『戊辰前後の楢山氏』について(紹介) (五) |
小川欣亨 |
ここに一つの逸話がある。川井に寓居していた帯刀とその家族共が盛岡の松岡旧宅へ引越しの際に、長左衛門が帯刀に向かい、先に石亀一哉と楢山蔵之進の両人が来て、佐々木直作が帯刀を批評した話を持って来たことに対して長左衛門が答えたことの顛末を述べた。しかし、この事を一哉、蔵之進の両人が盛岡へ帰り直作等へ答弁はしただろうが、よく意味を尽くしたかどうかは判らない。このような事は小事と雖も御家御再興のあるいは幾分かの差し支えにもなろうかと心配するところ、ついては事実に願われなければ、此の先世間の浮説を打消す策がないと考えられるので老後の御介抱人として、近頃召し使われておられるおりせどの(行蔵以下の子女の生母)は私(ひそか)に預けら川井に留め置かれ、盛岡へお移りの上は若旦那の奥方およびおきゑどの(佐渡の生母)の両人にすべての御介抱を御委任なさった方がよろしでしょうと言うと、帯刀が欣然(きんぜん)として言われるには、其方の親切な忠告は今に始まったことではないが、厚く感謝するところである。これまでの経緯(いきさつ)を見て、申し聞かせ様と思っていたが、幸い今は女子共も側におらず、打明け話をしようと。 自分は既に八十に近い身でありながら、今日の境遇は汝の厚意をもって何不足なく、家族一同安穏に月日を送り、大慶このうえない。佐渡を失ったことは固より忠義のためであって、深く惜しむべきことではない。妻妾に至るまで、この身聊(いささ)かも憂とするところなく、誰の介抱も強て頼む覚悟はしていない。倩々(つらつら)既往の事を考えてみると、自分程の果報者は世に多くはいないであろう。妹は藩公の妻となり数多の男子を生んで、利義、利剛の二代とも藩の世嗣に立ったし、また我が長女は南部弥六郎の妻、その他多くの娘達はいずれも同藩の高知(たかち)共へ嫁に入らせ、長男の佐渡は兎に角英名を後世まで不朽のものとし事蹟を残した。我が祖先は南部家から出て自分は十代、十一代佐渡に連綿し無上の栄華を極めたことはそう数あることではない。このうえ、其方などは家名再興を朝夕考え、苦慮してくれているのには万々感謝するところではあるけれども、飽くまで幸福を貪ることのないように。また深く心配してくれるようなこともないようにと断乎として話した。長左衛門はこの帯刀の話と佐渡が最期に臨み、一言も申し置くことはないと大声で言ったのを思い、この父にしてこの子ありと深く感銘し時々、世人にこのことを語っていたということである。 帯刀死去について、その遺骸の取仕舞は当時始めて行なわれた自葬祭という事に衆決した。その仕方は丈六七寸、幅三寸程の四角な木を造り、その外側の箱を添えたものを死躰の枕元に置きこれに霊を移し、外圍をかけ蓋をして、妄りに開けぬように別室に移し祭塩を設け神位となし、魚鳥や野菜を供え幣を立てて神として崇める。死体は沐浴をせず臥床のまま長さ六尺、幅四尺五寸の箱へ敷蒲団、夜着共に入れ柩としそのまま埋葬する。そして次のような祭文を世嗣の者が祭主となって読誦するのである。 何某と唱え(死者の名)代々の祭祀を受継がせ給へ畏み畏み謹んで白す 準備のできたところで、行蔵は自ら祭主になろうとしたのを、安宅正路、楢山益人、楢山用蔵、石亀一哉等が同意せず、世子相続者は佐渡の子でなければならない。女子であってもうら子を祭主とすべきである。しかしうら子は幼稚なので、代理は楢山家の重立(おもだち)家来である澤田長左衛門が務めることに評決し、追々集って来た家来共も同意して、祭主はうら子、その代理に長左衛門と決定した。 帯刀は隠居名を素道と称したので、長左衛門はその名を唱え、祭文を三唱して形通りの葬式を行った。帯刀の病中から死後までの諸費用の支弁方は、長左衛門の胸算で、南部家から供えられた香奠金二十両と帯刀の手許の予備金百両とをもって、一時の都合とする見込みであった。しかし、霊前に供えてあった右の二十両は何人(なにびと)かが掠め取ったのか紛失しており、また帯刀の予備金としておいた百両もないことがわかり、長左衛門は驚き憤慨した。この百両は吾等が封印して、帯刀様も御自分では開封しないと誓言したものなのに、何故紛失してしまったのかと大いに騒ぎ、皆々へ談じたところ、どこから取り出したのか、女子達が二十五両ありますと差し出したので、兎に角、それらの金で葬具屋および人足賃等の始末をして埋葬した。 後に百両の紛失金について厳しく穿鑿したところ、二十五両不足して七十五両はふみ子の針箱の中から出てきた。またその他に色々と紛失物があり、日用の米、塩にも差し支え、一同日々の食事も叶わない状態であり、親類および家来共に相談をしても将が明かず、佐渡の妻子および女中は長左衛門が引取って自宅へ連れて行くため、十二月十七日に又々川井へ引越した。行蔵は加賀野の下屋敷に居ることとし、ふみ子は向井の心付で、既に年頃でもあるので盛岡へ置き、然るべき口もあるなら嫁入りさせることにしようと奥瀬に頼むことにしたが、奥瀬ではろくろく養育してくれないで、下屋敷の行蔵方へ同居させた。しかし、ふみ子はいつしか井上立八と私通して北海道へ逃亡したと、向井から飛脚をもって長左衛門に知らせて来た。長左衛門は助太郎に申し付け、盛岡長町の目明し二人を頼み、共に野辺地まで赴いていろ いろと探索したが行方不明で戻って来た。ところが、ふみ子等は逃亡と偽って、実は盛岡山岸町鳥谷某方に隠れており、明治六年七月に帰国したと言って現れたが出断獄の扱いで刑事の取調べを受け、罰金七円の処分となった。この七円を長左衛門が納め、ふみ子を当分、大沼道機方へ頼んで預け置いたが、後に島県命の世話で女中奉公をしているうちに、島の紹介で、旧庄内藩村田草という者の妻になった。しかし、この村田はよからぬ者で階老(かいろう)を遂げることなく、また次に薮医者某の妻となったとか。立八は再び岩手県に顔出ししないという誓約書を取って、他府県へ追放したというが、その後の行方は判らない。 ことは少し以前に戻るが、帯刀死去の後、遺族の生活上の問題に対し、親類、旧家来共協議の結果、稗貫郡居住の旧家来小原易次郎が慶応二年畑返しの一件が頓挫の際、支払剰余の金米を預っている筈なので、その決算のことを、帯刀が川井の長左衛門宅に寓居中に、同人を招いて長左衛門から話したが、彼是手前勝手ばかり申し募って、遂に決算していない。その後、帯刀が盛岡へ引越して以来、後々の相続のために再三招いても盛岡へは来ず、帯刀病死の際にも来会しないという仕儀なので、止むを得ず畑返一件の残物請求の訴えを起こそうと、源吾、重太郎、直之進、鹿蔵、良八、長左衛門等の連署で、当時安宅正路が藩の大参事に在職中なので、添慮を得て進達することに決定した。しかし、少参事佐藤昌蔵は内丸楢山屋敷に居住中に小原辰五郎とは師弟関係にあり、折々出入りして相談している様子でありこの問題がどうなるかを測りかねており非常に難しい問題なので一時、中断した。 先ずは佐渡の妻子を長左衛門の厄介とし、ふみ子は奥瀬へ預け、行蔵は下屋敷へ置くことになったが、行蔵の性行として屋敷を売るか質入れにするかも案じられるので、同屋敷の隣家に居る笹森万平が実直且つ現在は地元の百姓代を勤めているのでいろいろと依頼をした。この屋敷は往々(ゆくゆく)楢山の墓守を置くつもりなので、もし行蔵がどのように頼んで来ても質入れ書入等に奥印を出さないで堅く断ること。万一不法の行為があるならば、急飛脚をもって川井の長左衛門まで知らせてほしいこと。費用は負担し速かに支払うので、何分にも屋敷の御保護をお頼み申すと依頼しておいた。果たせるかな、翌年十二月切田判治と言う者へ売払ったという連絡が笹森から飛脚で知らせて来たので、長左衛門は行蔵一人の手際ではなく楢山蔵之進と共謀の様子なので、石亀を同伴して蔵之進を尋ね、幾度も行ったが会見しない。止むを得ず、買請人判治は蔵之進の妻の弟なので、こちらへ推参し対談すると、媒介者は赤澤という者で、同人は先年楢山屋敷へ出入りしていた勇治の子供であり、少しは縁もあることなので彼等から行蔵が受取った五十両を立替え返済してこの話を破談として長左衛門は少しばかり安心して帰宅した。 ところが又々、翌年に向井長豊の口入れによって、生姜町髪結い土橋市という者へ二百両で売り渡した。この時は長左衛門の力も及ばず、その上川井地方に難事が起こつた。他でもない、あの潤益講に係る詐偽謀反(さぎぽうはん)の疑獄である。 刈谷采右衛門は盛岡の帯刀の住居から、金米を持逃げ、閉伊地方へ戻ったのを耻とも思わず、長左衛門へ手紙をもって言って来たことには、この間、百姓ども潤益講を解散しようと、田代・田鍍・刈屋の人々が来た。就いては、彼等を宥めるために、弓太殿も現在楢山家族を扶養するのに困難の際であろうから、そのへんを深く考えて難題を持ち込むなと言っておいた。しかし、今彼等へ金三百円を与えたならば、向後何も言わぬようになるというものであった。長左衛門は例え解散の申し込みがあっても恐るる所にあらず、三百円遣るなどとは思いもよらないと返答すると、采右衛門は更に徒党を結び、十月の会合に先立ち、長左衛門方に来て、三百円が不都合ならば百円でもよろしい。この場合、彼等を宥め、後の憂を作らぬ方が得策であると言う。長左衛門答えて言うには、百円はさて置き、一銭一厘たりともそのような取り計らいはしないつもりだ。何故ならば、彼等へ金銭を差し出し、不正な行為によって楢山家の家計を保つのは道理に背く。潤益講は楢山の百姓だけのものではない。必竟(ひっきょう)貴他共に利益あるものであるから創立以来多数の会員が加入し、近隣村方の幸福となっている。今、解散を望み彼是、難題を申し込む者があるならその人々を除名すると断乎として刎ね返した。 しかし、長左衛門も考えるには、このようにいろいろと妨害者があってはこの講の継続も終始、物騒の種になる。首尾のよいうちに解散するのがよいかもしれないと心を決し、明治三年十月の会で臨席の者に相談し加入者のうち、未だ籤に当っていない者には村々へ貸金となっているものを分配するという約定の演説書を作り、この会を終局として講を解散する事にしたところ、一同異議なく解散は決定した。 しかし、又々采右衛門は刈屋村の三右衛門、田渡村の与市右衛門と所々に奔走して仲間を作り、十二月に至って行蔵を盛岡から呼び寄せてその先峰とし、造酒仕込中を見込んで数十人で長左衛門宅へ押し寄せた。そして多数を恃みに乱暴を働き、研ぎ置いてある米を釜に入れ、店にある酒を勝手に飲むなど種々の妨害をした。これは九日の夜の事で、この夜には宮古に詰め合いの警部鈴木舎従が止宿しており、長左衛門と二階の座敷で談話中であった。この鈴木警部が現状をみて頗る怪しみ告発をしろと長左衛門に勧めた。しかし、長左衛門は行蔵が頭取となっているため、警察の取調べともなれば行蔵の身の上にかかってくることであり、柾(ま)げて御看過(おみのが)し下さいと鈴木を宥め、すべて堪忍した。翌朝皆々酒気も散じて引き取る様子なので、止宿料を催促したところ勘定もしないで逃去ったので、長左衛門宅の若者共が古田村まで追いかけ与市衛門や三右衛門から止宿料を受け取った。 その後も楢山の旧家来の中に無分別の者は数多あって、これらの者が長左衛門から借財のある者を煽動して、その借財を踏み倒してやるからと誘惑していた。当時江刺県の管内小国村という所に仙台才治と言う者がいた。昔の目明しのような用向きを申し付けられていたが、鳥なき里の蝙蝠(こうもり)で、常に木製に鉄具(かなぐ)を打って如意棒(にょいぼう)でもなければ杖でもない異様なものを携えて、宮古地方まで往来して村民を威嚇したり掠奪を事とする言語同断の悪者を仲間に入れて、潤益講の解散によって長左衛門から受け取るべき金員があるという勧解事件を裁判所へ持ち出した。長左衛門は却ってこれを悦び、その事情を陳弁したが、用済みになっても勘解のことなので理非曲直は判明せずに、以後明治十四年に至るまでの間に盛岡裁判所宮古区裁判所へ三回召喚され、盛岡へは四回、十二年間に都合七回である。彼等は世に謂う三百代言を頼み、盛岡では小田代政治、岡山善治、村木章平等が何時も行蔵を先棒とし、宮古においては蛇口某および盛岡人三、四名が詰め合いの裁判官内堀頼清(旧藩の高知内堀若狭の孫)へ取り入り、賄賂をもって抱込み強迫手段によって彼等の非望を達しようとした。明治十四年六月十日の長左衛門宅の火災の折、長左衛門は養蚕蚕の用事で遠野へ出張中で不在であった。この時、県の役人が四人ほど同人の酒店へ止宿しており本店には井上佐並郡長および書記等が居合せたが、皆が全く他人の放火であるということで種々手を尽くしている翌日の十一日、宮古区の裁判所から長左衛門に召喚状が到来した。長左衛門は丁度、遠野から昼夜兼行で帰宅の途中であり、この召喚状を披見したが繁忙のため延引していたところ、係官内堀から頻(しき)りに督促があり、遂に巡査を差し向けられて、十五日に宮古へ着いて、翌十六日に法廷へ出頭した。このたびは勘解ではなく、種々に厳責の取扱いであったが、長左衛門は一言も答弁しないで控えていたところ、内堀は偉丈高になって、何故答えないのだと一喝し叱咤(しつた)を加えた。長左衛門は答えるに、毎度当裁判所において、すでに御係官七人程の御扱を受けその都度御答している、貴官の御扱いに今日で二回に相成ります。前々から申し上げております様に、御勘解には応じ兼ねます。別に申し上げる事もありません。内堀は、それならば申し開かせている趣旨を了解するまで幾日でも帰宅を許さないと強迫するが長左衛門は黙っていた。 午後三時まで茫然と控えていると、今日は退(さが)ってよろしい。明日出頭せよ。との事なので立ち上って戸を開けて出ると、小使いの者が今迄昼食もとらずに定めて空腹でしょうと言うので、イヤただ眠り通したので腹も空かないと答えると、内堀は再び呼び入れて眠ったとは何事か。理解に苦しむと又々高い声で罵(ののし)る。長左衛門は眠ったから眠ったと申しました。それが不都合ならば相当のご処分をなさりませと申し立てた。この場は上席判事の前川の仲裁で、長左衛門退れとのことで退廷した。 翌日出頭したところ、勧解ではなく本訴に至った召喚状を渡され原告、被告とも列席した。長左衛門はその要点を見て(ひそか)に歓喜に絶えず言うことには、この出訴については当裁判所において答申する限りではない。これより刑事に御調べを受けることに致しますので退廷いたします。と申し立てると、裁判官は驚いた顔色でそれはどの点に在るか申し立てよと言う。これは仰っしやることがわかりません。民事条件に反し、お答えする限りではございませんので下りますと申し断って立ち去ろうとすると、前川が申すには被告の申すこと尤もではあるが、この点に関してというその点を言ってもよいではないかと。長左衛門は言う。イヤ原告の居ない所なら、別段又、たとえ原告が居なくても自由の権は自分で保護しなければなりませんと断然と言い放ち飛ぶようにして警察署に行き、召喚状、訴状共に差し出し、この箇條はこのように控書があります。この控書は当時、蟇目村の田渡左次右衛門と申す者が記したもの、すなわちこの証書に対して字数五十七字を加えて謀書したものであると明瞭な申し立てをした。早速、原告の采右衛門、直之進および進之丞を召喚して吟味することになり、長左衛門から差し出した約定、演説書と照合した結果、三ヶ所を切り取り裏へ貼紙等をしたことが露見したので、采右衛門は牢舎を申し付けられたが、晩年者であるということで幸いにして八十五日間をもって出牢し謹慎を命ぜられ、また直之進は宮古穢多(えた)へ預けられた。 この訴訟に同盟の者は各村々にわたって多数のために、一々召喚するのは容易ではなく、また手数がかかるので警察署から警部一人、巡査二人都合三人の巡回取り調べとなった。十一ヶ村と言っても鈴久名、片巣、川井の三ヶ村は前記の人数の他には加盟していないのでこれを除いて、腹帯村は武十郎と武兵衛、茂市村は源右衛門、蟇目村は清右衛門、刈谷村は三右衛門、花原市村は源吾、根市村は長吉と与惣太、田代村は源四郎、田渡村は与市右衛門と与左衛門である。このうち根市の長吉は講員ではない。田代の源四郎は楢山領の百姓ではなくこの両人は長左衛門に多額の借財があり、これを踏み倒したくて、希望して同盟に加ったものである。元来采右衛門も講員ではなく、最初、長男の其馬が講員に加入したが、二回目に至って身許が困窮しているからと無籤で元利を受取り、その後は本講に関係はない。しかし、其馬は父采右衛門とは正反対で、父が三百円を掠奪しようとしている企てを聞き込み、種々諌めたが聞き入れられず、手紙往復の際に、其馬は長左衛門宅へ来て、不面目なことであると述べ謝罪をし、その後出訴計画書の際は澤田兵蔵と共に長左衛門宅へ来て父と諌争した経緯の一部始終を告げた。其馬は長左衛門に受けた恩を忘れていない。 先年、采右衛門は盛岡の楢山屋敷に勃番中に、楢山家先代からの諸記録を預り保管している時に、夏日の虫干しの際にこの記録を盗み出し反故紙として転売したことがある。その頃、佐渡は暇なので紙細工をしていたところ、その紙の中に楢山家の古い記録があるのを、時の御小姓役藩士歌書典(つかさ)が目にした。佐渡も御小姓で同僚だったので佐渡に言うには、この頃貴下は紙細工を玩弄(がんろう)している様だが、一種の娯楽には違いなかろうがその紙を見ると、貴家が御先代から伝えている記録のようだ。この記録は後々の世まで保存するもので、細工には尋常の白紙を使えばよいと。佐渡は夢にも知らないことで、大いに驚いて帰宅の後、父帯刀にこの事を告げたところ、段々吟味に及んで保管者の采右衛門が売却した事実が明白となり、罪を恐れて脱走したため楢山家から食禄を取り上げられて家族は困窮に沈んだのである。 その後覚善院は、親戚の好(よし)みもありかつ、子供の其馬は正直者であり采右衛門の祖先は数代にわたり連綿と忠勤の家柄でもあるので、采右衛門一人の無調法をもって家名断絶に及ぶことは憐れむべきこと、また同家は数多ある家筋の本家であり其馬の心掛けが善良であるだけに愍然であるので、何とかして再興に至るよう執り成してくれるようにと長左衛門に嘆願した。長左衛門も承諾して、帯刀と佐渡へ執り次いだが、一旦闕所(けっしょ)を申し付けた不忠者の家名を再興させる程の子孫の功労もなく、殊に平素から知行所全体の百姓共へ我意の暴行を行い、その害は田鍍村までも及んでいるので、宮古支配所へ差し構えのことを藩庁へ届け出することに決した際に、刈谷理右衛門が嘆訴に及んだので、村だけ差し構えとして川井村へ転住を申し付けたのだ。重ねて執り成しなど申し出ることは無用であると言われる。長左衛門は仕方なく捨て置いたところ、南部屋とは同姓の由縁があるので、入用金として二十両を出させた。この南部屋の祖先である刈谷安兵衛は往時に楢山の役人勤務中に、諸道具を盗み出した罪により入牢中に逃亡した者であり、現に田鍍村には同家の祖先の墓所もあって、細くも家名を建てたく先年来希望していた者である。采右衛門もまた家名を失い、この両家の再興のため、先の二千円を差し出す旨の話が覚善院から長左衛門に申し出された。長左衛門は易次郎と相談のうえ、二人で帯刀と佐渡に歎願に及んで、其馬を采右衛門の跡嗣ぎとし其馬の弟の安兵衛を南部屋の祖先の安兵衛の跡を嗣がせたらどうかと申し出た。二千円差し出しの件は全く、嘘ではなく采右衛門が南部屋へ面談したら必ず成就すると言うので、衣服や旅費として覚善院は十両、長左衛門は五両を補助して、慶応二年五月、気仙へ采右衛門を出張させた。しかし、数ヶ月同所へ滞在して戻って来ても、二千円の件は有とも無とも返事はなく、長左衛門は当惑のあまり覚善院を厳しく責めたところ、覚善院も共に欺むかれ事となり、帯刀父子に只管(ひたすら)謝罪して事は収まった。 このような事実を其馬はすべて心得えており、親に対して強く諌めることも屡であったが、これらの積鬱(せきうつ)のため、急病となり吐血し苦悶すること一時間余りで死亡した。また弟は発狂して鍬ヶ崎近傍で横死した。このような子供達の不幸ににも屈せずに采右衛門の悪計は止むことがなく、居村、近傍の人々へ迷惑をかけてばかりいるのは何の因果であろうかと、世人は実に怪訝に堪えないところであった。 最初ページ 前ぺーじ 次ページ |