舊暦散人(谷河尚忠)
世の軽躁文士が古今の人物を批評記述する方り、或は功利相争ふひ出入朝夕を測り難きかの国務大臣などを指して柱石の臣などと過誉し、詩歌文章又は他の専門家の学士博士号ある人を指して今世の泰斗などと誇称し、逆境にある人を非難するに於て其実に過するの類毀誉その当を失ひ識者をして抱腹に堪へざらしむるもの往々是れ有り、時勢境遇を熟察せず其人の性行を鑑識するの明なくして妄りにこれを論定するは世を誤ること少なからず、古来歴史を編むの士この弊を免かるるもの幾何かある思ふてここに至れば談豈容易ならんや、然れども思ふて言はざるは古人の所謂腹ふくるる業なれば、自ずから信ずる所と発表するも亦敢て罪深きにも非るべし。半白老人が楢山佐渡の略歴を記するを読むに頗る正確に近きを覚ゐ、ここに濤庵迂人ありて批評を加へたり、散人も亦佐渡の生涯を稍や記憶する者なるを以て此間に感ずる所あり、為めに両氏の説を併せて聊か批評を試みんと欲す。
さて半白老人の記事中に佐渡の幼名を五左衛門となせり。幼名は茂太とて側詰役の頃迄は五左衛門に非ず。加判役となるに及び藩侯の命を以て五左衛門と称せり。乃ち祖先の通称を襲はしめたるなり。佐渡は幼年より理義を暁るに敏達に自信強く、往々老成者を畏服せしめたり。身は門閥の家に生れ貴重の食禄を安閑無事に消費すべからずとの観念を深く脳裏に積み込み、十歳以上になりて次第に其鋒鋩を露はし、当時藩侯の奥向に能狂言乱舞囃子等盛んに行はれ、近習小姓重臣の子弟等皆これを習はざる者なし。其中に佐渡一人は決然として加はらず、たまたま其席に列することあるも早く暇を乞ふて自宅に帰り、邸内の馬場に馬を馳せ弓を彎き剣術を試むるを以て常とせり。そもそも、佐渡は南部家一門なるのみならず、藩主利済公の夫人光雲院は佐渡の父帯刀の妹にして、佐渡には直接の叔母にして利済公の世子利義・利剛等は皆其所生にして、佐渡には肉縁の従兄弟なり。若し佐渡をして尋常の門閥子弟たらしめば藩政参加の時に及びくく然団欒相親み歳月を遊宴の間に空過するか然らざれば君辺内外を欺瞞し、自己の栄利を擅にせしやも知るべからず。然るに佐渡の執る所しばしば利済公の勘気を蒙るまで諫争し佞臣を放逐し藩政を匡し、短日月の間に利済公父子の間三代の変遷ありし。藩治の多事を経過し利剛公藩主となるに及び領内士民の安堵を致し、隣領の士民までも利剛公の賢君を称するに至らしめたり。不幸戊辰の変に遭遇し南部家をして方面を誤らしめたりとの批判を受けたるは、これ乃ち佐渡が佐渡たる所以にして半白老人が古武士の標本なりと記せしは精確なりといふべし。
然れども末段にいたり、野田廉平が京都に至り佐渡へ面会し藩論一致を述べたるにより、佐渡も然らばとて余儀無く志を定めたりといふ以下の記事は皆誤伝なるに似たり。散人の聞く所によれば、奥羽同盟は最初より定またる事なれども其実効なく、諸藩相猜ひ、中頃佐竹津軽が同盟を脱せし以来、弥首鼠両端進退に迷ふ者多く、元来同盟中にて仙米会庄と称し、此の四藩が秘密の相談を遂げ、然るの地諸藩へ通報する様な真相にて諸藩もまた強いて其機密に與からんとの念慮薄く、却って成りゆきに時日を過ごすが如き状況なりしが、其中に一心不乱越後口に骨を折り働きたるは米沢藩なるが、与野変乱を機として謙信の旧業恢復の野心ありとも伝へたり。仙台は中央に座し盟主然として諸藩の趨向を伺居るに過ぎず、南部家にても背後に佐竹津軽の居るを危ふみ、前面に仙台が横たはるに注意し藩論一決せず、利剛公深く是を憂ひ、手許から野田廉平を上京せしめ佐渡の意見を尋ねられたるなり。そもそも利剛公藩主となりし以来、佐渡を重用し、旧幕の本多正信を連想し、我が五左衛門は徳川家の本多佐渡守との意味にて五左衛門を改め佐渡と呼び来たりし程なるを以て、此の際佐渡の決意を聞かんと欲したるものなり。ここにおいて佐渡が京都に於て藩論の一決せざるを廉平より聞くや大に驚き早く帰藩し一決せんとて急に京都を退くに臨み目時隆之進長藩に奔り、中嶋源蔵は大坂にて自殺せしも拘はらず、佐々木直作・野田廉平を伴ひ海路仙台へ上陸し、但木土佐に対談し仙台兵が既に白河までも押出したるやを糾問し、如此ては同盟も詮なし、速かに進軍すべきを促がし、盛岡より更に相馬口応接の兵を増発すべしとて但木に対し同盟の緩慢なるを切論し、盛岡より相馬口へ一小隊を急発し自分は鹿角口へ進発し、沢内口橋場口へも同時に兵を進め、津軽口は野辺地より進撃を佐渡の気持込ありしを以て、利剛公も佐渡が京都に於て天下の形勢を察した上の見込みなればとて、佐渡の論を信じ始めて佐竹津軽へ進撃の出兵を決せられたるものなり。此時盛岡に於て専ら軍事に関係したる遠山礼蔵より、仙台へ出張し居たる役人へ向け、佐渡帰藩の上藩論一定したるに付向後仙台表に於ても躊躇なく同盟の事に尽力すべき旨通達ありしなり。然れば則ち藩論一致に付、佐渡が決心したるにあらず、佐渡の決心に因り藩論一定したるなり。これより先き仙台におゐて庄内米沢等より南部家出役人に対し、鉄砲一発にてもよろしきに付、佐竹藩へ討入の形勢を示しもらひ度再三申し向けありしも、南部家の出役が十分なる返答を為す能はず、藩論の一定せざるに大いに迷惑したりしなり。故を以て前に述べたる遠山よりの通報は南部家出役人の意思を強ふしたるものなりき。
半白老人が鹿角口の戦を記するに於て佐渡が橋場まで引揚たりとせしは事実を誤まり。鹿角口の戦追々利を失ひたるは相違なきも、謝罪一件は佐渡が未だ鹿角口を引揚ざる前なり、且つ橋場は雫石なり。もし佐渡が橋場まで引揚たりとせば、鹿角は敵兵充満の地となるべし。如斯事実は無りしなり。これより先き、仙台にては追々事勢切迫、棚倉は破れ、二本松へ敵軍の進撃となり、海岸は岩城平危ふしといふ場合、会津は落城旦夕に在りとの風説なりしが、これまで会津へ応接しつつありし米沢兵が、自分の国境を守るを口実として敢て会津を助けず、頗る仙台に集会し居る。諸藩出役の疑問となりしが何ぞ図らん。如時既に仙台、米沢は降服謝罪の段に歩び居りしなり。事実まさしき模様なるを察し、南部家出役の者米沢出役人の旅宿を尋ね、この事を推問せしに、此方より打ち明け御相談に及ぶべき所先きんぜられ面目なし。実はこれまで御承知の如く、弊藩は越後口に於て十分同盟実効を明らかにせしが、近頃官軍の大村藩渡辺清右衛門が弊藩へ微行し来たり。今度の件は必ずしも薩長の専横のみに非ずとの事実を縷説し、願くば方針を改め、一日も早く奥羽を鎮定し、招来の国事を相談いたし度との申分偽りなく聞こえたるを以て、弊藩に於ては謝罪を申込みたりとの事なり。しかば南部家出役のもの大に驚き、即刻仙台を発し盛岡へ帰り、仙台米沢降服謝罪の始末を述べたるに、盛岡城中に居りたる野田玉造、さては南部家孤立支ふへきの目的なし。速やかに佐竹の責口諸処へ急報し、共に降服謝罪の外なしとて、利剛公もその意に任かせられ、野田は鹿角口の佐渡へ駆付け、その他手分けを以て雫石・沢内の口々へ休戦の令を下し、終に謝罪の手続きに及びたるものなり。如此趣意に因り謝罪の暁、一藩の首謀者として佐渡一身にその罪を引受けたるものなり。前文休戦の令を下したるため、雫石口も沢内口も南部家にて進撃を止めたるため、佐竹兵は得たりと生保内口より境を越へ雫石迄押来たりしなり。この時南部家にて仙台・米沢の降服を知らざりしとは半白老人の大なる僻言なり。濤庵迂人なる人ありて、半白老人が佐渡末路の記事を読み、疑しき事ありとて佐渡が大義名分の有る所を知らず。徳川慶喜が大政奉還の後十ヶ月を経て尚ほ目の覚ざる様な事に評して居るが、これ又佐渡を知らざるの論なり。佐渡が上京して居るのは奥羽では既に諸藩一致して薩長諸氏の専横を制するの精神なるは概已に承知してある事にて、元来薩長一派の者共が最初飽く迄攘夷といふ名分を以て征夷将軍たる徳川慶喜に迫り、その攘夷の期日等を催促し慶喜は終にその任に堪へずとて征夷職を奉還したるに、その奉還書の墨色未だ乾かざるに薩長一派が兵庫に於て諸外国と応接し条約を結び、外国人の入京を許し、形勢俄に変じ引続き関東征伐といふ名を唱へ奥羽まで官軍下向といふことに及びたるなり。
この時に当たり、王室に於ては畏れ多くも先帝は既に崩御。今上陛下は御齢未だ御丁年にも上らせず、日本の政は悉く薩長輩の手に在り。佐渡はこの現状を目撃し、この末如何なる専横を逞ふするかと憂居たる折から、野田廉平の上京にて奥羽同盟の薄弱なる実情を聞き、大に驚き、目時の出奔・中嶋の自殺を顧みず在京の人数を引き纏め帰藩したるものなり。果たして佐渡が看破したる如く維新後に至り、中央の政局は勿論、地方官に至まで薩長一派の人士を以て組織し、憲法発布代議政治の時代までその餘弊を延き、しばしば国会を解散し、一念に両度解散したることさへありて、天下の志士が藩閥打破を絶境したるは近代の人々皆耳にしたる所ならん。濤庵迂人の所謂大義名分などの言語は、当時の家常茶飯にして書生等の勝手次第に言い触らしたるものにて識者を驚かす程の珍膳美味には非らざりしなり。濤庵迂人はこの時に当たり、佐渡が時勢を明らかにし藩是を定るの能あらば王政復古の定りたる十ヶ月の後にして秋田討入りなどとは気の知れぬ事ではないかとて、佐渡を攻撃せり。濤庵の意見は佐渡をして薩長一派の頤使に甘従せしめんことか、或は奥羽同盟にもよらず薩長一派にもよらず、局外中立を行はしめんとの意か。甚だ判然せざるに似たり。濤庵が前に論ずる所は戊辰の事は尊王佐幕は彼等勝手に唱へたる名称にてその実西国と東国の争ひにして勝てば官軍、負ければ賊の説に外ならずと、その論は善し。而ふして佐渡の末路を責むるに大義名分を知らずといふは前後矛盾の論に非ずや。畢竟は薩長一派は勝ち奥羽諸藩はそれに負けて謝罪を為すに方り、秋田口の官軍へ差出したる書面を屈従の甚しきものと評するは、これ亦当を得ざるものなり。佐渡等は佐竹藩と戦ひ、その戦が利なきを以て降伏したるに非ず。仙台・米沢が既に降伏し奥羽同盟が瓦解したるを以て、南部家独り城を枕に討死にするの不可なるを知り、善後の策を講ぜんがために志を屈して謝罪に決したるなり。むかし、越王勾践呉軍に敗を取り会稽山へ逃げ込み、呉王に降伏謝罪し身を妻子共に臣妾となり、国民は奴隷とならんとまで屈従したるは善後の策を謀ればなり。往時を思ふに善後を考へて屈従したるは、中国の毛利、九州の島津なり。勢い尽き力窮まり身死し国亡ぶるを決したるは武田勝頼の天目山、真田昌幸・木村重成の大坂に於るが如きものなり。古今武門の興廃存亡に於る時勢境遇に可不可あり。一片尋常大義名分等の外面の是非を以て軽忽の判断すべからが。佐渡は概して評せば世渡り上手の佞才子に非ず。驚瀾を既に倒れたるに挽回する不世出の英雄の英雄にもあらず。唯これ精神純剛、始終一串南部家のためにはその身の栄辱を顧みざる半白老人の所謂武士の代表的人物と称したるを適当となすべし。乃ち書して以て世人の参考に供す。
半白老人(鈴木 巌) 「楢山佐渡」 濤庵迂人(波岡茂樹) 「楢山佐渡」を読む 濤庵迂人(波岡茂樹) 「再び楢山佐渡」を読む ?舊暦散人に答ふ? 舊暦散人(谷河尚忠)「濤庵先生の再び佐渡を論ずる」といふ一篇に就て 白髯翁(谷河尚忠) 『戊辰前後の楢山氏』
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