『戊辰前後の楢山氏』について(紹介)  (八)

小川欣亨


 倩(つらつ)ら考えて見ると、過般行蔵等が来て、地所を取戻す事を談じたためにこのような待遇を受けるのであろう。この覚右衛門は新田の肝入と称し楢山屋敷へ幾度も来て、我々をお役人様と唱え、地上に手をついて敬礼した者である。それにも拘らず今日に至り、このような様子を見ると或は今夜深更に殺害など企てるかも知れず、弥々(いよいよ)その時に臨んだなら等と考え、居場所を換えるより外に策はなく、起きて囲の藁を押し分け外を見渡すと、風雪は屋根を吹き捲く形勢で、進退これ谷(きわ)まったと言うべきで、防禦の得物は枕として与えられた木の端一つのみ。寒さは寒し、まんじりともしないで勝手の方の動静だけむ願っていたが、だんだん夜が明けて全く安心し、勝手にも火を焚いたようなので、起き直って坐っていると覚右衛門が来て、夜が明けたのでご出立くださいと言う。承知したと金一分を差し出し、昨夜の宿料だと渡し、なおこの近所に権助という人がいる筈、そこへ案内を頼みたい。この金で不足なら何程でも渡そうと言うと、権助は直ぐ近所であるので案内にもおよぶまいと言う。イヤ始めてで分らないから是非頼むと更に言うと、それなら案内はしよう。しかし何も上げていないので宿料は要らないと言う。長左衛門は、イヤ強て厄介に預って無謝儀ということはない。応分の価と案内者の雇賃を受け取ってくれ。ただし始末のために請取証をもらいたいと申し出ると、そういうことであるなら二朱もらいたいと言うので、二朱を渡し請取証を取って案内の者を同伴して行ったところ、隣家が権助の門前で若者は暇乞いをして返り長左衛門は権助宅へ入った。

 権助は覚右衛門とは事換って大いに歓び、先ずは久し振りですと挨拶を交(かわ)わし、何処からお出でかと言うので、昨夜、覚右衛門方へ深更に来て一泊したが、夕飯も喰わず困却したことを告げたところ、俄かに妻に申し付けて、濁酒醪(もろみ)のまま沢山に燗をつけ飯も支度し、さぞ空腹でしょうと叮嚀(ていねい)な世話に預り、食事が終ってさて、何のご用でお出でなさったのかと聞くので、その用向きを打明けて話したところ、権助は初めて驚き、そのご用でお出でなら早く他方へお出でください。この事が他に伝え聞かれたら、我家を焼かれることは必定です。何とぞこの権助を不憫と思って、他人の家へ移って下さい。私方へお立寄りしたことは決して他言して下さいますなと、真剣さが面に顕われて懇願するので、委細承知したと直ぐに花巻町に行き、旅籠屋へ泊って役所に出頭した。上席は鵜飼衛守の子息の某であり次席には照井港が居た。

 照并は元花巻の御給人であって楢山へ出入りをしていたのを幸いに、事情を説明しお願いして、百姓共を呼び出してもらい対談した結果、示談が纏った者が四、五名あったが、翌日になると又、苦情を申し出るような有様であった。是非とも中根子だけでも突きとどめて他村へ移りたく、彼是廿日程滞在して南万丁目へ移ったが、中根子の者共がやって来て前約を取消したいと申し出るので止むをえず県庁へ戻り有りのままを言上し、県庁から右の者共を召喚して対決となった。傍聴者も多くいたが遂に勝利となった折柄、采右衛門等が潤益講の件で出訴したが、彼等の申し分は立たず願い下げとなったので、長左衛門は再び花巻へ出張し、里川口村の人々と論争中に又々采右衛門等の出訴が再発したため、花巻の方を中断して戻り出訴事件を喰い止めて又々花巻へ出張し、里川口村を将明(らちあか)せ岩崎村へ至り、樋渡重内という村役人宅へ三十日余りも滞在した。

 しかし、雪が激しく村内の字(あざ)ウトカケならびに塩出野、萱刈場等は駒ヶ獄の下に接する場所であるために実地調査が叶わず盛岡へ戻り、翌明治八年春四月に出張し突きとどめ、西十二丁目に至って種々談判したが要領を得ないため県庁へ申し立てることになった。

 この村には小作人が九十余名おり、そのうち頭立つ者三十七人を呼び出して対決した結果、漸く屈伏させた。それから花巻の吹場、豊澤川原近傍、赤稲刈等の地所に廻った。この地の小作人は多くは従前の御給人、御同心の者共であって、例え楢山でも誰であっても古来からの地続きであり先年来、作を得て諸上納は銘々が取り計って来た田畑で今更人手に渡したならば藩からの扶持身帯を離れる目前でもあり、餓死する外はない。朝廷の臣民は如何様の事情があっても示談などということ聞く耳持たぬと強情を張るけれども、兎も角も、理非を弁えない百姓とは違い、暴言のうちにも説破の効も追々願われる模様なので、折に触れては酒飯を供して種々懇談、熟議に至った。しかし、独り石川兵内という者は御給人且つ老人であって何分面談の都合がつかず、止むをえず、万四郎という昔の肝入で、目下三役人と唱える者に頼み、石川を呼び出してくれるようお願いし、彼宅に待っていること凡そ二週間、当時は地租反別地価調べ中で、同村大小の百姓が集合しているため、座敷ではない一室に閉じ籠っていると亭主の万四郎が来て、ご依頼に応じて石川宅ヘ七回程も人を遣わし呼び出しましたが、一向に応じませんと言う。

 この上は県庁から添書でもご持参になれば、配下の人民、それが以前は侍であっても給人であっても縄をつけても呼び出しましょう。口頭のみでは取扱う道も絶えましたので、今日はご出立してお帰り下さいと言うので、委細ご尤もに存じます。しかし既に日も暮れましたので今晩だけでもご厄介を願えませんかとお願いしたところ、イヤそれはできません。ご覧のように地租改正のため家に余るほど人々が集まり、そのうえ夜には調べごともしなければ間に合いません。いろいろ

とお談(はなし)の他に、石川へも人を遣わし、少しでも早く将を明かせてお引揚げになるのを待っていましたが、何時になっても応じない者をその侭にしておくのはご随意であるにしても、私宅からは今晩のうちにお立払い下さいと言う。その座には以前掛合った見知りの者も列座しており、その中で断わられたので委細承知しましたと、宿泊料および茶料を差し出して出発した。

 時は十二月十五日、満月で雪の中を出立したが、道の下は鼬幣(ゆうへい)稲荷の社内なので参拝をし、夜分なので鰐口を鳴らしながら歩くと烏が驚き飛び去った。石川兵内宅は花巻城下小路堀の際で、長左衛門が折々通った時に見知った家なので直ちに訪問して面会を求めたところ、風邪にかかっていると断わられ、障子越しに話をしたが、雪を踏んできたため足が凍り耐え難いので暖めようと様子をさぐり、老人夫婦だけらしいので障子を押し開き、草鞋のまま内へ入って腰を下ろした。ご容赦のほどを申し入れると夫婦は驚いて暫くの間言葉もなかったが、老女が炉の傍で火を焚いていたので、その火で草鞋を暖めながら話しはじめる。昔、同人等の娘でこと子と言った子が楢山屋敷に女中奉公していたが、今はどこになどと馴々(なれなれ)しくすると、兵内は言う。帯刀殿はこの期に臨んでも各(おのおの)のような家来もおり、例え、子息はこの世を去って身帯を失っても活計には支障がないであろう。我々のように素から貧乏者で且つ老人の夫婦は誰も頼りにするあてもない。この辺を察するならば我々から小作米などを取らなくてもよろしいのではないか。武士は相互いと言う事を帯刀殿へ申し伝えてもらいたい。拙者は委細お話し申し上げることがあるのでご面談いたしたいと数回にわたって申し入れたのですと長左衛門。ただ、今のようなお気持であるなら、こちらの事も察してもらいたい。貴下らはご夫婦のみであるか、楢山
では今日、十七人の者を扶持しなければならず、且本宅も持たず閉伊川の川井に借住居の身の上である。武士は相互いとは善くこそ心付かれた。拙者も素から木石ではない。人の愁を見て余所事(よそごと)と思う者ではない。君の活計をお察しするが故に今晩推参した。幸いに他人のいない場合だから、打明けてお話するが、今、君から取戻す田畑から生じる物を換算すれば、米十六駄片馬余、大豆三駄片馬一斗七升五合、豊澤川端から、年々手を濡らさないで春木五盛余りである。このことに関して数回お出でを申し込んでいたにも拘らずお出にならない。ついては県庁に到って、石川某の分は示談不調であると申し上げれば、県庁から召喚があるであろう。そうすれば、病気届二度三度に及んでも、遂には馬又は青駄で出頭しなければならないことになり、そうなったらばいや応なしに、悉皆取り戻すこととなる。今ここで示談を調えることは君に利がありこそすれ、損はないことは明白である。だから今晩こうして尋ねて来たのだ。もし不同意ならば、公然と県官の前で相当の理由をもってお取り戻しください。石川は訳が分ったと見え、それならば示談に応じましょうと言い、定めの穀は何程にする考えかと問うので、片馬差し出してもらいたいと答える。石川は、それは余りと言うものだと言うので三駄片馬に定めて、小作料証券に記させ、これを請取って、この件も解決し盛岡へ帰った。これらの当該地所は各村役場において、楢山の地所であることを調査済である。後見人澤田長左衛門と書き上げて済となった。

 石川兵内の養子婿正衛は、すでに子供を二人もうけてはいるが、何分にも兵内と意が合わず、忌み嫌われて、早くから別居していたが、この示談の件を聞き及んで兵内を諌めて言うには、過日の示談は少し早まられたと思う。何故ならば他日、楢山家でこれらの地所を売り払うという時に到ったなら、確かな所有権は楢山家にあるので小作人として拒むことはできず、如何様の不利を蒙るか測り知れない。これは全く、長左衛門に欺かれたものだ。今日、取戻しの出訴に及んだ方がよい。その費用は自分で負担するからと。兵内も心を動かし、兎に角孫に譲る田地のこと、見込みがあるならやってみようと許したので、正衛は悉皆委任を受けて、明治九年十二月に盛岡へ出て、長左衛門を被告として訴え出た。この頃は既に裁判所も全く備わり、諸事正式の扱いとなって、長左衛門が裁判所へ呼び出され、審問に答えるに当っては原証を必要とすることになる。原証は楢山家が分散の際に、南部家へ差し出し置いたので、同家下し戻しのお願いをしたが、当時は多事のためすべての書類が混同し、何分にも急に見い出すことは困難で、所々を捜索中に何回となく裁判所に対し日延べの申し出をするので、裁判官も根拠のない事かと疑う様になって頗る困難を極めたが辛うじ

て呉服町元平治(もとひらじ)の土蔵の中に、古書類と混入しているのを見出した。そして裁判所へ出て正しく答えるに、該証はこれまで口頭で申し上げましたが、嘉永五年(一八五二)南部藩から野竿高渡の証書は則ちこれでありますと。所謂、赤御証文というものを差し出すと裁判官は確かな証拠であることを認め審判を下し、異論なく原告正衛の敗訴となった。

 しかし、正衛は控訴しようと裁判所へ申立てた書類を下げ騰写していると代言人伊東圭介、山本茂好の両人から長左衛門に告げ知らせて来た。正衛が手続きを履(ふ)めば被告になってしまう。それならこれまでの参庁費を計算して、正衛に請求すれば都合がよいと心付き、裁判所への出頭日数へ一日五拾銭の参庁費を引合人等の分も合せて積算したらおよそ九拾円五十銭となったので、裁判官の検印をもらつて正衛に請求に及んだ。

 正衛は十三日町紙問屋と称する家に止宿しており、当家は間口十二間の大家ではあっても目下は極貧となり、寡婦暮らしで他の旅客もなく、二階の奥に正衛一人がいた。雪が降って雨戸も開かず、戸の隙間
から明りを取っていたためか、なんとなく物淋しく背中から冷水を注がれるような思いであったが、参庁費請求のことを持ち出したところ、彼はご尤もの次第であるが、只今のところ所持金がない。一両日のご猶予をお願いするということであったので、承諾して帰ろうとすると、ご承引下さって忝けない、何もないけれども一盃献じたいのでと酒肴を用意させようとするが、長左衛門は下戸であるのでと固辞し帰る。帰りに彼は二階の下り口まで送って来たが、その淋しさは後から襲われるような思いであり、二階を下りて台所口に来た時には生き返ったような感じがしたと後になって人に語っている。それかあらぬか、正衛は同二階で腹を切り相果てた。それは裁判が敗訴になり、被告から参庁費を請求され払わねばならず、また控訴をしても果たして勝利するかどうかも期し難い。兵内に対しても面目がなく、種々苦悶の末に自殺したのであろうが、長左衛門にとっては不慮の幸いという思いであったろう。


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