八戸藩の分封 1 重直の嗣子問題と、重信・直房の相続まで


 寛文四年に南部家廿八代重直が死去した後、同年十二月六日に遺領十万石の内八万石を二弟重信が相続、残り二万石を李弟直房が分知せられて八戸藩が創立されている。八戸藩分封に関連した各論は、何れも無嗣子のまま死去して断絶、その後、重信直房は新規取建とした論調が目立つ。はたしてその論調は史実を伝えているのだろうか。重直を取り巻く記録を時系列で鳥瞰することにする。

  最近の解説書に見る見解事例
   八戸市博物館『八戸藩』?大名の江戸と国元?に見る八戸藩設立に関する見解

 八戸藩の誕生

 寛文4年(1664)盛岡28代南部垂直が後継ぎを決めずに死亡したことから、幕府は盛岡藩10万石をいったんお家断絶とし、垂直の弟重信に8万石、直房に2万石を分け与えた。これにより、八戸藩は南部直房を初代藩主として2万石の家格で誕生した。

 八戸藩の誕生した寛文4年(1664)は、幕府から御三家を除くほぼ全ての大名に対し、その領知を承認する判物・朱印状が交付され、前年の武家諸法度の改定公布と併せ幕藩体制が完成した時期である。以後、そのシステムはほとんど変っていない。江戸期265年間に、会社倒産にあたる改易、すなわち潰された藩は146件、リストラにあたる減封、すなわち石高を減らされたり領地を換えられたりした件数は、27件にのぼる。そのうち南部藩と同様の「無嗣断絶」は59件で全体の34%を占め〉、そのほとんどが初期4代将軍までに集中している。潰されることはあっても新たに藩が生まれることはほとんどありえない、八戸藩が生まれたのはまさにそういう時代である。

 盛岡藩の場合、取り潰しを避けるという幕府の意向によって決定までに様々な内紛が起さている。しかし12月になって、重信ともう一人の弟直房が江戸に呼び出され、重信に盛岡領8万石、直房に八戸領2万石を与える裁定が下った。盛岡藩の処置にあたって幕府は「法律違反による処罰」という形をとり「相続ではなく新藩の創設」としたと「聞老遺事」や「厳有院殿御実紀」には伝えられている。一つの藩を二つに分けるこの処理は、後年様々な軋轢を生む要因となったともいわれているが、いずれにせよ、完成された体制下の大名家にとって、無嗣のまま藩主が死亡することはそのまま廃絶である以上、どのような形であれ、お家が存続し家臣が路頭に迷うことなく済んだ両藩の誕生は、当事者たちにとっては奇跡のような出来事であったろう。
 

 上記は、推して『盛岡市史』(第3分冊近世期上P80 、昭和37年7月刊)をベースにしている。但、何れの解説書とも、『盛岡市史』説をべーすにしている状況であり大同小異である。

      諸説の論拠 
 
  南部両家盛岡八戸と分る事 

 南部二十八代山城守重直公半白に〔半分黒髪、半分白髪〕及給ふまで世継御子ましまさず、これより先男子おはせしが早世仕給、重直公の弟七戸隼人重信、中里数馬直房と申せしか、何も御才覚疎からさる人なりしか、重直公如何成御所存あるや此人この内をも養子にしたまはず、其頃堀田加賀守紀正盛十万石領御末子内蔵助〔諱勝直、幼名虎之助、十八歳〕と申候を乞受させ世継と定給、既に桜田亭に迎為被給、父子の御契物有んと御土器を出し給ふ処、不思議や此土器何の故なきに二つ割れにけり、重信公怪敷被思召候得共さあらぬ体にて宣は、是は目出度吉相なり、頓て嫡孫を儲只今迎取たる養子と二人可成前表なりと祝給ひしなり、万治二年己亥四月十九日なり、然るに此養君程なく病付せ給ひて未七日不過、終に卒去給、〔此日万治二己亥年五月九日、行年十八歳〕其後将軍家綱公ぇ養子の事願せけるは養子願い事無用たり、遺跡之事は悪敷は御斗ひ有間敷、只病気の保養可致と有しかば、其後は養君之沙汰もなかりけり、然る処に重直公寛文四年甲辰九月十二日御年五拾九にて於江府卒去仕給ふ、法号有生院殿三峯宗玄、菩提所聖寿寺住持黙説導師、治国三十三年、殉死は塩川八右衞門仲為、十六ヶ月目に追腹也、累代各旧臣等御跡如何あらんと各心を砕処に、同三年冬十一月将軍家綱公より重信・直房兄弟江府ぇ参上可有由奉書以南部ぇ被仰下、二人共無程上着仕給ふ、十二月六日両人共酒井雅楽頭忠清台命之趣仰けるは、山城守無嗣子卒去しぬ、家久しく其上亡父信濃守利直東照大神君に忠功有之故、重直遺跡十万石を分八万石にて立させ給、兄重信に被下、相残二万石弟直房に被下新規御取建有処なり、二人共に父之跡と不可思、将軍家全御取建有処なり、難有可存旨演説せらる、兄弟謹て台命を承はらせ給ふ、重信謝詞を述給ふ、続て直房申させ給ひけるは、南部の家代々十万石之高を以禄を領来候、願くは是を全て兄重信被下置、某其領之内に付配分を受、将軍家ぇの御奉公何分にも可奉忠勤由被申給しかとも、将軍家御取立之御掟之上は強て難有辞退、直房終に台命に随奉る、時の人其精錬を感となり、同廿八日兄弟共に叙従五位下、重信大膳大夫、直房は被任左衞門佐、是より南部両家となり栄給けり、其後将軍綱吉公の御治世に至て重信貞実を御感有て天和三年五月七日営中ぇ被召、被四品事其上領知広き由聞召被及とて八万石之高を以十万石之高に上させ給はる、南部両家彼是十二万石之高に及り、誠に繁栄なる事ともなり
                       『祐清私記』乾  

                      
                  
           上記の説(亜流の説を含め)を伝える史書は沢山存在するが、中でも、最も古
           い時期に成立(寛保年間とされている)しているのは『祐清私記』である。
           『聞老遺事』『内史略』等は『祐清私記』を引用している。 

 
  二、重直の嗣子問題と、重信・直房の相続まで 


  重直子弟 

 利直──────────────────────────────────────────┐
┌────────────────────────────────────────────┘
├家直 兵六郎 母 家士今斑将監政明女
│   慶長十八年(1613)正月十八日卒
├重直 南部家二十八代山城守 幼名権平  初政直─────────────────────┐
│   母 蒲生飛騨守氏郷妹                               │
│┌───────────────────────────────────────────┘
│├某  南部永松丸  早世  母は加藤式部大輔明成女
││  註 没年不明 内史略前三は寛永八九年の誕生歟とあり
│├某  南部吉松丸  早世
││   慶安五壬辰正月七日卒於江府、九歳 
││   法号玉樹院殿立岩宗本 葬金地院 
│├某  南部久松   早世
││   実山田主水利長嫡子、山城守重直為養子、江府発駕之節、於道中高清水 
││    承応二癸巳十一月廿日卒、法号幼庵 
│├勝直 南部内蔵介   幼名虎之助 
││   実堀田加賀守正盛三男、為山城守重直養子、 
││   万治二己亥五月九日卒 十八歳 
││   法号桂雲院殿融岸了因
│├女子  承応三甲午十一月六日患痘瘡於江府卒、葬天徳寺、
││   法名冬雲院殿光岸周晴
│├女子 布岐 寛文七丁未二月十八日於江府卒、
││   法名林光院殿梅窓昌真、葬金地院
││                   『宝譜傳萬茎』  
││
││【参考】 普門院系図
││実は普門院浄圓長子
│└直清君 権之助 母小笠原氏 一本云、源守女 
│  重直公万治二年三月養公子となる、同三年八月十日卒す、
│   月心桂公大童子   『参考諸家系図』 巻十七 

│ 【参考】 宝譜傳萬莖(南部家系譜の一書 利正代まで記述)
│  ○重直公御系譜に洩れたるを追加す
│  一、重直公御末子権之助様、八幡普門院ぇ被下御養育也
│      『篤焉家訓』二十七之巻には『宝譜傳萬莖』を転写して同文あり
│      二説ともに他に傍証史料が見えず、その真偽は未確認

├政直 彦九郎 寛永元年十月廿三日卒
│    母 家士石井伊賀守直光妹
├女 糸子 また菊子 家士北左衞門直愛妻 延宝六年八月九日卒
├女 家士東七郎胤政妻 のち毛馬内左京亮為次妻
│  寛永十六年七月十六日卒
├女 志知子 最上源五郎義`俊 縁約ののち離縁
│  後 家士中野吉兵衛元康妻 母石井氏 寛文五年二月十一日卒 
├利康 南彦八郎 幼名申千代 鶴松 
│  寛永八年十一月廿一日卒
├重信 南部家二十九代大膳大夫 幼名彦六郎 母花輪内膳光房女
│  花輪彦右衞門、七戸隼人正重政 
├利長 山田主水 母山田九郎左衞門長豊女
│  寛文二年卒
└直房 始数馬 兄山田主水為養子、号山田主水
   寛文四甲辰年十二月與兄重信被台本統十万石之内分賜二万石、従是南部家分両家     
                   重直兄弟分は拠『南部家譜』 

      直房出自異説
 直房
 左衞門佐直房は利直の末子、重直の弟なり、(実は利直が末子主水利長の子、初め主水と云ひしなり)重直卒する時、八戸の地を分ち譲らる(二万石)、寛文八年卒しければ、遠江守直政、父に継ぎ延宝二年十二月二十七日に叙爵す、
                  新井白石『藩翰譜』第九下

         年 譜


   是迄通説とされてきたことと史実は違うように見受けます。次の事柄を注視してご覧下さい。
   重直は幕府に目されていた要注意人物なのか その死か


無嗣子死去という「法律違反?」に拠る、一端断絶と云えるのか


寛永21年1644   39歳
 この歳吉松丸生   (逆算)  
慶安4年1651  46歳
12月25日隼人様(後の重信)、藤右衛門御先立仕、御老中様へ御太刀目録にて御出『奥瀬家日記抜書』
承応元年1652    47歳
正月2日隼人様御名代之御礼御登城、甚右衛門・覚右衛門御供仕  『奥瀬家日記抜書』
正月3日吉松丸君夭 『増補国統年表』
正月25日黒沢杢殿と甚右衛門両人先立にて、松平出羽様、隼人殿御見舞、御振廻之由 『奥瀬家日記抜書』
承応2年165348歳
4月2日南部山城守重直大病により、使番齊藤左源太利政もてとはせ給ふ、『徳川実紀』厳有院殿御実紀巻5
4月2日山城守重直病気に付、為御尋上使齊藤左源太被遣、御内書は従前々於御城御渡被成、使者拝領物被仰付南部利敬直筆「旧記抜書」
4月10日殿様御違例に因て山田主水殿・久松殿未刻盛岡御出立 中野吉兵衛・江刺兵十郎御一所 重直公御養子主水殿長子久松君江戸御登之節於高清水御逝去『増補国統年表』
4月11日七戸隼人殿、毛馬内靱負・葛巻新六郎・日戸五兵衛・内堀織部名代浅右衞門、中里数馬殿発足五月三日七戸隼人殿・中野吉兵衛・葛巻新六郎・中里数馬殿下着『増補国統年表』
4月18日殿様御気色に付、隼人様・数馬様・吉兵衛殿・新六郎殿上着、同十九日何も下候様に被仰出候『奥瀬家日記抜書』
明暦元年165550歳
7月17日南部山城守重直(盛岡にて)大病により、請ままに医員久志本左京常倫をつかわさる、『徳川実紀』厳有院殿御実紀巻10
8月2日南部山城守病平癒し、医員久志本左京常倫かへり参る『徳川実紀』厳有院殿御実紀巻10
万治2年165954歳
3月 日普門院浄圓長子直清君 権之助 母小笠原氏 一本云、源守女 重直公万治二年三月養公子となる、同三年八月十日卒す、月心桂公大童子
他に傍証史料が見えないこと、および四月十九日に堀田家より勝直を迎えて嗣子としていることがあり、その真偽は未確認 
『参考諸家系図』巻17
4月19日南部山城守重直、子なきによて嗣子養なはんことを、かねて申請ふにより、堀田加賀守正盛が李子内蔵助勝直やしなふべきむね仰下さる 『徳川実紀』厳有院殿御実紀巻17
 万治3年7月7日条 堀田内蔵助勝直病死して子なければ、采地三千石を上野介正信に給ふ、内蔵助勝直は故加賀守正盛が第五の子にて、先に南部山城守重直が養子となりしなり『徳川実紀』厳有院殿御実紀巻20
    堀田加賀守正盛第五子堀田勝直 初正勝 右馬助 内蔵助 母は酒井讃岐守忠勝が女  摂津守正俊李弟正保二年六月廿五日めされて大猷院殿(徳川秀忠)につかへたてまつり御小性組に列し、四年十二月廿日廩米三百俵をたまふ、慶安四年八月十四日父(堀田正盛)が遺領のうち新墾田三千石をわかち賜ひ、廩米はおさめらる。万治二年四月十九日南部山城守重直が養子となり、三年七月七日采地は兄正信がもとに還附せらる『寛政重修諸家譜』巻第644
 南部勝直 初正勝 右馬助 内蔵助 実は堀田加賀守正盛が五男 母は酒井讃岐守忠勝が女寛永十九年生る、正保二年六月廿五日めされて大猷院殿(徳川秀忠)につかへたてまつり、御小性組に列し、のち正盛が遺領下総国のうちにをいて新墾田三千石をわかち賜ひ、万治二年四月十九日南重直が養子となり、五月九日卒す、年十八、融岸了圓桂雲院と号洲、浅草の金蔵寺に葬る、のち三千石の地は兄堀田上野介正信に還したまはる『寛政重修諸家譜』巻第210
寛文2年166257歳
9月21日 『奥南盛風記』巻之下
9月晦日南部山城守重直、子なきをもて公(将軍家綱)の御旨にまかせ嗣子定めんよしうたふるにより、御けしきうるはしく、やがて其人をえらび賜はるべきよし仰下る『徳川実紀』厳有院殿御実紀巻24
将軍家綱公ぇ養子の事願せけるは養子願い事無用たり、遺跡之事は悪敷は御斗ひ有間敷、只病気の保養可致と有しかば、其後は養君之沙汰もなかりけりへ
 アンダーラインの箇所は、実は寛文四年の書状内に見える文言
『祐清私記』乾
9月晦日今日酒井雅楽頭(忠清)様・稲葉美濃守(正則)様より之為御使十左衞門(荒木元政)殿・伊与(船越伊豫永景)殿御上屋敷ぇ御出、常々御望之通連々御養子可被仰付候間、御安堵可被遊由、上意にては無之候、御内聞之旨被仰進、於御書院御対面、則御返答御被遊、右為御礼、御三人様へ御使毛馬内九左衞門『秘記』坤
10月3日内々御願之御養子様之儀、以来は可被仰付候間、心安可存之由上意之旨、御老中様御三人より船越伊与殿・荒木十左衞門殿為御使、御内証去月晦日に被仰進、大慶不過之被思召候趣、御家中へ可申聞旨、御国へ申遣候様御意に付、今日荒木田惣吉罷下候付、弥六郎(八戸直栄)治太夫(奥瀬善定)ぇ申遣之『秘記』坤
10月3日御養子御願之通可被仰付由、御系譜御書上有之、十月十四日御国へ申来れる歟 『増補国統年表』
   【参考】年代不明 同年九月十日山城守一服之弟何人有之哉と御尋に付、七戸彦左衛門と申候て在所に罷有候由御書上、 奥瀬内蔵介持参御城え上る。花輪彦左衛門様御事、正保四年亥二月七戸御家御相続、隼人正と御名乗、一方には花輪彦左衛門様とあり。御同人なり。 註 前項目は寛永十八年六月九日の記事であり、それに従えば、同年九月は寛永十八年のこととなる。然るに後半の部分で正保四年亥二月七戸御家御相続、隼人正と御名乗とあることからみれば、「七戸彦左衛門と申候て在所に罷有候由御書上」の記事は正保四年以降の事を称している、但、重直と重信は同腹ではない。『篤焉家訓』一之巻
10月15日御養子之儀に付、江戸より書状到来す
御養子之儀被達上聞候処、可被仰付と被仰出旨、御老中様より御使船越伊豫・荒木田十左衞門殿、去月廿九日御上屋敷へ御で被仰渡候に付、御家中へ其由申聞由、江戸より被仰越筈、惣様御城へ召寄申渡 
家老席日録『雑書』
寛文3年166358歳
5月23日御持病に付御滞府願之通被仰付『増補国統年表』
寛文4年166459歳
9月5日殿様兼て御病気之処、去る八日六半時中風之様にて御腰已下御不自由に付、知足院へ御頼と飛脚申来る、『増補国統年表』
9月7日発病
同七日朝六半頃殿様御雪隠より御帰御手水被遊候己後、左の御手御身之様に御覚無之左の御足叶不申由にて、立昌被為呼御脈為御見被成、其己後道徳被為召御脈為御見被成、そかうゑん道徳上申候事、其後道徳に御薬上申様にと御意被成、一服調合上申候、五ッ過時分は少能様に被思召候得共、昼時分より朝之通に被成御座候に付て、玉川呼寄御医者相談可申と人遣候得共、留主にて不被参候内、渋江長怡十二日に参筈候へとも早く御見廻候様にと土入へ申遣候へと、勘右衛門被仰付候処、とかく井上玄徹薬被召上候様に、何も仕度と土入へ延引、其己後七ッ時分道徳御脈御見せ被成時分、玄徹御薬被召上候様にと道徳申上候へば、呼に遣候へと御意にて玄徹へ黒沢伝兵衛遣申候、其内暮候て玉川被参御針被遊候、其後玄徹御出御薬一ふく調合被成被進、煉薬取に遣候へと被仰取に遣し指上候事
『奥瀬家日記抜書』
9月8日九月八日奥瀬伊左衛門御国へ御下被成候に付、かため可申付由、前書御出し天野十兵衛検者にて仕候事
同日殿様御気色悪御座候間、御医者衆被仰付被下度由、稲葉美濃守様へ漆戸勘左衛門今晩参候へは、明日於御城御相談、御医者衆可被遣由被仰出候、
同日殿様昨朝より御気色悪候由、御国へ今七過飛脚指遣候事
『奥瀬家日記抜書』
9月8日九月十五日戌上刻江戸より飛脚着、殿様御気色長引申候由、去八日六半時分御中風之様に両足御腰より叶不申、御うてなとも常之御身之様に御座候間、同晩より井上玄徹薬服用被遊候得共、御験気無之由、去九日付にて申来之『秘記』乾
9月9日七ッ時分殿様御振付被遊御気色以之外に付て、玄徹・玉川呼に遣申候、暮候て両人なから参候、玄徹御薬調合被成候
同晩、長意(長怡)被参御薬置被申候事、同日井関玄説・人見玄しゆん御見廻、御脈見せ申候事、同日舟越伊与殿御出、御対面、同日毛馬内九左衛門今四時上着、同日御国へ殿様御気色御大切之由、飛脚下し申候事、同日朝四時分渋江長意被参、御脈伺御薬調合被帰候、佐田・玉川も被参候
『奥瀬家日記抜書』
9月10日陸奥国盛岡城主南部山城守重直大病により、こふままに医員渋江長怡直慰をつかはさる『徳川実紀』厳有院殿御実紀巻29
同十日御医者衆弥被遣被下候様にと、今朝美濃守様・豊後守様・大和守様・雅楽頭様へ勘右衛門参候事
同日舟越伊与守殿御出、御老中様へ被遣御書付御請取美濃守殿へ御持参、山田半兵衛致御供参、同日長意(長怡)方へ御老中様より御奉書佐田・玉川持参、長怡へ越申候事
『奥瀬家日記抜書』
9月11日四時分長意(長怡)被参、何共御養生可申様無之由被申帰被申候、其已後手医者之薬用させ申由、使越申候事『奥瀬家日記抜書』
(同十六日)江戸より飛脚到着、殿様弥悪敷被成御座、今晩中御暮可被成様にも拝見之不申、殊之外御つまり被遊候由、去る十日の晩付の状に申来 殿様御大切之由御老中様ぇ被仰上候へは、成程御養生仕候様、御跡式之儀は兼て御養子御訴訟被成置候付、自然有之候共、相違有之間敷候間、左様相心得家中之者共騒不申様にと御念頃に被仰渡、御医者衆も以て御奉書被仰付候間、左様心得何もへ可申聞候由申来『秘記』乾
【参考】伝に云、重直公御世嗣之義、不被仰上御病死之事は、御舎弟方三人迄有之を、坂田奥の腹に於吹君有之候付、聟養子の思召入にて浅野家より御養子是は御不縁の由、后堀田加賀守正盛家より内蔵助殿と申を御養子之処、御引取なく御早世、其後山田主水殿御子御養子之所、是も道中高清水駅にて御病死也、都て三人被成御願被成候所、何れも御成就なく御舎弟三人(註、この内山田主水利長は寛文二年死去)迄有之旨、公義にも御存知之事故、向後養子の願取次事、無用との御内意被仰出旨被及御聞、御舎弟方被仰上事も御差支に成と云々、畢竟御愛憐に溺れ給ふ故、御了簡違に成給ふ由、依之御家も御一生限と思召、御慎もなく御行跡も不宜と云々『内史略』前11
9月12日重直公御逝去 在位三十三年 壽五十九歳『増補国統年表』
同日御遠行被成候由、御老中様へ漆戸勘左衛門罷出申上候事『奥瀬家日記抜書』
同十七日殿様去る十二日巳刻御遠行被遊候由申来之、右之段於江戸申上候へば、御跡式弥無相違可被仰付候間御家中之者騒申間敷由御老中様被仰渡候由申来『秘記』乾
9月27日十月八日先月廿七日稲葉美濃守様より拙者共に召寄為上意被仰渡候は、殿様御跡式御存命之内御願之通無相違御忌明候ハゞ可被仰付候間三人之内壱人早々罷下り仕置可致由被仰付候、此方に罷有候御家中安堵仕候、此方にても何も可申渡由勘左衞門一両日中御下し候由、九月廿九日付申来、今日於御城申渡『秘記』乾
9月27日十月八日去月廿七日稲葉美濃守様より拙者共被召寄為上意被仰渡候は、殿様(重直公)御跡式御存命之内御願之通無相違御忌明候ハゞ可被仰付候間三人之内壱人早々罷下り仕置可致由被仰付候、此方に罷有候御家中安堵仕候、此方にても何も可申渡由勘左衞門一両日中御下し候由、九月二十九日付申来、今日於御城申渡『歴代御記録』山城守様御代
御養子被為入候節、侍少候間、十九人為上可申之由、別紙書付参候付、今日野辺地小右衞門を以申渡之『歴代御記録』山城守様御代
10月6日隼人様御事、山城守様之御跡式被為蒙仰、同年十二月十五日御家督御目見得被仰上『書留』御代々様御続書
11月12日隼人殿数馬殿御用候間早々御登候様奉書盛岡に到来 五十日目 拠「服忌令」は養父忌明の日『増補国統年表』
阿部豊後守様より毛馬内九右衞門・奥瀬治太夫内壱人御屋敷ぇ可参由被仰越候に付、治太夫伺公仕候得は、隼人殿・数馬殿御用候間早々御上り候様可申越由被仰渡、其段御両人ぇ九左衞門・治太夫より之状二通工藤勘之丞則持参之御両所様ぇ勘之丞上之
 重信様御供
 野辺地忠左衞門 野辺地左内  田鎖八右衞門 田鎖庄左衞門
 大川与五左衞門 長尾安右衞門 苅屋金助   久慈三之丞
 村田市左衞門  村木新五兵衛 苅屋覚太夫  佐久間民右衞門 
 津軽石七之丞  波岡庄太郎  久慈七兵衛  福士治左衞門
 西野八左衞門  新井田九傳次 久保長之助  高村六兵衛 
 新町三右衞門  中野金左衞門 中野新六   安部市左衞門   
 町屋長三郎   榎林源次郎
 御人数六十三人、御幕割菱、御召馬弐疋(小粕毛五才・鹿毛三才)三才三疋

  数馬様御供
 中里弥次右衞門 女鹿勘五郎  岩泉四兵衛  栗山安左衞門 
 山崎長之丞   中里多兵衛
 御人数弐十弐人、御幕割菱、御召馬一疋(大粕毛五才)鑓壱本  
『書留』大源院様御代
一筆奉啓上候、従阿部豊後守様、拙者共之内壱人御用御座候間、御屋敷へ可致伺公由被仰下に付て、即刻治太夫伺候仕候、御用之儀御座候間尊公様数馬様御両人様にて早々御登被成候様に可申遣旨被仰渡候間、則工藤勘之丞申付指下申候、御両人様御同道被遊早々御登可被為成候、雪中之時分御座候間、兼被罷登之儀如何可在御座と奉存候由申上候得は、尤に思召候由、御意被成候間、勘之丞下着仕二三日御支度被遊御登被成候ても苦ヶ間敷と奉存候、勘之丞に成程急下着仕申上候様にと急度申付差下申候、恐惶謹言
  十一月六日    奥瀬治太夫善定 花押
          毛馬内九左衞門長次 花押
   隼人様御小性中
 猶以て先頃は少々御気色悪被為成御座候由被仰聞候、道中御出被為成候ても、御養生被遊、道中も駅に御急不被遊候共御煩不被為成候様にと乍憚奉存候
盛岡市中央公民館所蔵南部家旧蔵文書
11月16日七戸隼人殿中里数馬殿江戸ぇ御上
『秘記』乾
12月6日一、十二月十二日、去る六日御跡式八万石隼人様、弐万石数馬様へ被進候由今日申刻鬼柳蔵人同心弐人到着、依之翌十三日おいて御城御家中ぇ弥六郎・勘右衛門申渡之『秘記』乾
12月12日山城守重直公御跡式隼人様ぇ八万石、数馬様ぇ弐萬石、十二月六日被仰渡候由鬼柳蔵人同心教申刻下着
但、雑書に如此有之也 酒井雅楽頭様にて阿部豊前守様・稲葉美濃守様・久世大和守様御列座にて、雅楽頭様被仰渡候由、お北様、中野吉兵衛御内室様ぇ重信様より御書にうた殿ぇ令為寄被仰渡候は、山城守跡目われらに八万石、数馬に弐萬石被下候、山城守跡目と不存、しん儀に御とりたて被召仕候と存、随分御奉公可申上由被仰渡候由之為御知也
『書留』大源院様御代


後の頁
2 無嗣子断絶の諸大名一覧
3 分知か新知か 1 諸説
4 分知・内分の諸大名一覧  拠『恩栄録』『徳川実紀』
5 八戸藩の領地 盛岡藩と八戸藩の判物と朱印状 表高
6八戸藩の領地 領境の確認 内高
8志和郡内藩境関係史料
8志和郡内藩境関係史料 2  藩境塚


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