南部を名乗る諸家 15 家臣諸家 6 八戸家 7 【由緒異説】2 |
■ 「祐清私記」 八戸先祖破切井当国ヘ下向之事 八戸根城は工藤氏の居城説 一、伝聞御当家御先祖南部光行は、源頼朝公御代承久年中に奥州糠部御領に而御教書被下置、二月廿八日奥州八戸浦に着岸し、三戸に住居被成候、其時御子様余多候得ば皆々御供被成、甲州より糠部え御越被成候處に、六男之御子破切井六郎実長と申せし御人は、甲州身延の里知行被成候所ゆへ当地へ御下りなし。依之御子孫代々甲州身延の郷に御繁昌なり、扨身延郡之内法華之開山を身延山と云今に有之、殊に南部之御家も繁昌し玉へて御子孫段々御相続有、又破切井之家も如此、扱又甲州御当家御惣領家に、武田太郎信義公後駿河守と申奉りしに、御子孫代々甲州の国主たり、信義公より二十五代末孫大膳大夫晴信公と申は武勇其誉天下に隠なし、近国隣国の諸将此威に恐れずと言ふ事なし、然に御先祖よりの御因の方々又は御家別の人々皆同国甲州に諸郷を分領して御座候處、晴信思召有候は、いかに親類一門にても我領をふさけし事且はついへ又は国の邪魔となれり、一先彼等を打従ひ国中を押領せんと思召候て、諸郷を知行せし小身大身に不構、或は攻亡し、或は追落し給ふに因て、破切井殿子孫も家名相続して破切井六郎と申せしが、晴信にせばめられ、破切井住居不叶、聞は我等惣領家南部殿糠部住居之由、一先是へ尋参とて家臣少々召連れて甲斐国より北国へ廻り、木曽路へ懸、仙北より舟に乗玉へて夫より舟を磯きわへ着せ、所の者に尋は奥州と答へるに依て、然は是こそ尋る所なり、いざ船寄んとて八戸浦へ着岸させて磯上へ上り玉ふて宣ば、我家子孫繁昌さは、この鞭も共に栄よ、又我等かく浅間敷身と成ぬ、運命つきて本望難遂は此むち共に打捨れと被仰、竹のむちを磯きはへ指玉ふ、夫より所の者に被仰候て、此国に糠部といふ所に南部殿と云ふ人有と聞、右教へ候得と宣ば、所の者共申様はされば同国に左様に申御人は、是より北に当り糠部郡の内三戸と申所にて候由に候得共、聞は頃日御互に隣国・近国境を争申に付、此所の城主工藤殿と南部殿と両方より境へ出張被成候得は、中々通路難成候由語りければ、其時六郎殿被申けるは其工藤の城には人数何程と宣ひ、又城は何方と尋玉ふに一々申候は、城はあれに見得申候由に而候、又人は大方境詰申候間城にはわつか也と申に付、是こそ願所也、いざ城へ攻入らんとて支度有 さて又甲州より家臣も次第々々と着岸して六郎殿は余程之勢を集て彼の工藤が館へ推入、鬨の声上て散々に攻入しかば、工藤を始大勢境へ出し事なればわづか小者・中間斗りにて、一戦にも不及城を明て遁行ける間、六郎殿此城を乗取住居有、工藤氏此事を聞て散々ちくでんす、雑兵共境を明て逃にけり、六郎殿糠部へも通路自由なりしに依而御越候半と思召候得共、猶又工藤殿に劣らぬ苫米地といふ者糠部えの道筋に居館を構て居たりしが、しかも往還は城の脇にて両方より岩立狭堀之様に底深く、一騎打之難所なり、依て通路難成、然に六郎殿苫米地を攻めて見んと思召候へて人数餘多被遣けれども、所は究境の要害の由、又苫米地の親類の者手前の方住居なれば苫米地へ押寄候得共、手前の館主後詰と相見得互に頼被居候へば、六郎殿勢前後を囲まれ殊に案内は不知事故、漸々軍勢を引払て城に入り玉ふ、敵より攻る事はなし、此方より度々攻けれ共左右より立被狭て落る様も不見得は暫打捨ぬ、其内に団四郎と云盗人来り、段々近付折節様々馳走しける、其上に苫米地を何卒責亡し度候得共、要害宣敷候敵早俄々敷可攻様無く、其方計策を以て可攻落頼入と被申けれは、団四郎申候は度々御馳定に罷在御恩に御安き事にて候と申は、六郎殿宣は去は何として可攻と思ふぞやと宣ば、団四郎申候は去ばに候、只今何と申及すいつそ急に思立時を見合可申候、兼而不申及とて夫より十日余り過て殊之外風はげしく有夜、殊に天闇して何とも難見得時六郎殿へ申様は、今夜こそ究境の夜なればいざ兵を支度候ヘ、我等も打立申なりと申せば、夫は安き事とて兵二百騎馬斗催して団四郎に相添、団四郎申候は我指図なき討ちは随分しづまり候へとて、兵共にまじはり、苫米地の城へ行是かしこと懸け廻り二尺廻り、尺(たけ)馬七尺程の大柱を堀の中へなげ入れ、是に打乗て向の岸へ上り、数の堀をはね越へ風表へ廻りしに、しかも風上ははげしく内へは火不入して、野火の廻る如くにて屋根中皆猛火となり、奥座敷へ火入りければ、如何童子・雑兵を始としてこは如何とわめきさけぶ、夫より団四郎は火の移りしを見て表門へ廻り、門番に門を開候へと云へば、何者ぞ定て盗人にて有るべしと云、いやいや我等は奥より御使なり、おしうと様へ参候と云、依て不構通じければ、兼て相図の事なれぱ二百騎の兵共一度に鬨の声を上げれは、城中さわぎ立火をばふせがず、よろひ・かぶと・太刀・長刀に取付働立つ所を、寄手城中へ攻入々々、さんざんに戦ける、さて団四郎は野辺地がしうとの城へ行、ケ様之事にて御使に候へと云ば、門番門を披て内に入、彼の城内にては扨苫米地殿にては城焼、扱閧の声音すると只彼の城の方斗諸人見て心を抜し居る内に、団四郎又火を打懸風上よりこゝかしこと付ければ、見物之者共又は苫米地え加勢の人々もこは如何なる事かなとて気も心も失ひ火を防んとする心もなく、女中達に至迄おめき、さけぶ事夥し、団四郎はこゝかしこ廻り、火の出のぼるを詠居し所に、先の苫米地殿城を攻落され、わづかの女中・子共達手を取て後の山道落玉ふを、団四郎是れを見て是こそ能土産なれとて追詰馳詰とんで行、彼苫米地殿の首水もたまらず打落す、二百騎に先立本城指て帰ける、六郎殿御喜ぴなゝめならず、団四郎に所領にても望の物を得させんと上意也、団四郎申けるは所領も望無之候と云、然ば金銀を得させんと扱仰けれども金銀も望なし、一夜出て盗せば金銀は山の如くなりと云、然ば何は望と被仰ければ、我等が望は当分食を喰時々村へ出て盗するには被取ぬ所を取り、入られぬ所へ入て盗取は殊の外面白く御座候、其望之由申けれは、六郎殿聞召、夫は難叶汝に盗させては国の仕置難成、殊に天下へ聞へては如何、然は他国へ参心を晴さん為、時々は盗致候へとて大形手前にかくまいし、一生あつかひ玉ふ、時々は他国へ参候て盗をしてなぐさめと云、是は頓て六郎殿は諸方を打従、夫より糠部へ御出、三戸に御産す南部安信公に対面す、頓て八戸御居城之由、今の八戸右之破切井六郎の御子孫之由、扨又六郎殿先年甲州より着岸之時、竹のむちを指して置玉ふが、流石の竹木も生有ものにや枝葉栄て生茂る、右の竹枝倒に指て出る由、此むち倒に指玉ふ故也、不思義なる事也、かの竹段々栄て弥々目出度見得ける故、八戸殿も子孫栄花に栄玉ふ、右竹は今は八戸浦に有とかや。 ■ 八戸工藤傳 『公国史』 巻三十五 列伝十五 八戸工藤氏の先は藤原姓にして左衞門尉祐経の後也、祐経の子大和守祐時、犬房丸罪有りて陸に配流せられ、三戸郡八戸の郷に居る。 二子有、後犬房丸赦に会て帰て鎌倉に在り、二子猶八戸に居る、長某上名久井に有て名久井氏を称す、弟某下名久井に居て自ら工藤氏を称す、是其初にして諸工藤氏皆是より出づ、後漸強大にして八戸の数郷を領す、後数世の間史傳闕せり、嘉暦元徳の頃左衞門次郎と云者有、其族七戸に工藤右近将監と云者有、建武中将監と云南朝に属して勤功有、後村上帝より八戸の郷を封ぜらる、其奉書今破切井八戸の家に傳ふと云、又其臣弐拾人軍功に依て叙爵を賜ふ宣旨前右馬頭休顕奉る所の証文及橘甚兵衛に賜ふ所の鎧等、皆八戸氏に傳ふ、(南部家文書74?91号文書に対応)将監九世の孫左近将監長経と云、応永十八年正月守行公秋田戦陣の時軍に従て刈和沢に在り、其臣新田左馬助行親、三上筑前冨続、類家豊後朝秀、西沢左近勝広等を率ひて先陣として秋田□季と合戦す、公軍しばしば利あらず、長経是を湯殿月山に祈願す、一夜夢に神来り、答て曰、鶴陣頭に舞ハバ軍勝べしと、又膳の上に九曜星降ると、夢さめ、翌日巳の時、果して頭に鶴有て公軍の上に飛翔す、長経大に喜て士衆を励し、自ら陣頭にあって戦ふ、敵猶強し、其臣西沢三次勝忠、工藤左衞門、同外記、悪虫若狭、田子民部、木沢才二郎等戦死す、是に於て大に敵を敗りて公軍凱旋す、是を恒例として九曜を表し八皿の事をす、又此年の正月元旦守行公に従て櫛引八幡宮に詣す、長経誤りて別当の扇を換ゆ、此扇をもて勝軍を得たり、又永式として今皆破切井八戸家に傳ふと云、長経、応永三十四年二月三日卒す、其子修理亮光経、其子左近将監長安と云、性暴悪にして民服せず、励祖父長経秋田の役に月山に祷りて曰、我家世々禽獣の肉を食すべからずと、故に是を子孫に戒む、長安是を守らずしてしばしば禽獣の肉を喰らう、是より時々発作して臣民を乱殺す、又らい病を患ふ、一族大に憂ふて巫をして占はしむ、巫の曰、月山の祟也、若、其肉を食事を禁せば其祟除べしと、一族等是を以て長安を諫む、長安が曰、我肉食を禁ずるをあたわず、止事を得ずんば我臣下の者をして禁せしめば如何と、巫曰、可也、是に於て、其臣三上冨次、類家行秀、西沢勝行に命して世々肉を食わしめす、且三士を湯殿月山に遣して其神に附し、且其神を三戸籠田に勧請す、長安終病癒ゆ、長安死して其子刑部丞守清、其子但馬守信長、其子河内守政経と云、 政経は光政公(註・南部家十七代)の時の人也、性英武にして威四方に据て、康正三年北郡田名部の蠣崎蔵人、境に入て人民を掠略す、政経怒りて兵を将ひて蔵人と戦うふ、軍利あらず、時に政経京師の公卿参す、就て蔵人が罪を奏して曰、蠣崎蔵人皇命を蔑如して民が貢を妨く、願わくば皇威を籍て彼が罪を討して貢職を奉せんと、帝則綸旨を下して蠣崎を討しむ、同三年二月政経与國の兵を率ひて八戸より海路を経て田名部堀渡城を攻む、蔵人を討て是を敗る、蔵人終に松前に走る、是に於て政経北郡田名部を併領す、國威益強大にして、転ずれば藩境を公室(註・三戸南部氏)と争ふ、政経卒て田名部圓通寺に葬る、其子但馬守信長と云、其■孫史傳亦詳ならず、永正の頃某、足利家に功ありて津軽郡の内同前・冬井の両郷を加封せらる、其教書又破切井八戸家に傳ふと云、時政公(註・三戸南部氏二十四代)の大炊介秀信と云、後将監と改む、姓厳勇にして強弓を能す、己が勇に伐りてしばしば我糠部の境を侵略す、 天文五年秋兵を興して境を侵しし進て浅水を略せんとす、途に急に病みて軍中に死す、秀信子なし、女子壱人有り、名を勝と云、秀信の妻、其一族老臣と謀りて曰、今四方事多し、若、殿の死去の事を洩しなば、我家の存亡知るべからす、我婦人なりといへども、暫くの内國中の政務聞て時の変を伺て、後兎も角もなすべし、先ず深く喪を臥せ置べしと、老臣等或は曰、今此時國に主なくして月日を過さんこと却て禍なるべからず、所詮南部殿に降参して、その連枝を乞う請て世継となさば、永く安ずる謀なるべしと、後室の曰、我家世々人の膝下に立ず、是を以先君にも曾祖の産業を広めんとて思慮を苦免なふるなるに、なんぞ其志を捨て、人の下風に立べけんや、汝等婦人なりとして危む事なかれとて、深く喪を臥し、自ら■下を指揮して四方を警備す、士衆を二の丸に置、自ら本丸に有りて男子を入れず、堅く守り、衆女を率ゆ、九月二十日夜忽然として城中騒ぐ、後室いよいよ本丸の門を堅くして男子を入ず、二の丸火興る、士衆失火として火を防ぐ、時に俄に本丸に男子数人有りて曰、南部の親族破切井義長と号し、後室に逼りて虜にす、二の丸の兵、彼火の為に是を知らず、故に一人来りて是を救ふ者なし、義長則鎗を解いて工藤の家を継ん事を要す、後室如何ともする事あたはずして是を許諾す、義長城上より二の丸の士衆を呼て利害を諭す、是て秀信の女を妻として工藤の氏を称す、後漸し姓を改む、是に於て工藤氏亡嫡、秀信卒する迄暦数大凡弐百余年 ■ 「国統大年譜」南部晴政譜 天文五年工藤大炊之助秀信侵淺水城(青森県五戸町・城主南部信直叔父南遠江長義)獲疾而還、工藤氏世食田名部及祖政経(「参考諸家系図」八戸系図は、八戸家十代に作る)遂蛎崎蔵人謀於蛎崎併、故地漸蚕食、八戸頗有勢、致是秀信卒、無子、其臣秘喪、議立嗣秀信妻、好勇自甲斐来抵八戸夜襲、却秀信妻其女盡取、工藤氏地納 歟 8 波木井南部氏系図 東大史料編纂所影写本「斎藤文書」所収 ❖ 清光────┬信義 逸見黒源太│ 武田太郎 駿河守 射礼楯無 │ 射礼楯無 ├遠光────────┬光朝────光定 │ 加賀美次郎 │ 秋山太郎 小太郎 │ 信濃守 ├長清 ├光長 │ 小笠原次郎 │ ├光行─────────────────┐ ├義定 │ 南部三郎 │ │ 安田三郎 ├光経 │ │ 遠江守 │ 加賀美四郎 │ └清隆 └光俊 │ 平井四郎 於曽五郎 │ ┌────────────────────────────────────────┘ ├松本 ┌孫次郎 ┌武行─┬宗行 ├南部・二代欠ヵ・─┼孫三郎宗実─────┴宗清 └三郎─────────────┐ ├福士 └次郎行宗 │ ├木崎 奥州南部也 │ ├長江 ┌────────────────────────────────────┘ │ ├右馬助──┬遠江入道 │ └左近将監 ├右馬助 │ └大和守 └波木井実長────┬清長 法名日円 │ 六郎次郎 ├家長 │ 六郎三郎 ├光経────────┬又三郎 蔵人 奥州越 │ 六郎四郎 西谷 ├又三郎 蔵人 奥州越 │ ├丹後守 弥六郎 西谷 │ ├但馬守 彦四郎 │ ├上総守 │ └伯耆守 小田ノ養子也 └長義────────────────────────────┐ 法名日教 │ ┌────────────────────────────────────────┘ ├長氏───────┬政氏───────────────┬長政 │ 弥太郎 │ 次郎 └氏光 │ 信濃守 ├実氏────────┬行氏────┬春行 │ 法名日長 │ 弥次郎三郎 │ └春氏 │ │ 伊豆守 ├実行────┬次郎三郎 弥次郎の事 │ │ 日遠 └長安 └弥三郎 │ ├日臺 │ │ 宮内卿法印・身延第五代 │ └実光 │ 次郎四郎・(摂欠ヵ)津守 ├光氏───────┬武光──────光家 │ 弥三郎 └六郎 │ 宮原 ├実義────────実経─────────氏宗────伯耆守───八郎 │ 小田ノ与次 伯耆守 八郎次郎 与次 │ 戒名日宗 ├政義───────┬光家 │ 孫六 └日会 │ 下野守 弁ノ律師・身延山の僧 │ 杉山 │ 法名日政 ├行義────────┬武長 │ 原孫六 │ 左近将監 │ 美濃守 ├四郎 │ ├氏義───────┬彦六 │ └日義 └又六 │ 身延山僧 └光長────────┬光房───────┬氏房 弥六 弥六 │ 修理助 ├三郎 尾張守 │ 三郎 └杉房 身延山僧 ├氏光───────┬将監 太郎 │ 四郎 └帯刀 三郎 └日光 身延ノ僧 |