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新聞紙上に展開した楢山佐渡論 2 「楢山佐渡」を読む 濤庵迂人論 |
「楢山佐渡」を読む濤庵迂人(波岡茂樹)半月に渡って「楢山佐渡」を本紙上に連載された半白老人とは如何なる人の世を忍ぶ仮の名か、奥ゆかしい事である。本社の無題録子これに対して「引証も該博て推断も的確で二十万堤封の元老、戊申(戊辰ヵ)風雲裡の偉傑の面影を偲ふ事が出来る。僕は多大の趣味を以って読んでる」と一寸評言や賛辞を呈してゐられる。僕また日報の到着を待ち遠しく思って到くや否や先づこの「楢山佐渡」を読み耽けた一人である。 僕は佐渡に関して何等の智識を有しない者である事をまづ自白する。而かも子供の時佐渡が報恩浄刹で首を刎ねられ、その刎ねられた首を拾って柄杓の柄の両端を削った棒で首と胴体を継ぎ合わせた話。またその柄が長過ぎて首と胴体との間が隙いた話などを祖父からお伽噺に聴かされて、子供心にも佐渡の剛胆にして沈毅な様を深く感じ、頗るこの英傑を憧憬していた。長ずるに随って益々その感が強くなる。佐渡の人格言行等について的確に知りたいものよと願ふ様になったが、今以って志を遂げ得ない。這度半白老人の「楢山佐渡」を読むを得て平生の願の幾分を満たすを得たのを深く筆者に感謝する。 半白老人の筆は真に流暢で、行文些の渋滞がない。縦横自在に三寸の彩管を呵して一瀉千里の概あり、読者をして卒読を禁ぜざらしむる底の魅力を含む。が惜しい事に筆に任せて書き過ぎたと思はれる節もある。中にも縄付きのまま返された厨夫が手ともしを下げて来た等の滑稽もある。これ一般読者の感興を繋がうと努めた結果であらうか。また全篇殆んど時に対する観念のないのは遺憾だ。といっても毛頭咎め立てをする所存はない。この「楢山佐渡」を読んで不審な廉、疑問の点が多くなって、更に的確に且つ精細に佐渡に就いて識りたいといふ念が深くなった。佐渡と行動を共にした当年の諸勇士、並びに世の識者願ふらくは講説を惜しむこと勿れ。これ僕一人の希望ではない。恐らくは郷党の年少子弟が一斉に聴かせむと欲する処であらう。 既に道の奥の名もある我が地方で、江戸表までさへ一百五十里を離てている。勿論今日の如く交通機関が発達しない。在國の藩士が徳川幕府の形勢にさへよく通じなかったであらう。況んや洛陽には如何なる輿論が起り、天下の趨勢が什麼 半白老人は佐渡の國論論に対した態度を大西郷が私学校に対した態度に較べてゐるが、それとチトお門が違ふではあるまいか。又若し果たして老人の言の如く、佐渡が大西郷が友人と牛鍋を圍んでゐたのを見て、あれて゜は天下の事を談ずるに足らないといったとすればね佐渡の愚は殆ど論ずるに足らない。傲放な志士が花柳の巷に出入るのを見て勤王党を厭ったとせば即ち本末を辨せざるの見であると言はさるを得ない。かくて折角僕が胸中に描いた偉人は惜い哉、影薄くなって来る。即ち佐渡は道学先生的正直者にして勇剛ではあるが、識見の卓絶を見ず、気宇の洪濶をかいてあるといふ事になる。人の命は能く頑守たるの耐忍力には富んでゐるのであろうが、人に将たるの伎倆に乏しかったと言はざるを得ない。(これは我が同郷人の特質で且つ欠点な様である。佐渡亦この埒外に躍飛する事を得ざりしか)老人佐渡を賞して我が邦武士道の典型だ、権化たりといはれるが、大義名分を誤る権化では仕方がない。大局に通じない典型では納まらないと思ふ。これが僕の楢山佐渡に対する疑問の最大のものである。 佐渡は板垣桑蔭と上洛した後で、何事を観察していたのであらうか。よもや他藩の志士が狭斜の巷に荒んでゐる所を見たり、大西郷の牛鍋を突くのを不作法極まるとて憤慨するに遥々出かけたのではあるまい。愚図々々してゐて國では今し議論沸騰して壮烈な悲劇行はれ、名士中島源蔵の憤死を余儀せしむるなどいふ騒擾を極めてゐる。佐渡の敏活に時運を洞察してこの騒ぎ前に早く帰国して藩是を指導しなければならぬ責任を負ふてゐるのではないか。さるに優柔不断、よく此の挙に出づる能はず、使者至って始めて「致し方も候はず」で、それから帰藩するが如きは果たして老人の所謂誠忠無二の士のやりかたであらうか。僕には納得が出来ない。これが疑問の二である。 次に秋田征伐に就いて、慶応四年七月といへば徳川慶喜将軍が大政奉還した翌年で、王政復古になってから既に十ヶ月である。此の頃漸く秋田に出掛けた気が知れない。当時は大義名分歴然と分かっていた。盛岡藩以外の事は知らぬが、藩士は征馬を彼の地にすすめて頗る能く戦った。が残念なる哉、秋田沿革史に次の様な事がかいてある。曰く
とうとう遺憾ながら僅かの機を逸し、正義軍の不徳を鳴すため順逆去就を過る事になった。老人の九月の節句で餅を作り、戦勝を祝してゐたとき秋田勢が盛岡城下に迫った様に書いてあるのは誤りでなからうか。三哲山で敵に送った書といふものも矢張り秋田沿革史に引いてある。即ち
とある。越えて二十五日に又
何等屈辱の文字ぞ。何等不面目の文字ぞ。これが三ヶ月以前に決したなら、吾が同胞が賊の汚名を蒙らずに済むのだ。屈辱の文書を綴らずに終わったのだ。嗚呼・・。今更既往を咎めても詮方ない。吾が同胞諸君の奮励努力、互いに相戒めて此の汚名をうめ合せ策を講ぜむことを切に祈る。この二通の書に拠って見ると半白老人の秋田軍から降服を勧められて、何やら非常に威嚇されて初めて降服した様に書いてあるのはどんなものか。 終にのぞんで一言添へておく。誰かが佐渡の死を惜しんで東京から帰国の途上逃亡をすすめたり囚人の首と取換へ様としたさうな。其の時本当に換首でも差出し又逃亡でもする様な事があったら、それこそ佐渡は一文の価値ない人間になる。この点だけでも流石は佐渡は偉人である。半白老人は矢張り佐渡を殺さないで置たかった様な口吻を洩してゐる様だが、それでは武士道は立つまいと思ふが如何に。尚疑はしい点もすくなくない。が前にも述べた様に佐渡に関すして零細の知識もないから、重ねて半白老人の教えを請ふの機をまつ。妄言多罪。 半白老人(鈴木 巌) 「楢山佐渡」 舊暦散人(谷河尚忠) 「半白老人の楢山佐渡と濤庵迂人批評とを併せてこれを読む」 濤庵迂人(波岡茂樹) 「再び楢山佐渡」を読む ?舊暦散人に答ふ? 舊暦散人(谷河尚忠)「濤庵先生の再び佐渡を論ずる」といふ一篇に就て 白髯翁(谷河尚忠) 『戊辰前後の楢山氏』 |