南部を名乗る諸家 28 家臣諸家 19  角屋敷家 『歴世系』を中心に

南部家三十三代利視の九男三戸主水信駕を祖とする家である。信駕は幼名を万之助といい、延享三年三戸氏を称した。寛延三年五百石を知行、次いで宝暦三年に五百石加増、高千石を領して家門に列し、寛政六年死去した。その跡を嫡子雅楽助信敞が相続、文政七年死去した。嫡子芳都は病により廃嫡となり、後に別に戸沢家(のち三戸家)を興した。信敞の家督を二男左近信也が相続。文政元年南部氏と改め、天保六年死去した。その跡を嫡子左近済璋(のち春翠)が相続、安政三年三月家臣の列に据えられ高知家格となった。火の番、大手門番中丸番頭等を勤めた。明治二年その跡を嫡子暄居路が相続、中丸番頭を勤めた。その跡は正、智と相続し、当主とわ氏は盛岡市に在住する。代々の墓所は盛岡市北山の聖寿寺にある。(「南部家譜」「士族明細帳」「内史略」)


     本系図は『歴世系』を基本とし、他の系図による場合は、
     補・註で区分し、個別に引用史料名を明示した。

南部利視九男
 信駕  幼名万之助             三戸主水───┐
    母江府家女 布岐子 美保子 関新兵衛式忠養女    │
    霜林院殿                      │
    元文四己未歳八月二十四日(又三月二十七日)生、延享 │
    三日戸寅祭十一月一日依父之命而号三戸氏、      │
     註                        │
     『篤焉家訓』巻十七 公子別伝新邸御系譜 に拠れば │
     誕生の日「干盛岡南部彦九郎信起為養子、依病気相止 │   
     以幸吉君為養子」と見える。南部彦九郎信起は七戸家 │
     (家臣諸家 21 七戸家参照) 幸吉は利視八男    │
     補                        │
     延宝三丙寅年十二月廿日              │
      八助殿、千之助殿、百助殿、七之助殿       │
     右は向後殿付、万之助様御事は只今迄之通奉称候様被 │
     仰出                       │
     寛延元戊辰年十月五日               │
      万之助様御事向後殿付被仰出           │
     同二己巳年七月五日                │
      八助殿万之助殿御表にて御礼被仰上候節、只今迄御 │
      奏者太刀折紙家老御引候処、向後御用人太刀折紙、 │
      御徒頭御引候事                 │
     同三庚午年                    │
      八助殿万之助殿御持鑓、綱御門外に被差置候様被仰 │
      出        『篤焉家訓』巻十七 公子別伝 │
                 角邸御系譜        │                      
    寛延三庚午歳八月於志和郡相野邑、東徳田邑五百石賜之 │
     補                        │
     同年(寛延三年)                 │
     爾来御家門衆と相唱候様被仰出           │
     宝暦二壬申年新賜干井桁双鶴之家紋、        │
               『篤焉家訓』巻十七 公子別伝 │
                 角邸御系譜        │
    宝暦三癸酉歳於花巻五百石足高、都合[千石]給之   │
     補                        │
     同三癸酉年賜千石之采邑及戸牒、世々令血食奉其祭祀 │
     制度は倣七戸愛信君之故事、附小吏之属其余各信居君 │
     舘号称角邸、奥方無之、以永田善左衞門女為妾 名号 │
     文                        │
     宝暦四甲戌歳八月五日改主水            │
               『篤焉家訓』巻十七 公子別伝 │
                 角邸御系譜        │
    寛政六甲寅歳八月三日卒、壽五十六、葬干聖寿寺、此時 │
    聖寿寺為高松安禅和尚仮住、東禅寺崇源和尚導師也、法 │
    号桂林院殿久岳道昌(又徹昌)大居士         │
┌─────────────────────────────┘ 
├女 家子 漆戸夢助(左治馬、后佐仲)室
│    母永田善左衞門女 (布美子、宝暦十庚辰歳二月二十  
│    五日出干宮仕、信駕卒後帰父家)
│   宝暦十一辛巳歳二月十九日生、安永八己亥歳七月十七日  
│   卒、法号源光院殿
├女 筆子 藤枝内記恒道室
│    母同上
│   宝暦十二壬午歳十二月二十八日生、寛政三辛亥歳十二月
│   五日、産後煩卒、享年廿、法名普将院殿、室憐(山へん)
│   智玉大姉、葬変葉山久昌寺
│    註
│    『篤焉家訓』巻十七 公子別伝角邸御系譜は二十六日
│    に作る
├女 袖子 内堀壱岐室
│    母窪条右衞門女佐恵子
│   明和四丁亥歳九月八日生、寛政五癸丑歳婚姻、嘉永元戊
│   申歳九月二日卒、法名貞昌院殿
└信敞 幼名万之助             南部雅楽助───┐
     母同上、室南部主計信周女歌子           │
    安永元壬辰歳四月十一日生、寛政八丙寅歳正月利敬命而 │
    改雅楽助                      │
     註                        │
     『篤焉家訓』巻十七 公子別伝角邸御系譜は     │
     天明二壬寅年正月十四日御名賜雅楽介、諱称信敞   │
     『国統大年譜』天明二壬寅年正月十四日条には    │
     三戸主水信駕二代め南部雅楽助へ賜名称云々     │
      但、この時点で南部南部雅楽助は誤伝ヵ      │
     と見える。『歴世系』の誤伝ヵ           │
     補                        │
     寛政六甲寅年九月十五日家督、享和二壬戌年三月九日 │
     菊輪之内九曜之御紋拝領、文政元年戊寅十月六日賜南 │
     部之称号                     │
    文政七甲申歳七月十四日卒、葬干聖寿寺、法号正楽院殿 │
    希音明徳大居士、室享和二壬戌歳八月九日卒、葬同寺、 │
    法名大円院殿鏡岩妙智大姉              │
     註                        │
     『篤焉家訓』巻十七 公子別伝角邸御系譜は     │
     室 栄子 後改歌                 │     
┌─────────────────────────────┘ 
├女 照子 寛政四壬子歳十一月十七日生、母正室、
│    同五癸丑歳十月二十二日卒
├芳都  幼名秀之助 戸沢検校、別号桂園 母同上
│   幼に失明因廃嗣焉、文化二乙丑歳利敬令是剃髪賜名梅冨
│   同三丙寅歳賜戸沢姓、同年六月任勾当、又十月任検校、
│   号芳都、室信濃守利謹女永子、利敬命而娶之、后取戻
├女 満子 幹部寛政七乙卯歳八月廿一日生、母同上、文化三丙
│   寅歳二月二十八日卒、干聖寿寺、法名陽徳院殿春林妙花
│   大姉
├信也  初信順  幼名豊次郎        南部左近───┐
│   母同上                       │
│   寛政中戊午歳九月十九日生              │
│    補                        │
│    文政七甲申年七月十九日遺跡相続          │
│    文政十丁亥年五月二十五日             │
│    一、                御家門方へ  │
│    年来御相続向御差支之旨及御聞、殊に格別之筋合をも │
│    思召、御金方百石宛年々御加被下旨被仰出      │
│              『篤焉家訓』巻十七 公子別伝 │
│                角邸御系譜        │
│   天保六乙未歳閏七月十四日卒、葬干同寺、法号霊運院殿 │
│   環峰宗循大居士、室南部左京信温妹、文政七甲申歳二月 │
│   十九日卒、干同寺、法名桃樹院殿棊相妙宜大姉     │
│    註                        │
│    室 三戸左近信浄君女千代子            │
│              『篤焉家訓』巻十七 公子別伝 │
│                角邸御系譜        │
├女 恭 又礼子又貞子  南部左京信温室          │
│   享和二壬戌歳正月三日生               │
│    註                        │
│    『篤焉家訓』巻十七 公子別伝角邸御系譜は     │
│    恭子  藤枝内記通彰室              │
│      享和二壬戌年正月四日生、文政四辛巳年 月十三 │
│      日縁組、同五壬午年二月十八日婚        │
│    とす                       │
├女 礼 又恭子 藤枝内記道彰室              │
│   享和三癸亥歳正月二十七日生、母は漆戸氏女      │
│   弘化四丁未歳 道彰卒而薙髪宝篤院          │
│    註                        │
│    『篤焉家訓』巻十七 公子別伝角邸御系譜は     │
│    礼子  南部左京信温室              │
│      享和三癸亥年正月二十七日生、文政四辛巳年四月 │
│      二十七日婚                  │
│    とす                       │
└女 徳子  南部民部信古室                │
    文化三丙寅歳六月二日生、母は工藤氏女        │
    文政十二庚寅歳信吉卒而薙髪、称恵心院        │
     註                        │
     『篤焉家訓』巻十七 公子別伝角邸御系譜は     │
     徳子  南部隼人信寛室 後民部信古室       │
       信寛君婚礼前卒、故に如此           │
┌─────────────────────────────┘ 
├済璋  初万之助  雅楽助         南部左近───┐
│   母 南部左京信温妹、室南部左京信温女冨子      │
│   文政八乙酉歳十二月十五日生、後改左近、       │
│     註 未確認ながら、天保十一年支配帳には雅楽助で │
│       散見、安政二年支配帳では左近で見える    │
│   安政二乙卯歳十一月一日因由緒柄有之、是迄別格之取扱 │
│   之処、追々就代数相成、爾来来者可為南部主計(元南氏)│
│   上座、家格之儀は主計同様相心得、以来高並軍役可相勤 │
│   之旨蒙命、従是家門之称相止             │
│    補                        │
│    明治二年三月朔日隠居               │
│    一、             南部左近      │
│                   同 万之助     │
│    左近儀病気に付、御奉公難相勤、依願隠居被仰付、  │
│    嫡子万之助へ家督無相違被下候    『覚書』   │
│    註                        │
│    各種士族明細帳に拠れば、この後春翠と号している  │
│                             │
└信民  楳三郎又樟五郎 (四男)             │
     母横浜勇之助女                  │
    信濃守利済養以為子承南部丹波守信誉         │       
    文久二年十月七戸藩を相続              │
    同年十二月十六日従五位下美作守           │
    同三年二月晦日拝竜顔賜天盃             │
    明治元年十二月                   │
    同二年十一月九日再叙従五位             │
    同四年正月廿九日以再三願返上位記          │
    四年七月十四日免七戸藩知事             │
              『補遺参考諸家系図』      │
┌─────────────────────────────┘      
└居路  万之助             南部  暄
   明治二年三月朔日家督、同年四月廿一日中丸御番頭を勤め、
   同年四月十五日免ぜらる
                 『士族組合明細書上帳』


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