『戊辰前後の楢山氏』について(紹介) (完) |
小川欣亨 |
花巻新田も先ずもって復旧し、親戚および旧家来共も棺安心したが、明治十年三月、嶋県令が澤田長左衛門を招いて懇話して言うには、花巻の所有地も既に安心とのことだが、道理は百万年変らなくても事物は掛け違いを生じ易いもの。花巻新田の百町歩は盛岡近傍の古田の十町歩にもおよばないだろう。あれを売り、これを買ったりしてすべての都合を作ったならば楢山家の活計は却って安全であろう。拙者は岩手県に永住する者ではないけれども乗りかけた船で、及ぶ限りは添心して安全に至らせたいものだと。長左衛門は大いに悦び、好意を感謝して辞した。すぐに奥瀬、安宅、石亀此馬、同一哉、楢山用蔵等へその旨を伝えて相談すると何れも同意し、この上は向井へも相談する必要があると奥瀬と長左衛門が向井を訪ねることとし、同六月長左衛門は奥瀬より先に向井へ到ったが、ちょうど主人長豊は他家へ出ていて不在であったので奥瀬を待ち合わせながら向井の妻女(佐渡異腹の妹、行蔵同腹の妹)と話し中に次男の要坊の昼痩の夢を破ったのでいろいろにむつかり妻女が雛祭の残りの菓子を与えて賺(すか)したが泣き止まない。長左衛門はこれを見て一寸、愛嬬に懐中から金一分を取り出し与え、共に慰めているところへ長豊が帰って来て、この金子を見て何の金かと問うと、妻女は弓太が要坊に与えた菓子料ですと答えると、長豊は立腹して、紙にも包まぬ裸金とは失礼だと言う。長左衛門はこれは申し訳けのないことをとその金を拾い上げようとすると、妻女は笑って、これは旦那の戯言(じようだん)ですと言って自らそれを取り上げ納めてしまった。暫くしても奥瀬がまだ来ないので長左衛門は口を開き、親類共相談の趣を述べ、嶋殿の好意に従うのがよいであろうと告げると、長豊は不満の顔で、貴様は毎度、毎度我々を軽蔑し、嶋は何様に申したとか、柴田がこう申したとか言うが、嶋等がどこの馬の骨だか分らぬのにそれを盾として、我々と談ずるのはけしからぬことではないのか。楢山の物を楢山の物としたからとて何の恩があるものか。果たして嶋がそんなことを言ったならば忌々(いまいま)しい差図である。売りたいなら売る、棄てたいなら棄てると銘々勝手なものを、彼是言うのはいらざるお世話、このうえは銘々随意の処置をすべきであると言う。 長左衛門は、心の中では過般所有地のために花巻へ出張した行蔵はじめ二、三の親類共が空しく帰って来て再評議のために打ち寄った節にはとても物にはなるまいとだれも尽力する者もなく、徒らに皆々飲食して、我々に散財させたのも顧みず、今また傍若無人の暴言を吐くとは何事であるかと思う。昔は高知(たかち)で家老職を勤めたことがあるにせよ時節を考えない意向である。嶋はいずれの馬の骨かは知らないが楢山家のためを思ってのこと。それなのに親戚と広言していながら米一粒の助けもなさずに、またこの火鉢もあの屏風も、佐渡が用いた脇指しなどもみんな我が物としていながら、このような雑言は理解できないと思っても尚、長左衛門は言葉を尽くして言う。貴下の御考えもご無理とは言いませんが、嶋の言うところは楢山のためを思ってのことであります。且つ、既に安宅、石亀、その他も同意の事ですのでいま一度ご勘考願いたいと強談中に奥瀬も来て仲裁したが、長豊は長左衛門の襟に手を掛けて、そのまま引き出したので、長左衛門も堪えかねて立ち戻り、先刻長左衛門は嶋を盾にとり作り言を言うと言われたが、何をもってそんなことを言うのか聞かせて欲しいと怒気を含んで大声に言ったので、妻女は驚き、先々(まずまず)今日は帰れと言うので、この事は婦人方の立ち入る事ではない、お控え下さいと言い放つ。更に、虚言と言うならば、嶋の添心の席に宮部謙吉が居合わせて委細に聞かれた事である。宮部とは親戚の仲と承っている。同氏に尋ね、果たして長左衛門が申す事が虚言ならば、二つとないこの首をお渡ししようと言うと、向井は立ち上り再び長左衛門の襟を取って、それならばこれから宮部のところへ行こうと言う。長左衛門は、今夜はすでに十二時、宮部へ行くならば貴下一人でお出いでなさい。長左衛門は発狂者ではないと言うのを聞いて、奥瀬与六郎はこの場を制し先々、貴様は帰った方がよいと長左衛門を宥める。長左衛門は明日ならば何方へも御同道しょう。しかしこの一件に関しては、これから何分にも立ち入らぬように心掛けるので、各方(おのおのがた)で楢山家が活計上の傷みを案ずることのないようにお取り計らい下さいと向井、奥瀬の両人へ断って、呉服町の井筒屋へ戻り、その後はこの件に手を出さずにいた。 しかし、当該の田畑は所有とは名ばかりで、収獲不納が必至という困難に及んで、長左衛門はこれを傍観するのに忍びず、翌十一年三月に楢山用蔵を同伴して花巻へ行き、里川口村の分、悉皆を千五十円で売り払い、そのうち五十円は世話人である中根子の覚右衛門に地所で与え、千円は買請人共へ月一分二厘五毛の利子で貸付け、この土地を直ぐに抵当に書き入れさせた。さらに地続きの場所に楢山の家族を居住させるのがよいであろうと、小原易次郎の次男の家屋敷へ、敷金二百円を貸付て借受、用蔵の家族を引移らせた。 その後、向井の差図とやらで、同地方の貸付金を悉皆引上げそのうえ、この時南部公が先年、佐渡へ渡した手書中にある佐渡の後嗣となるべき公子於蒐麿が逝去したためにその遺物として金千円を下し渡し、彼の涕泣演説の手書と交換しようとの交渉があり、親戚、知友衆議の席で澤田長左衛門の意見はこの手書は、佐渡の身にとっては後世子孫に伝えるべき貴重なものであり、千円位の金員に換え難いものであるから南部家との交渉を固辞し、千円金を返し手書は保存して子孫へ伝えるのが当然であるというものだった。しかし座中の楢山礼蔵は少し躊躇したが、その他の安宅、向井、奥瀬、石亀此馬、石亀一哉、楢山用蔵、谷河尚忠等は此の度この手書を返上するのは、楢山の子孫が旧主南部家に対する忠勤の一端であると交渉に応じ、手書を返して千円を受けとるのが当然であるという多数の説に従って千円を受取った。 ここにおいて貸付取上金と合わせて二千円を手に入れた。そのため親類中に世話振りする者が多く加わり、花巻にいる家族は未亡人の舎弟で奥瀬から出て他家を相続している葛巻道衛夫婦ならびに奥瀬の元役人某差し添い確実な保護を受けるつもりであったが、どういうわけか未亡人と葛巻の兄弟の仲が睦じくない。折々論争めいたことがあり、不穏であると聞いたので、この機を幸いとして、盛岡馬場小路に家宅を買入れ有余金を九十銀行の株券にして生活費に備え、南部潜龍の舎弟繁蔵を佐渡の三女たね子へ靖養子とし、向井と親しく往来して何くれとなく添慮を得て、先々楢山家も安堵の積りとなり、行蔵夫婦も同居して、日々酒など飲んで月日を送っていた。長左衛門は頗る考えるところあって、深く立ち入らず傍観の様子であったが、不幸にも明治十七年、近所の監獄から出火し盛岡の大火となった際に類焼したため行蔵夫婦は別居し、繁蔵は養母および妻子と下小路の或る家を借用して相変らず向井の加談を得て生計を営んでいた。しかし何分にも不廻りで多くもない財産に損失を招き、元来細心な性質の繁蔵は家督を早々に失敗し養実両家に対して面目ないという意味の書き置きをして北山の聖寿寺内にある実家の墓地近くの樹林で縊死した。(これは養家を退去し、実家に没しようとする気持からか)時に明治十九年二月五日であった。 繁蔵死後の楢山は婦女子ばかりになってしまったので、長左衛門は遠山礼蔵と相談のうえ、後見人取扱方を南部邸へ願い出て、親類の連署をもって申し出るよう考えもしたが、長左衛門の見込みでは、なまじの親類では却って楢山家に不都合である心配があったので、これまでの経緯を委細に書き取り差し出したところ、南部邸の家令である一条基緒から申し立ての趣は尤もであるけれども親類を差し置いて他から選抜するのは筋違いである。従って、家来であり且つ役人であるということで、暫く長左衛門が後見するのがよいであろうと返事があった。長左衛門は書面では意を尽くさないと考え、上京して種々説明をした。最初、花巻の地所を村々から取り戻す時に、嶋県令の添心に基づいて後見人となったが、親類の気受けは決してよくなく、反動力は種々の事に波及し、楢山家にとって不都合であったので石亀此馬を後見人と定め県庁へ届け、その後繁蔵を聟養子としたので石亀の後見人を解いたことなど委しく申し述べ、願はくば遠山、谷河両人の内から内命を賜りたいと頼んだが許されずに空しく帰村した。その後親類へ協議のうえ、楽堂公の次男千代鶴殿を繁蔵の跡にたね女へ配偶の事を願い出ようとしたが、楢山の家族等が不同意でそのまゝ、三ヶ年も経過するうちにやゝ模様が直ってよろしかろうということになり、長左衛門は再び上京し家令を通して願い出ると、今度は君侯の不同意でものにならず空しく戻った。 これらの年月の間、所謂(いわゆる)孤児・寡婦の楢山家ということで、親類および旧家来共まで楢山家を侮り、花巻地方の小作人共は小作料を納めず、女の身としてたね女性は躬(みずか)ら催促に出張したりしても、到底花巻に所有する田畑は頼りにならず、又々悉皆売り払いの手続きをしたが、その間にも親類および家来中に種々な奸策があり、その身の利欲を図る者が多かった。総額で四千円位にもなるものが、二千六百円とやらに纏(まとま)ったとか聞いたが、そのうちから色々と費用などがかかり意外な少額でではあるが、兎も角、有り金のすべてと多少のこれまでの遺残の金を合わせて盛岡の川越千次郎へ預け金としその利子の仕送りを頼んで細くも生活の計策をたてた。 このような情態であったが、明治二十二年に至って、朝廷から楢山佐渡遺族に家名再興の恩典を賜り、岩手県の士族楢山たねと公然と名乗ることを許された。南部家でも厚い添心を与えられ桜山社内において大祭を行うこととなり、有志者は一大碑を祠前の戊辰戦死者の碑の側へ建設し、祭日には南部家の連枝達および南部栄枝、楢山家族は勿論、親戚その他有志諸人集会し、祭壇には紅白の幕を張り五色の吹貫の旛などを樹てた。神官の祭式が終って、南部家からの祭文を南部栄枝が代読し、谷河尚忠は演説をもって祭詞を献上し、楢山用蔵が追吊(ついちょう)の詞を述べ終って、楢山家戸主たね女が礼拝、続いて役人の澤田長左衛門、南部弥六郎の名代、奥瀬、安宅、向井の妻女等が順次参拝した。式後に余興などもあり、山上山下に見物人も多く、時恰(あたか)も旧暦の四月二十三日、天気快晴で花盛りの好季節で、関係者一同は意外の愁眉を開いた。 祭典が終了し、料理店山善を招いて神前に供えた魚鳥野菜を調理し、盃を挙げることとなった。別席に南部済揖(北監物)が来ており、同伴の池田覚之進(往時御用部屋の物書を勤めていた者)に命じて澤田長左衛門を招いて言うに、先々(まずまず)澤田君もお歓びください。自分は戊辰後今日まで監物が死すべき筈なのに、惜しい楢山を殺してしまい、要らざる北は生き残り、のうのうと知らぬ顔をしていると、口のあるものなら樋(とい)や笊(ざる)にまで口を揃えて言われたのには閉口しました。澤田さんもそのように思われたでしょうと。長左衛門が、楢山の家来共は私に限らずそのようなことを言う者はおりません。段々のご厚庇(こうひ)をもって、今日の事に至り、佐渡も草葉の陰で歓(よろこ)んでいることと思います。そのようなご懸念は是非ともなさらぬようにお願いしますと答えると北も大いに悦び祝盃だと言って、大きな茶碗を指し、池田も引き続いて今昔の話などして盃の献酬をしているところへ参会の人々が押し来たって、澤田歓ベ、ヤレ恐悦と指し付けられた茶碗は数知れず、長左衛門は二十余年の辛苦が今日一度に発散して、集まってくる祝盃を引き受け引き受け飲んだので、前後不覚の大酔となり、人力車と若者共の介抱で紺屋町の宿へ帰ったのを自分は分らず、翌朝になって、八幡町の芸妓なども立寄って介抱してくれたことなど聞いて、一生に一度の失策で、大悦ながら面目ないと人々に語ったということである。 家名再興となって、親類および旧家来共は安心の世となったが、戸主たねは老母と先夫繁蔵の遺児さと子と三人暮らしの世帯を持ち、杖柱(つえはしら)と頼むべき叔父の行蔵は保護はおろか妨害をする不心得者であるために、ついに義絶の仲となり相互に吉凶の音信もしない仲となっている。戸主たねは往時は栄々として年月を送っていたが、佐渡に事故があって以来、流離、困頓、閉伊郡川井村へ家を移したことも再三であり又、花巻へ寓居、盛岡近傍では馬場小路、川原小路、八日町、下小路、加賀野田甫、妙泉寺下或いは新山小路等二ヶ月、三ヶ月又は半年、一年恰(あたか)も旅行中の如く居宅の転換幾回であったかも知れない。近年、家を鍛治町に求め、暫く転居の憂を忘れていたが、明治四十年十月老母(佐渡の未亡人)なか七十九歳で病死し、跡は娘さと子と母子二人の世帯となった。 長左衛門は常に世嗣の男子がいないことを憂いていたが、ここに益々その急であることを思い、良縁を求めたが、重なる親戚は多く老死したり或いは子孫が分散して居場所も判らず、また相談すべき人も乏しく僅かに谷河尚忠がいるので相談中に、幸い男爵南部義信の家来で貴族である中舘晃一の舎弟晃二という者が、人物も相応であるということになり、長左衛門の姻戚である遠野の遊田研吉の媒的で、たねの娘さと子へ配偶することになった。しかし晃二は目下、大蔵省の小役人を勤め、余力をもって夜学校へ通学し勉強中なので、三、四年は家を持たぬ見込みであると最初は辞退したが、遊田から懇篤の説諭を受けて、兎に角楢山家相続と決めたが、勉学の業を卒えないうちは家事を顧みないという約束で明治四十二年の夏休みに盛岡へ呼び、形ばかりの婚姻の式を挙げ四、五日滞在して上京した。 この婚姻式を行うについては、家と費用の余裕がなく、悉皆長左衛門の料理するところとなり、また長左衛門の腹案では、新たに養子を迎えるのに、町宅では面目くなく、小住居にしも一軒、独立の家宅を求めたいものと種々奔走したが適宜の家宅を得ることができず、現在の鍛治町の家へ修理を加えることとし、婚姻の祝盃を挙げるのは紙町の料理店丸竹棲と決めた。その入金支弁には、長左衛門が音頭をとり、閉伊川の村々にいる旧家来のうち長左衛門および袰岩九郎兵衛、川内民蔵の三人が発起者となり、古館光武、裳岩兎毛、野崎喜大、茂市勝蔵、田渡左七郎、山口弥七郎、刈屋栄八、藤田鼎三、田澤寿静、刈屋尭三、古館勇作、山名要太郎、伊藤民人、舘野半次郎、野崎市弥、飛澤助次郎、刈屋力江、刈屋平蔵、澤田礒弥、澤田徳太郎、中里園江、花巻の斉藤辰五郎等から祝儀金として二十円、十五円、五円等の金員を集めて主従の旧誼を温め目出度く婚儀を終了した。 長左衛門は今、年齢八十三、健全にして長寿を保ち、兎に角に、楢山家累代の祭りを継続すべき人を得て、その身もはじめて重荷を下ろした心地であったろう。目出度き事である。抑(そもそも)、楢山家が明治戊辰の時変に遭遇し、一家が沈渝(りん)に及ぶと累代扶助して来た多数の家僕等は各々その身の利害だけを顧慮して、主家の先途を思わない者が多い中に、独り澤田長左衛門が終始一貫して旧主の家を思うことは、自己の家よりも深く、遂に遺族をして後なきの憂いを免かれしめたのは実に得難いことと言うべきである。私(白贅翁=谷河尚忠)は殊更に楢山氏戊辰前後の顛末を詳記して、名家の末路を憐れむのみならず、その家来に澤田長左衛門の如き者がいたことを世人に告げて、我が日本帝国が最も重んずる主従の恩誼というものを表彰したいと欲するものである。読む者その微衷(びあい)を了せられるらなば甚だ幸せである。(大尾) 最初ページ 前ぺーじ |