盛岡藩の街道と一里塚 8 領内一里塚に関する論考


                 1. 草間俊一 説
                 2. 板橋 源 説
                 3. 細井 計 説

 1.草間俊一説
草間俊一氏(故人・当時 岩手大学名誉教授・岩手県文化財審議委員)は『盛岡の一里塚』盛岡市文化財シリーズ第十七集 昭和6六十二年の中で、諸説を総括した形で次のように述べております。

  一里塚の築造について、慶長九年五月に諸国の■塚、ことどとくに成功すとある諸国の■塚は全国を意味し、岩手県のものもこの年に完成したと一般に考えられているが、これについて板橋源氏は『篤焉家訓』(南部藩の故事に明るかった市原篤焉?弘化三年一八四六没?)に「慶長九年甲辰二月四日に江戸ヨリ諸国道中筋江一里塚被仰付候、公儀、右為御奉行大久保石見守御廻り、同十五年庚戌年出来」とあるのによって、慶長十五年(一六一〇)に完成したと見るのが至当であるとしているが、細井計氏は慶長九年二月に幕府から一里塚築造の命を受け盛岡藩は、同年中に最善の努力を払って、奥州道中の一里塚は大体完成したものと思われる。当時の幕令が、至上のものであったことを考えれば、当然のことである。なお、『篤焉家訓』の「同十五年庚戌年出来」という記事は、脇往還一里塚が完成したのが慶長十五年(一六一〇)ということであろう。
          註 ■ 土へんに候

  何れの見解が正しいか断言し難いが、私は板橋氏の意見を支持したい。というのは、慶長九年と云えば関ケ原の役の勝利によって、徳川氏の覇権が確立し、慶長八年には家康は征夷大将軍に任ぜられているが、慶長九年と云えば幕府体制が確立し、将軍の命令が絶対なものとされても、一里塚の築造が全国的に実施されたものかどうか、東海道・中山道・北陸道など「右大将家より本多佐太夫・永井弥右衛門奉行に被仰付、東海道・中山道より築き初むるというた中央主要街道であって、奥州道中のうち五街道に入る白河までで、その他各藩の一里塚はそれに準じて、次第に築造されて行ったのであって、同年五月までに全部が完成したか疑問がある。板橋氏の云うように慶長十五年には南部藩の奥州道中の一里塚が完成したと見る考え方を支持したい。脇街道が慶長十五年に整備したとすることにも賛成し難い。

 というのは脇街道の宮古街道は『宮古由来記』によれば、「寛永十八年(一六四一)従森岡被仰付候に付而は、三閉伊の道法相改、七里塚築之申候様に被仰付候。依之、小元助兵・船越新左衛門両人、三閉伊道法相改、四拾弐丁を壱里と定め、七里詰の塚を築立申候、宮古御水主丁の橋の左右に槻木寛永二十年に植」とあるのによれば、脇街道の宮古街道が整備され、七里塚が築かれたのは寛永十八年である。勿論、これより先に三十六町一里の一里塚が築かれたことも考えられるが、宮古街道の整備されたのは慶長十五年よりおくれたと考えたい。


註 宮古街道は、新道付け替えの歴史であったように伝えられています。『宮古由来記』の歴史批判が必要であることは、南部信直が幼年時に宮古隠遁していたとする説などと併せ考えなければならない問題が含まれていると考えます。本書は南部叢書に収録されています。


  草間俊一氏が支持するとした板橋源氏(故人・岩手大学名誉教授・岩手県文化財審議委員・岩手県立博物館長等歴任)の説とは次のものです。  


 2. 板橋源説

   板橋源『盛岡市一里塚調査報告書』盛岡市教育委員会  昭和五十年三月による考察

要旨
南部領内奥州街道の一里塚は慶長十五年に完成したとみるのが今の所至当と考える。しかし、その後の道路付け替え・改修等により年代がくだるものもある。たとえば、岩手県稗貫郡石鳥谷町地内に残存している江曽一里塚(県指定史跡)は慶長十五年から四十八年後の明暦四年(七月二十三日、万治と改元)に新しく築造されたものである。  要旨文責 工藤利悦

   
 
    南部領内奥州街道の一里塚の築造年代

 一般に、一里塚は慶長九年、二代将軍秀忠が家康の命令によって、江戸日本橋を起点として東海・東山・北陸の三道に一里ごとに敷幅方五間の塚を道の両側に相対して築き、その頂上に榎(時に松)を植えさせたとうのが通説のようになつている。

 しかし、その詳しい月日は必ずしも明らかでない。『徳川実記』は「家忠日記」「当代記」「慶長年録」「寛永系図」などを参照して編集したものであって、慶長九年二月四日条に「右大将殿の命として諸国街道毎に■塚(世に一里塚という)を築かしめられ、街道の左右に松を植えしめられる。(中略)東山道は山本新五左衛門重成」(新訂増補国史大系第三八巻104頁)と記し、さらに同年五月条の末尾に「是月、先に右大将殿より命ぜられたる諸国の■塚、ことごとく成功す」(同上書211頁)と記してある。南部領は陸奥国の一部てあったし、そして陸奥国は東山道に所属していた。そうであるから東山道の一里塚はすべて慶長九年二月に築造命令が出て、同年五月完成したように見えることから、南部領の一里塚も、そうであったように解釈されてきた。『岩手県史』も、この解釈に従っている(同第五巻1191?2頁)。しかし「当代記」(『史籍雑纂』第二冊84頁)には「慶長九年八月、当月中、関東従右大将秀忠公、諸国道路可作之由使相上、広さ五間也、一里塚五間四方也、関東奥州迄右之通ナリ」とあって『徳川実記』の記事とはくいちがっている。
 そこで『大日本史料』第十二編之二は、月日を決定することを避け、単に慶長「九年トシテ月日を書セザルニ従フ」と特筆註記している。いまのところ、これが穏当な見解である。
                 註 ■ 土へんに候


 さて、南部領は当時の陸奥国の一部であり、陸奥国は東山道に所属していたのであるから、通説に従えば南部領内の奥州街道の一里塚も慶長九年に築造されたもののようにみなされていたし、また、そのようにも解釈できるようなことが『郷村古実見聞記』や『南部史要』にも記載されてある。しかし、それは誤りであって、南部領内の奥州街道の一里塚は慶長十五年五月にできたものらしい。この考証はやや長文にわたるが、つぎに述べておくことにする。

 『郷村古実見聞記』という書物は南部藩の阿部知義の著作で、「文化元甲子年臘月十五日」という自序があるから慶長九年から200年もあとの記述である。根本資料というわけにはいかない。まず、この点に注目しておいてほしい。

 さて、この書には
  諸国壱里塚始之事 
  慶長九甲辰年、依台命、山本新五左衛門、榎本清右衛門下向。東奥の駅路に壱里塚を
  為築、此年、五畿七道ともに司職之者蒙台命勤之    (南部叢書第四冊71頁) 
とみえているので、南部領内の奥州街道の一里塚も他の主要街道の一里塚と同様に慶長九年に築かれたものだという説の根拠とされていたのである。しかし、この文意は実に曖味である。「諸国」とか「東奥」とは記してあるが、「南部藩領内の一里塚」とも「奥州道中の一里塚」とも明記していないからである。

 そこで、幕府が一里塚築造を命じた慶長九年という明白な年代に着目して、「東奥」の一里塚もこの年に築造したと、推定して作為した記述ではないかという疑念がわいてくるような、そんな書きぶりの記事である。

 また、『南部史要』(菊池梧郎著、明治四十四年出版)の「慶長九年二月、幕府の命により領内道路の里程を築く。一里は三十六丁とし塚の上には榎を植う」という記事も、一里塚築造に着手したのも、完成したのも、共に九年の年なのか、それとも完成したのは慶長九年より後のことなのか、さらにまた、「領内道路」というのは奥州街道の本筋だけなのか、それとも脇街道を含めた領内全域の道路筋なのか、文意は必ずしも明確でない。さらに「慶長九年二月云々」という「二月」についても問題があることは、『大日本史料』を引いてすでにのべておいたとおりである。

 『南部史要』は、引用文献として「篤焉家訓」をもあげているのに、同書にある一里塚に関する記事を引用していないのは、まことに不審にたえない。「篤焉家訓」は、南部藩の故事に暁通していた有名な博識者市原篤焉(盛岡の人、名は忠寄、通称謙助、篤焉はその号である。弘化三年一月三日没)の著である。同書には、「慶長九甲辰二月四日、江戸ヨリ諸国道中筋江一里塚被仰付候。公儀、右為御奉行大久保石見守御廻り。同十五庚戊年出来」とある。この詳しい記事によって、「東奥」南部領内の奥州街道一里塚は、慶長十五年(1610)五月に完成したとみるのが、いのとまころ至当てあろう。(中略)、念のため蛇足をくわえるならば、南部領内に現存している一里塚のすべては慶長十五年の築造とはいいきれないのである。部分的には、その後、道路改修により年代がくだるものもある。たとえば、岩手県稗貫郡石鳥谷町地内に残存している江曽一里塚(県指定史跡)は慶長十五年から四十八年後の明暦四年(七月二十三日、万治と改元)に新しく築造されたものである。岩手郡玉山村地内の「新塚一里塚」も、その名称からみると、どうも道筋付け改え後の築造らしく思われる。

註 明暦四年に新造されたことは次の記録によって、改修工事の結果であることが知られます

 一、南部廿八代山城守重直公明暦三丁酉年正月十八日十九日江戸大火事に付、諸大名御暇被下、重直公三月朔日江府御発駕同十五日御下着、郡山より津志田まで御出御領内街道曲多く悪敷候間、新道に御直被成度被仰出、尤街道の両脇に松を植、日光街道之様可仕旨仰付、花巻御代官盛岡・郡山・雫石の方は、日野左近兵衛何某盛岡より奥筋は工藤左馬之介・町野弥市右衛門蒙之、並木之松植し        『祐清私記』乾

 一、山城守重直公御代、明暦四年、御領内の馳曲り又は山道も新道造て、日光道のことく左右に松を植、ことことに行程を可吟味と有、花巻筋は御城代、盛岡・郡山・雫石道は赤前治右衛門・上野左近兵衛、奥筋は工藤右馬助・町野清左衛門等承り、新道を造り或は曲を直し、街道幅左右の除地とも此節相極る、享保九年四月四日御沙汰被成候はゞ、先達て被仰付候街道、並木松の根より四尺は土手代分、外に二間引除杭相立、都合二間四尺の内へ堰相通し候様被仰付候、此旨御心得可被成と、盛岡五御代官より、郡山・花巻二郡迄御沙汰有之
           『郷村古実見聞記』第二


 3. 細井計説

次に草間俊一氏が否定された細井計氏(当時岩手大学教授・現岩手大学名誉教授・前岩手県文化財審議会委員長)の説は、『奥州道中』岩手県文化財調査報告書第三十六集 主専門調査員草間俊一外 岩手県教育委員会 昭和五十四年三月発行の「並木と一里塚」で考察されたものです。

要旨  盛岡藩領の一里塚は、まず、慶長九年(1604)に奥州道中のものがほゞ完成し、その脇往還の一里塚の築造には、その後数年を要し同十五年になって、領内の一里塚のほとんとが、一応完成したものと思われる。そして、このような領内の一里塚は、その後の道路の改修や切替などによつて、随時、その補修を必要としたものと考えられる。したがって場所によつては、慶長以降になって、新らしく一里塚が築造されたところもある。

    1 並木と一里塚

 五街道をはじめとする江戸時代の往還は、「其場に寄不同に候得共、幅弐間以上無之候而は駄荷行違も難成」(『駅肝録』)とあるように、道幅二間以上を標準としていたらしい。一般に、大道三間・中道二間・小道一間といわれており、五街道をはじめとする主要な往還は道幅三間、それにつぐ脇往還は二間、そのほかの小道が幅一間程度を標準としていた。

 往還の両側には、主として松をもって並木が植えられた。延宝七年(1679)三月には、奥州道中の並木の松が荒れて、数多く切れ目ができたので役人を派遣して見分させた上で、相応の松─それも大木では根がつきかねるので、小ぶりの松を植えさせる。その人足扶持は今回は幕府から出す。「並木之松荒候儀ハ、日来心付無之故」で、「油断之至」であるから、「向後荒候ハゝ、其所之もの可為越度候間、常々心を付ケ、自然枯候歟、風雨ニ而倒候儀有之時ハ、所之老役ニ掛ケ、植立候様急度申付可被置候」(『徳川禁令考』)と、並木の松の植立について伝達されている。

 このように五街道の並木については、「手入植足並小土手築立、田畑境定杭建等之儀」や「立枯植足等之儀」(『駅肝録』)が、道中奉行にしばしば伝達されており、その上、並木が旅人の往来の助けにもなるので、立枯などの跡地には苗木を植えるよう、安永年中(1772?81)と寛政元年(1789)に、次のごとく宿々へ申触れられている。

五街道宿々往来並木之儀は、旅人往来之助にも相成候趣ニ有之、右立枯風折根返等有之候節は、其支配御代官より相届、右之分伐<取、跡地え苗木植付、追而伐取候木品は、御勘定所え相伺、直段等吟味仕候上、御払之積り申渡候事
但、私領往還筋村方之儀は、並木立枯風折取返等有之、相届候節は、右之分取払跡地え苗木植付候様可取計旨附札を以申渡候事              (『駅肝録』)

 右のような事情は、盛岡藩の場合も同じようであった。たとえば、家老席の日誌である『雑書』をみると、延宝元年(1673)一〇月二五日、家老連署による並木の保護と植樹に関する「証文」がのせられている。それによれば、仙北町同心町のはずれから鬼柳舟場までの奥州道中と、夕顔瀬より雫石町までの秋田街道の両側に、先年から植えておいた松や漆が枯れて、所々に間隙が生じたので、延宝三年(1675)から向う三年間、「枯木壱本も無之様に、壱間に松にても漆にても壱本宛」植えることを命じている。そしてさらに
 一 湊之苗は此方より可遭候、苗無之候はゝ漆之実可被遣候間、ふせ置段々植可申事
 一 松に虫付候ハゝ油断不仕其方共走廻、虫多不成候内に精を出取可申候、若又精出取候上にも、虫大に付候て不被取尽候ハゝ、吟味之上、人足可被仰遭候也

とも記している。

 一方、一里塚については、「大道中路凡テコノ塚ヨリ三十六丁ニシテ道路ノ左右ニ必スコノ塚ヲ置ク」とあるように、三六町(一里)ごとに設置された。一般に、一里塚は将軍徳川家康の命を受けた右大将秀忠が、東海・東山・北陸の諸道を修理し、一里ごとに敷幅方五間の塚を道の両側に相対して築かせ、その頭上に榎・松・杉などを植えさせたといわれている。『徳川禁令考』は慶長九年(1604)二月四日「諸海道ニ一里塚を築く事」と題して、『天寛日記』を引用して次のごとく記している。

将軍家被仰出、諸海道ニ一里塚つき可申由、右大将家江被仰越、則諸代官ニ被仰付、道中ニ是を築、道之両方ニ松を植可申由、右大将家より本多佐太夫、永井弥右衞門奉行ニ被仰付、東海道中山道より築初むる、当代年録、但、月日雖不詳、今拠家忠日記慶長日記、係今日、慶長日記云、公へ松ヲ植申へキカト問処ニ、ヨノ木植サセヨト有シヲ聞チカヘ、榎木ヲ植シトイヘリ……………

 また、『徳川実紀』の「東照宮御実紀」慶長九年二月四日条には、「右大将殿の命として、諸国街道一里毎に■塚(世に一里塚といふ)を築かしめられ、街道の左右に松を植えしめらる」とあり、さらに同年五月条の末尾にも、「是月、先に右大将殿より命ぜられたる諸国■塚、ことごとく成功す」とある。これらの記述が正しいとすれば、「■塚」とは一般に一里塚といるものであるから、諸国の一里塚は、慶長九年(一六〇四)二月に徳川秀忠の命令によつて築造が開始され、同年五月には完成したことになる。      
                  註 ■ 土へんに候

 しかし、一方、『当代記』には「慶長九年八月、当月中、関東従右大将秀忠公、諸国道路可作之由使相上、広サ五間也、一里塚五間四方也、関東奥州迄右之通ナリ」ともあり、先きの『徳川禁令考』の末尾にも、『当代記』と同様な記事がみられるので、一里塚の築造開始は慶長九年八月ということになる。

 したがって、慶長九年に幕府が一里塚の築造命令を諸国に出したことは確実であるが、その着手および完成の月日については、今のところ、ともに不明といわざるをえない。

 次に、盛岡藩領の一里塚について、簡単に触れておこう。通説によれば、領内を南北に走る奥州道中の一里塚は、慶長九年(1604)に築造されたと考えられているが、板橋源氏は慶長十五年五月に完成したとみている。『郷村古実見聞記』には、「諸国壱里塚始之事」として、「慶長九甲辰年、依 台命、山本新五左衛門、榎本清右衛門下向、東奥の駅路に壱里塚を為築、此年、五畿七道ともに司職之旨、蒙台命勤之」とある。ここでいう「東奥」とは、盛岡藩をさしていることはいうまでもない。さらに、「御当家秘書」ともいわれた『篤焉家訓』には、「慶長九甲辰二月四日、江戸ョリ諸国道中筋え一里塚被仰付候、公儀、右為御奉行大久保石見守御廻り、同十五庚成年出来」ともある。この両書に『徳川実紀』の記述を合せて考えれば、慶長九年二月に、幕府から一里塚築造の命令を受けた盛岡藩は、同年中に最善の努力を払って、奥州道中の一里塚を大体完成したものと思われる。当時の幕命が、至上のものであったことを考えれば、当然のことであろう。なお、『篤焉家訓』の「同十五庚戌年出来」という記述は、脇往還の一里塚まで完成したのが、慶長十五年(1610)ということであろう。

 したがって、盛岡藩領の一里塚は、まず、慶長九年(1604)に奥州道中のものがほゞ完成し、その脇往還の一里塚の築造には、その後数年を要し、同十五年になって、領内の一里塚のほとんとが、一応完成したものと思われる。そして、このような領内の一里塚は、その後の道路の改修や切替などによつて、随時、その補修を必要としたものと考えられる。したがって場所によつては、慶長以降になって、新らしく一里塚が築造されたところもある。



 僭越ながら、諸説ともに、『雑書』(家老席日録)寛永二十一年十月十八日条に散見する、脇街道の一里塚建設に関連した次の記録が読込まれていないことを指摘しなければならない。

  寛永二十一年十月十八日
  一、御家中脇道通一里塚為打に今日方々ヘ遣す
                                 工藤利悦







領内の街道
 五街道と奥州道中
 盛岡と江戸間の街道名
 領内の街道
 1 旅人が旅行出来る道
 2 古道
 3 道普請
 4 巡見道
 5 掃除
 6 課税

並木の状況
宿村大概帳から見た日光道中・奥州道中
『岩手県管轄地誌』から見た
 奥州道中(函館街道)道路幅員
  
 その他街道の道路幅員

一里塚の状況
  【参考】宿村大概帳から見た日光道中・奥州道中の塚立樹
  南部道

南部道


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