南部を名乗る諸家 10 家臣諸家 1 八戸家 1  南北朝期 南朝の忠臣の系譜



            南部三郎光行三男、或は四男、五男六男説などあり
   八戸南部家は   ますが、実長の末裔と伝えられています。
            甲州にあって破切井氏を称し、のち糠部に来て八戸氏を称したと各種系図は伝えています。しかし、甲州から糠部へ移転する時期、その他については諸説有り、漸次掲載しますが、初代実長は日蓮上人に帰依して身延山久遠寺の開基となったことで知られ、四代師行から八代政光の五代は南北朝期に、南朝の武将として活躍したことは周知の処です。その功績を以て明治期に至り、子孫は華族に列せられ、男爵に叙爵せられています。

 八戸南部家の家系図は各種ありますが、此処では『参考諸家系図』所載の系図を分割し、南北朝期までを紹介します。
『参考諸家系図』は盛岡藩士星川正甫が文久年間に編纂した盛岡藩士の家系図集です。これより遡って、寛保年間に藩命によって伊藤祐清・圓子記によって編纂された『系胤譜考』があり、『参考諸家系図』はそれを基本資料として増補に取り纏めたものです。

 八戸家系図に記載されている文面を見ますと、本頁部分は中世文書をベースにしていることが読みとれ、吉野朝史蹟調査会編「南部家文書」の目次的性格が窺われます。現在同書の年次に疑問も報告されていますが、吉野朝史蹟調査会編「南部家文書」は『系胤譜考』『参考諸家系図』に準拠した部分もあっのではないかと勘考されま す。一方、師行譜の「傳云、此時町人共の願之趣」は、取って付けたような記述の感は拭えと思いますし、政長譜「傳曰、此知行高八千石也と」を含めて、近世的色彩が強い部分はあることは否定しません。以上の様に、随所に近世の色彩をおびた表現も垣間見えますが、全文をそのまま掲載していることを、念のために書添えます。因みに、師行譜の「傳云、此時町人共の願之趣云々」は、元禄年間に成立したとされる『八戸家傳記』『八戸家系』にも記録されています。なお、同家が所蔵する中世文書は、「南部家文書」(昭和十四年吉野朝史蹟調査会・鷲尾順敬)として刊行されているほか、「岩手県中世文書」1等に収載されております。

 追記 「青森県史」資料編中世1 (青森県)は 南部光徹氏所蔵遠野南部家文
    書、盛岡市教育委員会所蔵南部利昭氏旧蔵文書、岩手大学附属図書館
    所蔵新渡戸文書、同館所蔵宮崎文書、原本所在不明文書(新渡戸・宮崎
    ・斎藤文書)、源氏南部八戸家系、八戸家伝記、「三翁昔語」所収八戸
    (遠野)南部氏関係資料などに加え、巻末に附録として資料編年目録を収
    めて、平成16年3月31日に発行されました。必見の書です。
工藤利悦

 註 本文中 文書□□(漢数字)は、参考までに掲載した「南部家文書」(吉
   野朝史蹟調査会・鷲尾順敬)の番号です。 
    南部家文書は現在國の重文に指定されています。

    八戸氏略系図

 光行┬実光─時実┬政光 (南部氏宗家)
   │     ├師行
   │     └政長
   └実長─実継─長継 = 師行 = 政長―信政┬信光=政光
                      └政光
    参考諸家系図巻四
                    公族之四
 南部氏   八戸 破切井 身延 
  八戸氏           紋 無輪双鶴
      文久元年・一万二千七百十二石三斗・南部弥六郎家

 光行公三男
 実長君  彦三郎 身延三郎 破切井六郎 ─────────┐
      母実光公と同く嫡腹也、             │
   頼朝公に仕て別に甲斐館野上牧橋破切井の三郷を玉ふ、而 │
   て破切井に居、以て氏とす、暦仁元年正月将軍頼経公の上 │
   洛に兄実光公と共に従て京師に至る、          │
   傳日、数ヶ所を領す、破切井郷梅平の館に住す、此時漠守 │
   八幡宮を勧請す、文永十一年五月法華宗の祖日蓮、甲斐身 │
   延山を草創す、実長公之に帰依して一寺を建立す、身延山 │
   久遠寺是也、後終に剃髪して日円と号す、        │
   傳日、此時家士三上藤兵衛長冨福士右馬入道長忠橘三榔兵 │
   衛光影等是を奉行す、加之嫡子実継二男弥三郎祐光等、毎 │
   日其経営を下知すと云、此年十一月廿四日普請成就に付、 │
   聖人謝礼の自筆の書如左、               │
   坊八十間四面に、またひさしさしてつくりあけ、廿四日に │
   大師かう并延年、心のことくつかまりて、廿四日のいぬゐ │
   の時、御所に参合して、三十余人をもて一日経かきまいら │
   せ、并申酉の刻に御くやうすこしも事ゆへなし、坊は地ひ │
   き、やまつくりし候しに、山に廿四日、一日もかた時も雨 │
   ふる事なし、十一月ついたちのひ、せうはうつくり、むま │
   やつくる、八日大坊のはしらたて、九日十日ふき候に、し │
   かるに七日大雨、八日九日十日はくもりて、しかもあたた │
   かなる事、春の終のことし、十一日より、十四日まてハ大 │
   雨ふり、大雪下りて、今にさとにきえす、山ハ一丈二丈雪 │
   こをりて、かたき事かねのことし廿三日四日又そらはれて │
   さむからす、人のまいる事洛中かまくらの町のさるとりの │
   時のことし、さためて子細あるへきか、次郎殿等の御きう │
   たち、をやのおほせと申、我心にいれておハします事なれ │
   は、われと地をひき、はしらをたて、とうひやうへむまの │
   入道三郎兵衛のせう已下の人々、一人もそらくのきなし、 │
   坊ハかまくらにてハ一千貫にても大事とこそ申候へ、たた │
   し一日経ハくやうしさして候、其故ハ御所念の叶せ給て候 │
   ならハ、くやうしはて候ハん、なにと申て候とも、御きね │
   んかなわすハ言のみ有て実なく、はなさいてこのみ、なか │
   らんか、今も御らむせよ、此事叶わすは、今度法華経にて │
   は佛になるましきかと存候ハん、叶て候ハは、二人よりあ │
   いまいらせて、供養しはてまいらせ候ハん、神ならわすハ │
   ねきからと申、此事叶ハすは、法花経信てなにかせん、又 │
   々申へく候、あなかしこ、               │
       十一月廿五日       日蓮在判      │
       南部六郎殿                  │
   此本書実長君遺言に依て久遠寺に収、当家には来書の写有 │
   又身延山え寄進之譲状有、左の如し、          │
    北ハ身延の嶽、東ハ寺平の峯、南ハ鷹取まて峯のあらし │
    をさかい、西は春気をさかい也、           │
       永仁三年十二月十六日   日円在判      │
   又子孫え之置文左の如し、               │
  一、みのふさわの御事ハ、さかいをたてゝゑいたいきしんの │
   上ハ、しさいしやうにみえたり、これひとへに、ふもそう │
   しんのけしやうほうおんのため也、然日円かあとすゑずゑ │
   の中、もしふしんけたいのともから、みのふさわの御ため、│
   そらくを存せんふてうふけうのやからハ、一ふんも日円あ │
   とをしるへからす、けしやうの心さし、たにことなるあひ │
   た、みらいまていましめおくところなり         │
       永仁三年十二月十六日   日円在判      │
   右二筆久遠寺宝蔵に在と云、              │
   永仁五年九月廿五日卒す、輝山源公、          │
 ┌────────────────────────────┘
 ├女 小笠原源太郎長経妻
 ├実継            彦次郎 ──────────┐
 │ 傳曰、課題の母夢了鎮守八幡宮一枝の梅花を授賜ふと見て │
 │ 懐胎す、依て幼名を梅平と号すと云、 奇巌嶮公     │
 └祐光  弥三郎                     │  
 ┌────────────────────────────┘
 ├長継   梅平治         四郎 ────────┐
 │ 元享二年陸奥の人安藤又太郎反逆す、鎌倉執権北条高時の │
 │ 命に依て、足立六郎時光白河に下向す、長継ハ糠部に下向 │
 │ す、付て之を定む、時光軍利あらす援兵を長継に請、長継 │
 │ 白河に往て畑六郎左衛門と相議して夜不意に賊城を襲ふて │
 │ 之を敗る、生虜多、                  │
 │ 傳曰(云)、家士橋左近行勝、安藤か弟造酒右衛門と戦て │
 │ 討死す、  却岳曠公、                │
 └女  南部次郎政行君室                 │
   政行君ハ、時実公二男にして当家にては東氏の祖と云傳ふ │
 ┌────────────────────────────┘
 ├貞継  彦四郎       早世
 ├師行  四郎或遠江守   又次郎 ───────────┐
 │   実、南部次郎政行君二男、長継外甥也、       │
 │ 建武元年北畠中納言顕家、陸奥国司となりて宮城郡に下向 │
 │ す、師行国代の列にありて始て陸奥に下る、       │
 │ 傳云、師行旅館を糠部郡八戸石掛村八森に営す、顕家か曰 │
 │ 是當郡鎮護の根城たるへしと、是より号て根城と云、又当 │
 │ 城鎮護の為、破切井の八幡宮を勧請す、此社今猶此古城に │
 │ 存、又顕家根城の近郷に役料地一万石を賜ふ、      │
 │ 師行諸郡仕置として所々巡見の間、国司より下文左の如し │
 │ 建武元年三月三日 文書七               │
 │  閉伊郡之内大沢村牧馬并殺害追捕狼籍等下知の国宣也、 │
 │ 同三月廿一日   文書八               │
 │  鹿角郡闕所被宛行地頭等由下文同断、         │
 │ 同四月十三日   文書九               │
 │  多田杢之助貞綱津軽下向郡内静謐之儀相共に可計同断、 │
 │ 同七月二日    文書十五              │
 │  伊達五郎入道善意糠部郡南川内横溝六郎三郎浄円跡望之 │
 │  論旨国宣無之候者不可容由之同断、          │
 │ 同七月廿一日   文書十六              │
 │  伊達大炊介三郎次郎光助八戸工藤左衛門次郎跡之事同断 │
 │ 同七月廿九日   文書十七              │
 │  糠部郡七戸之内工藤右近将監跡伊達右近大夫将監行朝え │
 │  被宛行御下知之同断、                │
 │ 同八月二日    文書十八              │
 │  国司津軽え御下向之路次糠部郡之内宿々雑用宿継人数已 │
 │  下御下知之同断、                  │
 │ 同八月三日    文書十九              │
 │       判                    │
 │   阿曾沼下野権守朝綱代朝兼申遠野保事申状如此子細見 │
 │   状所詮不日追却向弥五左衛門督已下輩可沙汰付朝兼使 │
 │   節令遅引者可有其咎也者依国宜執達如件       │
 │     建武元年八月三日   大蔵権少輔清高 奉   │
 │     南部又次郎殿                 │
 │ 右国司宜到来に依て早速左衞門已下の悪徒等を追却して四 │
 │ 民を撫育の品々朝兼へ申達す、             │
 │ 傳云、此時町人共の願之趣如左、            │
 │ 一、当所ハ小場に御座候得共、商売之通路 宣処御座候故 │
 │  前々諸方より商人参申候、其中ニ徒者共紛入、度々喧嘩 │
 │  出来横死之者数多御座候而迷惑仕候、依之市日之度毎警 │
 │  固之士被相出候様奉願候、              │
 │    後世足軽を出し合警固、今云、町番、       │ 
 │ 一、近年当所仕置不宜付、町中及困究、家々修覆も成兼、 │
 │  漸々零落仕、他処え参り商人宿成兼申体故、諸商人之往 │
 │  来弥以稀々ニて及困究迷惑仕候、依之向後毎月市日之節 │
 │  自郷他郷より当町え入来り商人店より役銭を取、其潤ひ │
 │  を以居宅之破損致修覆、商人宿仕候ハゝ、段々町も賑ひ │
 │  渡世相続可仕と存候間、願之通被成下度候、      │
 │    今云、中見せ役、                │
 │ 一、前々より町中ニ湯屋有来候処、近年諸商人往来稀ニ罷 │
 │  成、浴室致零落家業相続仕兼候、依之如前々湯屋建置申 │
 │  度候、此為入用七月盆前之市日并極月中毎市商売荷物附 │
 │  参候馬数より役銭取候て、湯風呂無懈怠立続候様仕度候 │
 │    今云、木戸銭、                 │
 │ 一、商人は第一神明尊敬仕、商帳之表書も書付置申事ニ御 │
 │  座候、近年当処町衰微仕候間、神明之宮致再興、商売之 │
 │  利益祈願仕候様奉願候、且又只今迄之市日之毎度刃傷之 │
 │  者有之、命危相見得申者も、薬師え祈誓を懸平愈仕儀数 │
 │  人御座候、依之薬師堂造立仕病難無之様祈願仕度候、此 │
 │  二社造営ニ費用ハ宜敷任御下知候、          │
 │    今云、十分一、                 │
 │  右之願、師行より国司え言上之処、願之通可申付、併神 │
 │  明薬師造立之儀当時困究之砌、早速申付候儀差支可申条 │
 │  極月一ヶ月之商売荷より十分一之役銭を為懸、六度之市 │
 │  日之内初二市ハ神明、末二市は薬師造立入方、中二市ハ │
 │  両宮普請雑用為入方、毎年之役銭領主預置、二宮造立相 │
 │  応之餘計有之節、可為致建立旨依下知朝兼江申含、尤前 │
 │  月自郷他郷より出入之諸商人え役銭相出候儀悉令触知、 │
 │  自是已来永々当処之恒例と罷成候、          │ 
 │ 建武元年九月六日  文書二十一            │
 │  糠部郡三戸之内、会田四郎三郎兵衛跡工藤三郎景資え可 │
 │  相渡旨国宣也                    │
 │ 同九月十三日    文書二十二 但、十二日に作る   │
 │  横溝孫六重頼孫次郎入道不与隠謀旨訴之、右依忠節六郎 │
 │  三郎入道跡重頼え被宛行、尤右凶徒捜出可申由同断、  │
 │ 同九月廿八日    文書二十三 但、十六日に作る   │
 │  伊達太夫将監行朝申糠部郡七戸事任御下文可沙汰付之由 │
 │  同断、                       │
 │ 同十月十日     文書二十四 但、六に作る     │
 │  中条出羽前司時長糠部一戸事申上候付御下知之由同断、 │
 │ 同寸二月七日    文書二十五            │
 │  左々木五郎泰綱召進横溝孫次郎入道子息亀一丸同六郎子 │
 │  息荒熊丸事可召置歟、六郎已下尋捜之後可有沙汰哉、事 │
 │  随時可相計旨同断、                 │
 │ 同十二月十五日   文書二十七            │
 │  糠部郡七戸御牧御馬御下知之由同断、         │
 │ 同二年二月廿一日  文書二十八            │
 │  横溝三郎祐貞申糠部南川之内横溝弥五郎跡之事御下知之 │
 │  由同断、                      │
 │ 同二月廿日     文書二十九は三十日に作る     │
 │  伊達五郎宗政申糠部郡七戸之内野辺地之儀御下知之由同 │
 │  断、                        │
 │ 同三月十日     文書三十             │                    
 │     判                      │
 │  外濱内摩郡郷并末行村村泉田湖方中沢真板佐比内中目等 │
 │  村被宛行南部又次郎師行同一族等江可沙汰付之由被仰政 │
 │  所畢然て同■彼所無事之煩可沙汰付者、依仰執達如件、 │
 │     建武二年三月十日    大蔵権少輔清高 奉  │
 │      南部又次郎殿                │
 │ 同十月廿四日    文書三十六            │
 │  成田六郎泰次え可加設国宣也、            │
 │ 元弘四年二月十八日 文書五              │
 │  信濃前司入道行珍久慈郡事訴申付御下知之由同断、   │
 │ 同二月廿二日    文書五              │                  
 │  陸奥国比内南川内事太田孫太郎行綱代行俊申状付御下知 │
 │  之由同断、                     │
 │ 傳云、光行公三戸へ御引移、後櫛引村え八幡宮御勧請、其 │
 │ 後茂時公於鎌倉御生害、已来社頭修覆神事等中絶す、此時 │
 │ 師行其衰廃を興す、社頭を修復す、社領を寄附す、神事祭 │
 │ 礼悉く復旧例、以祈願嫡家御出世始て行流鏑馬之神事と云 │
 │ 建武二年十二月廿二日顕家奉勅上洛す、国中以未静謐師行 │
 │ 従す、其孫三郎信光をして上洛に従ハしむ、       │
 │ 延元元年正月津軽平賀郡岩楯の領主曽我与市左衛門尉平貞 │
 │ 光尊氏に属して官軍を悩乱す、師行父子成田六郎泰次と相 │
 │ 議して正月七日津軽藤崎平内の両城に分籠、曽我貞光其党 │
 │ 安藤五郎次郎家季と勢を合来て師行か城を攻んとす、師行 │
 │ 等連戦て之を敗る、貞光左膝に矢庇を被て敗北す、同三月 │
 │ 顕家鎮守府将軍となりて下向す、同八月朔日浅利六郎四郎 │
 │ 清連并曽我貞光の族臣曽我左衛門次郎光時等、官軍の成田 │
 │ 小次郎左衛門頼時か守城鹿角郡大里館を攻囲む、師行の領 │
 │ 地此辺に有、依て家士小笠原四郎鳴海三郎太郎等軍兵を率 │
 │ て成田を救ふ、敵敗れて退去す、翌年七月又来攻、同十四 │
 │ 日同廿日所々に合戦有、同八月顕家尊氏を討為諸軍を召、 │
 │ 師行召に應て従て所々に戦ふ、軍功あり、翌暦應元年正月 │
 │ 八日鎌倉を発して京都に趣、顕家美濃に至る時尊氏の兵数 │
 │ 万追戦ふ、尊氏の武将五番の内三番今川五郎入道心省三浦 │
 │ 新介義高四千騎を以て阿志賀川を捗る時、師行二千騎を以 │
 │ て之に当、其鋭気甚烈し、三浦今川等避易して退く、師行 │
 │ 急に撃敵兵溺死する者は数を知す、           │
 │ 傳云、此時家士西沢民部行廣手え討取首十一       │
 │ 同五月廿二日泉州安部野に於て高師直と戦ふ、顕家軍利あ │
 │ らすして死す、師行も憤戦して死、           │
 │ 傳云、此時家士百八人戦死 (何れも姓名有) 旗峯玄紅 │
 │ 或説曰、師行、南朝に属して莫大の軍功有、依て、帝より │
 │ 国庸の太刀を賜ふ、長サ二尺五寸八分有、以て家宝とす、 │
 │ 弥六郎義長の代に至て霊夢の告に依て緋袴と号く、此外賜 │
 │ ふ所の御鎧胴靡呂綸旨口宣等多く存す、         │
 └女  養子師行室                    │
 ┌────────────────────────────┘
 ├政長  六郎 或破切井     遠江守 ────────┐
 │    実、南部次郎政行君四男、師行実弟也、      │
 │  政長幼にして武勇の器量あり、故に養子とす、     │
 │  或説曰、政長師行の後を継て一族を甲斐へ残置糠部へ下 │
 │  り、客分として田名部并に沼宮内を領す、又云、御和談 │
 │  の後甲斐乱逆多くして下る共、又下向の頃八戸の領主工 │
 │  藤将監藤原秀信の女子へ入聟せし共云、        │
 │  元弘三年五月新田義貞北條高時を討時、催促に依て陸奥 │
 │  より登り、同十五日武蔵堀金に義貞に謁す、軍列に入、 │
 │  翌十六日廿二日所々合戦に功あり、此時家族等戦死姓名 │
 │  あり、建武元年五月三日、後醍醐帝より、日来忠勤の賞 │
 │  として甲斐倉見山在家三宇畠地町等拝領之綸旨あり、  │
 │              文書十二          │
 │  傳曰、此知行高八千石也と、             │
 │  同二年三月十日国司顕家懃功の賞として糠部郡七戸結城 │
 │   七郎左衛門尉跡被下之、御下文有、 文書三十一   │
 │  同年夏北條次郎時行名越時兼等謀叛を企て東国大に乱る │
 │   陸奥之に應る者多し、政長国司の命を以て所々に凶徒 │
 │   を討依て執事修理亮経泰沙弥崇哲奉之、九月朔日付の │
 │   感状有、 文書三十四                │
 │  延元元年正月七日津軽の曽我貞光と合戦の時、父師行に │
 │   従て力戦して之を破る、              │
 │  同八月六日顕家の教書左の如し、文書三十七      │
 │   尊氏直義等於京都敗軍其党類奥州一二三迫之凶賊襲来 │
 │   之旨有其聞候間所被差遣軍勢也、早々可静謐歟糠部軍 │
 │   勢無左右不可参府且可静謐郡内之由軍監有実奉書也、 │
 │  同十一月十五日の教書左の如し、文書三十八      │
 │   京都事雖有巷説府中無殊子細南部又次郎下向之程可被 │
 │   警固奉行郡内由国宣鎮守軍監有実奉書也、      │
 │  暦應元年五月顕家討死、同八月、後醍醐帝崩御、後村上 │
 │   帝即位、顕家弟顕信陸奥國司となりて下向す、    │
 │  同九月廿三日曽我貞光津軽平賀郡岩楯城に籠て近邑を掠 │
 │   略す、政長之を攻て多く敵兵を討取(何れも姓名有) │
 │   此時南朝衰て尊氏威勢甚く諸国多く尊氏に應す、政長 │
 │   始終南朝に属す、同二年三月十七日同三年六月廿五日 │
 │   貞和二年十二月九日等尊氏教書を以て頻に召といへと │ 
 │   も終に應ぜす、                  │
 │      註 貞和二年十二月九日状 文書五十     │
 │  興国元年三月曽我貞光等党与を結て津軽大光寺城に籠る │
 │   政長越後五郎成田頼時と兵を合て囲攻外郭を破る、貞 │
 │   光浅利清連等之を救ふ、三月より五月に至る戦互に勝 │
 │   負あり、政長等囲を解て退く、同三年六月貞光の族曽 │
 │   我左衛門尉師助尊氏の命に依て貞光と兵を合し来て政 │
 │   長の居城を攻、翌年冬至て及ふ数十度の戦に敵鋭にし │
 │   て城甚危し、政長自ら士卒に先立て憤戦す、敵終に敗 │
 │   走す、曽我師助を殺す、首級多し(敵の姓名有)   │
 │  傳云、政長今度両年の強戦を、南帝賞之、栗田口国安之 │
 │  太刀及甲胃一領賜之、以為家宝と云、         │
 │  同六年二月十八日国司顕信累年の懃功を感賞す、陸奥国 │
 │   甘美郡尊氏跡被下の下文有、            │
 │  興国三年九月八日顕信教書左の如し          │
 │   其堺事其後何様御座候哉諸方為合戦之最中之由令申候 │
 │   間云々、委細以森四郎左衛門尉被仰遣之由候也、仍執 │
 │   達如件、  左近将監清顕 奉     文書四十三 │
 │  註 「岩手県中世文書」は興国四年とし、次のように解 │  
 │    説している。大日本史料六編之七、七二二頁はこの │
 │    文書を興国四年と推定し、「是より先き、顕信自ら │
 │    北軍を撃たんとし、結城親朝をして期を刻して戦を │
 │    開かしむること、七月六日の条(実相院文書)に見 │
 │    えたり、この後石塔義元、奥軍の南軍を撃たんとし │
 │    て兵を召すこと、十月二日の条(結城文書)に見ゆ」│
 │    と考証して証しているが、いる南部家文書は、これ │
 │    を興国三年と考理由は明かでない。        │
 │  註 興国三年説は、推して参考諸家系図ないしは、その │
 │    親本と目すべき系胤譜考の八戸系図に拠ったものと │
 │    勘考される。 工藤               │
 │  同十二月廿日政長先達国府へ訴ふる処の品々報書左の如 │
 │   し、               文書四十二   │
 │ 去ル十一月七日之御状同十二月十八日到来 委細令披露候 │
 │  一、津軽安藤一族等云々、              │
 │  一、鹿角合戦ニ将監致忠節云々、           │
 │  一、今度又対治磐手西根被構要害之条目出度々々、   │
 │  一、宿到入見参了被下面々御感御教書云々、      │
 │  一、官途所望之輩無子細云々、            │
 │  一、倉持三郎左衛門尉忠節候事聞召了云々、      │
 │  一、恐々謹言清顕奉書也、              │
 │  傳云、茂時公於鎌倉御生害已来、信長公を始、御一族御 │
 │  幽居当家師行政長は陸奥国代として威勢有之故、嫡家之 │
 │  御衰廃を歎き御雑用不足無之様御合力申上、天下、公家 │
 │  一族之御代と成候ハゝ、手前忠節之御恩賞、嫡家之御運 │
 │  被開候様ニ可申立存候て御出世之時を待居候処、信長公 │
 │  御卒去御子政行公ニ至ても政長万端補佐し数年御恩被成 │
 │  候、然処政長申上候は当時足利家之威勢強く諸国之武士 │
 │  過半足利に党与仕、私方えも可馳参旨御教書三度到来候 │
 │  得共、父師行已来宮軍ニ属し、南朝の厚恩不浅事故、縦 │
 │  令家を失ひ身命を亡し候共志を変、将軍え降参不可仕候 │
 │  今程御家運可被開幸之時節到来故、早々御登、尊氏卿え │
 │  御忠節被励可然候、御軍用之金は可奉献由ニて砂金七千 │
 │  両を献上す、政行公御満悦ニて離散之諸士を相催、御上 │
 │  洛ニて被謁、尊氏喜て白柄之長刀を賜ふ、其後度々御武 │
 │  功有之、南部之御本領安堵、且遠江守ニ被任終に中絶之 │
 │  御家再興被成と云、正平十五年八月十七日死、舜叟敲尭 │
 └女   養子政長妻                   │
      母実継女、                   │
   後妻 祐政公公女                   │
 ┌────────────────────────────┘
 ├信政  三郎 蔵人       左近衛 ────────┐
 │    母師行女、                   │
 │ 建武二年十二月国司顕家上洛の時、師行の代として従軍す │
 │ 所々の戦に功有、翌年又顕家に従て下向す、興国六年三月 │
 │ 廿七日信政達智門院右近蔵に任す、国司顕信書判を加ふ、 │
 │ 信政父に先立て死す、 或云、建文二年死、       │
 │ 妻 工藤左衛門尉貞氏女                │
 │   加伊寿御前と云打                 │
 │   傳云、興国五月二月十三日加伊寿御前の母儀尼しれん │
 │   より信光へいなりのこをりくろいしのからおなしきま │
 │   ん所を譲候由之譲状有、    文書四十五     │
 ├政持 南部左馬助                    │
 │    母祐政公公女、下同、              │
 └信持  兵庫助   中館刑部丞             │
           註 「八戸家系」信助に作る      │
   興国六年三月廿七日兵庫助に任す、国司顕信奉之の書判、 │ 
   家来の子孫中館勘兵衛持傳候、   文書四十八     │
 ┌────────────────────────────┘
 ├信光  刀寿丸 或薩摩守 又大炊助 三郎 ───────┐
 │   母工藤氏、                    │
 │ 正平五年八月十五日祖父政長の譲を受譲状有、同十年三月 │
 │ 十五日大炊介に任す、同十一年十一月十九日薩摩守に任す │
 │ 以上国司顕信書判有、                 │
 │    註 正平五年八月十五日状 文書五十二      │
 │      同十年三月十五日状  文書五十四      │
 │      同十一年十一月十九日状 文書五十五     │
 │ 同十二年十一月九日綸旨左の如し  文書五十七     │
 │                  但、十六年に作る  │  
 │  今度合戦致忠節候由被聞召畢、尤以神妙御感心不少者、 │
 │  天気如此盡以状、左中将在判、            │
 │ 此綸旨吉野より到来故顕信添簡有、左の如し、      │
 │  陸奥国津軽田舎郡黒石郷并鼻和郡目善郷等事任相傳預掌 │
 │  不可有相違者、依仰執達如件、  前右馬権守清顕奉、 │
 │ 傳云、櫛引八幡宮神事祭礼師行已来当家ニて支配之処、政 │
 │ 行公御出世已後守行公御威勢盛に被為成ニ付、当社之神務 │
 │ 御定状之写ニ、正平廿一年八月十五日、大膳大夫在判と有 │
 │ に付、八月十五日之神事ハ悉く当家之役者掌候様被仰含候 │
 │ 故、射手役者之参詣并流鏑馬次第之手札等ニ至迄、今以為 │
 │ 後世永例、又云、永正廿二年正月十一日信光甲斐破切井城 │
 │ に有て、依旧例与家士等為武事初之祝時、城外不意に敵襲 │
 │ 来て城を攻む、其敵誰共不知、座中之諸士出て是を防く、 │
 │ 年男西沢平馬勝廣時に年十五也、信光勝廣に命して敵を見 │
 │ せしむ、勝廣広間之鎗を提、又信光之馬ニ乗て敵陣を窺ふ │
 │ 近郡神郷之主神大和守也、勝廣帰らんとせしに敵追来る、 │
 │ 勝廣反り戦ふ、敵の逃るを追て錣を取て引止む、兜の緒切 │
 │ れて敵逃去、勝廣其兜(前立物輪之内橘)を提て帰て是を │
 │ 言上す、信光大に賞て其鎗と馬とを授く、        │
 │ 当家持鎗之鞘代々富士山形を用ゆ、今度勝廣え其鎗を授ニ │
 │ 付、手前之鞘は山之環を丸め丸山形に改替、以て後代に至 │
 │ る、又勝廣え馬を遣候儀永々為家例、今以毎年正月十一日 │
 │ 武事初之祝儀二年男え馬を為取来候、          │
 │ 大和守狼籍之次第、南朝え奏し、蒙勅而軍を神郷え出、先 │
 │ 手西沢右近光廣三上兵太夫富親福士右馬丞安隆等を以敵城 │
 │ を攻囲、不日に是を追却す、三上西沢之両士を以為城代し │
 │ て信光軍を治て帰る、此趣、南朝え奏聞す、帝是を賞して │
 │ 甲胃一領(金物桐之臺)を賜ふ、 左中将何某取次と云、 │
 │ 同六月廿五日、綸旨左の如し、             │
 │     註 文書六十 但、正平二十二年に作る     │
 │  甲斐国神郷半分大和守跡可知行者、天気如此、盡以状、 │
 │  右大弁在判、                    │
 │     此知行高二万石と云、             │
 │ 同日同断、    文書五十九 但、正平二十二年に作る │
 │  年来軍忠之次第、叡慮不少、猶殊可抽貞節者、天気如此 │
 │  盡以状、右大辨判、                 │
 │ 同十八日顕家よりの直書左の如し、           │
 │ 其後無指事候間、不申遣候、兼又上田城事云々、可承左右 │
 │ 者也、依如件文中元年剃髪、聖光と号す、永和二年二月廿 │
 │ 三日死、取外青公  一本云天授二年死         │
 └政光  四郎  兄信光養子               │
 ┌────────────────────────────┘
 ├政光  四郷  弾正少弼     薩摩守
 │    実、信政二男、信光同母弟也、
 │ 又祖父政信の譲を受、北郡七戸城に居、兄信光と倶に南朝
 │ に属し数々戦功あり、天授二年正月廿二日信光終に臨て譲
 │ 状あり、是信光実子長経光経幼少に依て也、 文書六十一
 │ 傳云、南帝皇運終に開けす、明徳三年閏十月二日、南帝吉
 │ 野より御入洛  嫡家守行公には御父君より足利家え御随
 │ 身故守行公政光え御意ニは御手前先祖師行より代々南朝え
 │ 忠義を被励候処、今度南北御和睦相調候ニ付、兼て吉野え
 │ 御味方之諸士皆々将軍え降参仕候、其中ニ御手前一人今以
 │ 降参無之候、今ニ至て誰か為に義を守、足利家え相背候哉、
 │ 早々将軍家え被馳参可然候、其事及延引候は重キ咎を可請
 │ 候、是我等一分之勧にあらす、内々将軍家之思召ニ付申述
 │ る也、政光対曰、如仰我家代々南帝え忠義を励し候に付、
 │ 朝恩又他ニ越申候、当時南北御和睦之上は私事足利家え対
 │ し遣恨を含心底ハ無之候得共、昨日迄仇敵と成候将軍家え
 │ 今更降伏可仕段二君ニ仕るニ等しく、武家之本意を失ひ申
 │ 候、縦令身命を亡し家を失申共全く降参可仕所存無御座候、
 │ 守行公御感心涙被催、御手前之義心一応ハ尤ニ候得共、天
 │ 下南北と別れ候時節は盛衰ニ不抱、一度服従之方え志を不
 │ 変儀、武家之守所ニ候、今程忠勤を可励主君もなく、殊当
 │ 時天下之諸家悉く将軍之幕下ニ従ひ候節、御手前壱人将軍
 │ 之御内意に背候段、偏屈之名を世に弘め候のみならす、数
 │ 代之家を失ひ候儀、先祖え之不幸と云、旁以歎敷存候、我
 │ 等祖父信長公本領を失ひ数年幽居之間、御手前之祖父師行
 │ 政長より助成之介抱に依りて生涯不自由なく身を終り、且
 │ 又父政行公家運を被開、我等に至ても将軍家之御懇情不浅
 │ 事、偏ニ政長之厚恩と泰存候故、家名計も不失様仕度候へ
 │ とも、右の存念にては本領之安堵は不相叶儀候間、先祖之
 │ 衆宮方より段々拝領之奥州之所領計も被下置候様執成申候
 │ ては如何可有之哉、対曰、御深切之御教訓強て相背申段、
 │ 如何敷候得共、最前申上候通将軍家へ降参之儀は決て不罷
 │ 成候、奥州之所領計も安堵可仕御執成、万一相叶申共足利
 │ 家より之御判物ニて申請候義、是又私本意ニは無御座候、
 │ 只今迄之通朝恩之所領ニ可被成下候は、縦令尺寸之地ニて
 │ も忝可存候、右様も無之候ハゝ自滅之覚悟相究候、守行公
 │ 無是非将軍家え言上ニは、同氏政光儀先祖より代々南朝え
 │ 奉仕候ニ付、御幕下ニ属候ては二君ニ仕る不義之名を恥申
 │ 志迄ニて、今程将軍家え少も野心を含存念無之候、拙者も
 │ 色々教訓仕候得とも承引不仕候、乍憚政光偏屈之義心を御
 │ 推察被下、彼者之先祖南帝より被下置候奥州之領地一二万
 │ 石私領地ニ隔有之候間、右之処将軍より御判物に不及、如
 │ 前々可被下置候はヽ甲斐之本領を為立退奥州え差下可申候
 │ 条、此者一代出仕御赦免被成猶子長経え随身之勤仕被仰付
 │ 家名断絶不仕様可被成下候はヽ於私本望之至難有仕合奉存
 │ 候由願被成候得は、将軍家も政光廉直之義心を御感賞願之
 │ 通被仰出、明徳四年之春其一族郎従甲斐を立退、八戸根城
 │ え引移ると云、是より子孫代々当所ニ任す、此時甲斐梅平
 │ 館鎮守八幡宮社身延山之境内え遷座也と云、同年秋猶子長
 │ 経致上洛謁将軍、又曰、政光甲斐を退候時、久遠寺弟子日
 │ 崇と云出家を連下、於八戸一寺を建、遠光山身照寺と号し
 │ 寺領を寄附いたし置候処、三ヶ年過此出家遷化す、諸国依
 │ 擾乱身延山より後任を呼下候通路絶、終ニ廃寺ニ成、晩年
 │ に及て根城を長経に譲り、七戸城へ退隠す、実子孫三郎政
 │ 廣え七戸城を譲る、老年に及て死 是を七戸氏祖とす
 │ 偉英剛公
 ├長経   千歳 兄政光養子
 ├光経   次郎 兄長経養子
 │  一本に、此次に田中備中守光清中館土佐守経信中館政経の
 │  系を継の二人有、
 ├女 守行公室
 ├女 家族新田左馬助行親妻
 └女 同 西沢右近勝廣妻





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