『戊辰前後の楢山氏』について(紹介) (七) |
小川欣亨 |
これから佐渡の遺族が一縷の活路を得た花巻地方所有の一件について記してみよう。 明治六年、嶋惟精が岩手県権令(ごんれい)となって、始めて宮古地方を巡回し、川井駅に一泊し旅宿の主人喜七に尋ねるには、この辺に楢山佐渡の妻子が潜伏していると聞くが何れにおるかとのこと、喜七はこれを澤田重右衛門、同理蔵に相談したが、重右衛門は何時までも隠して置く訳にはいかないだろう、ここに居ると申してもよいと喜七に指図したので、喜七はその旨を島へ伝えたところ、嶋が一寸呼んで欲しいと言う。未亡人は娘うら子を連れ、重右衛門、理蔵が付添って嶋の前に出た。嶋は目下の活計は何を営んで居られるのかと尋ねると、未亡人は活計とは何かが判らず、初対面の人に問い返す勇気もなく、まごまごして答に当惑し、有無の一言も発せずにいる。嶋も強て問うこともせず、拍子抜けの様子で何の用談もなく、菓子料として金二円五十銭を与えて帰らせた。その返礼として重右衛門は手製の真綿二百目を贈ったが、嶋は受納しないで出立した。 この時、内務省の山住中属が養蚕奨励のために来県し盛岡へ到着していた。澤田長左衛門は養蚕の心得があるので応接掛を申し付けられ出盛中であった。のちに重右衛門からこの一件を長左衛門に伝えたが、長左衛門は山住が盛岡を引き揚げてから、応接事務へ報告のために県庁へ出頭した。すると県庁の役方から、今日他に用事がなければ退庁後に権令宅に参るようにと通達があった。 長左衛門は嶋宅へ至り、面会したところ、川井で未亡人に面会し活計の様子を尋ねたことを言い出し、長左衛門に種々尋ねたが、長左衛門が答えるには、楢山遺族のための活計を立てるためには何分、方法もなく苦慮していることを申し述べた。過般、大政官から戊辰後に家名断絶の者、書き上げるべき旨の布告があったので、石亀此馬から佐渡絶家を書き上げて置いたこと、また寛典をもって家名再興にならないものかと私(ひそか)に望んでいること等を話した。嶋は暫く黙って両眼に涙を浮かべ、それはどのような趣意によって出てきたことか、我々には窺い知ることはできないが、熟(とく)と考えてみよ。ご維新となって、在来の士族も悉皆廃せられたのではないか。楢山は素より一個人として朝敵となったのではないけれども、首謀者として処分された人の家名を、寛典をもって再興するならば、朝敵者を賞する趣意となってしまう。そんなことをあてにするよりは、八幡の鳥居の前で団扇餅(うちわもち)を商う女たちに交らせて活計の方法を早く覚えさせるように骨を折った方がよいと言うので、長左衛門は閉口して暇を乞い帰宅した。 その後、小野善十郎の手代、川越千次郎が生糸買入れのため、閉伊川通りへ出張し川井に来た。長左衛門は川越とは取引きがある縁故をもって、嶋へ面会の際に楢山遺族の活計の事に対し言い遺してしまった慶応年間の畑返しの支払残金を小原易次郎へ相談した一件と花巻新田の一件を嶋へ申し聞かせなかったのは残念で遺憾なことであったと話した。川越は至極同情し、この度私がこの地方の用を済ませ盛岡へ引き揚げる節にご同道して盛岡へ出られて自分の店へご止宿し、内外悉くご相談するのがよいでしょうと言われたのを幸いと思い、川越の意見に従うこととした。そこで澤田重右衛門、澤田兵蔵を招き、今度、盛岡へ出て更にこの事について尽力する。就てはもしこの二箇條いずれも埒が明かなければ、本宅は楢山の遺族方に悉皆(しっかい)進上する事を奥方および老女おきゑに申し置くので、その事を心得えておくこと。自分等の妻子は酒店の方へ貸金および営業をもって活計を立てるよう申し聞かせておいた。以後はこのつもりで用儀落着まで兵蔵は酒店に居り楢山家族を保護し、重大な事が起った時には重右衛門に相談することとなど委細を申し含め、十二月六日川井を出立し盛岡へ出て、井筒屋へ止宿し同九日、嶋の自宅へ赴き面会を求めた。 しかし用事があるならば県庁へ来いとのことで、面会を得ることができなかったが、押々同邸へ毎朝訪問したところ、同二十日嶋の家僕でもある高橋隼之助と言う者が、貴殿は毎朝お出でなさるが御用はどのようなことかと言うので、毎度ご厄介に成り申し訳けなく、実は県庁で公然と申し上げる用ではありません。この事は先年お目通りの砌に楢山妻子の活計のことについてお尋ねありましたが、ご懇命に応じないで今に至ってしまい、再び伺うのは恐縮の至りではございますが、親しく相伺いご配慮を願い度いことがありまして参りました。と述べると、それならば書面で用件の概略を申し出よと言うので次のように熱認(したた)め差し出した。 過般お目通りの砌には、楢山妻子の活計方法についてお尋ねがありました。その時のご懇命に胸が塞がりとくと失念申し上げ、後悔が残りますので拝謁を願いたく参りました。 これを高橋が取次ぎ、控えていたところ嶋は県庁へ出がけに玄関に立って長左衛門、長左衛門と呼ぶので急いで玄関に行くと、用件は何だと言うので去る慶応二年(一八六六)から翌年にわたり、旧主楢山家に於て畑返し事件の費用の支払い残金千三百八拾余円、米八十七駄程を旧家来の小原易次郎に預けて置いたのに、佐渡が俄かに上京の藩命を受け発足以来、そのまま打過ぎておりましたが、今日楢山遺族扶助のため、この金米の決算を請求したところ、不法にもその求めに応じないので、その件についてお願いしたいことがありますと申し述べると、大音声で其方は太政官の達しを知らないのか、戊辰前の士族の貸借の事はすべて採用すべきものではないことになっておると言うので、その他にももう一件ありますと長左衛門は言った。 去る嘉永五年五月、南部藩の許可を得て原野を開拓して田畑とし、野竿高三百八十石のうち披き立ての分八十七石八斗五升六合余を南部家へ申し立て改高が所有となったが、戊辰の変により楢山遺族は川井村へ退去したので、そのまま地方の者共に押領されております。これは楢山家の所有とならないものでしょうかと長左衛門が尋ねると、鍬下は出してあるのか、当該帳簿は携帯しているかと問う。長左衛門は鍬下も出し、帳簿も持参しておりますと答えるとそれならば県庁へ同行致せと、言われるままに風呂敷包を携え県庁に行き、ここに控えて居れとのことであったが、少時(しばらく)して柴田大属が出て来て当該帳簿を差し出せと言う。帳簿を出して付箋のしてある部分を一々説明したが多数あるので、書き抜き書面を添えよと、料紙と筆墨を渡され、柴田の面前で調べた。 長左衛門は胸中、嬉しいやら心せくやらで筆を執っても文案が前後し不調べながら差し出したものに柴田が加筆してくれるので、気分は快くなり、勇んで右の書面を差し出したところ、間もなく嶋および柴田と弓場の三人と定席の応接室で対面した。彼等の言うには確かに聞き届けた。しかし、其方で一応、百姓共へ示談を遂げ勧め、模様によっては或いは不承諾の者もあるかもしれぬので、その場合は上申しなさい。その期に望んでは県庁で説諭を加えようとのことで、恭けなさに感謝をして退庁した。 直ちに親類中に通達して、下屋敷に集合し地付百姓へ示談の手続きをするための相談した。手始めに長左衛門は易次郎父子のところへ、行蔵に石亀一哉、大沼道記を付けて差し向けた。易次郎父子は畑返し一件の残金についてとかく妨害するかもしれないからである。この三人に従僕一人を雇い入れ路用金を渡し花巻へ赴かせたが廿日余り滞在して帰って来ても用向きは一切要領を得ないので、再び親類が集合し協議した。しかし、我が往くという者は一人もなく、この上は長左衛門が差し向く事にしたが、楢山氏を名乗るものが一人は付き添わなければ百姓共の受けがよくないのではと考え、少年ではあるが楢山五七郎を同伴することにした。 翌日同人の住所、報恩寺前の田甫にある農家を目指して行く途中、長左衛門は龍谷寺前で石亀一哉風(ふ)と出会ったので、一寸足を停めさせて言うに、昨日、安宅、向井、奥瀬、石亀此馬、楢山蔵之進、谷河尚忠、大沼道記、同半蔵等が集まったが、誰一人花巻きを引き受ける者はいなかった。貴下は親類の重なる人で、殊に亡君とは格別に親しい人である。他人と同様に不賛成とは思いも寄らないところであり、この一件が成るか成らないかは運命として判らないまでも、ご尽力をお願いしたい。いま一度ご勘考下さるわけにはいかないかと。 雪の降る中を杉の下へ立って理を極めて言ったが、石亀は答えて、石亀は本家には相違ないが、何百年も昔のこと。しかし帯刀、佐渡には好(よし)みも深いので、この間も十数日も自費で花巻へ赴いたではないかと言う。長左衛門は、イヤその路用金は行蔵に渡たせと言われたので、御列席の前で同人に渡したのに自弁とはどういうわけだと問う。石亀は、それには相違ないが行蔵が出さないので我々は自分で弁じたのだと言うので、今度は拙者が一層に奮発して花巻へ行き、是非を突きとめて県庁へ復命をさせねばならぬのだから、一切の費用は拙者において弁じ、一厘一毛も損失をかけない様にするから何とか同行をお願いすると強て談じたところ、石亀は、本家であると言っても、思っても見給え。今の未亡人なかは奥瀬から来た者だ。その奥瀬が白ばっくれているのにも拘らず、我々ばかりが何がために赤くなったり黒くなったり彼等の活計のために骨を折る道理があるのかと言い、袖の雪を払って立ち去って行った。長左衛門は憤懣に耐えなかったが仕方なく五七郎の家に到って相談したところ、五七郎の叔母ゆき女は理義に通じた者で長左衛門に同意して共に五七郎に花巻行きを勧めた。 翌朝、井筒屋ではいま造酒中で午前三時には皆々起きて働いているので、何分にも早支度で出立しようと約束し、長左衛門は支度をして待っていたが五七郎は来ない。朝八時に至っても来ないので、とてもあてにはできないと長左衛門は一人で出立した。 雪は降る。日は短く昼頃から風が起こり吹雪となって、黒沼に至ると日が暮れたが、押て吹雪の中を夜行し花巻町に着いた。しかし、何れの家も臥床に入ってしまったのか灯の影も見えず、鍛治町に入ると一軒の鍛治屋が釘切りの夜業をしていたので、そこに立ち寄り、中根子村は何れの方面であるかを尋ねたところ、中根子の何某へお出かけになるのかと問うので、覚右衛門方へと答える。始めてお出かけか、始めてですと更に答えると、それではおひかえなさい。この雪では田甫道は行けませんと言う。更に、このへんに宿屋はあるか、いやありません。あなたのうちに泊めてはくれまいか、いやなりませぬと話し続ける。それならば覚右衛門の所へ誰かに送ってもらいたい。礼金は望み次第出そうと言うと、金一分なら送りましょうと言うので、それで結構、さあと案内を頼み覚右衛門方に着くと、案内の者は不人情にも同家の厩の戸を開けてここでありますと突き入れて、逃げるように去って行った。 真っ暗闇の厩に入ったので、馬も驚いたのか、鼻を鳴らし長左衛門も狼狽して、覚右衛門さん覚右衛門さんと叫んだところ、僅(わず)かに応答があり、どなたかと言う。弓太という人に覚えはありませんかと問うと、イヤありませんと言うので楢山の役人の弓太であると言う。イヤそう言われても判りません。長左衛門は更に、判らなければそれはそれでよろしい。今夜ご厄介をお願いできませんか。できなくても押て泊ります。兎も角も明かりを出してくださいと言うと、漸く地爐へ藁を焚いて燃え上ったので、その明かりに厩から台所口ヘ入り、覚右衛門さん久し振りだと言っても、一切顔に見覚えはありませんと言う。お忘れなら仕方ありません。兎も角、泊めてもらえないかと頼むと、イエ判りませんと固く断るので一際(ひときわ)大声でこんなに頼んでも飽くまで聞き入れないという條理はどこにあるのか。雪中かつ夜更けに今から何処へ行かれるか。人情があるならばこのくらいの事は判りそうなものだ。さあ、洗足湯をお頼みする。食事ができぬなら喰わなくてもよいと嚇し半分に頼んだところ、妻は爐端に洗足湯を置いたので、足を洗って上にあがってみると、今年新たに家作したとみえ、戸締りも未だ整わず、四辺は藁で囲み、敷板は仮に並べたままで釘じめもしないで、上に呉座を敷いたまま枕は木の端を用い、木の葉のような蒲団を一枚出して来た。外からは雪吹が吹き込み殆んど困却したが致し方なく、その蒲団を敷いて濡れた合羽を被って臥した。 最初ページ 前ぺーじ 次ページ |