるは捨て、取りたるは(なげう)ち、大館すら保つべからざるに至り。退いて松山の入りたる頃は十二所・葛原の諸道断たれ、僅かに新沢の一道を残せるのみなりき。舊暦散人は南部家休戦の令を下して進撃を止めたる後、佐竹兵は得たりと生保内より境を越へ雫石迄押しよせ来りし様に言へど、恐らく誤伝ならん。何となれば、生保内の合戦は八月二十三日にして、佐渡は是より進んで今泉に至りたるなり。生保内を抜く能はずして帰りたるは同月二十八日にして、休戦命令を発したる以前二十日の事なり。舊暦散人の説杜撰も甚だしからずや。(因にいふ、半白老人の久保田といふは生保内の誤記ならむ)。

 佐渡の降伏したるは戦ひ利なきを以てにあらず。同盟瓦解したればなりと。瓦解せざればよし、百戦百敗を重ねども彼の曖昧なる同盟と心中し終り、剰へ朝廷の我が藩に下し給へる内命をも背かしむと欲したりしが、何んぞその無謀にして順逆を誤れるの甚だしき。散人また越王勾践の例を引き、城を枕に討死にする。不可なるを暁り、暫く恥を忍んで一時屈服せりなりといふ。舊暦散人は泰平の聖代に処して、再び秋田征伐に出掛け、会稽山雪恥の期あらむ事にても夢みつつありしや。さりとて物騒千万の事ならずや。散人の言利口は利口なりといへども、何を以て男らしく城を枕に討死の覚悟なりきといはず、他藩にて同盟に背きたれば我が藩のみ奮闘するは馬鹿気たれば、一脈屈服せるなりといはば、初めよりかかる危に近かづかざるの優れるに如かざりしなり。一旦意を決して事に当らば死すとも已まざるの概は何時にてもあらまほしき事なり。なりる当時わが藩の上下亦多く散人の如く、利不利より打算して事を起し、利なきに当りては素志を翻す事恰も弊履の如く、何等徹底せる信念なかりしは事々に徹して明らかなり。かくて其の結果の好美なるを欲するも豈得べけんや。散人又例を毛利島津に取り、早く屈服して善後策を講じたるを称し、又斃れて後已みたる勝元を笑ふと雖ども、其の南部藩とは大に趣を異にせり。我が藩にありては謝罪の結果は城を枕に討するよりも、矢尽き刀折れて空しく恨を斃れ呑んで斃れたるよりも面白からざるもの仕儀に至りたるにあらずや。散人のいふ如く果たして早く屈服して善後策を講じたりや。結果屈辱を買ひたるのみならずや。人一代名は末代。散人の所謂書生論として斥くる中に大に尊重すべきもの莫きにしもあらざるなり。吾人は唯我が同郷の青年に望む。戊辰の際、我が祖父が蒙りたる屈辱を牢記して忘るる勿れ。父祖が蒙りたる恥辱を雪ぐは吾人青年の責任なり。刻苦奮励以て事に当り、父祖の名を顕し、挫折せる羽が故山の名を人智の開けたる果てまで轟かさずして豈止むべけんや。

   佐渡の最後

 佐渡横手より帰国して直に禁固せられせられたるは十月九日、江はた[土者]五郎この時既に仙台より横手城に向って発足せむとせる時、命変りて其まま佐渡と共に幽囚の身となりぬ。天耶、命耶、時の佐渡に非なるを恨みつらむ諸道の官軍盛岡に入りこみ、翌十日早旦利恭公の彦太郎殿九条卿に謁し、久我殿(東北遊撃軍将軍)より目時隆之進父子、北田貞治、島李渓等を重く用ゐよとの書面を添へて送り届けられたり。城あらためなど騒々しき間に此の日も暮れて十四日には澤主水正盛岡城に入る。昨日まで世々君公住馴れ給ひし不来方城、今日あへなく仇し人に蹂躙せらる此の明渡しに立ち合はれたる太田錬八郎翁の実話に、官軍の傲慢、実に切歯に堪へざるものあり。男子と生れて何時の世なりとも断じて敗軍の将たるべからずと。翁が悲憤やるせなき面もち、後慨の色聴くものをして悚然たらしむ。佐渡が当時の感慨思ひやるだに涙なり。二十日澤主水正東京に帰るに当りて老臣等に命じて城に勤番せしめたるも老臣等十一月九日書を上り、今や利剛公父子謹慎せらるるを外所に見て勤番も忍び難し。されば臣等の勤番を免ぜられよ、亦共に謹慎せむと請ひて許され、城をば秋田藩に渡す。是非もなき事ながら、老臣等の心の中こそ哀れなれ。十一日監察使藤川能登城を検す。総督府よりは利剛父子を東京に召さるるに因り、宜しく三日以内に出発し、東京に上るべし、且つ各正義勤王の士十五名以上伴ふべからずとの厳命に接し、別に又佐渡・江はた五郎・佐々木直作を捕縛し、官命に渡すべしとの命ありき。十二日即ち佐渡・五郎・直作等捕縛せられて新庄藩に渡さる。翌日利剛父子、敵藩佐竹の兵に警固せられ、進まぬ旅に就かせらる。二旬ばかり経て利剛公父子は悄然として東京に入り、勝林山金地院てふ菩提所に侘しき日を送られ、この日(十一月二日)佐渡等三人亦新庄藩よりこの院に移さる。佐渡主君と共にこもりゐて昨日と異なる世の様に断腸の思に咽び、今更身の不明をかこちもしつらん乎。七日南部遠江守を以てこれまでの諸罪と、箱館事件まで絡めて問はれ、城地を収めらる。されば出格至仁の叡慮によりね家名を立てられ、更に十三万石を賜はり、且つ藩屏に列せらるも此の日なりき。此の優渥なる皇恩に君公は元より藩民上下感泣しぬ。別して佐渡の喜び如何ばかりなりけむ。

 越えて二年二月八日、目時隆之進東京を発し、国に帰る途中、黒沢尻に至りて逆旅に自刃して没す。隆之進自ら以為らく、人臣となりて其主の過ちを改めて其国の禍を救ふ能はず。不忠孰れか大ならむと。かくて悲惨の最後を遂げたるなりるああ隆之進の如きは蓋し古武士の典型として、武士道の模範と謂つべし。

 佐渡東京に上りてより旨と謹慎の意を表して、官命の下るを待つと雖ども命下らざる事六ヶ月。五月十四日におよびて命下り佐渡の首を刎ねしむ。これ佐渡自身は固より心に期せる所、諸臣亦然りしならむと雖ども、利恭公家臣に見しめざらむ事を欲して、盛岡に下して刎ねしめむ事を請うて許さる。やがて佐渡は利恭公の情けに故山を死に場所と定めて再び盛岡に帰り、六月二十四日といふに北山報恩寺に刎首せられたるあたりの物語は、半白老人の筆に心ゆくばかり書き記されたれば茲に贅せず。而して九月十一日江ばた五郎・佐々木直作の禁固を免ぜらる。半白老人並びに舊暦散人共に佐渡を余り賞せんとしてにや。公平を缺けるものの如し。両子異口同音に総べての責任は佐渡一身に罪を負ひ、佐渡の義侠的庇護によりて罪を免ぜられたるが如く言ひくろめ、五郎・直作等死を惜しみ佐渡に殉ずるまでもなしとて佐渡が一身に引く受くるに任せたりといへども、之れ一に過褒して他をおとしむるものにあらずや。直作は吾人之を知らず。五郎の如きは決してしかく徒らに生をむさぼる卑劣漢にあらざりしなり。身死すべくんば一死顧みざる勇士たりしなり。刎首の罪は佐渡一人の当る処なれども、佐渡の刎首によりて悉く解決せられたるにてもあらば、総ての罪を佐渡一人にて負へりともいふべかんめれと、事実は決して然らざりしなり。看よ、藩公の負はれたる罪の如き一死にまさるものありしならむや。吾人一歩を譲りて両子の佐渡を激賞するをよしとするも、史実を誣ふるは吾人の断じて服し能はさる処なり。

   結 論

 吾人此処まで叙し来りて、殆んど佐渡の人物を論じ尽したるを信ずるものなり。半白老人及び舊暦散人共に佐渡に対する吾人の意を推知せられたるべし。又多く言ふを要せずと雖ども顧みれば不才不文記事頗る散漫に流れたる恨みあれば、茲に総括概論するも無用の辯ならざるを信ず。

 一言以て之れを蔽へば、佐渡は弱冠にして藩政に鞅掌して、先代より紊乱疲弊せる藩政を料理按排し、ともかくも漸次進歩の域に進みやに頽勢を盛り返へし明治維新まで持続せるなり。彼は東 中務の如く急進ならむと雖ども漸進以て藩の為に尽せし忠臣なり。卯辰の際不幸順逆を過り、方向を違へ、藩公をして賊名を負はしめ、藩地をして賊地の名を負はしたり。その精神に到りては毫も疚しき所なきは吾人亦認むる所なり。されば゛、此の大なる過失はよし、動機は善にしろ、佐渡の行動は固より南部藩史上に拭ふべからざる一大汚点を印せるものと謂ふべし。これ佐渡が不明の致す所、識見の卓然たらざるに依る所にして、藩上下亦その責めを分たざるべからざるも、当時一に藩の事、佐渡により決せざる位に信憑せられながら、佐渡は遂にこの信頼に添はず、此の悲惨なる結果を来せるは、其罪(まさ)に萬死に当るべし。佐渡若し心茲にあらば報恩寺裡の刎首によりて如何にその悶々たる胸中の鬱塊を医するを得たるを喜びつらむ。

 性格の上より佐渡を見ん乎。佐渡は当時大人物に乏しき我が藩に於る出色の人物にして舊暦散人の言へるが如く、固より驚瀾を既倒に挽回する底の不世出の英傑たらざるは勿論、到底彼の才は彼の地位にそはざりしなり。忠は忠なりと雖ども、目隠しを施されたる忠臣なり。忠烈義烈の士を以て許すべからず。自信力の強きだけ頗る頑冥度すへからさるものあり。己れの好むものに厚き代り、己れと主義方針を異にせるものに対しては藩公と雖ども衝突し、同僚と雖ども相争ひ、甚だしきは下役とも相容れざりき。吾人は遂に清濁併せ呑む大度を(かれ)に見出し能はさるなり。渠と性格を異にせる新渡戸十次郎の如きは初め大に疎んぜられき。渠一時利剛公に随って參府せし時、盛岡に残れる家老北 監物、花輪図書等藩政の大改革を断行しき。而して佐渡に之れを計らざりしかば佐渡大に怒り、利剛公に詰問に及び両々相反目して事務停滞し、如何ともすべからず、杤内與兵衛仲裁を試むるも聴かず。監物・図書等に大に恨まれ、且つ禍の身に至を顧みざる新渡戸十次郎の調停によりて漸く亊なきを得たりといふ。一身の栄辱を眼中に措かざるはよけれど、権威を以て上下に莅むが如きは採らざる所なり。

 武士の情けてふ寛仁のとくを渠は完備せざりしは之れにても知られむ。彼は酒を呑み、牛鍋をつつく老西郷の豪放磊落を愚となし、常に小心翼々たる公卿に親しみたる程礼儀正しかりき。されど直作のみを信じて佐幕に与せるは注意の周密を欠き缺けるものと謂ふべし。渠勇気と果敢とは大にあり。されば秋田討伐にしても、薩長の横暴を(にく)みて之れを討たむとするにしても、帰する処は内乱を企つるに過ぎず。勇は勇なりと雖ども寧ろ強情といふべく、其のめしひなる忠節は遂に大局を誤るに至れるなり。かく論じ来れば、佐渡は殆ど採るに足らざるが如く見ゆれど決して然らず。人各々長あり短あり。佐渡は正直にして決して腹黒きものにあらず。然り餘り正直にして殆んど馬車馬の如き一刻ものなり。その他長所として拳ぐべきものありと雖ども要するに彼は器の小なるものなり。

 半白老人初め古武士の典型、武士道の模範なりと渠をたたへたるを、舊暦散人極力賛成せり。それもよしとして、散人の「南部家をして方面を誤らしめたりとの批評を受けたるは是すなわち佐渡の佐渡たる所以にして(中略)古武臣の標本なり」といふに至りては吾人その何の意か解するに苦しむ。元来、古武士、或は武士道なる語は頗る曖昧の語にして、大体の概念はあれども、いまだ人物を測量するだけ。それほど的確なる尺度にあらず。されば今茲に古武士とはいかなる人をいひ、武士道とは如何の問題を解決するにあらざれば、両子の説を断ずべからざるものありと雖ども、この繁雑に吾人吾人敢へてせざる処なり。茲に人あり。彼は世襲的に一藩の重臣となり、正直に其職務に努力したり。されど其器大ならずして、一旦事を誤りたる暁、位高きだけに其の所業大なる結果を来し、遂に藩史に拭ふべからざる汚点を残せりとせよ。両子斯くの如くの人物を尚武士道の模範と許し、古武士の典型と強ひむと欲せば、佐渡を論ずる両子の説に対して「ア、そうですかと」答へて已まむのみ。

 終りに臨みて、舊暦散人に答ふべき事あり。散人は維新以後中央地方の官吏は皆薩長派の人士を以て(ほしいまま)にせられ、薩長派は議会開設後も国会を解散する等、横暴を敢へてしたり。実に佐渡は看破したるが如く横暴を極めたと言何んぞ浅き。維新以後薩長土肥の割合に羽振りよきは、当時他藩にも我が藩にも餘り多く先見の人を出さざる為めのみ。其の他種々の理由は藩閥をして跋扈せしめたるも、此の人物払底の場合、佐渡は我が藩の今日あるべきをも看破せず、又勤王軍の真相を看破せず、徒に干戈を動かしたるを以て、我が藩民をしていとど発展の見込みなきものに陥いらしめたるなり。佐渡果たして先見の明あり、事相を看破したりしならむには、何でか今日薩長一派をして其の権威を逞しうせしむるに至らむ乎。佐渡は藩閥の専横を先見したるはよし。されど其のみにて他は無謀に出でなば、何の益かあらむ。却って薮蛇に終るのみ。吾人は藩閥を(にく)むと共に佐渡の不明をも許すべからざるなりり散人又いふ。当時大義名分の語は家常の茶飯時にして識者を驚かすに足る珍膳にあらざりきと、請ふ看よ、この語に驚かざりし所謂識者の維新当時及び其の以後に於いて如何に大に驚愕せるかを、勿論当時の大義名分を称ふる者の中には無頼なるイカものも多かりつらむ。唯そのイカものとイカものたらざることを識別するに於いて明不明は岐るるなり。佐渡は書生し多くの場合、新発展の旗頭たるしことを蔑視して、真乎の大義名分まで、軽んじたる識者(?)なりしなり。

 而して舊暦散人は佐渡の態度を論じたる吾人に対して、若し佐渡彼の態度に出でざらば、即ち薩長一派の頤使を脱せんとは孤立支ふべからず。薩長にもつかず奥羽同盟に拠らざれば局外中立の外なしといふ。何ぞその策の多からざる。散人亦認めて、薄弱なりといふが如く、同盟には元より拠るの要なし。又元より薩長の頤使に甘んずるが如き卑怯の振舞は要せず。然らば局外中立か、否々、唯勤王あり。大義名分ある目時・中島の態度あり。我が勤王の誠意に合しなば、薩長土肥と雖ども協心戮力すべく、我が勤王の義節に背くものあらば米仙会庄と雖ども辞せざるべし。これ一度外史(頼山陽の日本外史)くらいを繙きたるものは直に思ひ至るべきの処、この見易き理あるにも拘はらず、散人は局外中立の外なしといふが、而かも勤王の端緒は藩公によりて当時既に開かれつつありしにあらずや。佐渡もし(ねがい)一たび茲に至らば、此の緒に縋りて大に発展し得べかりしなり。当時我が藩民は舊暦散人の思へるが如く、薩長の頤使に甘んずるが、同盟に生死するの外に途なしとは、これ透徹せる信念なく、自主独立の自動的精神に乏しかりが為めのみ。返す返すも口惜しき極みならずや。尚一言、舊暦散人に答えさるべからざる一事残れリ。散人は吾人の戊辰乱は西国と東国との争ひなりといふにも拘わらず、佐渡を攻撃せるは矛盾の論ならずやと駁せり。吾人の文を熟読せば、決してその然らざるを悟らむ。東国の佐幕党となるれば四圍の境遇上、やむを得ずに出てたりとはいへり。雖然、これ決して上々の策なりととはいはず。而して佐渡は地位よりいふ力量よりいふも、はた一藩上下の信用、当時の形勢よりいふも、吾人の所謂上策を施すに最も好適の人物なりしなり。別けて佐渡は殊更に天下の事を審かにせむが為めに永らく京にありて日夜この事に鞅掌せるにも拘らず、遂に東国の時潮に一歩を抜く事能はずして、藩君の志を全うし、一藩の名を全うするに至り得ざりし不明をせむるのみ。何ぞ矛盾せんや。

 吾人の蒐めたる頗る豊富ならざる史料を基礎としての佐渡に関する評論、並びに舊暦散人に答ふる文の筆を擱くに当り、文の散漫に流れたるを読者に謝し、言の失礼に亘るを散人に謝す。(明治四十二年一月十八日稿了)


半白老人(鈴木 巌) 「楢山佐渡」 
濤庵迂人(波岡茂樹) 「楢山佐渡」を読む         
舊暦散人(谷河尚忠)  「半白老人の楢山佐渡と濤庵迂人批評とを併せてこれを読む」 
舊暦散人(谷河尚忠)「濤庵先生の再び佐渡を論ずる」といふ一篇に就て
白髯翁(谷河尚忠) 『戊辰前後の楢山氏』


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