新聞紙上に展開した楢山佐渡論 1-2 「楢山佐渡」2 半白老人


(八)
佐渡が処決の腹の中は、いろいろに忖度することが出来る。がしかしホンのどん底は矢張り佐幕党であったに相違なからうと思はれる。佐幕に決定したる國論の采配を取るに至ったのは、決して他動的に余儀なくされた訳ではあるまい。彼が性格からはおのづからにしてここに至らざるを得ないのである。前にもいへるごとくに、彼は頗る几帳面で真面目であまりに砕けなさ過ぎるやうな男であった。であるからにして、常に京都あたりで天下の所謂志士等が、國政を談するのに宜楼などに集会を催すことあるを見て、甚だ怪しからぬことに憤慨し、苟も天下の事を以て任ずるものが恁んな為体(ていたらく)でなるものかと嘆息して居ったのである。当時の志士なるものは、それはそれは磊落(らいらく)極まるものであった。酔ふては眠る美人の膝、醒めては握る天下の権などと途方もないことをぬかして大得意であったのだ。それが真面目くさったこの先生の目に映ずるものであるから、なる程彼等が議論は立派なものだ。その勤王論には固より点の打ち所ろもないものであるが、手もつけられぬその不行状を見ては、口と腹とは違ひはせぬか、つまり彼等が運良く天下を取った所で、またも幕末の失態を再演するやうなことはあるまいか。甚だ心許ない次第であると、この印象が深く佐渡の胸にきざんだのである。それが証拠には、彼が京都で老西郷を訪問したときに、かざり気ないこの偉人が折から友人と牛肉鍋を囲んで居った。佐渡はこれを見て(ど)うも西郷といふ男は不作法極まるヤツである。あれで天下の事を談ずるに足らないといふとのことだ。アテにならぬが、そんな話もある。老西郷の牛肉鍋を見てさえこんな調子であるから、他のそれ以上のを見せつけられては、なる程末の案ぜらるるは尤もだ。大功は細瑾を顧みずといふ申し訳は、酒は好きで飲みながら一度と酔ふ顔を見せなかった程の彼には許容の出来なかったことであろう。旁々砕けて交際も出来かねた所ろからして、その境遇からもおのづと精神が固まって勤王の目的を以て佐幕の手段を採用するに内心出来なかった、即ち既に下地のあった所へ以て来て國論一致といふ報告を得たのであるから、さもこそと、いよいよ決心を固めたのであろう。決して他から余儀なくされて已むなくむざむざと身を犠牲に供したといふ訳のものではなからうと思ふ。要するに薩長一列の気に喰わぬ振舞に憤慨して、何うでもいづれにか去就を決せねばならぬ形勢の逼迫した場合に臨んで、遂に彼を敵に取るに至ったので、天朝に弓を引かうといふ考など豪末も含んで居なかったことはいふまでもない。いづれの方面から考て見ても佐渡の人傑たる価値においては更に増減がないのである。

(九)
佐渡は野田廉平によって既に郷里の國情を詳にし、決心の臍を固めた以上、最早一日も猶予すべきでない。直に人数を纏めていよいよ帰國の準備に取りかかったのであるが、殺気充ち満ちたる当時の形勢ではとても陸路東海道を旅行するなどは思もよらぬ、そこで一同海路を取るといふことに決定していよいよ京都を引き払ったのである。船は予定のごとくに進航して遠州灘をも先づ事なく乗り越え、最早海上案ずることもなからうと思ひきや、運悪く非常な風浪に出遭ひ、固より米国艦隊のごとき巨船といふ訳でもなく、至って旧式な小舟であったからして、海には慣れぬ山国の人数のもの共、両刀の手前もあらばこそ罵り合って騒ぎ出した。船はますます怒濤にもまれてさながら木の葉の空中に狂ひ舞ふ体である。乗り合の人数最早顔色なしだ。最前から独り自若としてこの有り様を見てあったる佐渡は忽ち大音を上げ、御一同その振舞は何んたる不覚悟でござる。船は遠く陸地を離れて海上にあるのだ。たとえ今ここで万一のことあったにしろ、騒いで何んの詮ある。見苦しいその振舞ひチとたしなまれたがよからうときめつけられて一同もはじめて我に帰り、やがて風も凪ぎ浪もやや穏やかになりたれど、船は尚も予定の荻の浜へ寄せつけられず、辛うじて寒生沢といふに上陸し、ここで一同も始めて安堵の胸をなで落ろしたのである。船中の疲労も固より気楽に養生の叶ふべき場合にあらねば佐渡は人数の人々をば直に盛岡に向けて出発せしめ、独り佐々木直作のみを伴ふて仙台へ出かけて行った。兎も角も但木土佐(仙台藩奉行人=家老=)に面会を遂げてみたのであるが、案外にも白石で連判したる奥羽の同盟に秋田の一角からして、そろそろとゆるみかかて居る。佐渡も驚いた。今更ら連判を反古には出来ない。秋田の裏切りも言語道断不徳義極まるとそれこそ怒髪天を衝いたのであらう。それから段々観察したる天下の形勢からして薩長志士等の動静などをも取り交え、奥羽同盟の一層堅固にせざるべからざる理由をば諄々に説き出したのである。土佐は仙台での豪らものであるから、固より理否の判らぬ男ではない。それに今でこそ多少箍為体(ていたらく)もゆるみかかっては居るものの、立派に批准の済んだ同盟連判状も現存している。それを正面から武士道の権化たる佐渡のごときものに説きつめられたのであるから、土佐たるものここでもし佐渡の意見に同意を表するでなくば、佐渡を斬って捨てるの外はない。仙台としては腹背に敵を引き受けることになるのであるから去就の苦しいことはいふまでもない。しかしながら、土佐も英断をした果然佐渡に同意を表して白石の同盟を鞏固にすることとなりねここで佐渡と土佐とは今後の謀議を凝らし堅く誓ふて佐渡は盛岡に帰ったのである。

(十)
仙台において但木土佐と謀議を凝らして帰盛したる佐渡は、取りあえず利剛侯の御前へと進み出で、京地の政況ども委しく言上に及び、時局に対する存じ寄りの次第をも赤誠を傾けて披瀝し、尚ほ心変はりて同盟に背ける秋田の処置につきては、仙台において土佐と斯様かやうの打ち合はせを仕ったりと落ちもなく申上げ、重役の人々とも謀議をつくして、いよいよ秋田征伐と決定したのである。時は慶応四年七月の下旬。即ち明治の初年であるが、佐渡は向井長豊と共に討手の大将を承はり、かねて佐竹の不義不埒を憤って腕をならしてまち構えたる人数の衆を引きつれて先づ十二所へと討ち入ったのである。当時の武装はまだケリにダンブクロといふまでに進歩して居らず木に竹を継んだやう今から見れば某のバックにでも見えさうな滑稽極るであったのだが、佐竹では固より思ひまうけぬことでないのであつたけれど、不意に油断を討ち込まれたので、殆ど一とたまりもなく追ひ立てられて仕舞った。初めからして辻占のよかった味方の衆は、勝ち誇った勢いで猶予もあらせず扇田へと攻めかかる。敵陣目がけて浴びせかける大砲に、慌て散らばる佐竹の衆、まるで手に取るやうに見えるので心地よきことこの上もなしだ。やがて運良く扇田を落として今度は大館へと差し向ったのである。敵は思の外に脆くここでも左までの手ごたえなく首尾よく易々と占領をした。この分では最早天下に敵なしだ。秋田の城下までは訳もないことだと思った連中もあったのだろうか。さて久保田にかかることになってからは、何うも今までのやうでない。シカとした手ごたえがある。こりゃ秋田もいよいよ大奮発したのであらう。侮るべからずだと見て居るうちに、なかなか豪らい大砲丸が飛んで来る。何うやら秋田勢ばかりでもなささうだと気が付いて見れば、果たして鍋島の精兵が加わっている。土崎の方面から上陸して加勢に来たことが判った。盛んに方々から打ち出される小倉勢もやって来た。これもなかなかの強敵である。殊に向ふの武器は精鋭の新しいのばかり揃っている。さきに佐竹の肝を潰してやった味方の大砲が豪らいと思ったが、今度の敵の大砲の威力と云ったら、何うして何うしてそれ所じゃない。驚くべき勢いである。随分と頑固に戦ったのであるけれども、とてもとても持ちきれない。何時も真っ前に立って采配を揮って居た佐渡は、この体を見て歯がみをなして督励するのであるけれども、何うしてもいけない。遂に繰り引きといふことになった。敵にまけて逃げ出すことを今では背進といふさうだが、この当時は繰り引きといふたのである。残念千万ながらその繰り引きをやったのである。

(十一)
恁やうにくづれかかて来ては、何うにも仕方のないもので、懸命に支えやうとするけれども、追々に圧迫される、残念でたまらないが苦戦に苦戦を重ねて遂に橋場まで例の繰り引きといふやつをやったのである。丁度九月の下旬盛岡では節句を祝ふて戦場の勇士が上に幸あれかしと餅をついてゐると、敵の砲声轟きわたって障子の紙がバリバリッと鳴りひびく、家鳴り震動して味方の軍勢利あらず、敵は真近に押し寄せたと注進がくる。盛岡は大騒動、桂勘七郎が敵の耳を蒲焼きにして食ってやったとか、杉田逸機が股の鉄砲傷に泥をぬって部下に負傷をかくして働いたとか、勇ましい評判で大勝利を祝して居ったのが、うって代わって誰が討死にいた。某が手負だとかかなしむべき情報が伝はるのであるから、留守に残された女子供等が上を下へと狼狽する。節句の祝の餅を包んで逃げ支度に取りかかるといふ騒ぎであったのだが、多勢にまくりたてられ逃げおくれて随分悲惨な目に遭ったものも少なくなかったが、たしか雫石のもので飯たきに雇はれて居った政太郎といふものが居る。この男何うしたものか逃げ場を失ふて鍋を被ってかくれて居た。運悪く敵に見つかった。「その方は何者だ」「飯たきに雇はれて来たもので、「その腰の一刀は、この腰の一刀は悪かったので、とうとう縄をかけられて敵陣へと引きつけられた。殺して仕舞えといふものもあったが、小倉勢の大将らしい人が兎も角もと制して政太郎に一書を授け、これを懐中にして縄付きのまま、この書面は南部の大将ならでは見せてはならなぬ、またその大将の返事は必ず其方自身に持ち返れと厳命を下して放れた。政太郎は夜中手とぼしを下げて味方だ味方だと大音に呼ばり呼ばり帰って来た。野々村真澄に面会して事の次第を報告に及んだ。取敢えず一応披見して盛岡にも急報し、翌くる日毛馬内九左衛門重役として春木場に出張し、敵の大将と会見を遂ぐることになった。敵将は降服を勧告するのである。庄内といひ仙台といひ、既に疾くに降服して居るのに貴藩に限って飽くまで錦旗に発砲する所存であるのかと(な)じるのである。庄内や仙台の降服して居るといふことは固より少しも気がつかなかつた。矢張り相呼応して盛んにやって居るものと思ふて居た。とうの昔にへこたれていたやうとは意外千万なのである。それに錦旗に発砲といふ難詰には全く恐れ入る。なる程いはれて見れば白地は菊の御紋がひらめいて居た。これは百万の軍勢より何十門の大砲よりも威力がある。固より以て朝敵の積りでないのであるから、かざしたてられたこの御旗には全く平服をした。結局兎も角も休戦といふことになったのである。この小倉勢のうちには、今の貴族院議員石井省一郎君も居られた。今日の石井君は全く盛岡人で、盛岡を愛して居らるることは、桂冠後この地で老後を楽しんで居らるることで判っている。しかし、以前はナカナカ盛岡に手腕を試みられたものだ。民権家の某を丸めこんだり、そんじようそこらの或るものを俘虜にされたりだが、盛岡に親しまれてからは、しばしば地方のために有益な忠告を与えらるることもあり、殊に昨今は東北振興策に熱心にして居られる。昨の敵は今は頼もしい有力な味方であるのだ。

(十二)
やがて正式の談判もあって降服といふことに決定した。錦旗の前には固より心からして降服しているのである。人数の衆も今度は繰り引くといふでなく、盛岡へ引揚げて仕舞った。関門が雫石に建つ。官軍と称する連中は秋田の衆を先鋒として大威張りで這入り込む。茅町から材木町、八日町を経て北山の寺々に陣取った。市中は悉く閉門の体、士族の向きは成るべく外出しないやうにと触れが出る。眼前に悲愴極まる亡国の光景を見せつけられた。一同は九腸ちぎる思ひをしたのである。光行侯以来連綿として三十九代。類ひなく古るく名誉の歴史をかざった光輝ある名門が、即今の有り様で幕を引くのである。心ないものも泣かずに居られまい。一藩上下老少男女がこのかなしい哀れなる死ぬにもまず思ひの痛苦が結晶して佐渡が腹のなかに落ち込んでいる。さうして腹綿をこづきありくのである。切開して責任の結晶を取り去るのはいとも易いことであるが、今はまだ死ぬべき場合ではない。他から思ふ百倍も責任を自覚せる佐渡は、片原の勘平といふ仮宿して、愁嘆場の盛岡に身を入れなかった。このあはれなる光景を見るに忍びなかったでもあろう、また敗軍の将自らが歯をかんで亡国に泣き居る子弟の間に顔をさらして、彼等を激せしむるもよしなきことに思ったのであらうが、兎も角もそのままの境涯に居てこの始末をつけるをその分としたからであらう。佐渡はここからして那珂悟楼等を伴ひ、利恭故伯に随ふて鹿角口から久保田に赴き、官軍に降服謝罪をすることになった。利恭伯爵にはこの時僅かに十五か十六にならせられたのであるが、導かるるままに官軍の大将の前に出られると直にお腰のものを取上げられ、ちぎれるやうに寒い風の吹き込む白州に平伏せしめられたのである。佐渡は後ろに控えてこの御有り様を拝見し、今更のことに血の涙を流して心のうちに泣いて居ったのである。利恭(後年伯爵)は彼の時白州で官軍のものにいはれた言葉だけは生涯に忘れられないと申されたおもむきであるが、何といはれたものか知らず仕舞ったが、何しろ恐れ入った次第である。降服謝罪もこれで先づ亊なく済んで一旦帰盛されたが、暫くして政府から藤川能登といふ人が命令を携えてやって来た。わが侯は無腰、楢山佐渡は佐々木直作、那珂悟楼等と首謀人であったといふ訳を以て網乗物で江戸に護送されることになった。またもここに愁嘆場を現じたのである。兎に角に朝敵といふのであるから、江戸に引かれてその上に何うなるものか判からない。譜代の家来共、囚はれの身とならせ給えるわが侯の引き行かるる御有り様を見て耐えかねて泣いたのである。

(十三)
本文の記者にはまだ経験のないことであるから判らぬが、およそ人間縄付きの身ともなって宿から宿へと送らるる境遇に見たならば、随分外聞が悪くもあるし、さぞ辛いことでもあるであらう。佐渡の犯罪は所謂国事犯である。廉恥を破った常時犯などではないから、顧みて自ら恥づべきでもなく、いはば大きな顔して威張っても通れる訳だ。人も指をさして笑ってもくれまい。意気揚々たるを得べきやうにも思ふが、しかしこれは大きな顔がしたくて、威張ってみたくて、豪らいと思はれたさに名聞のためにやったもののすることで、大きにナマなところがある。先づ破れ壮士のチーッとばかり毛の生えた輩がする芸当である。あまり適切な例ではないが丁度芥子粒ほどの抱負もないくせに、何々議員ともいはれてシルクハットでも被ってみせたいばっかりに、その分も知らずにきたない運動をする浅はかな連中と同じ理屈の行き方だ。佐渡が護送されつつある今の境涯は、何うしてどうしてそんな訳のものではない。重い責任の自覚は死んで死んで、また死んでも解除された気になれぬのだ。那珂悟楼や佐々木直作等が連類となって迷惑してゐるのを見るのはまだしもだが、佐渡の所存一つで七百餘年三十九代名門の同じくばうの棹尾(とうび)を飾らるべき我が藩侯を、現在眼前の御有り様にさせまいらせて、泣きながら御供を仕る旅の身空であるものを、大きな顔も出来ねば威張りもせまい。宿々のつめたい夜の褥にはさぞ血涙を染めたこともあるであろう。縄付きの佐渡はかくして進まぬ足を東京へ着いたのである。定めて早々に訊問のこともあらうと、一日二日とまって見たが、更にそんな様子もない。折角引きつけて置ながら、ほったらかしの体である。まるで蛇のナマ殺しであるのだ。佐渡の身になっては、どうせ覚悟をきめてのこの場合であるから、やるだけのことはテキバキやってほしいのだ。久しい間まつ程に漸く訊問のことあって、結局佐渡は何も彼も自分一身に引き受け、首謀といふものは拙者一人。決して他に何人も謀って企てた仕事ではござらぬと言い張ったので、政府でも佐渡の心情を察し取り、彼れが一身に責を帯ばしめて男らしき最後を遂げしむることになったのである。斯く決定したる上は那珂も佐々木も強いて佐渡に殉ずる必要はない。山本寛次郎も白石まで引きつけられたのであるが、一同無罪放免といふことになって、佐渡は独り例の網乗物で盛岡へ護送され、生死を共にと盟うた同志が環視の中に死の命をまつべき身となったのだ。

(十四)
檻輿夢(かんよゆめ)をうごかして着盛したる佐渡は、報恩寺に入れられて兎も角も幽閉の身となって、これより先き佐渡の人傑を畏敬する有志の人々は、佐渡ともあらう豪らものをムザムザ犠牲に供すしてこのまま殺して仕舞うといふは、一藩の柱石を失ふ道理。容易ならざる欠損である。且つは混沌たるこの場合においてあまり知恵のない訳でもあるまいといふので、何かして彼を救ふべき道もあるだらうと、首を鳩めて工夫して見たのであるが、結局代え首まで出して誤摩化してやらうといひ出したものがあってそれに一決し、佐渡がまだ上京する以前いろいろと身代わりの候補者を詮議して見た。然るにこの名誉でもあるべき代え首の候補者には、自ら進んで撰挙運動をするもの流石になかったと見え、その頃人殺しの取り調べ中であった重罪犯に誤摩化しの利きさうな面体の無籍もののあつたものを呼び出して、因果を含めたが、此奴案外快く納得して、自分のごとき重き罪を犯して御法に問はるべきならずものが、斯かる名誉ある人の身代わりとなって、お國のためにもならうといふのは(まこと)に望外の仕合なりと申し出でたので、早速その首を貰ふことに取り極り、望むがままにハセオコシを与えければ、見る間に一と盆を平らげて平然として首を斬られた。先づ代え首を調えたといふ訳で、打ち合はせにと佐渡が許へ出かけた。生むが案ずるより易くはなかった。佐渡は以ての外に立腹して、そんな卑怯な振舞が出来るものかと一言の下に斥けて仕舞った。なる程佐渡としては斯うもあるべきだ。大いに面目を施すつもりで出かけたものが、さぞ赤面もしたであろう。斯うなって見れば代え首の相場も暴落して一文の価値もなくなったので早速取り捨てて仕舞った。ハセオコシ一と盆で買った首であるから何うでもよかったものの、これが万一名のある人が犠牲に寄付したものであったら、それこそ始末に困ったであらう。東京から送られる途中もいろいろと心配するものがあって逃亡を勧めたこともある。固より受け付けない一夜附き添ひの田中舘伝蔵に折角勧めてくれるものもあるから、逃げて見やうかと思ふさうした場合に伝蔵さん何うなさると尋ねてみた。宜しうございます。伝蔵覚悟を持って居りますと答えたので、佐渡も浩然と笑ったといふこともある。彼は何うでも死ぬ覚悟であったのだ。武士の典型を示して死んで見せやうといふつもりであるのだ。であるから報恩寺に幽閉されて後は、一層謹慎を守って遂には食事も取らないやうになった。いづれ切腹を命ぜられるに違ひながら、一世一代の場合に卑陋(びろう)なことがあってならぬといふので、如何に珍味佳肴を供えても一と箸も取らない。端然と膝もくずさずに謹んでおったといふことである。

(十五)
いよいよ死刑を執り行われるる日となって、今日御達しこれあるべき趣きを佐渡へ伝えられたれば、長き間飲まず食はずで疲労の体であった佐渡は、決然に起って先づ沐浴し五体を浄め、衣服を着改めて、静々と一室より今は旭庵老師が居室になってゐるその隣の書院に出てこられた。書院には四方に幕を廻し、中央には法のごとくに席を設け、検視の諸役人ヅラリとゐながれい居る。佐渡が一刀を授けてかねて介錯を頼みおける江釣子源吉も色青ざめて控え居る。最後の命令を受けべくこのはれの場に出ておられた楢山佐渡の態度の立派さ、一同感に打たれて肅然として仕舞ったのである。宣告文読みあげられた。必然切腹を申付るとくるであらうと予期したことが、案に相違して刎首といふことである。これには佐渡も意外であった。甚だ失望且つ不満足なのである。兎に角も命令であるから致し方がない。手を下げて承服した。刹那、振りかざした源吉の一刀下って豪傑楢山佐渡の首が飛んで仕舞うた。斬れ過ぎる程によく斬れた。かくてそれぞれアトかた付けの始末も済み、血に染まった品々は報恩寺境内に埋づめ、遺骸は佐渡の遺族に下げ渡されて聖寿寺に埋葬した。知るも知らぬも皆なおしみかなしまぬものはなかったのである。記者、この頃出版されたる大日本文明協会の「欧米人の日本感」なるものを瞥読するに、中にグランド将軍の日本紀行なるものがある。その大久保利通が暗殺された条に彼の横死は恰もリンカーン大統領の死が合衆国に及ぼせし如き甚大の印象を日本国民に与えた(中略)大久保の死は日本の修覆にすへからざる損失なりと記してある。佐渡は固より暗殺された訳ではないが、南部の佐渡はこの場合丁度日本の大久保の場合を縮図したと同じ訳合ひで、南部藩に頗る甚大の印象を与えたばかりでなく、修覆すべからさる損失ともなったのであると感じた。若し彼がために代え首を用ゐられべきやうな都合のよいことでもあって、幸いに寿命を保つことでも出来たならば、相当に面白いこともあったであらう。今年九月伯爵南部利淳君来盛せられて滞在中、一日東條中将・太田家令等を拉して報恩寺を見舞はれた住職佐伯旭庵師伯爵一行をこの佐渡が死に就ける書院へと請じて、ことわけのあらましを物語りたるに、一行当時を追懐して憮然たりしといふを聞いたので、記者もまた彼が俤を記憶の中に呼び起こし書くとはなしに、うろ覚えを綴ってみたものであるが、固より資料を準備とて取りかかった仕事でもないから、誤脱の免るべからざるは勿論である。唯もしこれによって共に楢山佐渡を追憶するものあらば記者の望み足る次第である。    



【参考図】一
楢山家略系図
                          



┏多代  南部弥六郎義晋室
┃    中館晃一弟晃二
┃南部信賢二男繁蔵 ┠━━━光枝
南部安信┳晴政━晴継                    ┃      ┠━━さと
┣高信━信直━利直                 ┣隆吉━━━━たね
┣長義 南・下田氏祖                ┣糸    安宅正路室
┣信房┳政頼 石亀氏祖               ┣富    奥瀬与七郎室
┃  ┣義実━直隆━隆好━隆屋━隆尚━隆虎━某┳隆冀╋隆則(行蔵)
┃  ┣義治                 ┃  ┣     向井長豊室
┃  ┗康実                 ┃  ┣     桜庭祐橘室
┗秀範   毛馬内氏祖            ┃  ┣     南部泰次郎室
┃  ┣     漆戸源次郎室
┃  ┃

┗列子
┠━━━━┳利義
南部利済   ┗利剛
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濤庵迂人(波岡茂樹) 「楢山佐渡」を読む         
舊暦散人(谷河尚忠)  「半白老人の楢山佐渡と濤庵迂人批評とを併せてこれを読む」
濤庵迂人(波岡茂樹) 「再び楢山佐渡」を読む ?舊暦散人に答ふ? 
舊暦散人(谷河尚忠)「濤庵先生の再び佐渡を論ずる」といふ一篇に就て
白髯翁(谷河尚忠) 『戊辰前後の楢山氏』


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