貞享3年岩鷲山(岩手山)噴火記録

岩手山は岩手県盛岡市の北西に聳える標高2040.5mのコニーデ式火山です。

古くには岩鷲山(がんじゅさん)とよばれた岩手山の山体は、東西二つの火山からなり、古い西岩手山の上に新しい東岩手山が覆っている複合火山であるため、眺める位置により南部片富士などとも呼ばれています。西岩手山の火口は東西約3・、南北約2・の紡錘形をなし、北側の屏風岩岳、南側の鬼ヶ城を外輪山とする、大地獄カルデラとよばれ、その内部に中央火口丘としての御苗代火山、御釜火山があり、東岩手山は西岩手山の東斜面に形成された新しい火山で、御鉢と呼ばれる火口を持つ薬師岳、その中央火口丘である妙高岳や二次火口の御室などからなっています。
最近、西岩手火山周辺で噴気活動が盛んとなっていますが、江戸時代、貞享三年(西暦1686)に起きた噴火の記録を列記しました。


盛岡市郊外太田方面より


「史料1」 貞享三丙寅閏三月岩鷲山御山御炎焼書留
1-1 岩鷲山御炎焼之事
一、貞享三年三月三日巳の刻より岩鷲山御炎焼被成候。御見使被仰付候。其節厨川通御代
官長牛市右衛門、鵜飼村御代官金田一与兵衛、右両人御城え被為呼、岩鷲山御炎焼如
何様なる躰に有之哉、慥に見届に可参旨被仰付、早速火消の装束にて上下拾貳人にて出
立、大沢村肝入彦右衛門歩行夫貳人、下栗谷川村肝入屋兵衛同歩行夫貳人、都合上下拾
四人、閏三月三日酉の刻盛岡出立。闇の夜にて炎焼灰悉くふり、挑灯も不叶程にて側な
る者も見得ざる故挑灯持参、然れども風はなくしてみの笠にて出立。夕顔瀬の橋より岩
鷲山御天を見渡し候得ば、御山の内東平皆焼候様相見え候。古館辺を通り申し候得ば生
臭き北風吹き来る。国見峠に着候得ば、焼灰壱尺貳寸斗りかな り降り。御天は稲妻悉
くして火柱貳本立、壱本は北の方えさる。壱本は国見峠火移り、天上には青雲白雲赤雲
雷雹以のて外なり。五間七間程の大石に火は付令飛、諸木大小あらず角懸え飛落、音は
地を震わせ、雷凄まじとも申す斗りなかりける。煙へ灰交り降り、一切側なる人も見得
ず、互いに声を聞く斗りにて御代官も馬より降り、上下一つ所に立並び挑灯取込ひしめ
きし色を遺ひ青くなる。何れも物をもいはず皆々一つ所に逃み居り、其原にて直々夜を
明し、翌る四日の朝、長込と申す坂え六つ半過に参り候へば旭も見えず、朧月より闇く
山の端へ眺下り見申し候處、土水火交りさんさんに流れたりける。朶葉に火は付、小木
大木根より推出、夫に又硫黄に火付焼け来る。扨又五つ時分少に雲合能く、長込より見
渡し候得ば、先年より御仮屋場と申処迄火水昇り、上り下通りの家は見不申、方々見渡
す処に屋根見ゆる。其上に人壱人見え、一心に念仏申居候間不審に存じ、肝入彦右衛門
罷出声上呼候へば、此人漸く声を出し言えけるは、此方の事にて候か。某は右衛門三郎
なると返答す。重ねて尋ね候へばいね(夢)の心地にて誠に難有次第なる。地獄にて仏の御
尋ねに逢ひ奉とて無限悦申候趣候也。何とて右衛門三郎一人残りたるかと尋ね候へば、
皆留谷森え引越候。只拙者壱人残り居罷有候と一々申上候。川より此方の家四軒馬壱疋
家財迄皆流し申候。私事も向え越可申処少々の間隙を取申内に橋落候故、立帰り屋根く
しえ上り、如此最後と存じ念仏申居候。家財不残流申候者共は留三郎、左伝治、勘作
三九郎、長七、五人也。外に二郎右衛門、与四郎、惣次郎、右衛門、三郎、此の人々は
留谷森え引越、家財等を梁の上にあげ、とや角やと仕候内に、橋落候へば通路成難く、
何れも聢に只今にては知れ不申候旨、右衛門三郎が申事に候。肝入彦右衛門得と承り令
書留、夫より巣郷町え立帰り支度揃仕、三日の酉の下刻より四日の朝迄御代官様の御差
図にて右の趣き頓て書付御覧、夫より御城え両御代官御急ぎ御上り被成候。直々彦右
衛門御供にて御本丸廊下橋より御用の間え御上け、上田多左衛門殿御取次にて右書付を
多左衛門殿御覧、御前へ御持参。早速多左衛門殿被立帰候て遂披露候処、炎焼の事委細
見届け参り、右段神妙に思召候由御言葉の御ほうび被成下、両御代官様御城より御下が
り候、御休足被成ける。その後十日斗りの内御山御天鳴渡り、焼石共飛落ち、姥屋敷辺
迄参り候。斯様の事はいざしらず出羽奥州にては前代未聞不承候の旨、古き人物語りに
御座候。実に前代未聞の見物共、中々申斗無りける。



国見峠の現在風景 平成7年4月13日武田良夫氏撮影


1-2
一、貞享四年丁卯三月七日より十六日迄御山霧霞鳴渡り、日々地震昼夜に不抱有之、五月
廿七日御祭礼に導者御不動平迄参詣す。その内二三人も御天拝し申し度とて御不動平坂
峯に上り拝し申し候処、岩手の御不動の手前長根、壱間程割、御室の内煙にて拝し不申
心も不定早々に下向仕り候なり。同廿六日地震強しと申事に御座候
(以下欠)

1-3
一、同六月地震も己酉の日御天を見分に罷り遣。其時拝し申す処に御炎焼は右の通り焼火
不止して炎焼灰岩鷲の肩三十六童子の御辺迄所々霧霞鳴渡り、さみしく心も不定して下
向す。

1-4
此の度岩鷲山炎焼仕に付口上書指上げ申し候事今四日に柳沢水なし
川原と申処迄
参り、御山様軆見申候処、石砂大分に押出し、罷在候て罷帰り申候。
翌日御湯立仕御湯の上御両殿様御祈祷仕候処に御湯の面一段能く御座候事

1-5
八日に柳沢え夜通仕、明る九日に御山え罷登何卒御天の御様軆見分仕度奉存候間、鶴ヶ
峰と申処まで様に罷登」候得共、夫より上は風激しく震動仕り闇く御座候て罷登可申様
一切無之御座候。是より北の方沢取御山(嶺ヵ)八分程より岩殊の外焼崩退く所も立寄見可
申様無之、只罷帰り申候、同十二日御湯立御神楽仕り指上申し候、御湯の上毎度に相替
無之御座候 乍憚り如此に御座候 以上
貞享三年              柳沢別当篠木
三月十二日               禰宜
寺社御奉行衆中
注釈

 






八幡平アスピティー・ライン車窓から


「史料2」 盛岡領岩手郡岩鷲山焼崩候記
岩鷲山炎焼之事
一、 貞享三丙寅年閏三月三日巳の刻より岩鷲山炎焼に付御見分、此節の厨川御代官長牛市左衛門・鵜飼村御代官金田一与兵衛御城へ御呼上げ岩鷲山炎焼如何様成躰に有之候哉、慥に見届可申上旨被仰付。早速火消の装束にて、御同心三人鎗持一人草鞋取之人上下六人宛御代官両人にて、都合上下十二人。大沢村肝入彦右衛門歩行夫二人召連、下厨川村肝入左兵衛同歩行夫二人召連、惣人数十四人。閏三月三日酉下刻盛岡表出立。闇之夜にて延焼之灰悉く降、堤灯も不叶程にて側なるものも見へざる故、銘々堤灯持参、然共風はなくしてみの笠にて出立。夕顔瀬の橋より岩鷲山御殿を相見渡し候へは、御山の内東ひら皆焼候と相見得候。古館辺を通り申候へは生臭き北風吹来、国見峠に着仕候へは焼灰壱尺弐寸計も降り、御殿は悉く稲光りの如くにして、火柱様に弐本見得申候。壱本は北の方へ去る。一本 は国見峠火移り、天上には青雲白雲赤雲雷電以之外なり。五間七間程之大石へ火付令飛、諸木大小によらず角懸へ飛御落る音は地にひびき、すさまじとも申計無之候。煙へ灰まじり降り、一切側なる人も見へず、互いに声を聞くばかりにて、御代官も下馬して上下一所に立並び、堤灯取込ひしめき、色を失ひ青くなる。何れもものをも不言、皆々一處に進み居り、其原にて直々夜を明し。翌る四日の朝長と申坂へ六ツ半時過参候へは、旭も見へず、朧月より闇く、山の端へ眺下り見申候所、土と水と火と交りさんさん流たり。朶葉に火は付、小木大木根より押出、焼来る。猶又五ツ時分にて雲合能長込より見渡候へは、先年より御仮屋場と申処迄火水昇り、上り下通りの家は見へ不申、方々見渡候処屋根見ゆる。其上に人一人見え、一心に念仏申て居候間、不審に存肝入彦右衛門罷越大声出して呼び候へば、此人漸々声を出し言けるは、此方の事にて候か、某は右衛門 三郎なると返答す。重て尋候へば、右衛門三郎夢の心地にて寔難有次第なる、地獄にて仏の御尋に奉逢とて無限悦申候趣なり。何とて其方一人残りたると尋ければ、皆々留谷森へ引越候。只拙者一人のこり居罷在候と一々申上候。川より此方の家四軒馬壱疋家財迄流し申候。私事も向へ越可申処、少々の間隙取候内に橋落候ゆえ立帰り、屋根くしへ上り、如此最期と存し念仏申居候。家財不残流し候者は与三郎・左伝治・勘作・三九郎・長七五人也。外に二郎左衛門・与四郎・惣次 郎・右衛門・三郎此等之人は妻子留谷森へ引越、家財等を梁の上へあげ申、とや角と仕候内に橋落申候故通路難成、私は屋根に上り居申候。外の者は何れへ参り候や只今にては聢と知不申候旨、右衛門三郎申事に御座候。肝入彦右衛門篤と承り一々書留、それより巣郷村へ立帰支度抔仕候。三日の酉の下刻より四日朝迄御代官指図にて右の通彦右衛門書付、入御覧に夫より両御代官急ぎ御城へ罷出彦右衛門も御供にて御本丸御廊下橋より御用之間へ御上り、山田多右衛門取次にて右の書付御前へ入御覧早速多右衛門罷出被申候は遂披露候処炎焼之事見届候段神妙に思召候よし御言葉の御褒美被成下両御代官下城なり其後十日斗りの内岩鷲山御殿鳴渡り焼石飛落姥屋敷辺迄参り候。斯様之事出羽奥州にては前代未聞と申恐敷事中々申もおろかなり。

注釈





元禄国絵図に描かれた噴火する岩鷲山    山頂に炎が描かれている



「史料3」 奥南盛風記
   貞享三年二月廿九日盛岡城下空曇り雪降りける。三月一日は雪少し止みになりしに、同二日の明け方、雷が雪下ろしの様に鳴り渡り、北上川洪水に付き御徒の者見分に遣わされしに、川上より木の根家財など流れ来る。同三日の曉より申の下刻まで空晴渡り、岩鷲山頂上に夥しく黒煙立ち、暮に及び火の色見え、幅一間程長さ十丁に及び、灰悉く盛岡中に降り、往来の者目を明くことを得ず。夜明ければ空曇りて火炎見分けならず、雲の中に煙の様に見得ける間、角掛まで見分の者遣わされ、山絵図添えて注進有りける間、行信公より書付を以て相坂五郎左衛門を差出され、公聞に達し玉ひける。但し、此の年重信公御在国ゆへ行信公より仰せ上げられける。

注釈


「史料4」 祐清私記 (『南部義書』第三冊)
一、 貞享三年三月之頃、地震之様に鳴る事度々なり、四、五日過きて申ノ刻斗り岩巌山焼、盛岡・郡 山・花巻之境迄悉灰降る事雨の如し。北上川・松川へ硫黄流入て二、三年雑喉なし。其後都へ被仰遣、吉田殿へ御相談被成候は、我領分岩巌山と申山有、昔霧山か天上と云。大同二年に田村丸の権現を勧請し玉ふ。一年に一度つゝ諸人参詣致候。精進悪敷候得は忽に攫はる。扨去年中天上殊の外焼申候間、何れ官位之望にも御座候哉と被仰遣候得は、正二位大権現と顕し玉ふ。其後別而不思儀之事も無之、去年精進悪敷けれはけが有。〈下略)

注釈


「史料5」 奥南古実伝記
  貞享三年丙寅二月廿九日より空曇夜中より雪降三月朔日二日少宛雪降。二日には時々雷か雪下ろしの様に鳴候。然處北上川水濁、諸浮流候由に付、御徒の者川端辺見分候様被仰付被遣候処、右の通にて木の根家財の様成物も流候由申候に付、不審に存候内、三日の晩七つ過、空晴岩鷲山焼頂上夥しく黒焼立及暮にしたがひ、火の色見得、幅壱間程長さ十丁に及候様相見、灰も殊の外降、盛岡中往還の者目を明兼候程にて、夜に入候程火の色赤く相見得、四日の朝迄火見得、夜明候て山え雲懸り見得不申候得共、雲の内煙の様に見得候に付、御前え山の絵図角懸辺見分に被遣候書付、行信公え御飛脚を以被仰遣依之於江戸覚書阿部豊後守様え相坂五郎左衛門を以被仰遣候 

注釈


「史料6」 篤焉家訓 巻十九
6-1 岩鷲山御炎焼之事
一、 貞享三年三月三日巳の刻より岩鷲山御炎焼罷なり候。御見使被仰付候その節、厨川通御代官長牛市右衛門、鵜飼村御代官金田一与兵衛、右両人御城え被為呼、岩鷲山御炎焼如何なる躰に有之哉慥に見届に可参旨被仰付。早速火消の装束にて上下拾貳人にて出立、大沢村肝入彦右衛門歩行夫貳人、下栗谷川村肝入□兵衛同歩行夫貳人、都合上下拾四人、閏三月三日酉の刻盛岡出立。闇の夜にて炎焼灰悉くふり、挑灯も不叶程にて側なる者も見得ざる故、挑灯持参。然れども風はなくしてみの笠にて出立。夕顔瀬の橋より岩鷲山御天を見渡し候得ば、御山の内東平皆焼候様相見え候。古館辺を通り申し候得ば生臭き北風吹き来る。国見峠に着候得ば焼灰壱尺貳寸斗りかなり降り、御天は稲妻悉くして火柱貳本立ち、壱本は北の方えさる。壱本は国見峠火移り、天上には青雲白雲赤雲雷雹以て外なり。五間七間程の大石に火は付き令飛諸木大小あらず。角懸え飛落る音は地を震わせ、雷凄まじとも申す斗りなりける。煙へ灰交り降り一切側なる人も見得ず。互いに声を聞く斗りにて御代官も馬より降り、上下一つ所に立ち並び、挑灯取込みひしめき色を遺ひ青くなる。何れも物をもいはず皆々一つ所に逃み居り、その原にて直々夜を明かし、翌る四日の朝長込と申す坂に六つ半過ぎに参り候へば旭も見えず。朧月より闇く山の端へ眺め下り見申し候處、土水火交りさんざんに流れたりける。朶葉に火は付き、小木大木根より推出し、それに又硫黄に火付き焼け来る。扨て又五つ時分少しに雲合い能く、長込より見渡し候得ば、先年より御仮屋場と申す処まで火水昇り、上がり下通りの家は見不申。方々見渡す処に屋根見ゆる。その上に人壱人見え、一心に念仏申し居り候間、不審に存じ、肝入彦右衛門罷り出で声上げ呼び候えば、此の人漸く声を出し応えけるは、此の方の事にて候か。某は右衛門三郎なると返答す。重ねて尋ね候へばいねの心地にて誠に難有次第なる。地獄にて仏の御尋ねに逢ひ奉るとて無限悦申し候趣き也。何とて右衛門三郎一人残りたるかと尋ね候へば、皆留居森に引越し候。只樵者壱人残り居罷り有り候と一々申上げ候。川より此の方の家四軒・馬壱疋、家財まで皆流し申し候。私事も向いに趣き可申す処、少々の隙を取り申す内に橋落ち候故、立帰り屋根へかけ上り、如此最後と存じ念仏申し居り候。家財不残流し申し候者共は、留三郎・左伝治・勘作・三九郎・長七、五人也。外に二郎右衛門・与四郎・惣次郎・右衛門・三郎、此の人々は留居森に引越し家財等を梁の上にあげ、とや角と仕り候内に橋落ち候へば通路成り難く、何れも確かに只今にては知れ不申ず候旨、右衛門三郎が申す事に候。肝入彦右衛門得と承り、書留せしめ、それより巣郷町に立ち帰り支度揃い仕り、三日の酉の下刻より四日の朝迄御代官様の差図にて右の趣き頃て書付け御覧。それより御城へ両御代官御急ぎ御上り成され候。直々彦右衛門御供にて御本丸へ廊下橋より御用の間に御上り、上田多左衛門殿御取次にて右書付を多左衛門殿御覧、御前へ御持参、早速多左衛門殿被立帰候て、遂被披露候処、炎焼の事委細見届け参り、右段神妙に思召候由御言葉の御ほうび被成下、両御代官様御城より御下がり候。御休足被成ける。その後十日斗りの内御山御天鳴渡り、焼石共飛落ち姥屋敷辺迄参り候。斯様の事はいざしらず、出羽奥州にては前代未聞不承候の旨古き人物語りに御座候。実に前代未聞の見物仕り候事、中々となかりける。
6-2
一、 貞享四年丁卯三月七日より十六日迄、御山霧霞鳴渡り、日々地震昼夜に不抱有之。五月廿七日御祭礼に導者御不動平迄参詣す。その内二三人も御天拝し申し度とて御不動平坂峯に上り拝し申し候処、岩手の御不動の手前長根壱間程割れ、御室の内煙にて拝し不申、心も不定早々に下向仕り候なり、同廿六日地震強かりしと申事に御座候。 
6-3
一、 同六月地震も己酉の日御天を見分に罷り遣わす。その時拝し申す処に、御炎焼は右の通り炎焼不止して、炎焼灰岩鷲の肩三十六童子の御辺迄所々霧霞鳴渡り、さみしく心も不定して下向す。
6-4
   此の度岩鷲山炎焼仕に付口上書指上げ申し候事
今四日に柳沢水なし川原と申処迄参り、御山様軆見申候処、石砂大分に押出し罷在候て罷帰り申候。翌日御湯立仕り御湯の上御両殿様御祈祷仕候処に、御湯の面一段能く御座候事。
一、 八日に柳沢え夜通し仕り、明る九日に御山え罷り登り何卒御天の御様軆見分仕り度、奉存候間鶴ヶ峰と申す処迄様々罷り登り候得共、それより上は風激しく震動仕り闇く御座候て罷り登り可申様一切無之御座候。これより北の方沢取御山八分程より岩殊の外焼崩れ退く所も立寄見可申す様無之、只罷り帰り申し候。同十二日御湯立御神楽仕り指上申し候。御湯の上毎度に相替無之御座候間、乍憚り如此に御座候以上。
   貞享三年             柳沢別当篠木
三月十二日              禰宜
寺社御奉行衆中
注釈

 



追記
「歴代御記録」より
貞享三年
三月五日

一、岩鷲山焼候付見分為遂候処、山伏共申出候は、去る三日之晩丑刻柳沢え参着一宿仕御
祈祷申上、四日朝御山え参候、常々御山え参詣仕候道えはかかり不申、一之鳥居より北
向角違に御山え登、焼申所迄参候、火は御八葉之内もへ、大嶽と申所より竜ヶ馬場え焼
崩、大堀え大石共夥敷押込申候、峯より崩申石共御山之平に留り焼申候、大堀之底に崩
有之候石共も焼居申候、火之色光明朱之ことくにて、岩之底より見得申候由、三日之夜
柳沢に居申候内、いなひかりつよく、御山も以之外震動仕候、四日巳之刻過より鳴も少
々静り申候、右崩申石砂にて麓之大木・大石共、押抜打折、微塵に成申候、御山半ふく
より上は雲焼にて慥には見届不申候、大方に見分仕候由言上之

同廿二日
一、岩鷲山焼候様子絵図書付等先頃為御登被成候付、覚書被仰付去る十二日阿部豊後守様
え相坂五郎右衛門を以被遣候処、首尾好御請取成、尤、御月番え持参迄には不及候由被
仰候旨、漆戸勘左衛門より申来之御書付左之通


一、南部大膳大夫城下盛岡、去る二日空曇、雪少々降、雷之様に時々鳴申候。同三日城
下南之方流申候北上川之水濁、魚なと浮流申候。七つ時分より空晴、城下西岩鷲山と
申す山焼烟立ち、及暮申に随て火気幅壱間、長さ拾丁程に見得、城下迄灰降申候
一、同四日之朝明方迄は火見得申候、夜明申候ては、山え雲借懸り火見得不申候。然共
雲之内は焼候様に見得申候
一、右之山え見分之者遣申候処、山より麓之沢え泥水川之様に流申候。未雪多御座候に
付、火気にて雪水流候哉、水之流音強聞得申候。灰降震動仕候故山上は見届不申候。
此山少々宛不断焼申候得共、今度之様に強く焼申義無御座候以上。
三月十二日

十月三日
一、岩鷲山神位之儀、京都岡崎御屋敷御番望月文平え江戸より被仰越、吉田殿え相達、神
位相調正一位岩鷲山権現と宣旨御幣相書箱に入御渡、文平より江戸え差下候付、今度太
田平右衛門・戸来治五右衛門に渡被遣、昨晩下着候に付、大勝寺招之、北東精進遣、吉
田殿え相伺候様にと被仰越候間、返事次第追て可申越候由、七左衛門より去月廿日付申
来之

同廿五日
一、岩鷲山御神先頃正一位権現と御位階被成候に付、此度於京都岩鷲之儀、吉田殿家老鈴
鹿石見守に望月文平追て繹儀、今度江戸より申来候付 大勝寺に申渡事、委細御留に有
之略之

注釈   



参考

盛岡タイムス記事 火山泥流常襲地を確認 


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