南部を名乗る諸家 13 家臣諸家 4 八戸家 4【由緒異説】1 |
八戸氏由緒の異説 何時甲斐から八戸へ移住したか ■ 『八戸家系』 元中九年(明徳三年)説 政光譜 今元中九年之比(明徳三年)南帝熈成王與将軍義満卿和睦、而入洛、居嵯峨大覚寺、譲三種神器於北朝、襲蒙太上天皇之尊号、称亀山院、於是南朝臣士降者存、敵者亡、其盛衰恰如反掌也、(中略)政光曰、存亡之事、吾既知之、然累世浴干朝恩、而今者豈忘祖業哉、抑拠孤城而非企敵也、唯恥仕干二君也、寧伏乎白刃、不食武家之粟矣、(中略)将軍感政光之忠義、及守行之篤実頗称誉之乃許容其言而已、於是乎、政光去甲州波木井及諸邑、奥州八戸、長住根城云々 ■ 『参考諸家系図』巻四 明徳四年説 政光譜 政光対曰、如仰我家代々南帝え忠義を励し候に付、朝恩又他ニ越申候、当時南北御和睦之上は私事足利家え対し遣恨を含心底ハ無之候得共、昨日迄仇敵と成候将軍家え 今更降伏可仕段二君ニ仕るニ等しく、武家之本意を失ひ申候、縦令身命を亡し家を失申共全く降参可仕所存無御座候、(中略)将軍家も政光廉直之義心を御感賞願之通被仰出、明徳四年之春其一族郎従甲斐を立退、八戸根城え引移ると云、是より子孫代々当所ニ任す、 ■ 『南部家戊辰始末』 明治二年巳正月廿三日邦之輔様御事御歎願之儀被為有、東京ぇ被遊御登候に付、御歎願書之写左之通 此度主家ぇ之御沙汰委細奉承知恐縮之外他事無御座候処、至仁寛大之以思召白石城御預、置いて近郡拾三万石被下置候段、天恩広大難有仕合奉存候得共、数百年来之旧領、先祖墳墓之地立難候儀、家中一同不堪悲歎之至候、弥六郎家筋之儀は、彦太郎祖先甲州住居仕候頃、同州にて領地拝領仕、其後五代之間勤王抽軍忠、綸旨口宣・太刀・御鎧等拝戴尓今相伝仕候、彦太郎先祖当国ぇ引移候後、弥六郎祖先八代薩摩守政光に至、八戸根城ぇ引移、彦太郎家筋扶翼罷在之内、寛永年中より遠野取締として同所え引移来候、依て実に過等之申上千万恐入奉存候得共、主従墳墓之地立難不申様被仰付被下置候ハゞ、弥六郎家筋も相杯祖先共始、家中并末々之者共に至迄、難有仕合奉存候、何卒王恩覆戴之以思召願之通被仰付、一同安堵仕候様被成下度奉願上候、悲嘆之■(餘ヵ)不顧恐奉俯伏歎願候、恐惶謹言頓首謹言 御名一門 弥六郎嫡子 明治二年巳正月 南部邦之助 彦太郎は南部利剛の嫡子、明治元年十二月父利剛が盛岡二十万石を没収の上隠居を命ぜられた後、家名立が許され白石に十三万石を新領として宛行れた。当時実名剛毅、後利恭を称した。邦之助は族臣として遠野一万二千石余を知行した南部弥六郎済賢の嫡子、実名義敦、慶應義塾に学び渡米を志した頃病に臥し明治十一年死去、享年二十歳 ■ 八戸先祖破切井当国ヘ下向之事 『祐清私記』乾 伝聞御当家御先祖南部光行は源頼朝公御代承久年中に奥州糠部御領にて御教書被下置、二月廿八日奥州八戸浦に着岸し、三戸に住居被成候、其時御子様余多候得ば皆々御供被成、甲州より糠部え御越被成候處に六男之御子破切井六郎実長と申せし御人は、甲州身延の里知行被成候所ゆへ当地へ御下りなし、依之御子孫代々甲州身延の郷に御繁昌なり、扨身延郡之内法華之開山を身延山と云今に有之、殊に南部之御家も繁昌し玉へて御子孫段々御相続有、又破切井之家も如此、扱又甲州御当家御惣領家に、武田太郎信義公後駿河守と申奉りしに、御子孫代々甲州の國主たり、信義公より第二十五代末孫大膳大夫晴信公と申は武勇其誉天下に隠なし、近国隣国の諸将此威に恐れずと言ふ事なし、然に御先祖よりの御國の方々又は御家別の人々皆同國甲州に諸郷を分領して御座候處、晴信思召有候は、いかに親類一門にても我領をふさけし事且はついへ又は國の邪魔となれり、一先彼等を打従ひ國中を押領せんと思召候て、諸郷を知行せし小身大身に不構、或は攻亡し、或は追落し給ふに因て、破切井殿子孫も家名相続して破切井六郎と申せしが、晴信にせぱめられ、破切井住居不叶、聞は我等惣領家南部殿糠部住居之由、一先是へ尋参とて、家臣少々召連れて甲斐國より北國へ廻り、木曽路へ懸、仙北より舟に乗玉へて夫より舟を磯きわへ着せ、所の者に尋は奥州と答へるに依て、然は是こそ尋る所なり、いさ船寄んとて八戸浦へ着岸させて磯上へ上り玉ふて宣ば、我家子孫繁昌さはこの鞭も共に栄よ、又我等かく浅間敷身と成ぬ、運命つきて本望難遂は此むち共に打捨れと被仰、竹のむちを磯きはへ指玉ふ、夫より所の者に被仰候て、此国に糠部といふ所に南部殿と云ふ人有と聞、右教へ候得と宣は、所の者共申様はされは同国に左様に申御人は、是より北に当り糠部郡の内三戸と申所にて候由に候得共、聞は頃日御互に隣國・近國境を争申に付、此所の城主工藤殿と南部殿と両方より境へ出張被成候得は、中々通路難成候由語りけれは、其時六郎殿被申けるは其工藤の城には人数何程と宣ひ、又城は何方と尋玉ふに一々申候は、城はあれに見得申候由にて候、又人は大方境詰申候間、城にはわつか也と申に付、是こそ願所也、いさ城へ攻入らんとて支度有、さて又甲州より家臣も次第々々と着岸して六郎殿は余程之勢を集て彼の工藤か館へ推入、閧の声上て散々に攻入しかは、工藤を始大勢境へ出し事なれは、わつか小者・中間斗りにて、一戦にも不及城を明て遁行ける間、六郎殿此城を乗取住居有、工藤氏此事を聞て散々ちくてんす、雑兵共境を明て逃にけり、六郎殿糠部へも通路自由なりしに依て御越候半と思召候得共、猶又工藤殿に劣らぬ苫米地といふ者糠部えの道筋に居館を構て居たりしか、しかも往還は城の脇にて両方より岩立狭堀之様に底深く、一騎打之難所なり、依て通路難成、然に六郎殿苫米地を攻めて見んと思召候へて人数餘多被遣けれとも、所は究境の要害の由、又苫米地の親類の者、手前の方住居なれは苫米地へ押寄候得共、手前の館主後詰と相見得互に頼被居候へは、六郎殿勢前後を囲まれ、殊に案内は不知事故、漸々軍勢を引払て城に入り玉ふ、敵より攻る事はなし、此方より度々攻けれ共左右より立被狭て落る様も不見得は暫打捨ぬ、其内に団四郎と云盗人来り、段々近付折節様々馳走しける、其上に苫米地を何卒責亡し度候得共、要害宣敷候、敵早俄々敷可攻様無く、其方計策を以て可攻落頼入と被申けれは、団四郎申候は度々御馳走に罷在御恩に御安き事にて候と申は、六郎殿宣は去は何として可攻と思ふそやと宣は、団四郎申候は去はに候、只今何と申及す、いつそ急に思立時を見合可申候、兼て不申及とて、夫より十日余り過て殊之外風はけしく有夜、殊に天闇して何とも難見得時六郎殿へ申様は、今夜こそ究境の夜なれはいさ兵を支度候ヘ、我等も打立申なりと申せば、夫は安き事とて兵二百埼斗催して団四郎に相添、団四郎申候は我指図なき時は随分しつまり候へとて、兵共にましはり、苫米地の城へ行是かしこと懸け廻り二尺廻り、尺(たけ)馬七尺程の大柱を掘の中へなけ入れ、是に打乗て向の岸へ上り、数の堀をはね越へ風表へ廻りしに、しかも風上ははけしく内へは火不入して、野火の廻る如くにて屋根中皆猛火となり、奥座敷へ火入りけれは如何、童子・雑兵を始としてこは如何とわめきさけふ、夫より団四郎は火の移りしを見て表門へ廻り、門番に門を開候へと云へは、何者そ定て盗人にて有るべしと云、いやいや我等は奥より御使なり、おしうと(舅)様へ参候と云、依て不構通しけれは、兼て相図の事なれぱ二百騎の兵共一度に時(閧)の声を上けれは、城中さわき立、火をはふせかす、よろひ・かふと・太刀・長刀に取付働立つ所を、寄手城中へ攻入々々さんざんに戦ける、さて団四郎は苫米地がしうと(舅)の城へ行、ケ様之事にて御使に候へと云は、門番門を披て内に入、彼の城内にては扨苫米地殿にては城焼、扱閧の声音すると只彼の城の方斗諸人見て心を抜し居る内に、団四郎又火を打懸風上よりこゝかしこと付けれは、見物之者共又は苫米地え加勢の人々もこは如何なる事かなとて気も心も失ひ火を防んとする心もなく、女中達に至迄おめき、さけぶ事夥し、団四郎はこゝかしこ廻り、火の出のほるを詠居し所に、先の苫米地殿城を攻落され、わつかの女中・子共達手を取て後の山道落玉ふを団四郎是れを見て、是こそ能土産なれとて追詰馳詰とんて行、彼苫米地殿の首水もたまらす打落す、二百騎に先立本城指て帰ける、六郎殿御喜ぴなゝめならず、団四郎に所領にても望の物を得させんと上意也、団四郎申けるは所領も望無之候と云、然は金銀を得させんと被仰けれとも金銀も望なし、一夜出て盗せは金銀は山の如くなりと云、然は何は望と被仰けれは、我等か望は当分食を喰、時々村へ出て盗するには被取ぬ所を取り、入られぬ所へ入て盗取は殊の外面白く御座候、其望之由申けれは、六郎殿聞召、夫は難叶、汝に盗させては国の仕置難成、殊に天下へ聞へては如何、然は他国へ参心を晴さん為、時々は盗致候へとて大形手前にかくまいし、一生あつかひ玉ふ、時々は他国へ参候て盗をしてなぐさめと云、是は扨置、六郎殿は諸方を打従、夫より糠部へ御出、三戸に御座す南部安信公に対面す、頓て八戸御居城之由、今の八戸、右之破切井六郎の御子孫之由、扨又六郎殿先年甲州より着岸之時、竹のむちを指して置玉ふか、流石の竹木も生有ものにや枝葉栄て生茂る、右の竹枝倒に指て出る由、此むち倒に指玉ふ故也、不思義なる事也、かの竹段々栄て猶弥々目出度見得ける故、八戸殿も子孫栄花に栄玉ふ、右竹は今は八戸浦に有とかや。 『祐清私記』は伊藤祐清・圓子記が藩命により、官選系図集『系胤譜考』を編纂した際に伊藤祐清が書留めた私記であり、その時期は寛保三年頃と勘考される ■ 八戸家之事 『祐清私記』坤 初光行公此國に来り玉へし時六男破切井六郎実長を八戸に封し玉ふ、干時八戸の領主工藤将監(工藤祐経の子孫なりと云)早世して、独寡婦存在す、其家従工藤二名を不遺は則城を枕にせんと云て、光行の命に不任、故不得止、実長をして工藤か寡婦に合しめて其姓名を改て工藤将監と号せしむ、於是家従相和して静謐す、後世又姓名を改て八戸弥六郎と云、然るに世人八戸ほ元工藤の末孫也と云者は猶不知之誤也とかや、 或曰、八戸を継し破切井弥六郎は実長之二三代目の人にて、光行来玉ふ時とは時代違ひ後なり、甲州にも破切井之末孫今に有之と云 ■ 北左衞門進南部系図 『祐清私記』 (前省)南部光行六男を破切井六郎実長と云ふ、又南部弥五郎とも身延六郎とも号す、実光同腹甲州之内破切井知行す、依て家名とす、一族皆奥州に下り、実長甲州に有し処に、其子破切井六郎と云者安信の御代此国へ下り、八戸の領主工藤将監が継家て則工藤将監と改名す、其後八戸と改、今の八戸薩摩が祖なり、(後略) ■ 『篤焉家訓』十五之巻 (甲州破木井氏の滅亡) 八戸先祖は南部光行三男破切井六郎実長 永仁五丁酉年九月廿五日卒、建武年中破切井遠江守師行(南朝三代)又次郎時実之次男東次郎政行之子也、破切井四郎長継之為養子継其家、属後醍醐帝、功尤居多也、帝賞し其戦功、賜国康之刀(弐尺五寸八分)、弥六郎義長因霊夢之告、号緋袴之剱と、余綸旨口宣汗車牛、充棟梁今挙其一二己矣、吉野皇居御味方に属し軍功あり、其子六郎政長(実師行弟、養て為嗣)奥州に下向、系譜を尋て南部之幕下と成、客分として北郡田名部・岩手郡沼宮内を以領す(甲州乱逆に依て累代の領と旧舘退散す、委、八戸系図に云)然るに八戸旧古之領主工藤将監藤原秀信卒て無嗣子、女子一人有、名を勝と云、破切井六郎政長為入聟、八戸一圓に領して八戸弥六郎政長と号す、又曰、光行公六男六郎実長は八戸之祖也、光行公御父遠光公より附与し玉ふ甲州巨摩の郡を実長に譲り、奥州に御下向あり、破木井の六郎は法華宗門を親交して法華宗となる、法躰して日蓮上人の受戒を得て日圓と云、代々飯野三牧破木井の三郷を領す、実長より十代三河守義実、大永七年丁亥十二月廿三日武田信虎のために一門悉く峯の城にて生害す、義実の孫弥次郎実春、天正五年正月十日駿州高国寺にて戦死、此時破木井の家永く滅亡す、往古いつの比にや破木井某、奥州に下り南部に住す、後工藤氏の家を継き八戸氏となる。 政長の子┬師行 又次郎 継破木井家 ├政実 彦四郎 四戸家 └政長 六郎 号八戸弥六郎 『篤焉家訓』十五之巻 ■ 『篤焉家訓』十七之巻「公子別傳」七戸喜庵君御系譜 註 前項とほぼ同文である。原史料は不明ながら、享保末年から元文頃の成立と勘考される『南部系譜』や『御系譜』には、享保十四己酉年七月書上之写とあり、八戸工藤氏を承継したことは、相当古くから知られていたことが垣間見える。なお、盛岡市中央公民館には前項(『篤焉家訓』15之巻)に見える「又曰云々」(破切井氏滅亡の記録)は、頭注の形で掲載されている。成立時期は未確認であるが、成立者自身によって記入されたものと推定され、同説がいつ頃から存在したものか追跡調査の資料と成り得るものと期待したい。 工藤利悦 平成15年7月5日追加 26代 27代 28代 南部信直──利直─┬重直 29代 └重信────────────────┐ ┌─────────────────────────────┘ 30代 ├行信 └英信───────────────────────────┐ 父重信始め七戸隼人直時為養子、兄重苗卒去後継其家領、 │ 依之七戸家名断絶、以喜庵英信七戸の家名相続(下略) │ ┌─────────────────────────────┘ └舜信 南部織部 初七戸善之助 後諱賢信──────────┐ 実重信九男也、兄喜庵為養子、号七戸善之助舜信、 │ 宝永三丙戌四月廿四日於盛岡卒、行年廿五歳 │ ┌─────────────────────────────┘ └敷永 八戸弥六郎 始八戸若狭信有 幼名七戸善之助───── 宝永三丙戌年八月継父賢信遺跡領千石、号七戸氏、正徳 二壬辰六月廿三日八戸勘解由利戡(実山田大学利仲男也 幼名山田彦市、元禄十二己卯六月十三日八戸弥六郎義倫 為養子継其家領、干時十七歳)以下譜本文割愛 附録 享保十四己酉年七月書上之写(八戸家由緒) 前段割愛 ○ 八戸先祖は 南部三郎光行公三男破切井六郎実長、永仁五丁酉九月廿五日卒、其、建武年中破切井遠江守師行(南部三代又次郎時実之二男東次郎政行の実子也ね破切井四郎長次為婿養子、其家領を継、後醍醐天皇之御身方に参じ、軍功甚多、則従帝国康之刀を賜ふ、長さ弐尺五寸八分、義長弥六郎代有告霊夢、太刀の名緋袴之剣と改、此外倫旨口宣数通有事、長故略之)、吉野皇居へ参候、御身方軍功有、其子破切井六郎政長(実は師行弟也、兄師行為養子)奥州に下向、系譜を尋に、南部之幕下と成り、客分として北郡田名部・岩手郡沼宮内を領す、(甲州乱逆に依累代之領舘を退散、委は有八戸之系譜)然に八戸旧古之領主工藤将監藤原秀信卒て無嗣子、女子一人有、名を勝と云、破切井六郎政長為入聟、八戸一圓に領して八戸弥六郎政長と号す、 ■ 秋山系図 群書類従巻第127 続群書類従刊行会本 遠光 加々美次郎─────────────────────┐ ┌─────────────────────────────┘ ├光朝 秋山太郎──────────────────────┐ │┌────────────────────────────┘ │├光定 小太郎 │├光季 常葉次郎───────────── │├光重 南部三郎 │├経明 修理亮 │└長信 四郎 └光行 南部三郎─────────────────────┐ ┌─────────────────────────────┘ ├朝光 ├実光 次郎────────────────────────┐ │┌────────────────────────────┘ │├時実 又次郎─────────┬政光 孫次郎 │└宗光 一名宗経 孫次郎 ├宗実 孫三郎 ├行朝 太郎 ├実実 彦三郎 │ └政行 六郎 ├実長───────────────────────────┐ │ 南部破切六郎 日蓮上人弟子、日本法華宗始、法名日圓 │ │┌────────────────────────────┘ │├実継──────────────長継 ││ 破切祖 │└祐光──────────────祐政 六郎 │ 弥三郎、甲州南部祖 └行連 五郎 ■ 破切井傳 『公国史』 巻三十六 列傳十六 破切井の先は実長と云、光行公の六男にして母は武田政光の女、実光公の同母也、六郎と称す、初め光行公六公子侍る有、皆妾腹にして特実光公と実長と嫡腹也、且舅氏武田の扶有て諸兄に懼して特り甲斐の館野・御牧・破切井の三郷に采地を賜り破切井の郷に居る、依て破切井を以氏とす、光行公陸奥の封に移りて独り甲斐に止り南部の庄を併領す、故に子孫又南部氏を称す、(中略)後年日蓮に帰依して戒行を受く、稚髪して日圓と号す、文永十一年終に甲斐身延山久遠寺の一宇を建立す、依て身延六郎と称す、永仁五年九月二十九日卒す、輝山源公と云、其子彦二郎実継と云、実継の女を時実公(宗家三代)に配す、其子四郎長継、子なし、時実公の二男師行を以て継とす、師行初東次郎と云、後遠江守と成、(中略)師行南朝に属して軍功有、帝國康の刀賜ふ、承応元年陸奥の国司顕家が軍に従て所々に戦ふ、五月顕家、高師直と和泉安倍野に戦ふ、顕家軍敗て是に死す、師行も其従者と倶に悉く戦死す、子なし、政行公(宗家四代)の三男三郎政長を継とす、後遠江守と云、祐政公(宗家九代)の公女を娶て妻とす、建武の初政長も父と倶に官軍に属す、時に茂時公(宗家十代)は高時(執権北条氏)に党して鎌倉に生害す、故に公室の存亡甚だ危し、政長為に公室を扶持して終に公室安しと云、建武元年五月功労の賞として甲斐倉見山在家三宇畠地等を賜ふ(中略)、正平十五年八月十七日の戦に戦死す、其子右近衛蔵人信政、初三郎と云、又南朝に属して軍功有り、興国六年三月達智門院蔵人と有り、父に先立ち死す、弟二人有り、二弟左馬助政持、其臣新田氏の祖とす、信政の子薩摩守信光、其子薩摩守政光、天授二年正月十二月二十二日武田信虎の為に甲斐峰の城に一族悉く生害す、其孫弥次郎実春、天文五年正月十日駿河高圓寺に戦死す、是に於て破切井氏亡嫡、世数二十二世、一本実春を義実の子とす、然れば二十一世なるべし、 【参考】 ■ 『系図纂要』清和源氏十八 南部系図の内、破切井系図 信濃守遠光三男 光行 ───────────────────────┐ 信乃三郎 南部三郎 │ 治承四年石橋山有功賜甲斐國南部郷 文治五年賜陸奥國 │ 糠部五郡 建久三年入部干南部 嘉禎二年三ノ十八卒干 │ 鎌倉 五十一 了見院宗山記公 又雲樹院殿山暉公 │ ┌───────────────────────────┘ ├行朝 庶腹 南部一戸彦太郎 居一戸館 ├実光 一に種光 ──────────────────┐ │ 南部彦二郎 │ │ 嘉貞二年五ノ十五嗣 四年頼経卿上洛隋兵 │ │ 同六年八ノ十二死 干糠部 三十八 │ │ 長光院鶴林清宗 │ │┌──────────────────────────┘ │├時実 ││ 又二(五ィ)郎 ││ 嘉貞六年十ノ六嗣 文安元年正ノ十九死 五十三 ││ 光了院徳雲明公 │└宗光 ├朝清 三郎太郎 居七戸 ├宗朝 孫四郎 居四戸 ├行連 五郎 居九戸 └実長 ───────────────────────┐ 破切井六郎住甲州破切居 一に波木井 │ 永仁五年九ノ廿五死 日圓 │ ┌───────────────────────────┘ └長義 ───────────────────────┐ 弥六郎 正和二年十二ノ廿四死 日教 │ ┌───────────────────────────┘ └長氏 ───────────────────────┐ 信乃守 貞治六年八ノ九死 日長 │ ┌───────────────────────────┘ └実氏 ───────────────────────┐ 伊豆守 永和四年五ノ廿一死 日遠 │ ┌───────────────────────────┘ └行氏 ───────────────────────┐ 兵庫助 応永三年七ノ九死 日理 │ ┌───────────────────────────┘ └春行 ───────────────────────┐ 六郎二郎 応永廿三年正ノ十四死 日夢 │ ┌───────────────────────────┘ └春氏 ───────────────────────┐ 大炊介 文安元年八ノ九死 日要 │ ┌───────────────────────────┘ └氏実 ───────────────────────┐ 刑部少輔 文明五年四ノ六死 日法 │ ┌───────────────────────────┘ └長春 ───────────────────────┐ 右衛門助 永正八年十二ノ三十死 日眠 │ ┌───────────────────────────┘ └義実 ───────────────────────┐ 三川守 大永七年十二ノ廿三死 日浄 │ 駿人九嶋兵庫頭と甲人一味と信虎戦干甲府、信虎謀計、 │ 兵庫頭討死、干甲州荒河河原信虎攻抜甲州川内諸城 │ ┌───────────────────────────┘ └実行─────────────────────────┐ 六郎三郎 永禄十年八ノ十八死 目證 │ ┌───────────────────────────┘ └実春 子孫在身延 実春 以降 市川氏系図 末裔 静岡県沼津市に在住 実春────有国────栄吉──────────────┐ 備後守 文兵衛 彦十郎 │ 大坂の陣に討死 │ ┌────────────────────────────┘ └金秋────信景────元固────重成────────┐ 庄蔵 惣右衛門 作右衛門 甚之助 │ ┌────────────────────────────┘ └経廣────佸武────正中────正武──────── 甚右衛門 作右衛門 与兵衛 作右衛門 以下割愛 ■ 「身延山縁起」 太田亮『姓氏家系大辞典』所収 実長十代、破切居三河守義実は大永七年武田信虎のために、一門悉く峰の城にて生害なし、義実より三代次郎実春は、天正十一年、信州高岡寺にて戦死、此時甲州破切居氏永く断絶す ■ 「篤焉家訓」十五之巻 所収「南部系譜」 光行公六男実長は八戸の祖也 光行公御父遠光公より附与し玉ふ甲州巨摩郡を実長に譲り奥州に下向あり、破木井の六郎は法華宗門を信仰して法華宗となる、法躰して日蓮上人の受戒を得て日圓と云、代々飯野・三牧・破木井の三郷を領す、実長より十代、三河守義実大永七年丁亥十二月二十三日武田信虎のために一門悉く峯の城にて生害す、義実の孫弥二郎実春、天正五年正月十日駿州高国寺にて戦死、此の時破木井の家永く滅亡す、往古いつの頃にや、奥州に住す、後工藤氏の家を継ぎ八戸氏となる。 ■ 八戸傳 『公国史』 巻三十六 列傳十六 八戸氏の先は破切井弥六郎義長と云、甲斐の破切井実長二十三世の孫にして実春の子也、実春、天文五年正月十日武田信虎が為に駿河高圓寺に戦死す、義長難を遁れて甲斐を出奔し、漂流す、公國は宗室なるを以て公國に投じて、扶を得んとす、従者新田氏、中館氏を僅かに弐拾余人、北國をと木曽路を経て出羽仙北より舟に乗じ、此年九月二十日三戸郡八戸の浦に至る、義長此地は、いかなる所なるを詳にせず、漁夫に其地を問に対して曰、奥州也と、依て磯辺に彷徨して馬鞭を建つして嘆して曰、我今斯漂流の身となりて、我志所に至る事あたわざらん也、若身薄命して死せば、此鞭と倶に朽果んと竹鞭を磯砂に投す、鞭逆に立て地に入事深し、後鞭根を生し、葉を繁りて今に至て繁茂すと云、此時に当て当郡の主工藤秀信、連年公室の境を浸す、秀信急に死して継なし、其妻自ら堀を保守す、義長漁夫に問て曰、糠部と云所に南部殿と云人有や、漁夫が曰、其南部殿と云は是より北に当て三戸と申所に有といへども、近年久しく此領主と境を争ひて、路道通難し、此地の城主を工藤殿と申候と、義長が曰、其工藤殿の名を何と云也、対て曰、其名を知らず、唯此頃聞て、其工藤殿病死して世継なく、後室一人有て丈夫に勝る、其身大将となりて城地を保護し、士卒を指揮すと承候と、義長沈吟する事久して■に喜び、又問て曰、其城は何方に有りて士卒幾ばく歟有ると、対て曰、城は則あれに見へ候、林のある山也、士卒は幾ばく有と云事を知らねども、今大抵境に出張して城中には老弱の兵士幾ばくも有まじと、義長が曰、我別に深慮有り、汝にも猶尋度事あれば、我に従て来るべしとて、再び舟に乗して洋中に至り、工藤を襲取らん事を議す、是より先竊盗団四郎と云者有り、妙に御忍の術を得たり、義長常に是を寵して厚く食衣を給す、漂流の中従て此地に至けり、義長謀て曰、我、具に漁夫の言を聞くに、工藤氏我宗國に冦すと、此工藤氏を襲ひて身後の謀となすべし、顧に唯此小人数にては常の戦闘すれば敗を取らん事必定也、然ども是を取らずんば、又いずれの日歟身を立、家を興さんや、然れば此一挙は団四郎の忍術にあらずんば事成べからずと、団四郎が曰、某度々御馳走に成候へば、たやすく忍■せて君の恩に報ぜんと、是に於て日の暮を洋中に待、日既に傾かんとする時、俄に暴風起りて激浪舟を蕩揺す、群臣皆色を失ふ、義長神色変せずして曰、今なまじひに上陸する時は謀事空し、かく波濤に漂ふと亦再すへからず、此漂流の中にて連歌をなして日の暮を待べしと、群臣其勇に服す、強て起て連歌を詠ず、後此連歌を嘉例として今に永式とすと云、終に日暮て上陸し、此夜甚闇し、漁夫に多く金銀を与へて導とし、其城下に至り、団四郎をして城中に忍入らしむ、暫くして団四郎帰来て曰、本丸に是皆婦人ばかり居り、案ずる所彼後家なるべし、男子の分は皆二三の丸に在りて幾ばくもなく、且疲て厳敷非常を警しむる躰にもあらず、臣再び忍入て門を開くべし、君公等■に入べしとて、復城に入る、時に義長令して曰、城に入て恣に人を殺事なかれ、只其後室を生獲すべしと、終に進て城門に至る、団四郎門を開く、義長等直に本丸に入る、城兵知る者なし、依て団四郎をして二三の丸に火を放しむ、火揚りて城中失火なりとして大に周章す、義長等厳敷本丸の門を閉て人を入ず、終に彼後室等の婦人を虜にす、終に櫓に登りて其後室等を縛して前に視し、呼て曰、我は甲斐國の住人破切井実長の後孫弥六郎義長也、汝等今、我本家の南部殿に敵対する事久し、我是を以て速に後室母子并に汝等が妻子を生捕にせり、即是上の罪を糺すべきなれども我敢て壱人を殺さず、汝等、若、我に降参して我命に従はば、我又汝等を撫育して倶に長く子孫共後栄を謀るべし、若亦我命を拒み、我と雌雄を決せんと思はば、我又後室を始として皆罪を罰し、遺骸ならしめんと、城兵等大に驚といへども、する事あたわず、速に命に応ず、是に於て又各其妻を以て人質を出さしむ、然れども事粗忽に成て変を生ぜん事を恐る故に、本丸の門を閉堅くて城兵を入ず、前後室の縛を解て慇懃に謂うて曰、某聞に夫人には此一城を保護して能其士衆指揮すといへども、今既に某が為に虜となるを恥辱とも思わん歟、然れども斯虜となる者、古今の間、何の世にかあらざらん、某事今斯■旅して本家に寄らんとせしに、はからずも当城世継なくして其世継の人を尋求と聞及へり、是に於某別に媒酌の人を以て当家を継ん事を欲すれども、某は南部の支族の身なれば、夫人の容易に是を許さざらん事を慮て始て此に至けりね若、幸に夫人には某を養て子となし、当家相続を許し給はば、某が幸、何ぞ是■■■■、若亦夫人終に害心を挟み、一旦某を欺き許とも、某も亦股肱の臣あれば、輙て害せられまし、且三戸にも此変を聞て勢に乗じて宿貸を晴されん事必定なり、然れば当家の存亡にも又知るへからず、願はくば夫人熟慮して某が請けに任せ給はば両金の謀と云べしと、夫人大に喜て是を許す、是に於て本丸の門を開きて士衆に謁しし、禍福利害を凌す、終に秀信の女勝を以て妻とし、後室を母として郡中の制度を定む、是に於て直に三戸に至て晴政公に謁せんとすれども、人心いまだ定らずして、変の生せん事を恐れ、且その工藤の族苫米地帽は苫米地城に在りて、敢て降らず、依て道路三戸に通せす、故に先苫米地を征して郡中を定めんとす、自ら兵士を率ひて苫米地を討つ、此道左右岩崖にして道甚狭し、兵士進む事難し、しばしば敵の為に敗らる、義長、団四郎を召して謀る、団四郎が曰、此城を抜く事かたきにあらず、天の時を待べしと、義長其謀る事を問ふ、団四郎が曰、機に臨みて変に応ず、豫の云かたしと、後十余日にして風雨激しく夜甚だくらし、団十郎が曰、今夜此城を抜くべし、臣に兵士を貸給へと、義長弐百人を授く、団四郎軍中に令して曰、城中の火を見て速に進み攻むべしとて、自ら独り城下に至り、朽木を湟に投して是を渉りて城中に入り、風上より火を放ち、火まさに起らんとする時、団四郎大手の門に至て曰、某奥より舅君へ火急の御使也、とて城門を開しめて出奔る時に火起る、城兵是を失火なりとて大に周章す、火を防かんとす、義長の兵城附して攻む、苫米地防ぐ事あたわずして出奔す、(中略)是に於て工藤氏の遺領全く一統す、依て先使者を三戸に遣して晴政公(三戸南部家二十四代)に事由を訴ふ、晴政公則八戸及田名部高壱万五千五百石を以て義長に封ず、公室の一門となる、且令して氏を八戸と称せしむ、使者帰て復命す、工藤氏の旧臣等が曰、工藤氏を以て氏を称せずんば城を枕にすとも命に従はずと、是に依て義長止事を得ずして工藤を称し、名を将監と改む、是より其臣民相和して領中静謐す、漸くに工藤を称し、或八戸と称し、後終に八戸氏に改むと云、初工藤氏、後醍醐帝より軍功の賞に依て國康の太刀賜ふ、以て家宝とす、一日義長夢に神有て告て曰、國康の太刀名を緋袴と改むべしと、依て後名とす、凡、此義長は今八戸家傳ふる所の系譜に見在せず、是より後弾正直栄に至迄、其傳統疑なき事あたわず、凡今其家に傳ふる系図、実は上は破切井氏、中葉は工藤氏、後に至て八戸氏と三家の世系を一混して自有する所也、彼斎器什物、臣民の如きは皆工藤氏の物を傳ふ、以て世に■伐す故に、今私に傳を三家に頒ち、但、義長系図になしといへども、時代を以て考ふれば、系譜に称する薩摩守治義は、則義長ならんか、治義は則工藤長経に継ぐ者也、故に治義を以て統を立、治義卒して其子五郎義継と云、天文八年六月卒す、子なし、族臣新田左馬助行政長男弾正少弼勝継、(中略)天文十七年十二月卒す、其子薩摩守政継と云、(下略) 【由緒異説】2 南北朝期 南朝の忠臣の系譜 戦国期1 戦国期2 近世編1 近世編2補遺 |