八戸藩の分封 3 分知か新知か 1 諸説

   .諸説

        石井良助『日本法制史概要』第17章相続法
    江戸時代の武士の相続は封禄相続と家名相続との両概念を含
   むが、その中でも重んぜられたのは封禄相続である。それは名
   跡相続の後身として単独相続であり、ただ被相続人よりの願出
   に対して許され許可されたときのみ、分知配当が行われた。封
   禄相続の原因には、死亡と隠居とがあり、死亡による相続を跡
   目(万石以上は遺領)相続、隠居による相続を家督相続と呼ん
   だ。被相続人が生前に家嫡をさだめないで死亡するときは、そ
   の家は断絶(家名断絶)した。
    八戸藩の成立についての解説書の多くは「法律違反による処
   罰」という形をとり「相続ではなく新藩の創設」であるとする
   意見(八戸市博物館等)が大勢を占めている。この説は『祐清
   私記』等を論拠とした盛岡市史を基調にしているものと窺われ
   る。
    八戸市博物館『八戸藩』の立藩に関する解説は、盛岡市史と
   同様に『祐清私記』等を論拠としてる点で替わりはない。その
   上で「江戸期265年間に、潰された藩は146件、リストラにあ
   たる減封、すなわち石高を減らされたり領地を換えられたりし
   た件数は、27件にのぼる。そのうち南部藩と同様の「無嗣断
   絶」は59件で 全体の34%を占め云々」との分析も試みてい
   る。しかし、八戸藩の立藩に際し、はたして「南部家は無嗣子
   による断絶」という事態があったのだろうか。寛延年間頃に成
   立した『祐清私記』は重直批判の著である。本来、基本的には
   『祐清私記』の史料批判から行われて然るべきと考えるが為さ
   れていない。
               

 
           『祐清私記』について、基本的私見 
      『祐清私記』の史料価値は否定しない。著者伊藤嘉兵衛
     祐清は譜代の士で高五十石。奥使勤中、円子記精親と共に
     諸士系図および武器古筆等調用掛を命ぜられ編纂したのが
     「系胤譜考」であり、その際手控として残したのが『祐清
     私記』である。『祐清私記』は私記であり私見が多い。そ
     れは取りも直さず、当時、中・下級の譜代諸士が、どの様
     な視点で物を見つめていたかを伊藤祐清が代弁しているも
     のと知られ、必要不可欠、貴重な史料であることは誰人も
     否定する人はいないと思う。裏返しに云えば、当時の知識
     ではあっても、藩の中枢に居った人物でない。当然幕府と
     藩上層部の交渉過程を知り得る立場の人物でもない。にも
     拘わらず、これまでの史家は、何故か無批判に藩政史を紐
     解くための基本資料と位置付け、ことにも重直批判は『祐
     清私記』によって方向付けられて来たきらいがある。現在
     も厳然として最右翼に君臨している。『祐清私記』を捨て
     る要は全くないが、基本的な藩政史料は南部家旧蔵文書と
     して広く公開されている現状であり、それら史料の活用を
     期待したいものである。                 
                           工藤利悦
 
 
 「南部家は無嗣子による断絶」「法律違反による処罰」。
  そのような見方は何処から生じるものなのだろうか。
 『恩栄録・廃絶録』(日本史料選書6・近藤出版社)を紐解いても、八戸藩に関する事項は『恩栄録』の中に、「分知」とはある。因みに『廃絶録』には延べ276家の大名が除封又は減封されており、その内に「無嗣子断絶」の家は76家(八戸藩の分封2を参照)を数えるが、南部家は含まれていない。
 『日本法制史概要』が云うように「被相続人が生前に家嫡をさだめないで死亡するときは、その家は断絶(家名断絶)した」と云うのであれば、「(将軍家綱は)御けしきうるはしく、やがて其人をえらび賜はるべきよし仰下る」(『徳川実紀』厳有院殿御実紀巻24」寛文2年9月晦日条)とあり、重直の臨終の 時には逐一老中まで報告し、足繁く典医や見舞の使者が来訪している。
 『秘記』乾 寛文4年9月16日条によれば、同11日附書状として「殿様御大切之由御老中様ぇ被仰上候へは、成程御養生仕候様、御跡式之儀は兼て御養子御訴 訟被成置候付、自然有之候共、相違有之間敷候間、左様相心得と御念頃に被仰渡、御医者衆も以て御奉書被仰付候間、左様心得何もへ可申 聞候由申来云々」と見える。
 『武家提要』の文言を借りるならば、依台命に分知という点に特色はあるが、『日本法制史概要』にみる基本的な手続きを行っての上での依台命に分知であり、「法律違反による処罰」の論拠は何処からも垣間見ることは出来ないことを強調したい。

   ○ 八戸藩の記録
イ.
 南部山城守嗣子無之付遺領寛文四年十二月六日相続、両家被仰付故左衞門佐へ初て二万石被下置、御代々御朱印頂戴仕分知にて無御座候                                
             八戸市博物館所蔵「八戸南部家文書」

ロ.   両藩の取り交わし文書
    (この文書は八戸藩家老より盛岡藩家老宛書状の奥書部分)
寛文四年十二月六日、於酒井雅楽頭御宅、山城守様御跡目拾万石之内、大膳大夫様へ八万石、左衞門佐様へ弐万石被仰付候、同五年二月御両人様御相談、御知行分被成、御老中様へ被仰上候処、弥御尤に被思召候て、御挨拶被成候時、阿部豊後守様被仰候は、為末代之に候間、内証にて領境被立置可然由被仰渡候付、御両殿様御領境御究可被置と被仰合候へども、左衞門佐様御遠行故被相延候、御領分之節、於江戸に帳面を以村高御分被成候故、田地入込之村々有之候、依之寛文十二年大膳様武太夫様御相談被成、御境目被相立、大膳様御家来下田覚左衞門・三上太兵衛・七戸長右衞門、武太夫様御家来池田仁左衞門・玉井与兵衛・佐藤五郎右衞門出合、田地入込之村々取替相究、絵図証文取遣無出入相済候、仍て為後代如件
                  秋田忠兵衛  重判
  寛文十二壬子年閏六月廿三日   楢山善左衞門 重判
                  中里弥次右衞門 重判
    八戸弥六郎殿
    桜庭兵助殿
    楢山七左衞門殿
    奥瀬治太夫殿
            盛岡市中央公民館所蔵「南部家旧蔵文書」
   
  重判 署名に花押と黒印が押捺されている形式
     朱印は別として、重要度から重判・花押・黒印・無判
     があった。

   ○ 盛岡藩の記録
ハ.
 寛文四甲辰年九月十七日
 殿様去る十二日巳刻御遠行被遊候由申来之、右之段於江戸申上候へば、御跡式弥無相違可被仰付候間御家中之者騒申間敷由御老中様被仰渡候由申来                   『秘記』乾
ニ.
(寛文四年)十月八日、先月廿七日稲葉美濃守様より拙者共に召寄為上意被仰渡候は、殿様御跡式御存命之内御願之通無相違御忌明候ハゞ可被仰付候間三人之内壱人早々罷下り仕置可致由被仰付候、此方に罷有候御家中安堵仕候、此方にても何も可申渡由勘左衞門一両日中御下し候由、九月廿九日付申来、今日於御城申渡
           『秘記』乾、『歴代御記録』山城守様御代
ホ.
 寛文四甲辰年十二月十二日
一、山城守重直公御跡式隼人様ぇ八万石、数馬様ぇ弐万石、十二月
 六日被仰渡候由、鬼柳蔵人同心教申刻下着 但、雑書に如此有之也
一、酒井雅楽頭様にて阿部豊後守様・稲葉美濃守様・久世大和守様御 
 列座にて雅楽頭様被仰渡候由
 お北様、中野吉兵衛御内室様へ重信様より御書に
  うた殿(酒井雅楽頭)へ被為呼惣様御としより衆被為寄被仰渡候
  は山城守跡目われらは八万石、数馬に弐万石被下候、
  山城守跡目と不存、しん儀に御とりたて被召仕候と存、
  随分御奉公可申上由被仰渡候由為御知也
             『書留』「歴代御記録 大源院御代」 
      一生懸命、忠勤に励むようにとの義
ヘ.
 重直公御卒去重信公直房公因台命御相続之事
 山城守重直公寛文四年辰九月十二日於江戸御卒去、御年五拾九歳、御相続之御子無之に付、十一月十二日江戸御屋敷より盛岡え御飛脚到来、御舎弟隼人様・数馬様え従公義御用被為有候間、早々御出府被成候様、去る六日被仰出候旨申来に付、御両人様十六日御発駕、同廿七日御上着被遊、其段御届被成候処、十二月六日酒井雅楽頭様御宅え御両人様被為呼、御老中様御列座、被仰渡候は、山城守家相続隼人え被仰付、高拾万石之内分地二万石数馬え被下置候由被仰出、同月廿八日隼人様被叙爵従五位下、大膳大夫、数馬様御同官にて左衛門佐に被為成             『篤焉家訓』壱之巻

ト.
 宝暦六年江戸御留
 利雄公御代南部遠江守様より凶作に付公義え御拝借米御頼、此方様えも御相談無之御願上、御老中堀田相模守様より久世忠左衛門様を以御添心被仰通候様被仰遣、御代物千貫文被遣候事。御本家持の御方は何事も御本家え御相談、御本家の加印無之候ては公辺え御願筋埒明不申候由            『篤焉家訓』貳之巻
           盛岡南部家は本家に変わりない
           八戸南部家は分家であることを云っている

   ○ 第三者の記録
チ.
 寛文四年十二月六日条
 陸奥国盛岡城主南部山城守重直、かねて公〔四代将軍徳川家綱〕の御旨にまかせ養子せん事こひ置てうせしかば、遺領十万石を弟二人に分て、隼人重信八万石、数馬直房二万石給ふ、
             『徳川実紀』厳有院殿御実紀巻二十九
リ.
 寛文四年十二月六日条
                 南部山城守
右跡式高十万石之内、八万石隼人、弐万石弟数馬、右は今朝於雅楽頭宅舟(舟越)伊豫守并彼家家臣毛馬内九左衞門・奥瀬治太夫招き、老中列座、上意之趣演達之
 山城守養子願之儀、年来及言上可仰付処、其内山城守死去、弟両人有之段及御聞、為同性之間遺領被分下     『柳営日次記』

ヌ.
 寛文八年八月廿一日条
 陸奥の国八戸領主南部左衞門左直房遺領二万石を、長子武大夫直政につがしむ、この直房は故信濃守利直が李子なり、兄山城守重直が卒せし時、寛文四年十二月六日舎弟等に封地分たしめらる。      
            『徳川実紀』厳有院殿御実紀巻三十七
ル.
 元禄五年十二月廿七日条
 陸奥国盛岡城主南部大膳大夫重信致仕し、其子信濃守行信に原封十万石をつがしむ、この重信は故信濃守利直が二男なり、はじめ家人七戸隼人直時が家をつぐ、兄山城守重直が子吉松早世し、養子内蔵助もうせて後重直卒しければ、寛文四年十二月六日所領を分けて、弟重信に八万石、数馬直房に二万石給ひき、重信その十五日見参し、同じ十二月二十八日叙爵して大膳大夫と称し云々
            『徳川実紀』常憲院殿御実紀巻二十五
ヲ.
一、南部大膳大夫重信
 (前略)評に曰、(息行信の評に触れて)
抑、重信南部家嫡相続之事、全く嫡伝筋目にも非ず、伯父重直に実子有らば、父重信・息行信父子共に田舎に蟄居し、其の名を知る者も有る間敷処に、不意に為養子と、幕下に被召出、入諸侯之数(下略)         
                   『土芥寇讎記』巻第十
    重信は家督相続の時、重直の側室隆高院を国母としている。
    (正室加藤氏は既に離別していた)

    於陽方 岸本善左衞門広俊女
     (重直公)恩遇甚厚し、公御晩年に至、所生之子無之とい
     へども、公薨し玉ひて後に(重信公は於陽方を)国母を以
     被称、隆高院殿光圓庭照大姉、延宝七己未年十一月十八日
     卒 葬聖寿寺              『外戚傳』
    重信は隆高院を重直 の嫡室として、隆高院との間に養子縁
    組を結んだことを伝えている。
ワ.
一、南部遠江守源直政 従五位下
   室は南部信濃守行信娘
 本国・生国ともに奥州、童名武太夫、左衞門佐直房の子、信濃守利
 直には孫也、寛文八年戊申八月廿八日家督相続、延宝二甲寅十二月
 廿七日叙従五位下、任遠江守居所奥州之内八戸 自江戸百六十九里 
 本知二万石、
  但、配分の知也云々〔下略〕
                  『土芥寇讎記』巻第三十三
カ.
 寛文四年十二月六日           信濃守利直七男
一、分知二万石    奥州八戸   南部数馬直房
                       『恩栄録』
ヨ.       分知配当家督之部
○本家に無之本家同様之家
 ・紀州家と松平左兵衛督
   鷹司信房の四南信平、三代将軍家光夫人満媛弟
   一説に駿河大納言忠長遺腹の子と云ふ 上野吉井一万石
 ・丹波亀山五万石 信濃松本六万石
     松平紀伊守と松平丹波守 
 ・加州と南部信濃守
○依台命に分知
 ・南部甲斐守(註 陸奥八戸二万石)
○分知にて別御朱印
 ・出羽亀田二万石  上総飯野二万石
    岩城伊豫守    保科弾正忠
○本家御判物書載
 ・陸奥一関三万石  伊勢久居五万三千石
    田村左京大夫   藤堂佐渡守
○本姓仲山氏にて  
    黒田豊前守
 伊達家分地にて別家   田村左京大夫
 佐竹家分地にて別家   岩城伊豫守
 津軽家分地にて別家   那須与市郎 万石以下
 溝口家分地にて別家   辺見隼人  万石以下
 代々家督本家より相続 松平近江守
 代々本家より奥方嫁娶 島津筑後守
                       『武家提要』
 将軍の下命とし、重直の願という形はとられていないが、重直遺領の分知であることには、聊かも変わりはない。
 重直逝去後の相続は、既に将軍家へ願上のことであり、幕府はその付託に応えた処置といえよう。
    
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1 重直の嗣子問題と、重信・直房の相続まで
2 無嗣子断絶の諸大名一覧
4 分知・内分の諸大名一覧  拠『恩栄録』『徳川実紀』
5 八戸藩の領地 盛岡藩と八戸藩の判物と朱印状 表高
6八戸藩の領地 領境の確認 内高
8志和郡内藩境関係史料
9志和郡内藩境関係史料 2  藩境塚


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