『戊辰前後の楢山氏』について(紹介)  (六)

小川欣亨


 明治九年八月、采右衛門が盛岡において潤益講に係わる働きぶりの椿事は、多数の力をもって長左衛門を圧伏しようとする計画であった。荷担人の第一は行蔵で、これに続いて源吾をはじめ刈屋十郎、同市郎、同小十郎、茂市の織之進、田鎖の与市右衛門、同浅之助、刈屋の三右衛門、花巻の斉藤辰五郎、采右衛門は言うまでもなく、例の勘解願を差し出した時の裁判官は堀正揖、三百代言は村木章平、小田代政治、岡山善治である。裁判官が言うには、この件は当庁へ申し出たこと数回である。原告、被告とも迷惑のことであろうと察する。元来、被告長左衛門は旧主家のために設けた講であって、益金は主家のためのものであり、割合外の金は少しも講員に分配すべきものではないというのは尤もなことである。しかし、今日の原告も倶に楢山家の家来である。利得のためには主家が餓死するのも顧みる必要はないと主張するのを思えば、これは所謂時節がものをいうものと考えられる。双方旧友の情を考え、和議としたら如何かと。三百代言等も至極ご尤もであり、私共も左様に考えますと申し立て退庁となった。紙町橋際の蕎麦屋に原告共は止宿しているので、すぐにそこに皆、揃ったが行蔵と山崎謙吉という二人は二階にいた。この山崎は鯢山と号する読書先生で詩人の名もある人である。当時、山崎先生と書生等が尊敬する人物で、このような席へ入るべき人物ではない。

 先にも采右衛門が帯刀の住所から退去する時も立会っていたから采右衛門に何かの縁故があるのか、或いは道理らしいことをもって欺かれているのか何れ事情のあることであろう。原告一同と被告長左衛門ともこの二階に集まったが、何か面目ない心地でもするのか原告の十郎、市郎、小十郎、織之進等は二階を下りて逃げ去り、対談中に源吾も逃げ、追々に皆引取って残ったのは行蔵と山崎そして長左衛門だけになった。長左衛門が携帯してきた書類を入れた風呂敷包は、二階下で長左衛門が止宿している下町の吉田末吉に預けておいたところ、末吉が用事があって一寸他出中に、先きに引取った原告人等がこの包みの諸帳簿の中から何か抜き取り、盗み去って行った。長左衛門はそれとは知らずそのまま持帰り、翌日に至って行蔵等が和解不調の旨届け出たというので裁判所から召喚があった。そこで、長左衛門は書類を改めたところ、最重要の書類が紛失しているので狼狽し、その日は病気を申し立てて種々に探索したが、証拠がないので盗まれたと明言することはできない。

 長左衛門は毎日日延べを申し立てているうちに、原告等が大勝利と歓んでいることを耳にしたが、実に詮方(せんかた)尽くし果たして苦しんでいたところ、四日に至って斉藤辰五郎が密かに長左衛門を尋ね、あの書付は采右衛門の懐中にあることを内通し、必ず他言は無用であると言う。長左衛門は委細を承知し安堵したが、場合によっては裁判官に向かい明言せざるを得ないと言うと辰五郎は大いに驚いた様子である。しかし、既に密告した以上は取り返しのできぬことで、後悔の色が見えたにも拘らず、長左衛門は翌日、知らぬ顔して裁判所へ出頭した。辰五郎は傍聴席に見えないので、如何したのかと心配していると、原告等は皆々満悦の顔色であるのに対し、岡山は快くは思っていないのか先ず、長左衛門殿も証拠裁判に臨んで無証では論弁も叶うまいと狼狽して言う。更に言うには、長々とこのようなことをなしてきたのも、こんな不正があるとは知らず相談に加って来た。今日に至っては断然この件については相談に加わらないと退庁した。さて、対審となって原告の代言村木章平が威勢よく陳弁ののち、裁判官が被告の申し立ては如何かと尋問があり、長左衛門は答えた。原告等は頻りに被告に対し証拠書類を裁判官に捧呈すべきだと申し立てるが、被告の手には当該書類はありません。当該書類は過日、御説諭に基づき退庁ののち、原告等数人のうちの何者かが盗み取り、今日は本原告の刈屋采右衛門の懐中にありますと申し立てた。裁判官は被告の申し立ての趣に相違はないかと問う。原告の代言である村木は大いに怒り甚だ意外の申し分である。我々はじめ原告一同の名も指すことなく、数名のうちと曖昧なことを言って、仮りにも盗人がいるとは聞き捨てならない。一言、後日のためにだれがそうであるかをお聞かせ置いてもらいたいと言う。裁判官は被告が当該書類を盗み取られたというのならば何故にもっと早く訴え出ないのかと問うので長左衛門が答えて言うにはお尋ねご尤もではあるが、最初から彼等の所為と分っていれば直ぐに訴え出るが、種々探索の末に、今日彼等の所為であると判然としたので只今申し上げた。それなら誰から聞いたかと言われるでしょうが、昨夜斉藤辰五郎から確かに聞き込み、先刻の岡山善治の口調で、益々実証であることを確信したと。裁判官は、どうして辰五郎が盗んだ人を知っているのか、また辰五郎の住居はどこであるかと問う。長左衛門は答える。元は楢山の家来であり旧友の者である。先日来、原告等に誘引され出庁の度毎に同伴しているために事実を知っているのである。今日は出頭しないのか、当庁には見えませんと。裁判長はその者の止宿所は知っているかと問うので、穀町の旅人宿である目時某の宅に止宿とか聞いていますと答えると更にその者を連れて来いと言うので御召喚状を出してほしいと答えると、イヤ其方が連れて来いと言う。長左衛門は
判りました。しかし、采右衛門の懐中にあることを申し上げ、彼もこれを聞いているので、証人が出れば彼は当該書類を出さないわけにはいかなくなるので、あるいは密かに投棄するかもしれない。万一このような手段があるかもしれないのを心配して御召喚を願った次第である。就いては、私が辰五郎を迎えに行き連れて来るまでは、原告がここから他出することは勿論、他人に接する事がないように御保護して下さいますなら、私が直ぐに馳(は)せ参りますと答えた。裁判官は如何にも尤もな申し立てである。委細は聞いて置くから速かに連れて参れということなので、長左衛門は穀町に行きこのことを辰五郎に申し開かせると、今更のように大いに驚き、彼是と故障を言うので、もし延引するならば裁判官に訴えて拘引してもらうとまで談判して遂に同行し出庁した。

 裁判官は采右衛門、辰五郎、長左衛門を並列させ、辰五郎の住所姓名を尋ね、長左衛門所有の書類が采右衛門の懐中にあることを長左衛門に申し開かせた理由を申し立てよと言うと、辰五郎は采右衛門に対して今更隠蔽しても詮ないこと、当該書類を長左衛門に渡すべきであると言う。采右衛門はそのような事は全くないと言い張るので、長左衛門は言論の争いは止め、速かに帯を解き衣服を検(あらた)められゝば真偽のはどは明白になるであろうと迫ったので采右衛門は顔色が土のようになり、こゝにはありませんと慄(ふる)えている。懐中にないのなら、今ここで帯を解いて見せろと再三迫ったので、裁判官は既に認定し、采右衛門は当該書類は他にあると明言しているのであるから、その所まで連れて行き受け取るようにと申し渡した。長左衛門は、全く懐中にあることは判っていても御示諭により一緒に行きましょうと言う。尤も辰五郎立会のうえ、改めて点検し、もし不足等あれば速かに出頭して申し上げますと述べて、それから紙町の蕎麦屋へ行った。蕎麦屋では行蔵、山崎等が大勝利の帰宅と考え愉快気に控えていたが、村木、小田代等は途中から逃げ去り、源吾、十郎、小十郎、市郎、織之進等皆々顔色変じて閉口の他はなく、長左衛門は一寸も采右衛門を放さずに付添って来たため、采右衛門は何とも致し方なく、懐中から内股へ下ろし、長左衛門の前に小風呂敷包みのままばたりと落とし苦々しく渡した。長左衛門は手に取り改めると一枚も紛失しておらず始めて安心して辰五郎と倶に立ち帰った。

 翌日、徒党等は皆々立ち去り、采右衛門は村木等を頼んで勧解を願い下げた。このような大失敗をしても懲りることなく、又々閉伊地方に於て党与を作り出訴沙汰に及んだ。この党与は全く首謀者である采右衛門と直之助に欺むかれて、約定書の真偽も確かめることなく一偏(ひとえ)に潤益講へ出して置いた金員を速かに受取りたいとか、又ことのついでに長左衛門からの借金を踏み倒したいとの利欲から生じたものであり、次にその実情を記述してこれを証することとする。

 宮古警察署において采右衛門と直之進を処分のうえ、警部、巡査が巡回し、刈屋村の光照院に多くの者を呼び出したが、三右衛門は他出していて夜になって遅ればせに出頭し、寺の台所へ皆々が集まっている所へやって来た。そして言うには、警部が村の餓鬼共を集め、いじめているということだ。今度こそは弓太へとどめを刺して見せると。警部の前へ至っても毫(ごう)も憚る色なく居丈高になっている。警部は段々采右衛門等の所為を述べて、彼か謂(いわれ)ない事を醸し多くの村民を欺いて、数回にわたり官の手数を煩わせており、おまけにその費用を其方共から出金させている。畢尭(ひっきょう)、其方共が無智文盲のため侮られているのだと懇諭すると、三右衛門は無智文盲とはいかなる事か分らないけれども、我々は弓太から慥(たし)かな証書を取っており、約束の金を受取ろうと、これまでに催促に催促を重ね、そのために手間代として百円余も出した。全く払うと書付けを出しながら不法を募って出さない者を少しもいじめないで、我々を呼び付けて彼是と言う奴は警部でも巡査でもなんでもないと吾は思うと空嘯(そらうそぷ)いて高笑いをした。警部はこれを聞いて巡査に命じて縄をかけさせて言う。これほどまで諭しても抵抗するのは野蛮にも程がある。無智文盲でなくて何なのだ。其方が言う書付は或いは貼紙、或いは切抜き等をなして、本書ではない偽物の書付であることを知らないのか。そのうえ、この本書は貸借証書ではなく講金分配の約定書である。本講の趣旨は会ごとに簸をもって、講員に元利を渡し、残金は借用を望む者へ貸付け置くものであるから、この貸金を村々で取り立て講員へ分配する約定であるのに、一偏に弓太から受け取り金があるとは何事であるか。今日呼出しの者のうち二名程、楢山知行所外の者が申し出て言うには、約定書に異論はないので采右衛門とは親戚であるけれども道理に反するため、最初から采右衛門の勧めに応じないから楢山領の百姓へも申し談じて、訴訟には一切同盟しないということだ。それなのに三右衛門は、このような事実、道理を弁えず、悪人の奸計に組し、今もって悔悟していないのは言語に絶えた悪者と言うべきである。そこで本署へ引致して熱(とく)と取調べる必要があると言われて、始めて三右衛門は夢から醒めたように離脱として声を発して泣きながら長左衛門に言う。私は久しく肝入り役人を勤めていたけれども一字も知らず、潤益講の残金は全くおまえより受け取る事と定めた書付があるということを実と心得え、これを訴えれば今度は必ず勝つ、今度は必ず手に入ると、今日まで瞞(だま)されていることを知らずに、先ほども過言雑言を吐いたのは、甚だもって済まぬことをした。今、警部様のお諭しで後悔しました。どうかこの縄を解いて下さいと初めて意気を失い正直の根性に立ち戻った。他の同盟の者も皆こんなものであることは察するに余りありと言うべきか。

 宮古町本町幾久屋庄助は長左衛門の旅宿、新町の大平屋へ突然、長左衛門を訪ねて来て言うには、他でもないご存知のとおりの古館直之進とは、私は親戚仲(なか)でもありますが、先年来、潤益講の一件で長年月ご迷惑をおかけいたしましたことは承知しております。そのうえ、折にふれては同様三河屋丈助殿のご実兄なども盛岡へお出のことなので、出訴の件は真正の事と思い、ことに直之進から直接話を聞いたりして私共は少しも関係のないことゆえ根本は知りませんが田鍍村の人達ばかりでなく多くの人々が当宮古の裁判所や盛岡裁判所へも度々、訴出しているので、このような難題を申し掛けているとは少しも知らず、あなたの悪事のように心得え、丈助殿のみならず他の人々へもお噂をしたこともあり、今に至って始めて直之進等の奸計であることを知り、実にこれまでの考え違いを後悔いたし申し訳けに参りましたと。長左衛門はこれはご念の入ったこと、この一件の趣旨はご承知ない筈だと思うが、親戚であることは存じている。しかしあなたに対しお恨みはないし何も掛念してはおりませんと答えた。庄助は、直之進が寺の澤へ下げられたと言うことであるが、采右衛門より重いご処分なのであろうかと問うので、長左衛門は軽重は分らないが、遠からず放免になるだろうと言う。庄助はなおも、放免になったとしても一旦穢多に堕とされた者は真人間に返れないと言うので、長左衛門はイヤ今日では穢多非人と雖も、一つの職業者であって、同等の人々なのだから左程に変ることはないと諭した。しかし、庄助はそれはどうか存じないが、今日に至っても寺の澤の物貰いが来ると塩を撒き、切火をして跡を清め、誰も普通の人間と思う者は、宮古には一人もおりませんと深く掛念している様子であった。

 長左衛門は事実を知らせておこうと委しく話した。抑(そもそ)も潤益講設立はご承知のように楢山において連々(れんれん)物入が嵩み、知行所の百姓は困難となり、金融面も逼迫し他借は高利となって立ち行く先の見通しも不安なので、第一に金融を考え、金利を月一分二厘五毛として、他借の者に便利を与えるつもりであった。これは楢山で考え付いたものではなく遠野の弥六郎様では既に行なわれ、新里家に取締役を命ぜられて御用講と称している。これにより公私共に便利を得て、大家は大家だけの株式完備の新里のようなものはあっても、我等のような者は微力であるから頭取を三名とし、忠善院(腹帯村八幡別当覚善院の養父)および彦右衛門ならびに私が取扱いに当ったところ、とにかく他の信用を得て楢山だけに限らず小国、江繋、夏屋、川内、刈屋、田代に至るまで加入者が沢山できた。ご親類の直之進殿は一株、加入の申し入れがあった。そして初会の節に十五円借用し、その内から一会分の出金がなく追々元金七十五両程借用し、その利子は悉皆滞納している。即ち元治元年六月から明治三年十月解散まで出金はなく、元利を計算したなら小額の金ではないので、非常に心配していた。自分へも悉く依頼があり、かつ又加入者でありながら掛金をしない者へ貸付け、年に三会の度毎に利揚げもしないで置くのは頭取の取締りが悪いと講員から厳責を受けるが、これは当然のことである。その頭取の一人、彦右衛門は五株加入していたが、不始末を起こして仙台とやらへ脱走した。忠善院などは非常に当惑するばかりで相談相手にもならない有様であるので、近所でもある直之進殿を何分にも救って加談者としようと思っていた。同人へは講金の他に三百五六十円も貸してあるので自分では恩を与えているような気持でいたので、まさかこのような訴訟に同盟することはないと信じて疑がわなかった。しかし采右衛門の自白により警察へ召喚されたと聞いたがそれでもなお、采右衛門が苦しまぎれに妄言を吐いたのだと思っていたのに、豈(あに)はからんや同盟していたことに間違いはなく、采右衛門と同様の処分を受けたということで、実にもってお気の毒と困惑している。庄助はこれを聞いて委細ご心配の趣はよくわかりました。結局は彼の自業自得で、私は貴下の事を大助殿はじめ他の者へも悪し様に申し触れたことを今更ながら申し訳けなく、以後はその申し訳けとして直之進とは絶交しますと種々物語りなどして立ち帰って行った。

 古館直之進はそれ相応に知識もあり、立派な好丈夫で楢山家の供頭を勤め、佐渡の三都往来にも列して随行した程であったが、家計が不如意のためでもあろうか、金銭上には屡不都合の行為があった。佐渡の娘等が幼年の際に、他日嫁遣りの支度に、あまり家来共の厄介にのみならぬようにと思って、三人の女子に対し三十両の金を貯蓄し利殖しようと、家来の松尾玄右衛門に預けておいたものが、後に直之進の預りとなっていたが、佐渡の長女と次女が他へ縁組みのことがあり、琉璃顛沛(りゆうりてんばい)の間のために嫁入道具の調度もそこそこで済み、直之進が預り置いている金員もそのままに打過ぎてしまった。後年、岩手県庁において、管内村落の区画を設け扱所を置くに当り、直之進は大槌村扱所の戸長に挙げられ、また川井村の戸長となり、公用で度々県庁へ出かけることがあっても、佐渡遺族の安否を訪ねることもない。それでなくても、佐渡の遺族が零落して盛岡加賀野新山寺の寺内を借り受け、細い姻(けむり)を立っている折柄、直之進が県庁へ出てきたのを機に、橋野正純、釜谷善之助の両人がかの女子等のために預けた金を催促に及び、面会の機会を申し込んだのに、金も出さず断りもなく帰村のため出立したと聞いて、二人は上小路まで追い掛け、この一件を談じたところ、とても今は一金もない、冥土へ到ったら佐渡様へ直接返納するなどと不法な答えをした。このようなこともあって采右衛門と同じ考えで最期の出訴事件を提起したのであろう。


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